第7話

文字数 2,661文字

私は咄嗟にスマホを切って振り向いた。
彼は玄関にあった雪かき様の鉄製スコップを持って歩いて来る。
ぞっとした、スコップで私を殴って 、坂井の居場所を喋らせるつもりだろうか。
もう、スノーモービルを引っ張り出す余裕はない。
しゃがみ込みそうになる自分に、あがらう様に私は強く拳を握りしめ、一度グッと肩に力を入れてから、手と肩を脱力させた。
効果があるとは思っていなかったのに、不思議とそれだけで、余分な力が抜けて行く。
身体も心も、うずくまる事を嫌がっているのが解る。
怖くてたまらないのに、反抗したがっている。ここへ来て一年程たった私の心が、力を取り戻しつつあるのかも知れない。
体から力みが抜けたのを確認して、私は手に持ったカンジキを素早くはいて裏庭の向こうに広がる雪原に向かって走り出した。

私のやる事は、恵子さんが逃げる為の時間稼ぎと、男をまいて逃げる事。
男が追って来る気配がする。
私は振り帰り、男との距離を確認する。
20m程後方を膝下位を雪に埋もれさせながら、鉄製のスコップ片手に追いかけてくる。
私を殴る為の凶器を握り締めて走ってくる。
男の姿を改めて確認すると恐怖が沸き上がって来た。
それでも身体は止まらない。
私の身体は反抗心を保っている。
「日菜の居場所教えてくれれば、許してあげるから」
男の楽しそうな声が聞こえて来る。
気持ち悪い、追い付かれる訳には行かない。
恵子さんが逃げる為の時間を稼がなければ、恵子さんに危害が及ぶのは耐えられない。
恵子さんは大切な人、私の手をしっかり握ってくれている人。
大丈夫勝算はある、ここは幼い頃、散々遊んだ私の庭だ。
大丈夫。
自分に言い聞かせて走った。
雪の下の地面の状況は手に取る様に解る。
私はわざと雪の下に隠れた窪み、岩、段差の上を走る。
男は私の走った上を綺麗にトレースしながら走ってくる。
当然だ、私が踏みかためた上を走るのが、一番走りやすいと普通は考える。
しかし、カンジキをはいた私の足は地面まで雪を踏み抜かない。
地面の状況に左右されない。
男の足は、今日の雪の深さなら確実に、足が地面に到達する。
私は振り返り男を確認した。
男は窪みによろめき、岩にけつまずきながら追いかけて来る。
私との差は徐々に広がっている。
50m程は差がついていた。
私は右手に見える山の位置を確認して、左へ直角に進路変更した。
私の足跡は直角三角形の2辺目を絵描く。
男はきっと最短で私を追いかけて来る。
雪原に直角三角形の斜辺を足跡を描いて走って来るはず。
斜辺上の雪の下には、なだらかな窪地に笹ヤブが広がっている。
雪ごと笹を踏み抜けば膝上辺りまでは埋まる。
まともに走れなくなる。
そうなれば、スノーモービルのある家の納屋まで、取って返すだけの十分な差が出来る。
私は男が走って来ているはずの、斜辺上を振り返ってギョッとした。
男は私の後を愚直に追いかけて来ている、しかも私の走った上ではなく、直ぐ横を平行に。
男は笑みを浮かべている。
完全に見透かされていると考えていい。
これでは、ほとんど地形の有利さが失われたに等しい。
後は、カンジキと私のスタミナにかかっている。
私は、更に左に直角に曲がった。
窪みを中心に折り返し、家にある納屋を目指す。
納屋からスノーモービルを引っ張りだして逃げるには、男との差は50mは欲しい。
だるい足を懸命に動かす。
先程からポケットのスマホが呼び出し音を鳴らし続けている。
きっと恵子さんだろうが、出ている余裕はない。
恵子さん達は逃げただろうか。
その目的だけは達成出来て欲しかった、私は多分無事ではすまないだろう。
そんな事を簡単に思えてしまう私に驚いた。
人を思う強さを手に入れたのか、恵子さんの存在に命を依存させているだけなのかは解らなかったが、覚悟だけはして私は走った。
息が切れ始める、足が重い、後ろを振り返る余裕もない、なにより怖くて振り返れなかった。
裏庭は目の前だと言うのに、男の息づかいと足音が、かなり近くに感じる。
家の裏庭に踏み込んだ辺りで、男の影が私の左後方に長く伸びているのが目に入った。
直ぐ後ろにいる!
影が振りかぶった。
私は咄嗟に振り返りながらしゃがみこむ。
私の頭のあった辺りを斜めにスコップが空を切り雪の上を叩く。
力一杯空振り、バランスを崩した男の腰に、何かがタックルした。
坂井だった。
「やっと見つけた」
恵子さんが、私を立ち上がらせる。
何故戻ってきたのだ、これでは意味がない。
坂井を振りほどいた男が、坂井の頭をスコップで横殴りに殴りつけた。
カン、と空き缶を蹴った様な音が鳴り響き、坂井の頭から鮮血が飛び散る。
よろけて家の壁に寄りかかり、そのまま屋根の庇の下に、うずくまる坂井。
「ごめん」
男は予想外に慌てて、謝罪の顔を全面に押し出した。
男がスコップを放り出して、坂井に駆け寄ろうとする。
きっと自分の衝動に振り回されては、後悔する事を繰り返しているのかもしれない。
同情はしないが、哀れな男だと思った。
私はスコップを拾い上げると、屋根の庇の下にうずくまる坂井に、駆け寄る男の背中越しに屋根の縁を叩く様にスコップを投げた。
屋根を叩いたスコップが落下するのに合わせて、屋根の上に積もった雪が雪崩をうって、駆け寄ろうとした男と私の上に降って来る。
最近よく雪に埋まる。
しかし、埋まったのは男だけだった。
私は、埋まる前に誰かに抱き寄せられていた。
私を抱き寄せた男は、服越しにも解る細身の筋肉質の身体で、180cm以上はあった
「葉太遅い!」
「無茶言うな、救急車呼んで」
恵子さんに葉太と呼ばれた男は、私を恵子さんに預け、脇から下を雪に埋もれさせ男の腕を後ろ手に、自分のベルトで締め上げ雪から引っ張り出し、身動き出来ない様に抑えつけた。
男は抑えつけられながら、坂井を心配したり、怒鳴ったり、謝ったり、一緒に帰ろうなどとほざいている。
病気としか思えない。

屋根の庇の下にいた為、雪に埋もれなかった坂井は私が駆け寄ると抱きついてきて、泣きながらひたすら謝っていた。
彼女にとって私達に嫌われる事は、希望を失うに等しいのだろう、だから男に立ち向かったのだ。
恐ろしい筈なのに。
希望を失わない為に立ち向かったのだ。
きっと私と同じだ。
しょせん自分が、かわいいだけなのだ。
私は坂井を抱きしめた。
「みのりちゃんは、大丈夫」
恵子さんが心配そうに声をかけてきた。
私は心配させたくない一心で、笑顔を作った。
「大丈夫です」
何故か、恵子さんが不安そうな顔を見せる。
あれ?何で?
葉太と呼ばれていた男も私の事をじっと見ている。
私は何かおかしな事を言っただろうか?
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