文字数 4,388文字

       3

 尾畑宏は、ただただ平板で真っ白な天井をずっと見上げていた。
 いつ、自分が目を覚ましたのだろうかと、ふと思った。気がつけば、ここにこうして横たわっていて、何を思うでもなく、ずっとそこを見つめていたのである。そうしているうちに、自我が少しずつもどってきて、現在の状況に気づいたのだった。
 眠っていたのだろうか。それにしては、ずいぶんと長く横たわっていたような気がする。だいいちここはどこだろうか。
 最初に思ったのは、眩いほどに明るい部屋の光源はどこにあるのだろうかということだった。天井を見ても、壁を見ても、それらしいものが見当たらないのだ。窓がまったくない部屋で、壁や天井と同じ白色の、自動らしいドアがひとつあった。
 自分が横になっている寝台らしきものの横には、医療機器のバイタルスコープのようなものが取り付けられた機械があった。
 金属製の円柱でそこから三箇所、それぞれ枝分かれした先に、モニターのようなものが取り付けられていて、曲線のグラフがゆっくりと動いていた。規則正しい動きをするそれらは、どうやら尾畑の呼吸や心臓の鼓動と連動しているようだった。
 円柱のいちばん上には、大きな赤いランプのようなものがあって、ぽつんと光をともしていた。じっと見ているうちに、その無機的で冷たい光のどこか向こうに、「視線」のようなものを感じてギョッとした。赤い光が彼を見張っているような気がした。まるで、キューブリックの古典的なSF映画のように。
 いったい、ここはどこなのだろうか。
 病院のように見えるが、それにしては目の前の奇妙な機械以外、何もないのが不思議だった。だいいち、どうして自分が病院にいるのか。自分の躰を見ると、部屋と同じ真っ白な手術衣のようなものを着せられていた。
 ふいに尾畑は思い出した。
(そうだ。俺は交通事故にあったのだ。運転中に電話で呼び出され、話しているうちに、渋滞で停まっていた車の中に突っ込んでしまった)
 あのときの恐怖が蘇ってきた。
 脂汗が額にじわっと浮かぶ。同時に、傍に立っているバイタルスコープらしきモニターの曲線が大きく揺れた。呆然とした様子で、尾畑はそれを見つめた。ひとつの記憶が、また別の記憶を連鎖的に呼び起こした。意識を失う最後の瞬間まで、彼は克明に覚えていた。
(か、会社に電話しなきゃ……)
 そう思って、周囲に視線をやった。無意識に何かを捜し出そうとしていた。
 スマホであった。
 そんなものがあるはずがない。それにようやく気づいた。ここはきっと病院なのだ。
 あのひどい事故で、奇跡的に自分は命を取り留めたのに違いない。ゆっくりと頭だけを起こして、両手が無事なのを確認した。そしてどうやら自分の両足もそこにあるのを見つけて、ホッとした。
 内蔵の損傷はないのだろうか。骨は無事だったのだろうか。後遺症は……。
 尾畑は眉根を寄せた。
 あれだけの事故をやったにしては、何の痛みもない。手術衣から出ている手や足を見ても、外傷らしきものはない。腹や胸を撫でたり押さえたりしたが、躰の中にも何の異常もなかった。ただ、手足が思うように動かない。ひょっとすると麻酔かなにかのせいなのだろうか。意識だけははっきりと覚醒していた。
 いずれにしても、会社はもう馘だな。他人のしでかした失態の尻拭いだったとはいえ、営業マンが事故やって仕事に孔を開けたら、もう先はないと思ったほうがいい。尾畑はどんよりと暗く沈んだ心のまま、何もない天井を見つめた。
 それにしても、どうしてあそこには染みひとつないんだろう。
 唐突にドアが開いた。
 尾畑が視線を向けると、出入り口がぽっかりと開いた。アッと思ったとたん、そこからひとりの若い女性が姿を現した。すらりと痩せ細った躰にぴったりフィットした銀色の衣服をまとい、黒髪が長く、顔は細面だが知的な感じのする美女だった。
 長岡美由季にどことなく似ていたが、そんなはずがない。
 まだ、頭が混乱しているのだろう。
 彼女はモデルのようにすらりと背を伸ばしたまま、リズミカルな足取りで部屋に入ってくると、寝台の近くを回りこんで、尾畑の右隣に立ち止まり、冷ややかな目で見下ろした。うっすらとルージュを引いた唇がわずかに持ち上がって、笑みの形となっていた。
「気づかれましたね」
 少しばかりハスキーな声でそういった。
「ここは……病院ですか?」
 彼女はうなずいた。「正確にいえば、あなたのご想像されている病院とは少し違います。心的および肉体的な損傷を科学や医療技術で正常な状態にもどすことも目的のひとつですが、もう少し特殊な施設です。病理や躰の損傷の状態を記録して、情報として蓄積し、“CES”に送るための端末的な場所です」
 何だかSF小説めいたことをいう。
 そういえば彼女の服も、看護婦というよりはSFアニメにでも出てきそうなボディスーツだった。露骨にうかがえる女の躰の曲線に気づいて、尾畑は少し顔を赤らめた。
「つまり、大学の研究室のようなところですか?」
「そんなものです」
「“CES”っていうのは?」
「あとで説明します」
 彼女は仮面のような無表情さを保ちつつ、そういった。
 事故による自分の肉体的ダメージがそんなに珍しい症例だったのかと、尾畑は不思議に思った。そして、あることに気づいた。派手な交通事故を起こした当人にしては、躰に何の異常もない。それがどんな意味かを悟ったのである。
 車の衝突で、彼はピンボールマシンのように車内のあちこちに肉体をたたきつけられ、挙句、ドアから放り出されて路上を転がった。外傷や骨折はおろか、脳や内臓の損傷も酷いものだったにちがいない。救急車で運ばれた病院で緊急手術が行われ、命を取り留めたとしても、一週間や二週間ですっかり元に戻ることはありえない。ずいぶんと長い間、彼は眠っていたのではないか。
 昏睡。
 ふいにその言葉を思い出した。
「……どれぐらい経ったんです」
「あなたが事故にあわれてからですか?」
 尾畑はうなずいた。覚悟はできていた。「もしや何年も経ってるんですか」
 若い女は宝石のように光る目で彼をじっと見ていたが、ふいに口を開いていった。
「八十九年と四ヶ月です」
「え?」
 そういったきり、尾畑は言葉を失った。想像していたよりも、桁ひとつ多かった。
「今年は西暦でいうと三〇〇九年になります。あなたは仮死状態で意識を取り戻せぬまま、ずっと冷凍保存されていました」
「なぜ……?」
「公文書保管センターに残された記録によりますと、どうやらご家族のご意思だったようです。もともと脳死患者のドナー保存のために設立された、《フィジカル・フリージング・キープ・エージェンシー》というアメリカの公的機関と、五十年契約をかわされたのです」
「五十年ですか。残りの三十九年は?」
 彼女はうなずいた。「契約期間が切れても、仮死保存体を破棄することは法律違反だったのです。あなたの躰はこちらに戻されて、私たちのこの施設でお預かりし、今、蘇生されたというわけです」
 目の前にいる彼女から視線をそらして、尾畑はまた無機的な白い天井を見上げた。
 西暦三〇〇九年。ピンと来なかった。八十九年も未来の世界だなんて。
 はっと思いついて、両手を見つめ、尾畑は視線を戻して尋ねた。
「でも、ぼくは老けてない」
「冷凍保存中は、全身の細胞の新陳代謝は完全に停止します。だから、あなたは事故にあった数ヵ月後に冷凍されたときのままの状態の肉体です。つまり、眠ることによってタイムスリップされたわけです」
「ぼくの両親はとっくに死んでいるわけだ」
 彼女はゆっくりとうなずいた。
「お父様はあなたを冷凍処置された十八年後に、お母様はそれから六年後に、それぞれ脳疾患系のご病気でした。遺産の全額は、ご兄弟のいらっしゃらないあなたが、自動手続きによって受け取っています。七十一年前に統合されたインターナショナル銀行の特殊口座にあります」
「か、会社は? ぼくの仕事はどうなんだ?」
「現在、ここに会社というものはありません。公私にかかわらず、あらゆる企業や法人組織はすべてひとつの組織に吸収され、統合されました。“CES”の管理のもとに、市民はそれぞれの技能に合わせた職業につき、過不足のない労働奉仕をしています」
 尾畑は口を開いたまま、呆然と彼女の顔を見つめていたが、ふいにまた視線を外してうなだれた。「ぼくはいったいどうすりゃいいんだ?」
「あなたも新しい市民として、この時代に生きていただくことになります。冷凍保存中も税金は特殊口座から自動引き落としになって納税されていましたから、あなたは今後もここで生活する権利が守られています。これからあなたに市民ナンバーが与えられ、“CES”に統括されたシステムの中であなたの能力にふさわしい範疇での仕事が与えられることになります。むろん、新生活に慣れるまでは肉体的および精神的なリハビリが必要ですし、この時代を理解していただくために“教育”も受けなければなりません。その間、私があなたの世話役としておつきいたします」
 彼女がそういったとき、ふいに異音がした。
 尾畑は驚いた。それは彼がよく知っている音だった。
「失礼」
 そういって、彼女は体にフィットした衣服のどこかから、それをとりだして、耳にあてがった。「はい」
 それを見て、尾畑はつぶやいた。「……スマホ?」
 先ほど聞こえたのは、スマホの振動の音だったのだ。
「ただいま説明を終えたところです。はい。すべて順調です」
 彼女が耳に当てているのは、尾畑が使っていたものと形が変わらぬ、小さなスマートフォンだった。通話を終えた彼女は、それを折りたたんで躰の後ろのどこかにしまい、微笑んだ。
「二時間後にまた参ります。それまでここでお休みになっていてください」
 そういって、立ち去ろうとした彼女に、尾畑は声をかけた。
「あの……」
 立ち止まり、女がふりむいた。「何でしょう?」
「あなたのお名前は……?」
「サキコです」
「苗字は何というのでしょう」
「あなたの時代にあった姓名というものは、今は存在しません。46156という市民番号が苗字に相当します。ですから、私のことは、ただサキコと呼んでくださってかまいません。では、失礼しますよ、オバタさん」
 しゅっと自動ドアが開き、彼女はその向こうへと消えた。
 ゆっくりとドアが閉まって、彼はまた白一色の無機質な部屋に取り残された。
 長岡美由季をまた思い出した。
 彼女に、サキコと名乗った娘はよく似ていた。顔も、そぶりも、なにげない仕種まで。どうしてだろうかと考えた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み