6
文字数 5,176文字
6
その日の夕方、尾畑はリカバリセンターのだだっ広いロビーで、テーブルを挟んでサキコと向かい合っていた。
ここもまったく照明器具のないフラットな天井で、窓は小さく、フロアには塵ひとつ落ちていない清潔さ。空間を明るくしているのは、どうやら壁や天井そのものが光っているからだと、ようやく尾畑は理解した。
テーブルは円形で、それぞれの前にミネラルウォーターらしきものが入った透明なグラスが置かれている。壁際に自販機ならぬ給水機が設置されていて、自由にグラスに注いで飲めるようになっている。
サキコはそれをもってきたのだった。
嗜好品などいっさいない時代ゆえに、酒はおろか、コーヒーもジュースも飲めない。ここで人々は何の味もない水だけを飲んでいるらしい。
味がないといえば、三度の食事もそうだった。四角い緑色のクッキーのようなもの。それを食べると確かに食後に満腹感が訪れるものの、味気がないために食事をしたという満足感はない。
この時代の人間は、こんなものばかりを食べて生きているらしい。
「あなたにこれが支給されました」
そういって、サキコはテーブルの上にひとつのスマホを置いた。
「ぼくに?」
それをじっと見つめていた尾畑は、ゆっくりと視線を上げ、目の前のサキコを見た。彼女は微笑んでいた。いつもの翳をまとったような笑みではなく、どこか慈愛を含んだ微笑のように見えた。
「どうぞ」
ゆっくりと片手を出して、それをとった。
外の公園で出会ったミユキから借りたものとまったく同じ、銀色のコンパクトなスマホである。見つめていると、ふいに自動的に電源が入り、液晶の枠内が青一色の待機画面となった。
次に、ピッとかすかな電子音がして、青い画面の中央に小さな白い球形のグラフィックが現れ、ゆっくりと回転しながら大きくなった。やがてそれはリアルな地球の画像となって、その下に尾畑が読めない外国語の文字が表示された。
尾畑は顔を上げた。「これは?」
「古代ギリシャの哲学者デカルトの有名な言葉です。“我思う、ゆえに我あり”」
サキコはまた微笑み、形の整った眉をわずかに上げていった。「“基幹局”のスローガンとなってますわ。つまり、全人類の自覚と自立をあらわしているのです。右上に小さなアイコンがあります。それがメニューボタンです。押してみてください」
いわれて、英語でメニューと書かれたアイコンをタップした。
液晶表示が変わって、このスマホの機能を示したグラフィック画面になった。
電話としての機能は当然ながら、デジカメ、通信などは、昔の時代からこの手の機種にデフォルトで備わっていた。それにくわえて把握できないほど無数の機能があるらしい。
クレジットカード代わりになるし、辞書機能、自動翻訳機能までついているらしい。さらに驚いたことに、この機械は常に持ち主の体のコンディションを把握し、異常をキャッチすると、すぐに“CES”に自動送信するようになっている。
あらゆる病気は克服され、どんな不調も必ず早期のうちに発見されるとサキコがいったのは、つまりそういうことだったのだ。
「あまりに多機能すぎて、使いこなせそうにないな」
「大丈夫ですわ」
そうサキコがいったので、尾畑は笑った。「時間をかけたら?」
「いいえ。あなたは何の労をする必要もありません。機能はすべてあなた自身へ自動的に伝授されます。あなたの脳はそれを捉えて、知識として保存することになります」
「よくわからないな。これが勝手にぼくに教えてくれると?」
「ええ」
尾畑は自分の手の中にあるそれをまたじっと見つめた。
「ところで……このスマホのようなものは、本当は何という機械なのですか」
「私たちはみんなケータイ様と呼んでます」
「ケータイ様?」
何の冗談かと顔を上げたが、サキコはすましたような顔でまた微笑んだ。
自室に戻り、尾畑は寝台に寝転がったまま、しばし手の中のスマホを見つめていた。
液晶の中のメニューのアイコンを押し、いろいろな機能を呼び出す。中には暗証キーを打ち込まないと入れない場所があって、彼は躊躇した。
いずれ、その暗証は教えてもらえるのだろうか。
それにミユキがワイヤーのようなものを引き出したが、それがどこから出るのか、いくら触ったりボタンを押してもわからなかった。
だいいちあれはどんな役割のために存在するのだろうか?
ためしに、自分が過去に持っていたスマホの番号を押して、オンフックボタンを押してみた。耳にあてがうと、信号音が断続的に聞こえ、やがて女性のアナウンスが耳朶を売った。
――おかけになった番号は使用されておりません。
尾畑はふっと笑い、通話を切った。何だかんだいって、自分が使っていたスマホとそう変わるものじゃないらしい。少しばかり安堵したときだった。
ふいにスマホがブルブルと震えた。
驚いて画面を見ると、『電話がかかってきました』と日本語で表示されている。
ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし……」
――こんにちは。私、ミユキです。憶えてらっしゃいます?
公園で出会った彼女の声だった。
「え、ええ。ついさっきお別れしたばかりですから。でも、どうしてこのスマホの番号をご存じなんですか?」
――新しく加入した人の番号は、自動的に私たちは知ることができます。だから、お電話さしあげたんですよ。今日は楽しいお話ができて、本当に嬉しかった。できれば、またお会いしたいと思いまして。
軽やかな娘の声に尾畑の表情がほころび、彼は寝台に仰向けになったまま笑った。ミユキのすらりと鼻筋の通った美しい顔を思い出した。初な少年のように胸が弾んだ。
「え、ええ。ぼくとしてもぜひ。あの……あなたの番号を教えていただけますか」
――それは大丈夫。あなたのケータイ様に自動的に入力されてますから。
「は。そ、そうですか」
ケータイ様。サキコについで、またその言葉を耳にした。奇妙な違和感が残った。
――いつでもこちらにかけてくださいね。あの公園で会いましょう。じゃあ。
「じゃあ、よろしく」
いい終えないうちに、通話が切れた。
それを耳元から離して、液晶画面を見た。驚いたことに、昼間出会ったミユキという娘の顔が、そこに表示されていた。あの時と同じく、屈託のない笑みで笑った顔だった。
《保存しますか?》というメッセージが出ていたので、躊躇なく保存した。今後、彼女の番号を呼び出すたびに、この画像が表示されるらしい。
ゆっくりと液晶画面を閉じて、それを両手で握り、胸の上にあてがった。奇妙にドキドキしていた。本当に思春期の初心な少年のようじゃないか。尾畑はそう思って、ひとり苦笑した。
この時代、自由な恋愛は許されているのだろうか。まさか、男女の出会いまで、ケータイ様とやらが決めているわけではあるまい。
息の詰まりそうなこれからの生活の中で、たったひとつだけ小さな喜びを見つけた。そんな気がした。
その晩、尾畑は悪夢を見た。
ケータイ様と呼ばれるあの未来のスマホがうねうねと触手状のワイヤーを伸ばし、彼の躰にそれを巻き付かせてきた。金属製のワイヤーはひとつではなく、無数に伸びてきて、彼の手や足を縛りつけた。それからおもむろに肉体の中へと侵入をこころみた。
口や鼻腔、耳の穴、肛門から尿道、臍にいたるまで、すべての孔にワイヤーが蠕動しながら無理やり侵入しようとしていた。
尾畑は悲鳴を上げて、寝台の上に飛び起きた。
しばし、はあはあと肩を揺らして喘いでいた。
「安心して。ただの夢だから」
ふいに間近で声がした。ぎょっとして振り向いた。
暗い部屋。照明は尾畑が眠気を催すと同時に自動的に消えたが、完全な闇ではない。邪魔にならない程度に淡い照明が、部屋全体をほのかに満たしている。
彼の横たわっている寝台の横に、もうひとつ影があった。かすかに女の匂いがした。
尾畑は眉根を寄せた。それは昼間出会ったあのミユキのそれとは違っていた。
「サキコ……さん?」
「静かに」
サキコがいって身をかがめ、尾畑の唇を自分の唇でふさいだ。小さな舌が彼の中に入ってきた。
急なことに驚いたが、彼は力を抜き、なすがままになった。
しなやかな指先が尾畑の股間の敏感な部分をつかんで、ゆっくりと愛撫を始めた。それから、もどかしげにそれをズボンの中から引っ張り出して、彼女はさすった。
唇をそっと離してから、サキコは寝台に上がってきた。尾畑の真上になり、彼をまたぐかたちで間近から見下ろした。
いつもの彼女とはちがって、ひどく扇情的な表情だった。
「い、いいんですか? こんなことをして」
尾畑はサキコを見上げながらいった。
彼女は微笑んだ。しなやかな指先で尾畑の頬を撫でて答えた。
「今の時代、このようなスタイルの生殖行為はとっくに廃れた古い習慣です。おのおのの性や食に対する欲望は、脳内で完全にコントロールされているから、本来ならばこれは人類にとって必要のない無駄な行為なのです」
「でも、子孫を維持するためには……」
「それはセックスとは違う手段で行われています」
「だったらどうして?」
「申しましたように、私はあなたの接待係。これは特別に許可されたことです」
勃起しきっていないペニスをつかんだまま、サキコは躰をずらして尾畑の股間に顔を近づけ、それを口に含んだ。舌先で巧みに愛撫しながら、サキコはゆっくりと顔を動かした。長い髪が裸の太腿に当たって揺れ動き、くすぐったかった。
尾畑は夢の続きを見ているのかと思った。だが、快楽は紛れもない本物だった。
やがて完全に勃起した尾畑のそれを自分の股間にあてがって、サキコはゆっくりと腰を沈めた。眉根を寄せて眉間に皺を刻みながら目を閉じ、小さく「ああ」とうめいた。
三度ばかり交わってから、尾畑はサキコと抱き合って眠った。
女の体の温かさに、安らぎをおぼえ、性交後のけだるさの中で、尾畑の意識は汐が引くように暗晦に飲み込まれていった。
また夢を見た。
今度は、かつての会社の同僚、長岡美由季とひどく淫猥なセックスをする夢だった。おそらくサキコの顔が、どことなく美由季に似ていたからだろう。いや、どことなくなんてものじゃなく、どこからどこまでそっくりだった。
今夜のサキコは親密だった。あの公園で出会ったミユキという娘とは別の意味で。
温かなサキコの裸体を抱いて眠っているうちに、尾畑は彼女の下になった右手がしびれてきて、たまらずそっと引き抜いた。
サキコはかすかなうめき声を漏らしたが、起きることなく、そのまま寝返りを打って、尾畑に真っ白な裸の背中を見せていた。
それからしばし眠れず、考えた。
この時代、セックスは無用の長物になっているという。おのおのの欲望の処理はどうしているのだろうか。彼女は脳内でコントロールされているというが、物理的にそんなことは可能なのか。薬か、あるいは電磁波のようなもので抑制されているのだろうか。
それとも――。
ふと、闇の中に小さな明かりが瞬き、尾畑は視線をやった。
寝台の端に、尾畑がもらったばかりの小さなスマホがある。その折りたたまれた機械の一端から、細長いワイヤーがするりと伸びていて、蛇のように鎌首を持ち上げていた。その先端が光ファイバーのように赤く光り、音もなく点滅していたのである。
尾畑はぎょっとした。
見張られているような気がした。もしかすると、彼女との行為の間もずっと?
ふいにワイヤーがするするとスマホの中に引き戻され、見えなくなった。そしてそれは何事もなかったかのように、そこに静かに置かれているままとなった。
ワイヤーはそれ自体意思を持っているように思えた。
まるで、見られたことに気づいて、あわてて引っ込んだとでもいうような――。
(まさか……)
尾畑はあることに気づいた。
昼間、公園で出会ったミユキは、電話がかかってきたとき、細長いワイヤーを引っ張り出して、それを自分の髪の中にやった。最初はイアホンか何かかと思っていた。
目の前で裸の背中を見せて眠っているサキコ。その黒髪を凝視した。
恐る恐る手を伸ばして、彼はサキコのロングヘアをそっと掻き分けてみた。やがて、薄闇の中にサキコの真っ白な首筋があらわになった。そこに目をやり、尾畑は声を漏らしそうになって、自分の口を押さえた。
雪のように白い首の後ろ、ちょうど延髄のある場所の皮膚に、銀色の金属のパーツが埋め込まれ、そこに小さな人工的な孔があった。
その日の夕方、尾畑はリカバリセンターのだだっ広いロビーで、テーブルを挟んでサキコと向かい合っていた。
ここもまったく照明器具のないフラットな天井で、窓は小さく、フロアには塵ひとつ落ちていない清潔さ。空間を明るくしているのは、どうやら壁や天井そのものが光っているからだと、ようやく尾畑は理解した。
テーブルは円形で、それぞれの前にミネラルウォーターらしきものが入った透明なグラスが置かれている。壁際に自販機ならぬ給水機が設置されていて、自由にグラスに注いで飲めるようになっている。
サキコはそれをもってきたのだった。
嗜好品などいっさいない時代ゆえに、酒はおろか、コーヒーもジュースも飲めない。ここで人々は何の味もない水だけを飲んでいるらしい。
味がないといえば、三度の食事もそうだった。四角い緑色のクッキーのようなもの。それを食べると確かに食後に満腹感が訪れるものの、味気がないために食事をしたという満足感はない。
この時代の人間は、こんなものばかりを食べて生きているらしい。
「あなたにこれが支給されました」
そういって、サキコはテーブルの上にひとつのスマホを置いた。
「ぼくに?」
それをじっと見つめていた尾畑は、ゆっくりと視線を上げ、目の前のサキコを見た。彼女は微笑んでいた。いつもの翳をまとったような笑みではなく、どこか慈愛を含んだ微笑のように見えた。
「どうぞ」
ゆっくりと片手を出して、それをとった。
外の公園で出会ったミユキから借りたものとまったく同じ、銀色のコンパクトなスマホである。見つめていると、ふいに自動的に電源が入り、液晶の枠内が青一色の待機画面となった。
次に、ピッとかすかな電子音がして、青い画面の中央に小さな白い球形のグラフィックが現れ、ゆっくりと回転しながら大きくなった。やがてそれはリアルな地球の画像となって、その下に尾畑が読めない外国語の文字が表示された。
尾畑は顔を上げた。「これは?」
「古代ギリシャの哲学者デカルトの有名な言葉です。“我思う、ゆえに我あり”」
サキコはまた微笑み、形の整った眉をわずかに上げていった。「“基幹局”のスローガンとなってますわ。つまり、全人類の自覚と自立をあらわしているのです。右上に小さなアイコンがあります。それがメニューボタンです。押してみてください」
いわれて、英語でメニューと書かれたアイコンをタップした。
液晶表示が変わって、このスマホの機能を示したグラフィック画面になった。
電話としての機能は当然ながら、デジカメ、通信などは、昔の時代からこの手の機種にデフォルトで備わっていた。それにくわえて把握できないほど無数の機能があるらしい。
クレジットカード代わりになるし、辞書機能、自動翻訳機能までついているらしい。さらに驚いたことに、この機械は常に持ち主の体のコンディションを把握し、異常をキャッチすると、すぐに“CES”に自動送信するようになっている。
あらゆる病気は克服され、どんな不調も必ず早期のうちに発見されるとサキコがいったのは、つまりそういうことだったのだ。
「あまりに多機能すぎて、使いこなせそうにないな」
「大丈夫ですわ」
そうサキコがいったので、尾畑は笑った。「時間をかけたら?」
「いいえ。あなたは何の労をする必要もありません。機能はすべてあなた自身へ自動的に伝授されます。あなたの脳はそれを捉えて、知識として保存することになります」
「よくわからないな。これが勝手にぼくに教えてくれると?」
「ええ」
尾畑は自分の手の中にあるそれをまたじっと見つめた。
「ところで……このスマホのようなものは、本当は何という機械なのですか」
「私たちはみんなケータイ様と呼んでます」
「ケータイ様?」
何の冗談かと顔を上げたが、サキコはすましたような顔でまた微笑んだ。
自室に戻り、尾畑は寝台に寝転がったまま、しばし手の中のスマホを見つめていた。
液晶の中のメニューのアイコンを押し、いろいろな機能を呼び出す。中には暗証キーを打ち込まないと入れない場所があって、彼は躊躇した。
いずれ、その暗証は教えてもらえるのだろうか。
それにミユキがワイヤーのようなものを引き出したが、それがどこから出るのか、いくら触ったりボタンを押してもわからなかった。
だいいちあれはどんな役割のために存在するのだろうか?
ためしに、自分が過去に持っていたスマホの番号を押して、オンフックボタンを押してみた。耳にあてがうと、信号音が断続的に聞こえ、やがて女性のアナウンスが耳朶を売った。
――おかけになった番号は使用されておりません。
尾畑はふっと笑い、通話を切った。何だかんだいって、自分が使っていたスマホとそう変わるものじゃないらしい。少しばかり安堵したときだった。
ふいにスマホがブルブルと震えた。
驚いて画面を見ると、『電話がかかってきました』と日本語で表示されている。
ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし……」
――こんにちは。私、ミユキです。憶えてらっしゃいます?
公園で出会った彼女の声だった。
「え、ええ。ついさっきお別れしたばかりですから。でも、どうしてこのスマホの番号をご存じなんですか?」
――新しく加入した人の番号は、自動的に私たちは知ることができます。だから、お電話さしあげたんですよ。今日は楽しいお話ができて、本当に嬉しかった。できれば、またお会いしたいと思いまして。
軽やかな娘の声に尾畑の表情がほころび、彼は寝台に仰向けになったまま笑った。ミユキのすらりと鼻筋の通った美しい顔を思い出した。初な少年のように胸が弾んだ。
「え、ええ。ぼくとしてもぜひ。あの……あなたの番号を教えていただけますか」
――それは大丈夫。あなたのケータイ様に自動的に入力されてますから。
「は。そ、そうですか」
ケータイ様。サキコについで、またその言葉を耳にした。奇妙な違和感が残った。
――いつでもこちらにかけてくださいね。あの公園で会いましょう。じゃあ。
「じゃあ、よろしく」
いい終えないうちに、通話が切れた。
それを耳元から離して、液晶画面を見た。驚いたことに、昼間出会ったミユキという娘の顔が、そこに表示されていた。あの時と同じく、屈託のない笑みで笑った顔だった。
《保存しますか?》というメッセージが出ていたので、躊躇なく保存した。今後、彼女の番号を呼び出すたびに、この画像が表示されるらしい。
ゆっくりと液晶画面を閉じて、それを両手で握り、胸の上にあてがった。奇妙にドキドキしていた。本当に思春期の初心な少年のようじゃないか。尾畑はそう思って、ひとり苦笑した。
この時代、自由な恋愛は許されているのだろうか。まさか、男女の出会いまで、ケータイ様とやらが決めているわけではあるまい。
息の詰まりそうなこれからの生活の中で、たったひとつだけ小さな喜びを見つけた。そんな気がした。
その晩、尾畑は悪夢を見た。
ケータイ様と呼ばれるあの未来のスマホがうねうねと触手状のワイヤーを伸ばし、彼の躰にそれを巻き付かせてきた。金属製のワイヤーはひとつではなく、無数に伸びてきて、彼の手や足を縛りつけた。それからおもむろに肉体の中へと侵入をこころみた。
口や鼻腔、耳の穴、肛門から尿道、臍にいたるまで、すべての孔にワイヤーが蠕動しながら無理やり侵入しようとしていた。
尾畑は悲鳴を上げて、寝台の上に飛び起きた。
しばし、はあはあと肩を揺らして喘いでいた。
「安心して。ただの夢だから」
ふいに間近で声がした。ぎょっとして振り向いた。
暗い部屋。照明は尾畑が眠気を催すと同時に自動的に消えたが、完全な闇ではない。邪魔にならない程度に淡い照明が、部屋全体をほのかに満たしている。
彼の横たわっている寝台の横に、もうひとつ影があった。かすかに女の匂いがした。
尾畑は眉根を寄せた。それは昼間出会ったあのミユキのそれとは違っていた。
「サキコ……さん?」
「静かに」
サキコがいって身をかがめ、尾畑の唇を自分の唇でふさいだ。小さな舌が彼の中に入ってきた。
急なことに驚いたが、彼は力を抜き、なすがままになった。
しなやかな指先が尾畑の股間の敏感な部分をつかんで、ゆっくりと愛撫を始めた。それから、もどかしげにそれをズボンの中から引っ張り出して、彼女はさすった。
唇をそっと離してから、サキコは寝台に上がってきた。尾畑の真上になり、彼をまたぐかたちで間近から見下ろした。
いつもの彼女とはちがって、ひどく扇情的な表情だった。
「い、いいんですか? こんなことをして」
尾畑はサキコを見上げながらいった。
彼女は微笑んだ。しなやかな指先で尾畑の頬を撫でて答えた。
「今の時代、このようなスタイルの生殖行為はとっくに廃れた古い習慣です。おのおのの性や食に対する欲望は、脳内で完全にコントロールされているから、本来ならばこれは人類にとって必要のない無駄な行為なのです」
「でも、子孫を維持するためには……」
「それはセックスとは違う手段で行われています」
「だったらどうして?」
「申しましたように、私はあなたの接待係。これは特別に許可されたことです」
勃起しきっていないペニスをつかんだまま、サキコは躰をずらして尾畑の股間に顔を近づけ、それを口に含んだ。舌先で巧みに愛撫しながら、サキコはゆっくりと顔を動かした。長い髪が裸の太腿に当たって揺れ動き、くすぐったかった。
尾畑は夢の続きを見ているのかと思った。だが、快楽は紛れもない本物だった。
やがて完全に勃起した尾畑のそれを自分の股間にあてがって、サキコはゆっくりと腰を沈めた。眉根を寄せて眉間に皺を刻みながら目を閉じ、小さく「ああ」とうめいた。
三度ばかり交わってから、尾畑はサキコと抱き合って眠った。
女の体の温かさに、安らぎをおぼえ、性交後のけだるさの中で、尾畑の意識は汐が引くように暗晦に飲み込まれていった。
また夢を見た。
今度は、かつての会社の同僚、長岡美由季とひどく淫猥なセックスをする夢だった。おそらくサキコの顔が、どことなく美由季に似ていたからだろう。いや、どことなくなんてものじゃなく、どこからどこまでそっくりだった。
今夜のサキコは親密だった。あの公園で出会ったミユキという娘とは別の意味で。
温かなサキコの裸体を抱いて眠っているうちに、尾畑は彼女の下になった右手がしびれてきて、たまらずそっと引き抜いた。
サキコはかすかなうめき声を漏らしたが、起きることなく、そのまま寝返りを打って、尾畑に真っ白な裸の背中を見せていた。
それからしばし眠れず、考えた。
この時代、セックスは無用の長物になっているという。おのおのの欲望の処理はどうしているのだろうか。彼女は脳内でコントロールされているというが、物理的にそんなことは可能なのか。薬か、あるいは電磁波のようなもので抑制されているのだろうか。
それとも――。
ふと、闇の中に小さな明かりが瞬き、尾畑は視線をやった。
寝台の端に、尾畑がもらったばかりの小さなスマホがある。その折りたたまれた機械の一端から、細長いワイヤーがするりと伸びていて、蛇のように鎌首を持ち上げていた。その先端が光ファイバーのように赤く光り、音もなく点滅していたのである。
尾畑はぎょっとした。
見張られているような気がした。もしかすると、彼女との行為の間もずっと?
ふいにワイヤーがするするとスマホの中に引き戻され、見えなくなった。そしてそれは何事もなかったかのように、そこに静かに置かれているままとなった。
ワイヤーはそれ自体意思を持っているように思えた。
まるで、見られたことに気づいて、あわてて引っ込んだとでもいうような――。
(まさか……)
尾畑はあることに気づいた。
昼間、公園で出会ったミユキは、電話がかかってきたとき、細長いワイヤーを引っ張り出して、それを自分の髪の中にやった。最初はイアホンか何かかと思っていた。
目の前で裸の背中を見せて眠っているサキコ。その黒髪を凝視した。
恐る恐る手を伸ばして、彼はサキコのロングヘアをそっと掻き分けてみた。やがて、薄闇の中にサキコの真っ白な首筋があらわになった。そこに目をやり、尾畑は声を漏らしそうになって、自分の口を押さえた。
雪のように白い首の後ろ、ちょうど延髄のある場所の皮膚に、銀色の金属のパーツが埋め込まれ、そこに小さな人工的な孔があった。