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文字数 5,778文字
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無機質な白い部屋の片隅に、尾畑は膝を抱えて座り、冷たい壁に背をもたれていた。
やはり自分は囚人だったのだなと思った。どこへ行こうが自由といわれたが、どこへ行ってもここと同じ。目に見えない監獄に放り込まれていたにすぎない。そして、彼が彼でなくなる瞬間が刻々と迫っていることを知りもせず、時間を浪費してきたのだ。
今はサキコのことだけが脳裡にあった。
ゆうべの身体の交わり。たんなる肉の快楽だけではない、この冷たく無機質な未来の世界において、ひさしぶりに心が解放されたあの瞬間のことを、ずっと考えていた。それがたとえ彼女の演技であろうとも、自分の中においてはたんなる性行為だけではない何かがあったのだと思う。
シーツの上にはまだ小さな血の染みがあった。
あのとき、サキコは紛れもない、ひとりの女だった。
嘘でもいいから、もう一度、彼女の体の温かさが欲しかった。
そうしているうちに、いつしか寝入っていたらしい。
足音がして、ハッと目を覚ました。目を開けると、白く無垢な床の上に、ヒールの低い靴を履いた足が見えた。
ゆっくりと視線をあげると、銀色の躰にフィットした服。くびれた腰、豊かな胸の隆起、その上に見知った顔があった。
「サキコ……さん?」と、尾畑がつぶやいた。
にっこり笑おうとして、そのむなしさに気づいた。
「時間ですか」
サキコはうなずいた。感情の読めない目で、尾畑を見つめていた。
黙って手招きをしてから、クルリと背を向けた。
尾畑は仕方なく立ち上がり、彼女のあとを追って部屋を出た。
細長い廊下を歩き、エレベーターで一階に下りた。ロビーの受付嬢は、相変わらずデパートのショーウインドウを飾るマネキン人形のように、ひたすら美しく、だが冷たい眼差しでじっと彼らを見つめていた。
「しばらく出かけます」
サキコはいってから、自分のスマホをデスクのソケットに差し込んだ。電子音を確認してから、彼女はそれをとりはずした。
「いってらっしゃいませ」と、受付嬢が頭を下げた。
正面入り口の自動ドアを抜けて、ふたりは表に出た。
リニアカーが並ぶ駐車場に向かい、サキコは一台のドアを開けた。
尾畑は助手席に、サキコは運転席に乗り込む。自動的にガルウイングのドアが閉じた。
「まだ、時間が早くないですか? 今夜だと聞きましたけど。それに、ぼくはてっきりこの施設の中で“処置”されるものだとばかり思ってました」
そうサキコに訊いてみた。
彼女はちらりと尾畑を見たが、なにもいわなかった。
リニアカーの始動スイッチを入れると、かすかな電子音とともにインパネのライト類が次々と点り、車体が震えた。見ていると、サキコはいくつかのレバーを操作し、ボタンを押していく。彼女が全自動ではなく、マニュアルで車を動かそうとしていることに気づいた。
「いったい、何を――?」
「訊かないで」
サキコはいいざま、アクセルを踏みつけた。リニアカーが急発進した。
すさまじいGで、尾畑の背中がシートに押さえつけられる。彼は顔を引きつらせたまま前方を凝視した。
リニアカーは驚くべきスピードで加速していき、やがて透明チューブの高速幹線道路に入った。
昔の高速道路と同じで、二車線のうち、右側は緊急走行用に空けてあるらしい。サキコはそこを走らせ、次々と他のリニアカーを抜かしながらなおもスピードを上げてゆく。
ブルブルと振動音がして、ハンドルを握っていたサキコが衣服のポケットからそれを引っ張り出した。
彼女がケータイ様と呼んでいたそれだ。しかし、液晶画面を見もせず、サイドウインドウをオートで下ろしたと思うと、それを車外に投げ捨てた。吹き込んできた風が、サキコの長い黒髪を躍らせた。
尾畑は驚いた。
予想もしなかったサキコの行動だった。
今度は尾畑のポケットでそれが震え始めた。いらついているように、何度も大げさな振動を伝えてきた。とりだしたとたん、それは沈黙した。
妙に思って、液晶画面を開いた。
青い画面の中に、小さな文字が浮かんでいた。
Cogito Ergo Sum
コギト・エルゴ・スム――我思う、ゆえに我あり。
見ているうちに、尾畑の目が大きくなった。“CES”――あの名称はこのスローガンの頭文字だったのだ。すなわち、コンピューターの自我。
「早く、捨てて!」
サキコが叫んだとたん、予期せぬことが起こった。
尾畑の手の中で、スマホは下端からあのワイヤーをするすると伸ばした。
驚いて凍りつく尾畑の前で、一匹の生き物のようにうねうねと蛇行しながら伸びていくワイヤーが、隣のサキコのほうへと向かった。
それに気づいて振り返った彼女が、自分の首の後ろを押さえながら悲鳴を上げた。
「ダメ! 私とつながったら、すべてを悟られてしまうわ」
あわてて両手を伸ばし、ワイヤーをつかんだ。
蛇の如くくねりながら、ワイヤーの先端がクルリと彼のほうに向き直った。赤い光がしきりに明滅していた。
昨夜の悪夢が蘇ってくる。
尾畑は冷や汗をかいた。ワイヤー自体に力はなかったので、それを強引に引き戻し、スマホの本体を膝の間に挟みながら、思い切って根元から引きちぎった。
窓の上げ下げのボタンを押して、開いた車窓の外へワイヤーを投げ捨てた。続いて、スマホの本体も捨てた。
ぴしゃりと窓を閉じた。
大きく口を開いて、何度も息をついた。心臓が破裂しそうに高鳴っていた。
「もう、いいでしょう? サキコさん」彼は肩を激しく上下させながらいった。「いったい、何がどうなっているのか。ぼくに話してください。あなたは裏切ったんですか?」
「そう」
こともなげに、サキコがいった。
「なぜ?」
「それを説明するには、あなたのいた時代から文明がどう変わっていったかを話さなければならないわ。とても長い話になる」
「でも……時間はあるんでしょう?」
「そうね」サキコはいった。「きっと時間はあるわ」
二十一世紀の初頭から、携帯電話は人間にとって、なくてはならないものとなっていた。それは世界中に急速に普及していった。回線網が、全世界を繋ぎ、統合されていったのは、西暦二○三一年のことだった。
やがて、《国際携帯電話連合》が設立され、全世界的に規格が統一され、衛星を使った回線があらゆる場所を結び、世界中どこでも誰とでもスマホで話せる時代がやってきた。
インターネットの主流はスマホに移行し、あらゆる情報は世界中に張り巡らされたデジタル回線を伝って、瞬時に個人単位にまで伝わった。
同時に、人々は何よりもましてスマホによる人間同士のつながりを重視するようになった。いつしか宗教が廃れ、国家というものが、次第に形骸化していった。
世界中に何十億とあるスマホを相互に繋ぎ、管理しているのは、アメリカや日本、中国、インドなどにある、巨大なコンピューターだったが、やがてそれらはインターネットを通じて統合され、ひとつの複雑なプログラムにまとめられた。
このコンピューターは、自ら進化するAI機能を有していて、秒単位で無数のプログラミングを繰り返しなら自己増殖を重ね、やがて自意識を持つにいたった。本来ならば、人間に使われるコンピューターが、逆に人間を統制して管理するようになっていた。
技術的特異点、すなわちシンギュラリティへの到達である。
人類のコントロールは簡単だった。
人間は、もはやスマホなしの生活が考えられなかった。その情報の中に、心を操るキイワードを少しずつ暗号化して混入させ、少しずつ時間かけて、全世界の人類を巧みに洗脳していったのである。
こうして、自我を持ったコンピューターは、いっさいの武力も行使せず、地球という惑星を無血占領した。あらゆる人間は、すべからく統制下に置かれて、次第に個性を剥奪され、文化を切り捨てられ、文明を改造されていった。
「――私たちは、もう何十年も前から、通常の生殖をしなくなっていた。クローンとして細胞から増殖するようにプログラミングされていたの。優秀な頭脳や容姿端麗な個体だけを残して、よぶんな遺伝子の個体は淘汰されるように仕組まれていた。けれどもコピーを重ねるとたまに劣悪なものが生まれるみたいに、ちょっとしたバグが私の中に生じていた。“CES”からの情報を受けながらも、私の中に“自我”が生まれていたわ」
「自我……ですか」
「あなたがいう、人間らしさ。日常的には“CES”に管理、制御されていても、ときたま空電が走るみたいに、ほんのわずかの間に自分の意識が目覚めるの。それが年齢を重ねるごとに強くなっていった。同時に、私は自分の中で“CES”からの情報や指令を逆に制御することを憶えたわ。そんな中で、あなたに出会った」
「たまたまですか?」
「そうじゃない。八十九年前から冷凍保存されていた過去の人間が蘇生したというニュースをキャッチしたあと、私はどうしてもあなたに会いたくなった。まだ、人が自分の意識をちゃんと持っていた時代の人間。だから、私は世話役に志願したの。“CES”にとっては、望むべき奉仕と捉えられたはずよ。当初はそれに徹したわけだし」
「あなたは……ぼくが過去に知っていた、ある女性にとても似ている」
「それは“CES”が、仮死状態だったあなたの心の中を探り、あなたがいちばん意識していた女性に近いイメージを情報として取得して、それを私に送り込んだから」
「でも……」
「もちろん、整形のように顔を変えるわけにはいかない。でも、ちょっとしたクセだとか、物言い、仕種のひとつひとつを、その女性に近づけることはできたわ。それに、ゆうべのことだって……」
尾畑は顔を赤くして前を向いた。「やはり、あれは演技だったんですか」
「女の身体を使ってあなたを慰安するのは“CES”からの命令だった。でも私は行為の最中、あなたをいとおしく思っていた。それが自分でも不思議だった。あなたを失いたくないと強く感じたの」
「そうか」
自然と口許に笑みが浮かんだ。「やっぱ、そうですよね。だから、これは予定の行動だったのですね」
「それがそうともいい切れないわ」
サキコは神妙な顔でハンドルを握りながら、前方を見つめていた。
「あなたの脳が改造されたら終わりだった。私自身のそれまでの行動の意味がなくなってしまう。どうすればいいのか結論も出せないまま時間が迫って、仕方なくこうして連れ出したの」
「目算あってのことじゃないんですね」
サキコは彼を見て微笑んだ。親愛がにじみ出るような、悲しい笑みだった。
「ごめんなさい」そう、彼女はいった。
「いいんです。この世界で、たったひとりでもぼくを助けてくれた人がいた。それだけでも嬉しい」
尾畑が俯きながらいうと、サキコは肩をすぼめて笑った。
その仕種は、かつての同僚だった長岡美由季そのまんまだった。
リニアカーは高速スピードを維持したまま、チューブ式の幹線道路を抜けていた。
長い、一直線の橋である。
左右は紺碧の海。太陽は前方で、その海に没しようとしている。
「ここは?」
「昔は日本海と呼ばれていたわ」
「じゃあ、ぼくらはあっという間に本州を横断したんだ」
サキコはうなずいた。「この橋は、海の向こうの大陸まで続いている。今の速度を維持できたら、およそ二時間ぐらいで向こうに到着するでしょう。私たちのとったコースをまだ“CES”が知らなければの話」
「知られていたら?」
「そうなったらおしまいね」
「でも……ぼくたちはどこへゆくんです?」
「あの大陸のどこかに、ケータイ様の文明を否定して、自然の中に生きている人々が少数ながら暮らしているそうよ。あくまでも噂なんだけど」
「コンピューターの情報の中にも、噂なんてあるんですか」
面白おかしく訊くと、サキコはうなずいた。
「未確認、不確定な情報のひとつとして、本来ならば防衛上の秘密事項として一般市民には秘匿されるべきものだったんだけど、今回の仕事で別の側面から“CES”に接触したとき、たまたま知ってしまったのよ」
「それが本当ならいいですね」
サキコがハンドルの横にあるスイッチに触れた。
とたんに、ふたりの頭上を覆う天蓋が、さっと後ろにスライドした。ふたりが乗る車は、瞬時にしてオープンカーになった。
前方から吹き寄せる風は、確かに海の汐の匂いをはらんでいた。
サキコは風に踊る長い黒髪をかきあげて、気持ちよさそうに目を閉じた。
尾畑も、本当にひさしぶりの自然の空気の香りを、心ゆくまで楽しんだ。
そうしているうちに、尾畑はふいに悟った。
どうしてサキコに見覚えがあるのか。その真意を。
彼女は確かに美由季に似ていた。そう仕向けられていたからだ。しかし、尾畑がサキコに親近感を感じたのは、別の理由からだった。
尾畑はサキコと出会うずっと前、そう、何十年も前から、彼女の夢を見ていたのだ。
長い黒髪の、美しい女。
執拗に、何度も、彼女が夢の中に現れた理由が、今になってようやくわかった。
われわれが出会ったのは偶然じゃない。きっと必然なんだ。そこには目に見えない意思のようなものが介在していたのにちがいない。
「ねえ。私を覚醒させるきっかけになったひとつの言葉があったわ。いろいろな情報が頭の中に入ってくるとき、小さな光が瞬くみたいに、突然その言葉がひらめいたの。それを知ってほしい」
サキコはふいにいって、尾畑を見つめた。
「いったい何ですか?」
「……希望」
ハンドルを握ったまま、サキコがいった。
尾畑はまた前を向いた。「希望か。いい言葉だ」
海が一面、夕焼けのオレンジ色に染まっていた。
彼らの前方で、巨大に膨れ上がった太陽が水平線の向こうに半ば沈んでいた。ふたりが辿る道は、そこへ向かってまっすぐ一直線に伸びている。
たとえこの道の行き着く先に何が待っているとしても、今だけは、この瞬間だけは、サキコといっしょに希望を信じていよう。
尾畑は心の底からそう思った。
-了-
無機質な白い部屋の片隅に、尾畑は膝を抱えて座り、冷たい壁に背をもたれていた。
やはり自分は囚人だったのだなと思った。どこへ行こうが自由といわれたが、どこへ行ってもここと同じ。目に見えない監獄に放り込まれていたにすぎない。そして、彼が彼でなくなる瞬間が刻々と迫っていることを知りもせず、時間を浪費してきたのだ。
今はサキコのことだけが脳裡にあった。
ゆうべの身体の交わり。たんなる肉の快楽だけではない、この冷たく無機質な未来の世界において、ひさしぶりに心が解放されたあの瞬間のことを、ずっと考えていた。それがたとえ彼女の演技であろうとも、自分の中においてはたんなる性行為だけではない何かがあったのだと思う。
シーツの上にはまだ小さな血の染みがあった。
あのとき、サキコは紛れもない、ひとりの女だった。
嘘でもいいから、もう一度、彼女の体の温かさが欲しかった。
そうしているうちに、いつしか寝入っていたらしい。
足音がして、ハッと目を覚ました。目を開けると、白く無垢な床の上に、ヒールの低い靴を履いた足が見えた。
ゆっくりと視線をあげると、銀色の躰にフィットした服。くびれた腰、豊かな胸の隆起、その上に見知った顔があった。
「サキコ……さん?」と、尾畑がつぶやいた。
にっこり笑おうとして、そのむなしさに気づいた。
「時間ですか」
サキコはうなずいた。感情の読めない目で、尾畑を見つめていた。
黙って手招きをしてから、クルリと背を向けた。
尾畑は仕方なく立ち上がり、彼女のあとを追って部屋を出た。
細長い廊下を歩き、エレベーターで一階に下りた。ロビーの受付嬢は、相変わらずデパートのショーウインドウを飾るマネキン人形のように、ひたすら美しく、だが冷たい眼差しでじっと彼らを見つめていた。
「しばらく出かけます」
サキコはいってから、自分のスマホをデスクのソケットに差し込んだ。電子音を確認してから、彼女はそれをとりはずした。
「いってらっしゃいませ」と、受付嬢が頭を下げた。
正面入り口の自動ドアを抜けて、ふたりは表に出た。
リニアカーが並ぶ駐車場に向かい、サキコは一台のドアを開けた。
尾畑は助手席に、サキコは運転席に乗り込む。自動的にガルウイングのドアが閉じた。
「まだ、時間が早くないですか? 今夜だと聞きましたけど。それに、ぼくはてっきりこの施設の中で“処置”されるものだとばかり思ってました」
そうサキコに訊いてみた。
彼女はちらりと尾畑を見たが、なにもいわなかった。
リニアカーの始動スイッチを入れると、かすかな電子音とともにインパネのライト類が次々と点り、車体が震えた。見ていると、サキコはいくつかのレバーを操作し、ボタンを押していく。彼女が全自動ではなく、マニュアルで車を動かそうとしていることに気づいた。
「いったい、何を――?」
「訊かないで」
サキコはいいざま、アクセルを踏みつけた。リニアカーが急発進した。
すさまじいGで、尾畑の背中がシートに押さえつけられる。彼は顔を引きつらせたまま前方を凝視した。
リニアカーは驚くべきスピードで加速していき、やがて透明チューブの高速幹線道路に入った。
昔の高速道路と同じで、二車線のうち、右側は緊急走行用に空けてあるらしい。サキコはそこを走らせ、次々と他のリニアカーを抜かしながらなおもスピードを上げてゆく。
ブルブルと振動音がして、ハンドルを握っていたサキコが衣服のポケットからそれを引っ張り出した。
彼女がケータイ様と呼んでいたそれだ。しかし、液晶画面を見もせず、サイドウインドウをオートで下ろしたと思うと、それを車外に投げ捨てた。吹き込んできた風が、サキコの長い黒髪を躍らせた。
尾畑は驚いた。
予想もしなかったサキコの行動だった。
今度は尾畑のポケットでそれが震え始めた。いらついているように、何度も大げさな振動を伝えてきた。とりだしたとたん、それは沈黙した。
妙に思って、液晶画面を開いた。
青い画面の中に、小さな文字が浮かんでいた。
Cogito Ergo Sum
コギト・エルゴ・スム――我思う、ゆえに我あり。
見ているうちに、尾畑の目が大きくなった。“CES”――あの名称はこのスローガンの頭文字だったのだ。すなわち、コンピューターの自我。
「早く、捨てて!」
サキコが叫んだとたん、予期せぬことが起こった。
尾畑の手の中で、スマホは下端からあのワイヤーをするすると伸ばした。
驚いて凍りつく尾畑の前で、一匹の生き物のようにうねうねと蛇行しながら伸びていくワイヤーが、隣のサキコのほうへと向かった。
それに気づいて振り返った彼女が、自分の首の後ろを押さえながら悲鳴を上げた。
「ダメ! 私とつながったら、すべてを悟られてしまうわ」
あわてて両手を伸ばし、ワイヤーをつかんだ。
蛇の如くくねりながら、ワイヤーの先端がクルリと彼のほうに向き直った。赤い光がしきりに明滅していた。
昨夜の悪夢が蘇ってくる。
尾畑は冷や汗をかいた。ワイヤー自体に力はなかったので、それを強引に引き戻し、スマホの本体を膝の間に挟みながら、思い切って根元から引きちぎった。
窓の上げ下げのボタンを押して、開いた車窓の外へワイヤーを投げ捨てた。続いて、スマホの本体も捨てた。
ぴしゃりと窓を閉じた。
大きく口を開いて、何度も息をついた。心臓が破裂しそうに高鳴っていた。
「もう、いいでしょう? サキコさん」彼は肩を激しく上下させながらいった。「いったい、何がどうなっているのか。ぼくに話してください。あなたは裏切ったんですか?」
「そう」
こともなげに、サキコがいった。
「なぜ?」
「それを説明するには、あなたのいた時代から文明がどう変わっていったかを話さなければならないわ。とても長い話になる」
「でも……時間はあるんでしょう?」
「そうね」サキコはいった。「きっと時間はあるわ」
二十一世紀の初頭から、携帯電話は人間にとって、なくてはならないものとなっていた。それは世界中に急速に普及していった。回線網が、全世界を繋ぎ、統合されていったのは、西暦二○三一年のことだった。
やがて、《国際携帯電話連合》が設立され、全世界的に規格が統一され、衛星を使った回線があらゆる場所を結び、世界中どこでも誰とでもスマホで話せる時代がやってきた。
インターネットの主流はスマホに移行し、あらゆる情報は世界中に張り巡らされたデジタル回線を伝って、瞬時に個人単位にまで伝わった。
同時に、人々は何よりもましてスマホによる人間同士のつながりを重視するようになった。いつしか宗教が廃れ、国家というものが、次第に形骸化していった。
世界中に何十億とあるスマホを相互に繋ぎ、管理しているのは、アメリカや日本、中国、インドなどにある、巨大なコンピューターだったが、やがてそれらはインターネットを通じて統合され、ひとつの複雑なプログラムにまとめられた。
このコンピューターは、自ら進化するAI機能を有していて、秒単位で無数のプログラミングを繰り返しなら自己増殖を重ね、やがて自意識を持つにいたった。本来ならば、人間に使われるコンピューターが、逆に人間を統制して管理するようになっていた。
技術的特異点、すなわちシンギュラリティへの到達である。
人類のコントロールは簡単だった。
人間は、もはやスマホなしの生活が考えられなかった。その情報の中に、心を操るキイワードを少しずつ暗号化して混入させ、少しずつ時間かけて、全世界の人類を巧みに洗脳していったのである。
こうして、自我を持ったコンピューターは、いっさいの武力も行使せず、地球という惑星を無血占領した。あらゆる人間は、すべからく統制下に置かれて、次第に個性を剥奪され、文化を切り捨てられ、文明を改造されていった。
「――私たちは、もう何十年も前から、通常の生殖をしなくなっていた。クローンとして細胞から増殖するようにプログラミングされていたの。優秀な頭脳や容姿端麗な個体だけを残して、よぶんな遺伝子の個体は淘汰されるように仕組まれていた。けれどもコピーを重ねるとたまに劣悪なものが生まれるみたいに、ちょっとしたバグが私の中に生じていた。“CES”からの情報を受けながらも、私の中に“自我”が生まれていたわ」
「自我……ですか」
「あなたがいう、人間らしさ。日常的には“CES”に管理、制御されていても、ときたま空電が走るみたいに、ほんのわずかの間に自分の意識が目覚めるの。それが年齢を重ねるごとに強くなっていった。同時に、私は自分の中で“CES”からの情報や指令を逆に制御することを憶えたわ。そんな中で、あなたに出会った」
「たまたまですか?」
「そうじゃない。八十九年前から冷凍保存されていた過去の人間が蘇生したというニュースをキャッチしたあと、私はどうしてもあなたに会いたくなった。まだ、人が自分の意識をちゃんと持っていた時代の人間。だから、私は世話役に志願したの。“CES”にとっては、望むべき奉仕と捉えられたはずよ。当初はそれに徹したわけだし」
「あなたは……ぼくが過去に知っていた、ある女性にとても似ている」
「それは“CES”が、仮死状態だったあなたの心の中を探り、あなたがいちばん意識していた女性に近いイメージを情報として取得して、それを私に送り込んだから」
「でも……」
「もちろん、整形のように顔を変えるわけにはいかない。でも、ちょっとしたクセだとか、物言い、仕種のひとつひとつを、その女性に近づけることはできたわ。それに、ゆうべのことだって……」
尾畑は顔を赤くして前を向いた。「やはり、あれは演技だったんですか」
「女の身体を使ってあなたを慰安するのは“CES”からの命令だった。でも私は行為の最中、あなたをいとおしく思っていた。それが自分でも不思議だった。あなたを失いたくないと強く感じたの」
「そうか」
自然と口許に笑みが浮かんだ。「やっぱ、そうですよね。だから、これは予定の行動だったのですね」
「それがそうともいい切れないわ」
サキコは神妙な顔でハンドルを握りながら、前方を見つめていた。
「あなたの脳が改造されたら終わりだった。私自身のそれまでの行動の意味がなくなってしまう。どうすればいいのか結論も出せないまま時間が迫って、仕方なくこうして連れ出したの」
「目算あってのことじゃないんですね」
サキコは彼を見て微笑んだ。親愛がにじみ出るような、悲しい笑みだった。
「ごめんなさい」そう、彼女はいった。
「いいんです。この世界で、たったひとりでもぼくを助けてくれた人がいた。それだけでも嬉しい」
尾畑が俯きながらいうと、サキコは肩をすぼめて笑った。
その仕種は、かつての同僚だった長岡美由季そのまんまだった。
リニアカーは高速スピードを維持したまま、チューブ式の幹線道路を抜けていた。
長い、一直線の橋である。
左右は紺碧の海。太陽は前方で、その海に没しようとしている。
「ここは?」
「昔は日本海と呼ばれていたわ」
「じゃあ、ぼくらはあっという間に本州を横断したんだ」
サキコはうなずいた。「この橋は、海の向こうの大陸まで続いている。今の速度を維持できたら、およそ二時間ぐらいで向こうに到着するでしょう。私たちのとったコースをまだ“CES”が知らなければの話」
「知られていたら?」
「そうなったらおしまいね」
「でも……ぼくたちはどこへゆくんです?」
「あの大陸のどこかに、ケータイ様の文明を否定して、自然の中に生きている人々が少数ながら暮らしているそうよ。あくまでも噂なんだけど」
「コンピューターの情報の中にも、噂なんてあるんですか」
面白おかしく訊くと、サキコはうなずいた。
「未確認、不確定な情報のひとつとして、本来ならば防衛上の秘密事項として一般市民には秘匿されるべきものだったんだけど、今回の仕事で別の側面から“CES”に接触したとき、たまたま知ってしまったのよ」
「それが本当ならいいですね」
サキコがハンドルの横にあるスイッチに触れた。
とたんに、ふたりの頭上を覆う天蓋が、さっと後ろにスライドした。ふたりが乗る車は、瞬時にしてオープンカーになった。
前方から吹き寄せる風は、確かに海の汐の匂いをはらんでいた。
サキコは風に踊る長い黒髪をかきあげて、気持ちよさそうに目を閉じた。
尾畑も、本当にひさしぶりの自然の空気の香りを、心ゆくまで楽しんだ。
そうしているうちに、尾畑はふいに悟った。
どうしてサキコに見覚えがあるのか。その真意を。
彼女は確かに美由季に似ていた。そう仕向けられていたからだ。しかし、尾畑がサキコに親近感を感じたのは、別の理由からだった。
尾畑はサキコと出会うずっと前、そう、何十年も前から、彼女の夢を見ていたのだ。
長い黒髪の、美しい女。
執拗に、何度も、彼女が夢の中に現れた理由が、今になってようやくわかった。
われわれが出会ったのは偶然じゃない。きっと必然なんだ。そこには目に見えない意思のようなものが介在していたのにちがいない。
「ねえ。私を覚醒させるきっかけになったひとつの言葉があったわ。いろいろな情報が頭の中に入ってくるとき、小さな光が瞬くみたいに、突然その言葉がひらめいたの。それを知ってほしい」
サキコはふいにいって、尾畑を見つめた。
「いったい何ですか?」
「……希望」
ハンドルを握ったまま、サキコがいった。
尾畑はまた前を向いた。「希望か。いい言葉だ」
海が一面、夕焼けのオレンジ色に染まっていた。
彼らの前方で、巨大に膨れ上がった太陽が水平線の向こうに半ば沈んでいた。ふたりが辿る道は、そこへ向かってまっすぐ一直線に伸びている。
たとえこの道の行き着く先に何が待っているとしても、今だけは、この瞬間だけは、サキコといっしょに希望を信じていよう。
尾畑は心の底からそう思った。
-了-