第6話

文字数 1,859文字

それからは、慌ただしかった。
兎に角一旦、恵子さんの家に避難する事になった。
坂井は報復を恐れて、警察を嫌がっていたが、何とか説き伏せ警察も呼ばなければならない。
念のためタクシーも呼んで。
いつ以来だろう、目まぐるしく頭を働かせる。
第3設計部に配属される前の、充実していた日々を思い出す。
クライアントの設計変更依頼、現場対応不可案件等、楽しい程何かと戦い続けていた。
あの頃の事を思い出したら、不思議と肩の力が抜けて行く。
頭が働きたがっている。
私は、またあの頃の様に生きて行けるだろうか。
いつか、この静かな雪の中から這い出せるのだろうか。

「恵子さん、坂井さんと先行って下さい。私、戸締まりして行きます」
まずは2人を裏庭に送り出す。
混乱気味に荷物を抱える坂井を、恵子さんは裏庭へと引っ張って行くとスノーモービルの後部座席に乗せる。
スノーモービルなら恵子さんの家迄あっという間につく。
恵子さんと坂井の乗ったスノーモービルが家の裏の雪原を走らせる音が響く。
後は私が玄関脇の納屋のスノーモービルを引っ張りだし家の裏の雪原を、恵子さん宅へ向かうだけだ。
万が一、道で出会ってしまったらたまったものじゃない。
特に今日は天気もよく道路の除雪は終わっている。
その気になればタクシーで気軽に乗り付けられる。
あくまでも万が一だ、こんな所まで本当に追いかけて来るのは想像しづらい。
正確には追いたくても、直ぐに追える場所ではない。
町の中心部は隠れ過ぎた温泉地である、町にたどり着くには、市に通じる道路以外、かなりの労力がいる。
電車一本違えば、もう、次の日にしかたどり着く事は出来ない。
市からの道も除雪車でもない限り、冬の時期は危険で、タクシーどころか、地元の人間でも行き来しない。
坂井と同じ電車に乗ってない限り、このタイミングで現れるのはあり得ない。
私はスマホとスノーモービルの鍵をポケットに突っ込み玄関を出る。
「すいません」
「え?」
推定身長180cm、細身、綺麗な顔、不気味なほど白い綺麗な顔。
玄関を出た私の目の前に、男がいた。

「坂井日菜呼んで下さい」
綺麗な笑顔での要求、問いかけではなかった。
私は言葉が出ない。
一体どうやってたどり着いたのか。
出会ってしまった、嫌な汗が吹き出して来る。
「坂井日菜呼んで下さい」
さっきと全く同じ抑揚、変わらない表情で彼は繰り返した。
この男の張り付いた表情、テンプレートの様な声の抑揚。
感情の在り方が普通じゃない感じが見え隠れしている。
彼女を事あるごとに殴った様をリアルに感じる事が出来る。
話で聞く以上の状況だったに違いない。
彼女に死を意識させる程の暴力。
震えが背中をかけ上がった。
逃げなければ
恐らく男は状況を把握している。
GPSの消えた位置に民家は一軒、私の家に居なければ、消えたタイミングを考えると、道ですれ違う以外、恵子さんの家にいる事は想像出来るだろう。
彼は私が沈黙する間に笑顔を微塵も崩さない。
こちらの出方を待ってる、粗を探す様にじっと私を見ている。
第3設計部にもいた、同じ様な奴が。
人から情報を盗み取ろうとする嫌な奴。
「考えてますよね」
痺れを切らしたのか、男が口を開いた。
「家、上がってもいいですよね?」
男が口を開くたび、私の気持ちは暗い所へと落ちて行く。
坂井の頬のアザ、第3設計部の男達、そんな映像が頭の中をぐるぐる周り始める。
さっきまで働きたがっていた頭が、なりを潜め、体が強ばっていく。
気持ちが奥底へと沈み込んで行く。
歯の根が噛み合わなくなる。
それでも、最後まで沈み込みきらなかったのは、やはり恵子さんの存在だった。
恵子さんを傷つけたくない。

恵子さんに連絡しなければ、しかし体も顔も頭の中も、より強ばって身動き出来なくなっていく。
私を観察していた男は、身動き出来ない事を見透かした様に目を細めて、より笑顔の様なものを強めた。
「お邪魔しますね」
私の脇を悠々と通りすぎ、勝手に家に入り込んでいく。
ここの捜索が終わったら、次はきっと恵子さんの家だ。
この男は何をするか解らない。
恵子さんに危険が及ぶのだけは絶対耐えられない、私の支えを失う訳にはいかない。
私は奥歯を強く噛みしめ、言うことを聞かない体を無理矢理動かし、玄関に置いてあった、カンジキを引っ付かんで、ぎこちなく走った。
納屋から、スノーモービルを引っ張り出して、それから、あれ?何でカンジキ持ってるんだろう、私は必死にやる事を考えた。
走りながら、恵子さんにスマホで連絡する。
「来ました、逃げて」
「何処へ?」
静かだが、よく響く声が後方から聞こえてきた。
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