第9話 時の虚い

文字数 3,903文字

 吾朗は霧が晴れるところまで歩いて行った。出くわす人はいなかった。ただ、家の塀や石垣らしきものに遮られることがあって、ますます迷路を進んでいる気持ちになった。
 自分は神田方面に向かっているのだと思っていたが、正直なところ自信はなかった。ましてや、本当に1985年に来ているかどうかも定かではない。吾朗は、思い切って飛び込んではみたものの、次第に不安に襲われるようになった。
 霧が晴れてくると、路地を歩いているのに気づいた。その先には広い通りがあった。
 通りに出たら、道沿いに三階建程度のビルが隙間なく続いている。どこかで見たビル街だと吾朗は思った。吾朗の記憶の中のビル街に比べてかなり綺麗で、そんなに古くはなっていない。一度来たことがあるのだと感じて、吾朗は思い出そうとした。その時に、特徴的な階段のある建物に出くわした。この辺りでは珍しく5階建だ。
 壁面の突出看板の中に、小さく「多賀出版」とある。吾朗は思い出した。最初に尋ねて来たビルだ。少し綺麗だということや看板が出ているということは、多賀出版はまだ潰れていないということだ。1985年に匂いがしてきた。
 吾朗はビルの中に入った。多賀出版は二階の奥だったはずだ。階段を上ると、二階の階段は相変わらず狭く、前に来た時より雑多な荷物を置いてあって歩き難かった。しかし、通路の突き当たりには確かに「多賀出版」の事務所があった。扉に表示があったので、それと分かった。
 吾朗は、扉をノックした。ところが、返事はない。
 二度ノックして返事がなかったので、吾朗は「失礼します」と言いつつ扉のノブを回した。鍵はかかってなく、扉はすんなりと開いた。
 吾朗が中に入ると、デスクが5台あり、その上は書きかけの原稿や校正刷り、本や雑誌で雑然としていた。人はと言えば、一番奥の窓際に髪の白い男が背中を向けていて、ひとり煙を吐いている。男は頭だけ振り返った。くわえタバコの灰が落ちた。誰だという鋭い目つきだ。
「羅村と言います。お伺いしたいことがあって来ました」
 男は手招きして、男の隣のデスクの椅子を指差した。羅村はデスクと書棚の間の狭い空間を泳ぐように通り抜け、男の隣のデスクに来た。
「会社を辞めたばかりで、前の名刺ですが・・・」と言いつつ、吾朗は名刺を出した。
 英知社と書いてある名刺だ。
「なんだ、同業か。でも、知らねえな」と男が言う。
 しかし、男は自分の名刺を返そうとはしなかった。
「で、用件は」
「月刊時代で、今取材中だと思うんですが・・・」と言いつつ、吾朗は三沢春子のブロマイドを見せた。男は、それをつまらなさそうに指で摘みながら、「いや、取材していない」と答えた。
 吾朗は、月刊時代の記事になっていると言おうかと思いかけた時、壁にかかっているカレンダーが目に入った。1985年6月となっている。1985年に来れたのは嬉しかった。しかし、まだ6月であれば、月刊時代の8月号は出版されていない。そこで、取材しているのを隠していると吾朗は考えた。
「もう取材を進めていないと、8月号に間に合わないのではないですか」
「奇妙なことを言うなあ。記事にする気のねえことを、調べるわけがない」
 そう言われて、吾朗はちょっと動揺した。
「いや、この女優に関する記事を準備しておられると耳にしたものですから」
「ガセだろ」と男は言い切った。
 吾朗はもうダメかと思った。このまま退散しようかと考えた時、男が付け加えた。
「だがね、羅村さん、あんたが調べてきて記事にしてくれるなら、買ってもいいよ」
「えっ」
「出来が良ければな」
 もう出て行けとでも言うかのように、男は手を振った。吾朗は、取材したくても金も伝手もなかった。吾朗がじっと立ち尽くしていると、
「まだ、何かあるのか」
「実は、会社を辞めたんで、金がないんです」
 ダメ元で吾朗は男に言った。帰れと言われるかもしれないと思ったが、意外にも男は茶封筒にお札を何枚か入れ、「ほら」と手渡してくれた。
「締め切りは今月末だ。できなければ、そんとき金返せ」
と言いつつ、男は名刺を差し出した。「田村良一」とある。
「ありがとうございます。やはり、興味をお持ちだったんですね」
「その女優、知らねえ訳じゃないからな。失踪したのも聞いてるし」
「業界にいたんですか」
「助監督までやった。その後、ここの先代に拾われた。今のお前さんと似たようなもんだ」
「沼谷のロケにも居ましたか」
「いろいろやったから、覚えてねえが、その女優がまだエキストラ程度のバイトの時なら、一緒したかもな」
「その後は会っていない?」
「偉くなりやがったからな。もういい、行けよ」
と言うと、田村はまたタバコに火をつけて、背を向けた。
 そして、そのままの格好で「カメラも持って行け」と付け加えた。
 壁際の棚にカメラが数台置いてある。フィルムは入っているようだった。吾朗はそのうちの一台を手にして、事務所を出た。

 吾朗は、多賀出版を出て、本屋や図書館を回って調べてみた。吾朗の時代よりは、三沢春子の情報は残っていた。古い映画雑誌や週刊誌のベタ記事で名前が載っていた。映画の宣伝や紹介記事の中に出てくることもあった。
 春子の記事ではなかったが、一つ気になる記事を見つけた。巴集団に関するもので、経営がうまくいっていなくて、辞めていく役者が多いとあった。設立メンバーの中での対立もあり、残っている者もわずかだと書いてある。その中に「宮脇」に名前があった。残っている方のメンバーだった。
 電話帳で巴集団を調べると、電話番号と簡単な住所が乗っていた。吾朗はそれをメモして、公衆電話から掛けてみた。誰も出ない。倒産寸前なら、仕方ないかと思ったが、とりあえず状況を見ておきたいと考えて、巴集団の住所に行ってみることにした。文京区だから遠くはない。歩いて行った。
 大きな窪地のような地形の場所で、倉庫のような建物が並んでいるところに、巴集団と書かれた木札を見つけた。入口代わりにシャッターがあったが、今は開いていた。そこから中を覗き込んでも、人っ子一人いない。
「こんにちわ」と声をかけても、返事がない。
 もう倒産してしまったかのように思われた。手がかりなしかと吾朗はがっかりして、座り込んだ。ちょっと疲れた感じがあった。
「どちら様ですか」
 そのとき、不意に声がした。見上げると、高校生くらいの女の子が立っている。
「シャッターが開いていたんで」と吾朗は言い訳して、「こちらに宮脇さんか時永さんは、いらっしゃいますか」
 女の子は首を傾げている。「私は居候みたいなものですから、分かりません。角田さんなら、分かりかもしれません」
 角田と言われて、吾朗は慌てて名刺入れを見た。角田花江の名刺があった。
「角田さんというのは、角田花江さんのことですか」
 女の子はびっくりしたように、「お知り合いですか」と聞く。
「昔、一度会ったことが会ってね」
「そうですか。なら、話が早いかも。連れてきます」
と言うと、女の子は倉庫の奥に方に走って行った。吾朗には、その子の着ている服が妙に大人びているのが気になった。
 ややあって、倉庫の奥の方から一人の中年女性から現れ、吾朗に近づいてきた。吾朗は、歳を取って入るものの見覚えのある顔だと思った。
「あら、久しぶりね。十三年になるかしら」
 やはり、角田花江だ。花江は、気さくに声を掛けてきた。
「あなたは変わらないわ。羨ましい」
「どうして、ここにいるんですか」
「話せば長くなるけど、要は宮脇さんが店の常連だったから」
「バーラフガンは、どうしたんですか」
「もうとっくに閉めちゃた」
「先に倒産ですか」
「嫌なこと言うわね」
「春子さんの予言通りになった訳ですね」
「そうそう。でも、お陰で謎は解けたわ」
 花江は、とても黙っていられないというかのように喋り始めた。
「さっきの子、見覚えある?」
「いや」
「へえ、男って意外に気づかないのね」と言うと、面白そうに吾朗の顔を覗き込んだ。
「春子よ。あの子」
「どうして、そう思うんだ」
「名前は違ってる。私のことを知らない。宮脇のことも、タッキーのことも、立花のことも知らない。けどね、七〇年代に会ったときに、春子が話してくれていたことと妙に合ってるの」
「何が」
「あの子を見つけたのは私だし、そのときあの子は妙に古めかしい格好をしてた。戦前の女の子、古い絵や写真で見る女学校の生徒みたいな格好だったのよ」
「今は、誰の服着ているんだい」
「あたし」
「やっぱり」
「何よ、それ」
「いや、妙に大人っぽいと思ったんでね」
「おばちゃんが持ってる服はそんなものよ」
「春子は、花江さんに会ったって話してたんだ」
「そう。予言めいた話をしてくれた時に、そう言ってた。あたしは、恩人なんだって」
「春子は二度時間を超えてるんだ」
「あなたと一緒」
「どうして」
「あなたも、二度目でしょ」
 花江にそう言われると、確かに二度目だった。吾朗は、時間軸に沿って順番に過去に行っている。しかし、春子は先に八十五年に来て、次に七十年代に遡っている。もともとどの時間にいたのかは、分からない。ただ、この時代に現れた時、戦前の女学校の格好をしていたとすれば、過去から来た可能背が高い。
「あの子、名前は何ていうんだい」
「高辻京子。ちょっとおしとやかな感じかな」
「春子とは違ってるんだ」
「話したいの」
「ダメ?」
「いいけど、言葉に気をつけてね。何も知らないんだから」
「了解」
 吾朗はそう言って、高辻京子のいる事務所の方へ歩き出した。花江は、ついて来ない。吾朗に任せる気なのだろう。一体、何から話していいのか吾朗自身全く想像もつかなかった。
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