文字数 3,077文字

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 尾畑は呆けたように、公園のベンチに座っていた。
 ゆうべ、薄闇の中で見た光景が、脳裡から離れなかった。
 この時代の人間は、すべからくあの小さな人工的な孔を首の後ろにうがたれているのだろう。そしてスマホ、いやケータイ様と彼らが呼ぶ機械と、肉体、それもおそらく頭脳を直結して、情報をやり取りし、互いに共有しあっていたのだ。
 スマホから伸びるワイヤーは、そのためのケーブルなのだろう。
 夜中にあれが意思を持ったように本体から伸びてきて、鎌首をもたげ、先端を赤く明滅させていたことを思い出すたび、本能的な恐怖がこみ上げてきた。
 無意識に片手が何度も自分の首の後ろをまさぐる。
 そこに何があるわけでもないのに、指先でしきりに何かを探り出そうとする。皮膚が赤くなるほど、そこをこすって、初めて安堵する。
 いや、むしろ新たな不安と恐怖がこみ上げてくるのだ。
 自分も同じ処置を受けるのか。
 サキコのように、首の後ろにあれを入れるソケットを作られるのだろうか。おそらく手術のようなことをされるのだろう。
 首に孔を開けるだけですまされるはずがない。きっとその孔から脳にいたるまで、何らかの人工的な処置を施される。SFアニメのサイボーグのように、頭の中に何らかの装置を埋め込まれるのかもしれない。
 想像しただけで鳥肌が立った。
 きっと、自分が自分でなくなってしまう。仮死状態から何十年も経ったのちに蘇生してみれば、そこは死よりも虚無な概念に支配された世界だった。おそらくここでは個性はおろか、人格すらも否定され、抹消されている。
 昨夜のサキコの行為は、紛れもなく異性の肉体を求める本能ではなく、たんなるかりそめの慰安にすぎない。
 尾畑の心をつなぎとめておくために、“CES”から指示されてやったことなのだろう。
 義務の履行ですらなく、ただそうしろという命令があったから、当然のように従ったまでだ。
 翌朝、サキコはいなくなっていたが、寝台のシーツに残された小さな血の染みを見つけて、尾畑は心に虚しさを感じたのだった。サキコの反応が嘘だとしても、その血だけは紛れもない本物だった。
 セックスが必要なくなった時代。娯楽も享楽もいっさい存在せず、きっとケータイ様から伸びたあのワイヤーを通じて、たんなる“快楽”という信号のみが、脳内に送られ、人間はそれに満足しているのだ。
 人々が水しか飲まず、味気のない同じ種類の食品しか摂取せず、何の嗜好品も必要としないのはそのためなのだ。
 目の前の芝生では、昨日と同じように子供たちが遊んでいた。そのすぐ近くには母親らしき女性が数人。あのとき、このベンチから見ていた光景と寸分たがわぬ構図が、彼の目の前にあった。そして、子供たちの不自然なはしゃぎぶり、母親たちの冷たい視線が、ベンチに座る尾畑に向けられている点も同じだった。
 悪夢であればいい。
 だが、これは現実なのだ。
 尾畑は両膝に肘をついて背を丸め、両手で顔を覆った。
 蘇生なんかしなければ良かった。
 こんな絶望的な未来。いくら便利で、無駄のない社会でも、ここには本当の人間の幸せは存在しない。人々は機械に操られ、生きる意義も生きる目的も喪失しながら幻の幸福と反映の中で暮らしている。
 尾畑は眉をしかめ、右手に持ったままのスマホを見つめた。
 ケータイ様、か。
 人工的な偶像としての神が、この手の中にある。すべてを統治し、支配する絶対的な存在。この端末から電波で結ばれた巨大な制御システムがこの世界のどこかにある。それがすなわち“CES”と呼ばれる“基幹局”の正体なのだろう。
 吐息を投げてから、尾畑は顔を上げた。
 遠く書き割りの絵のように、富士山が見えていた。

 ふいに子供たちの声が途切れた。尾畑は驚いて、また顔を上げた。
 いつの間にか、目の前にすらりと細長い躰の女性が立っていた。服装はこの時代の特徴のないものだ。ミユキと名乗った女性だった。
 いつからそこにいたのか。楚々とした様子でじっと立ち、尾畑を見つめていた。
「ここにいらっしゃると思ってました」
 尾畑はしばし彼女の整いすぎた美しい顔を見ていたが、視線をそらしていった。
「嘘はいわなくてもいいです。どうせ、ぼくがどこにいるか、みなさんおわかりになっていたんでしょう。あなただけではなくサキコさんも、それに他の不特定多数の人たちも」
「はい」
 ミユキは屈託のない笑みを浮かべた。
「ぼくを放っておくことはできないんですか? あなたたちと同じように、このスマホのオバケみたいなやつに心も躰も支配されて、これからずっと生きていかなければならないんですか?」
「それが本当の幸福だと、あなたもすぐに理解するようになりますわ」
「心を失ったあなたたたちに、本当の幸せなんてわかるんですか?」
「幸せと不幸せの違いはよくは理解できません。ですが、少なくとも、私たちには悩みや不安や恐れがない。病気もストレスもない。それ以上に何が必要なんでしょうか」
 尾畑は答えず、ただ首を振った。
 この娘も、必要があれば昨夜のサキコのように尾畑に身体を投げ出し、自ら淫猥な行為をやれるのだろうか。
 あくまでも清楚で穢れないように見えるミユキ。
 だが、サキコだって、最初に出会ったときは、そんなことは想像もできなかった。“CES”からの指示があれば、彼女たちはどんなことでもやるだろう。それが全体の幸福と反映につながるのであれば。
「ぼくは、悩みや苦しみのあるあの時代にもどりたい。そのほうが、人間的だから」
「不可能です。あなたはすでに今の時代に生きています」
「選択の余地はないのですか。たとえば……ぼくが死を選ぶことすらも」
「ええ。あなたがかつて自殺と呼ばれた自傷行為を実行して、たとえば肉体を崩壊させたとしても、今の技術ならばあなたの脳だけを生かすことが可能です」
「でも、どうして?」
 尾畑は彼女の顔を見据えていった。「どうして、ぼくのような人間が必要なんです」
「半世紀以上前の生きた情報のデータのひとつとして、“CES”はあなたの存在を重視してます」
「つまり、ぼくがあなたたちと“連結”することによって、ぼくの過去の記憶や知識がすべてあなたたちの共有物となる?」
「そうです」
 世話役であり、おそらく監視役でもあっただろうサキコと違って、どこか人間らしい優しさを感じていた目の前の娘が、実はサキコとなんら変わらぬ、いやもしかするとつかの間の友愛を自分で巧みに演出できるほど、さらに冷徹で非人間的な存在であることに、尾畑は初めて気づいた。
 彼女もまた、ひとりの監視役に過ぎなかったのだ。
 尾畑には逃げる場所がなかった。
 彼が暮らしていたかつての時代、どんなに束縛されていたとしても、死の自由を阻害されることはなかった。だが、ここではそれを選択することすらできない。
 仁慈は望むべくもない。
 サキコも、目の前にいるミユキも。そして、周囲で遊んでいる子らや母親たちですら、すべてが怜悧なコンピューターに操られた端末のソフトウェアにすぎない。
 泣いてもわめいても、彼らにとっては無意味なもの。
 それこそ「無駄な感情」と切り捨てられるのだろう。蜘蛛の巣にかかった獲物が蜘蛛に慈悲を乞うようなものだ。
「いつ……ぼくは変えられるのですか」
「今夜です」
 そう、ミユキは答えた。
 そしてあの慈しみに満ちたような笑みをそっと浮かべた。

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