第1話 降り積もった雪の中で

文字数 8,402文字

−1−
160cmの私の背の高さまで降り積もる雪。
目の前に立ちはだかる雪の壁を前に、私はスコップ片手に気合いを入れる。
亡き祖父母から譲り受けたこの年季の入った日本家屋を取り囲む雪の壁を、今朝も切り開かなければならない。
玄関から道路までの距離約4m、私は勢いよくスコップを振り上げ、雪壁に突き刺す。
「すいません!」
雪壁を隔てた先の道路から幻聴が聞こえる。
人がいるはずない、昨日は大量の雪が降り続いていた、道路だってまだ人が歩ける状況とは思えない。
この町は人口……何人かは知らないが隣の家まで200mは歩かねばたどり着けない程の田舎町である。
町の中心部は、温泉目当てに観光客が訪れはするが、町外れのここは、役所が行う道路の除雪など昼までに完了すればいいぐらいの、のんびりした、
「すいません!遠藤建設の城崎です。新田さんのお宅でしょうか!」
……私は黙々と雪壁にスコップを突き立て、雪を玄関から道路へと真っ直ぐ伸びる側溝に投げ入れる。
玄関から道路の間に設置された側溝を流れる温泉水は一瞬にして雪を溶かしていく。
シャベルを突き立て、側溝に投げ入れ、掘り進む、スコップを突き立て、側溝に投げ入れ、掘り進む、スコップを突き立て、
「遠藤建設の城崎です!新田みのりさんのお宅ですか!」
「フルネームで呼ばないで!行くから!」
スコップを渾身の力で雪壁に突き立てる。
壁が崩れぽっかり開いた空間の向こう、道路に積もった雪に、腹まで埋もれた男がポカンと口を開けて、雪壁を突き崩した私を見ていた。
私は荒野を突き進んできた開拓者のようだったかもしれない。
城崎は私と同じ身長の小太りの男だった。
「みゆきと理子は?」
私が営業課の同期の名前を口にすると、城崎は我に返って怒濤の様に喋り出した。
「彼女達は大雪で東京をでることすら出来ないみたいで、雪国のみなさんからしたら大した雪でもないでしょうけど、いやそんな事はよくて、僕だけ昨日近くまで出張してたので、今日泊めて頂く件ですけど、なんだっけ、えっと」
「落ち着いて、名刺貰えます?」
城崎は慌てて、寒さに震える手で名刺を差し出してきた。
名刺には(遠藤建設 営業主任 城崎健一)と書かれているのを確認する。
確かに本社から、出張先の宿が取れず、宿泊を要請された3人のうちの1人である事を確認して、私は自分の名刺を渡す。
在宅勤務でも、名刺を持ち歩いてしまう自分がうらめしい。
名刺を受け取った城崎は名刺を暫く眺めて、一瞬私の顔を確認する。
大体、名刺の何処に引っ掛かりを覚えたのかは想像できる。
私の名刺にはこう書かれている(遠藤建設 第3設計部 "課長" 新田みのり 備考:在宅勤務)
全国で万単位の社員を抱える、本社の課長が20代の女性、最近でも結構珍しいはずだ。
「課長でしたか、失礼しました」
体の半分が雪に埋もれた状態でお辞儀をした城崎の顔が、雪に埋もれる。
「いや、部署違いますし、そこは気にしないで下さい。それより今日泊まるのは城崎さん1人という事で?」
私の問いかけに、城崎が慌てて両手を振ってみせた、その姿は、ずんぐりむっくりした、ぬいぐるみのおもちゃの様に見えた。
「いや、いや、女性の1人暮らしに男だけは不安でしょうし、問題ですから、寝袋あります?」
「え?」
一体この男はなに考えているのか、思わず聞き返してしまった。
「大丈夫です。こう見えても学生時代山岳部で雪山に登った事ありますし、ほらこの脂肪ですから、そこら辺で」
「死にます」
背広にダウンジャケット、登山装備の欠片も感じない城崎の姿に、私は間髪入れずに言い返した。
山岳部など絶対嘘だ。
「でも」
「死にます」
「しかし」
「死にます」
「……やっぱり死にます?」
「死にます」
体半分雪に埋もれた状態で黙りこむ城崎の震えようは壊れたおもちゃとしか言いようがなく、すでに危ない様に思え、私の説得に頷いているのかさえ判断できなかった。
全身を震わせ、膝を笑わしながら歩く城崎を何とか家に招きいれ、炬燵のある10畳間に案内した。

−2−

家の中と外は、天国と地獄程の温度差がある、冷えきった城崎が、心臓麻痺を起こす事を心配したが、寒さに動きの鈍った城崎は、靴を脱ぐにも10分程も時間を要した為、十分に暖かい部屋に入る迄に、体を慣らす事が出来た様だった。
正直、心臓麻痺を起こしても救急車を呼べば良かっただけの話、初対面の人間である以上何の思い入れもない。
そんな事を思いながら10畳間の隣にある台所から城崎の様子をうかがっていた。
10畳間の真ん中に設置された炬燵に、限界迄、手足を突っ込み丸まる城崎。
震えが治まり落ち着いたのか、背中を丸めた状態で目線だけがキョロキョロと部屋を見回していた。
死んだ祖父母から引き継いだ日本家屋、10畳の居間×1、広めの台所×1、6畳間×3、その他。
昭和初期に立てられたこの日本家屋は、柱も梁もかなり大きい、珍しいのかもしれない。
もしくは、何か物色でもしているのか。
正直、同じ会社に勤務しているとはいえ、初対面の男1人を家に上げるのは怖い。
本社の無茶な宿泊要請を受けたのは、在宅勤務を受け入れてもらった本社への後ろめたさと、部署の違う同期の女性が同伴だったからだ。
しかし、玄関先で死なれるのもうっとうしい。
見殺しにした女の噂でも立てられたらここで生活しづらくなる。
まさか、そこを計算したのか?でなければスーツに薄いダウンジャケットで、雪を搔き分けてくるなど正気の沙汰じゃない。
普通は駅で除雪を待つ位はする。
ふと、城崎がこちらを振り返った。
慌てて火にかけていたヤカンの蓋を意味もなく開けて覗き込む。
「新田さんは図書館の設計で、凄い賞を取られましたよね」
「ああ、まあ、緑茶に抹茶入れます?」
それは、私をここへ追いやった、いやな賞。
ヤカンの水がコトコト音をたて始める。
「僕ね、イタリアまで新田さんの設計した図書館見に行って来ましたよ」
ヤカンの水がボコボコ音をたて始める。
「抹茶入れます?」
「有給取って見に行った甲斐ありました、特にあの天井」
「抹茶は!」
自分で驚くほどの、気色ばんだ私の声に、城崎の緊張した声が返ってくる。
あの賞は私を地獄に落とした。
設計した図書館が受賞して1週間後、私を筆頭に新たな部署を会社は立ち上げた。
第3設計部。
会社の命令で私の元に集まったプライドの高いエリート社員。
設計部の同僚も、上司も全て私の下についた。
嫉妬。
嫉妬の的にならない訳がなかった。
特に男の嫉妬が……。
ダメだ思い出すだけで吐き気が。
「新田さん?」
城崎の声に我に返り、私は手早く急須に抹茶を放り込み、湯を注ぐと、取り繕う様に、なるべく優しい声を出した。
「朝食は食べました?」
「そう言えば、手土産に東京で面白い羊羮買ってきたんですよ」
質問に答えない城崎に、私の感情は徐々に、警戒心からイラつきへと変化し始めた。
城崎が鞄から出した縦5×横20×高さ5cmの箱を炬燵の上に嬉しそうに置いているのを確認し、私は小振りの果物ナイフを盆にのせる。
皿など必要ない、私にはこの先の展開は読めている。
城崎は私がお茶を差し出すのもそっちのけで箱の蓋をあける。
中には長方形の黒い羊羮が現れ、城崎が切って欲しそうに私の顔を見る。
私は要望に応えて包丁で羊羮を真っ二つに切りに掛かった。
シャリ、ゴリ。
「……」
ナイフの刃が2cm程めり込んだまま押すことも引くことも出来なくなった。
当たり前だ、マイナス10度近い中を歩いてきて凍らないはずがない。
そして、よく生きていたものだ。
「すいません、ちょっと置かせて下さい」
城崎は申し訳無さそうに蓋を被せて、ナイフが飛び出たままの羊羮の箱を部屋の隅にそっと置いた。
「豚汁でいいですか?」
そう言うと、私は城崎の返事を待たずに待たずに台所に立った。
早く何かを済ませれば、早く時間が経つのではと、そんな気持ちになっていた。
私は流しの下にある収納棚から黒い寸胴鍋を引っ張り出した。
祖母から引き継いだ寸胴が3つある。
白い寸胴はもてなしたい客、花柄の寸胴は胃袋を掴みたい客、黒は招かれざる客の為の寸胴。
白は使った事があるが 、花柄と黒は使った事がない。
正直、効果のほどは定かではないが、出来る事は全てやっておきたい。
今さらだが、正直色んな意味で男を泊めるのは怖い。
城崎は相変わらず、キョロキョロしている、たまに羊羮を覗きこんだり。
おばあちゃん守って、そんな想いを込めて黒の寸胴をコンロの火にかけた。

−3−

いつ、どんな、黒の寸胴の効果が現れるのか。
目の前の男は、豚汁を食べてる間中、私の設計した建築物の魅力を、私本人に聞かせ続けていた。
その様子は、正に私が設計した建物のマニア。
私マニアではない、私が設計した建物のマニアだ。
私が課長である事も知らなかった位だ、間違いない。
私は、黙って城崎の話を聞き流し続けた。
おかしな人だと呆れる余裕も、時間が経つにつれ失くなり、私の中に、何か嫌な感覚が甦りつつあった。
会社の人間が目の前にいる事、特に男がいる事を冷静に認識するのつれ、呼び起こされる記憶。
第3設計部の男達の私に対する嫉妬。
城崎は、自分の話にテンションが上がったのか声が大きくなる。
私は体は反射的に強ばりうつ向く。
第3設計部の男達はみんな、思わぬ私の反撃を、いつも大声で叩き伏せていた、いまだに恐怖に体が反応する。
女達は、みんな男の影に隠れて楽しんでいた。
第3設計部一同の顔が頭の中を埋め尽くす。
もう嫌だ。
「新田さん?」
気づけば私は耳を塞いで目をつぶっていた。
城崎が心配そうに覗き込んでくる。
「部屋に案内しますね」
城崎の食べ掛けの豚汁を無視して、力なく呟き炬燵を立った。
慌てて城崎が荷物を持って追いかけてくる。
限界だった、城崎という会社の人間の姿を見ていると気力が奪われていく。
本社にいたときもそうだった、通勤するたびに、気力が失われていく。
その内、感情の起伏がなくなっていく。
外からの刺激に反応しなくなるのだ。
自分の中の全てを失う前に私はここに逃げて来た。
私は20m程続く、ウグイス張りの廊下を元座敷牢だった部屋へと歩いた。
そう、この家には昔座敷牢があった、今は改築されて面影はないが、あの部屋には水回りが全て揃っている。
一旦入れば出る用事はない、後は食事を届けるだけ、周りに店などない、外に出るなどあり得ない。
この男を閉じ込めておける、なるべく声も、顔も見なくてすむ。
「これウグイス張りの床ですか?結構大きな音なりますね」
城崎がウグイス張りの床を派手に鳴らしながら後を着いてくる。
座敷牢の人間が外に出ないように見張るための床。
この床の音が城崎の動きを教えてくれる。
「ここ使って下さい」
「一部屋に全部揃ってますね、凄い」
6畳間の元座敷牢を風呂やら流しやらを見て回る城崎。
「元座敷牢でしたから」
「え?」
城崎の能天気さに私の中で嫌なものが頭をもたげていた。
実際には一度も使う事はなかったとは聞いてはいたが、その事は伝えない。
元とはいえ座敷牢など気分の良いものではないはずだ。
この能天気な男に第3設計部社員の身代わりになって貰おう。
奴らへの私の小さな復讐を受けて貰おう。
「結構使われていたみたいで」
聞くなり城崎の表情が明るくなった。
「それで、トイレとか一式あるんですね、何かアトラクションに泊まるみたいでテンション上がります」
私の思惑など見透かした様な城崎の笑顔。
私は床を鳴らして逃げるように居間に戻った。
自分の醜悪さに泣きそうになった。

ー4ー

それからは、城崎に食事を届ける以外は居間の炬燵にじっとしていた。
城崎も部屋から出てくる様子は無かった。
在宅勤務を申し出て1年、東京を遠く離れ、もう大丈夫だと思って宿泊を引き受けたが、私の心は何一つ治っていなかった。
会社の人間の存在を意識するだけで、吐きそうになる。
それでも城崎を最初見たとき平気だったのは
何故だろうか。
城崎が寒さで弱っていたから?いや、彼は初めから私を気遣っていたような気もする。
そうでなければ、雪の中で寝袋など言い出す訳がない。
私が設計した建築物の話を楽しそうにしていた。
よく考えればずっと。
私は炬燵でうとうとしながらそんな事を考えていた。
遠くから床の音が響いて来る。
床の音は徐々に大きくなる。
私は飛び起きた。
炬燵の中で突っ伏して寝てしまっていた。
壁の時計を見上げる。
深夜3時。
床の音が近付いてくる。
真夜中に城崎は何をしている。
私は素早く隣の台所に駆け込んだ。
包丁が収納してある場所に陣取る。
暗い台所から、明るい居間をじっと観察する。
城崎が現れた。
城崎は居間の隅に置かれたままの羊羮の箱を開けてナイフを手に取る。
「ひっ」
思わず声が出た。
城崎が台所の暗がりに立つ私を見た。
お互い目が合う。
「ぎいやああああ!」
2人同時におかしな叫び声を上げた。
私は包丁を取り出そうとするが、混乱して上手く動けない。
「新田さん、何やってるんですか」
「城崎さんこそ!」
私はやっと取り出した包丁を構えた。
お互い刃物を構えた状態で対峙する。
「何するんですか、新田さん!」
「そっちこそナイフ捨てて!」
「え?あっごめんなさい!」
慌てて城崎が炬燵の上にナイフを捨てた。
「羊羮の事思い出したので、ナイフ危ないし、た、食べて下さい。もう溶けてます!」
城崎は私の包丁を警戒しながら逃げるように部屋に帰って行った。
私は床の音が遠ざかるのを確認して、力一杯握りこんだ包丁を、手から引きはがし、仕舞った。
ダメだ家の中に居るのが逆に怖い。
雪の中なら何かあっても、私に分がある。
私は服を着込み、腰に電灯をぶら下げ、雪下ろし用のスコップを持って表に出た。

ー5ー

月明かりで雪がかなり積もっているのが見てとれた。
私は裏庭に行くと、梯子を上り、屋根の縁の雪を下ろし、足場を作り始める。
作業を始めると、何も考えずにすんだ。
縁の雪を下ろし終え、私は屋根に登る。
ひたすら作業に没頭して何も考えたく無かった、兎に角考えたくない。
私の逸る気持ちは、命綱を屋根のフックにかけるより早く、屋根の上の雪に足を一歩踏み出させた。
「!」
屋根を滑る雪と一緒に体が滑り落ちていく。
私は何の抵抗もせず空中に放り込出される。
一瞬、何かが終わる事への安堵の感覚に、心も体も、空を飛べそうな程、軽くなった。
裏庭に積もった雪の上に足から着地した感覚、頭上に降り落ちる屋根の雪。
気がつけば雪から首が生えた状態になっていた。
呼吸は出来るが体が完全に埋まった。
もし屋根にへばり付こうとしていれば、顔を手で覆い呼吸の為の空間を作っていれば、少なくとも手は雪の外にあったはずだった。
しかし何故か私は何もしなかった。
今の私は両手ごと首の高さまで雪に埋もれ身動きが取れなくなっている。
雪のクッションで落下死は免れたが、このままでは雪に包まれ凍死する。
身体を揺すってみるがびくともしない。
「まあ、いいか……」
現在はだいたい夜中の3時30分位、人が来るとは思えない。
呼ぶ気もおきない。
「はぁ」
思わず吐いたため息が、白い湯気となって長く、尾を引きながら飛んでいく。
呑気に私はもう一度息を吐き出し、湯気の飛距離を伸ばす。
「……」
会社の依頼を受け、図面を書き続けた。
降り積もる雪に身を隠して書き続けた、設計が好きだったから。
それも、もう終る。
多分、私の設計した建築物オタクの城崎は、残念がるかもしれないが……。
気持ち悪い位に、私の設計意図を感じ取り言い当てる城崎。
引くほど、私の設計を好きだと言ってのける城崎。
気づくと私は大きく息を吸っていた。
「助けてー!」
もがくように、腹の底から声を張り上げた。
助かる望みはある。埋まった場所は丁度、座敷牢斜め前に当たる。
「助けてー!」
彼が真夜中に起きる可能性に賭けるしかない。
「たすっ!?」
声を張り上げようとして咳き込んだ。
咳が止んだ後、声がでない。歯の根が噛み合わない程、震えている。
思っている以上に身体が冷えている。
このままでは、私は本当に終わってしまう。このまま雪の中で。
それで良かったはずなのに。
何故か必死に声を絞り出す。
「だ、れか、私を、ここから、た、すけて」
突然目の前が薄暗くなる、と同時に何かの荒い息遣いと雪をかき出す音が響く。
「新田さん!しっかりして!」
城崎の顔が目の前にあった。
必死に私を閉じ込めた雪を素手でかき出している。
城崎の手は瞬く間に真っ赤になる。
玄関にスコップがある事を伝えたいが、歯の根が噛み合わないほどの震えに、上手く声を出せない。
「げ、げ、ん」
「大丈夫!救急車呼びましたから!」
雪の中、救急車は3、40分はかかる。
多分、私はもたない。
そして私の目の前の雪が鮮やかな赤みをおび始めた。
必死に素手を動かして雪をかき出す城崎の手が流血し始めていた。
今一度、私は情報伝達を試みた。
「げげんん、ん」
言葉にならない。
「大丈夫!」
城崎が死にそうなほど息を切らしながら叫んだ。
「貴方を、こんな所で終わらせやしない!」
城崎が血だらけの手の動きを加速させた。
「……」
「泣かないで!」
私は泣いているの?
寒さで顔の感覚が解らない……。
もう直ぐで脇下辺りまで、雪がなくなる。
「助かるから、未来を考えて!私がいい仕事沢山取ってきて!貴方は思う存分設計してください!」
肘の辺り迄、雪が失くなったタイミングで、城崎は私の両脇の下に、自分の両腕を差し入れ、私の背中を抱えながら自分の身体を反らし、後ろに倒れた。
ズボ!雪から抜け出した私の身体が城崎の上に力なくのし掛かる。
私は多分泣いている。
城崎は素早く私を抱えあげ、降り積もった雪の中を行軍する。
私を抱える城崎の足元はよく見ると靴下で雪の中を進んでいる。
服装はジャージの上下に、前をはだけたままに羽織ったダウンジャケット一枚、慌てすぎだ。
初めてあった時も命知らずな格好をしていたが、今回は話にならない。
そんな、話にならない格好で私を抱えたまま雪の中を進む城崎。
私は城崎にしがみつき、気付かれないよう泣き続けた。

ー6ー

家の中で暖を取ること20分、ドクターカーと共に訪れた医者の治療は、低体温症の初期症状だった私より、あかぎれが悪化して流血した城崎の手の治療に時間をかけて帰っていった。
居間に残された私と城崎は暫く無言で過ごした。
「新田さん」
居間の炬燵に放り込まれて寝転がる私は、遠目に城崎が覗き込んで来る気配を感じて、咄嗟に目を閉じた。
暫くすると、ウグイス張りの床の音が元座敷牢に向かって響き始めた。
恐怖の音だった床の音に、今は名残惜しい気持ちで一杯になる。
床の音が遠く消えていくのに合わせて、そのまま、私は眠りについた。

ー7ー

13時5分、私は作った、おにぎり弁当を前にして、炬燵に丸まり壁の時計を見上げた。
遅い。
14時には駅に着きたい筈の城崎は、一向に起きてこない。
これ以上は間に合わなくなる。
「城崎さ~ん」
聞こえないのを解っていて小声で読んでみたが、当然反応はない。
正直、間に合わなくてもいいと、私は思ってしまっている。
昨日とうって変わった、手のひら返しの自分に一瞬自己嫌悪する。
「はぁ」
城崎を引き留められない事は解っている。
観念したような、ため息と共に私は立ち上がり、元座敷牢に向かう。
ゆっくり、ゆっくり座敷牢に向かう。
ウグイス張りの床の音も、ゆっくりテンションの低い音を奏でる。
「城崎さん」
覗き混んだ元座敷牢には誰も、何もなかった。
一体どうやって去ったのだ、私は床の音に気づかない程、眠りこけていたのか?
涙が溢れてきた、あんまりだと思った。
一言も言わず、お礼も言わせず行くなんて。
「城崎さん」
私は涙声で呟いた。
「はい」
「城崎さん?」
「は、い」
苦しそうな返事が部屋の入口脇にあるトイレの中から聞こえてくる。
「時間です、よね、解ってるんですけど、お腹が……いや、新田さんの料理のせいではないですよ、新田さん平気なわけですから、美味しかったし」
腹痛?黒い寸胴の効力だろうか?
「荷物どうしました」
「トイレです、荷物担いだら、痛くなった、ので、トイレの広さに、感謝します」
最早苦しすぎてか、よく解らない事を言っている。
「現地視察、一人作業なら今日は休みます?会社に電話しますよ」
城崎は長い沈黙の後、苦しそうに、お願いしますと言ってきた。
「元座敷牢何かじゃない部屋用意しますから、移ってくださいね」
「いえ、本当に気に入ってしまったので、是非ここで、水回り揃ってますし」
本当に気に入った、と言うことは案内された時は、やはり気味悪かったのだろう。
もしかしたら寝れなかったのかも知れない。
だから私の助けを求める声が……私は昨日の城崎を言葉を思い出す。
雪の外に味方がいる。
「本当は座敷牢は使われた事ないですから、ご飯お腹に優しいの作っときますね」
私は、努めて平静を装い答えて、元座敷牢を後にする。
床の音は軽くスキップでも踏んでるかの様に、軽快に鳴っていた。
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