4 近代と前近代の間

文字数 3,442文字

4 近代と前近代の間
 『坊っちゃん』受容の歴史において最初は物語、後に主題へと重心が移動している。叙事詩は、主題から解釈する時、道徳的教訓を持つため、寓話となる。『坊っちゃん』以後の学校を舞台とした作品は、教師が近代的職業人として行動する。そのため、諷刺的・百科全書的な傾向がある。一方、坊っちゃんにはそうした自覚が希薄である。しかも、彼はほかの登場人物の多くをあだ名で呼んでいる。このニックネームは必ずしも学校内で共有されていない。それは坊ちゃんの価値観に基づく寓話的・エピソード的な面が強い。ただし、坊ちゃんは清をあだ名でなく、名前で呼んでいる。それは彼女が彼にとって価値観を共有していると思われているからである。

 『坊っちゃん』のセンテンスには「……から、……」や「……ので、……」などといった並列的な構文が多い。「なぜならば」と理由が説明されない。これは理由を示すのではなく、前提から結論を導き出す論法である。ユークリッド幾何学の証明の手順を思い出せばよい。ただ、文章は、時として、論理的に飛躍している。語り手にとって関心のないものごとは、読み手がどう思おうと、省かれている。

 小森陽一は、「『坊っちゃん』の〈語り〉の構造-裏表のある言葉」において、この作品の語りを「私的言語」と「公的言語」という観点から分析している。だが、こうした公私の区別は近代的原理であり、『坊っちゃん』の読解には適さない。語り手は自分自身に述べている。しかし、それはモノローグではない。坊ちゃんの道徳観は勧善懲悪など前近代的である。その規範は共同体で共有されている。これを前提に語っているのだから、自分に述べることは共同体にそうするのと同じである。私的言語と公的言語の区別などない。

 文章構造は洗練されておらず、全体的な配慮やダイナミズムに欠けているが、極めてスピード感に溢れている。けれども、それは決してスタンダールのような軽やかさを持っていない。むしろ、スピードをもてあまし、不器用ですらある。主人公の心理的奥深さ、すなわち遠近法的印象を感じさせないのは、並列的な構文による一人称の語りにあることは明瞭である。この語り手は告白や私小説のそれとは異なり「なぜならば」と内省を始めない。ある前提から結論が導き出されるが、その間には飛躍がしばしば認められる。それは一つのカオスを提示している。『坊っちゃん』はそのカオスを描いた叙事詩である。

 叙事詩という様式によってその論理や倫理はたんに前近代的のみならず、後に述べるように、古代ギリシアに隣接している。そこにあるのは狂騒であり、過剰であり、坊っちゃんはディオニュソス的である。清はゼウスに棄てられ、ディオニュソスの妻となったアリアードネだ。

 漱石の作品に落語や漢文学、江戸文学などの影響があることは認められる。落語と漱石の文学とを検討する試みが行われ、その要素があると指摘されている。だが、落語の文体は、三遊亭円朝の影響を受けた二葉亭四迷の『浮雲』第一編のよういに、町人文化に基づく粋な言葉遊びが不可欠である。むしろ、『坊っちゃん』は講談の文体に近い。もちろん、講談を元にした釈ダネの落語の語りが適切だろう。主人公坊ちゃんは直情的であっても、粗忽者でもなく、歌舞伎の助六を思い起こさせる。

 柄谷行人は、『意識と自然』において、アナクロな坊っちゃんをドン・キホーテであると次のように述べている。

 坊っちゃんとはドン・キホーテである。すなわち、女中のお清との間にのみ存在しえた「正義」や「秩序」を、現代社会のなかでなんの疑いもなく生きようとするドン・キホーテである。もとより、坊っちゃんのなかにあるものがすでに神話にすぎないことを漱石が心得ていることは明らかなので、『坊っちゃん』が今もわれわれにとって魅力を持つのは漱石の痛切な自己認識によるのである。

 確かに、坊っちゃんは近代的な「正義」や「秩序」にしたがって生きていない。これに限らず、漱石の作品は、正宗白鳥を筆頭にした当時の文壇にとって時代錯誤的である。坊っちゃんは、その意味で、ドン・キホーテであろう。

 しかし、『坊っちゃん』を完全に前近代的と見なすのは早計である。この作品は学校を舞台にしている。近世の名残りが依然濃厚な地方であったとしても、学校は文明開化の近代を感覚的に認知させる空間である。校舎一つとっても周囲の建築物と異質だ。人々の意識は急に変わるものではない。近代的制度が整備されても、近世の規範が人々の間ではまだまだ共有されている。1920年代に入ると、近代的な認識が社会にほぼ浸透している。だから、1900年代、近世の規範が世の中で薄まりつつあったことは確かでも、坊っちゃんは「女中のお清との間にのみ存在しえた『正義』や『秩序』を、現代社会のなかでなんの疑いもなく生きよう」としているわけではない。学校という近代を象徴する空間と前近代的な規範を引きずる主人公のアンバランスが当時の時代を具現している。そもそも坊っちゃんの辞職に至る行動は、清を考慮しているのではない。

 『坊っちゃん』は、漱石が『ドン・キホーテ』を評価していたことは事実だが、柄谷が指摘するようなドン・キホーテ的ではない。ミゲール・デ・セルバンテス・サベードラ(1545~1616)の『ドン・キホーテ』(原題『才智あふれる郷士 ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)は前編が1605年に、後編が1616年に発表されている。スペインのラ・マンチャ地方の郷士キハーノは、騎士物語を読み耽ったあげく、自ら騎士ドン・キホーテと名乗り、従士としてサン・チョパンサを従えて、世の中の不正を正すために諸国歴方の旅へ出る。風車を巨人に、宿屋を城に、漕役刑に向かう囚人たちを暴政の犠牲者にし、破れても、打たれても、悪を見出だして邁進するドン・キホーテは、いわゆる現実主義的なサン・チョパンサととぼけた会話をしながら、冒険をする。

 セルバンテスは、『ドン・キホーテ』前編第4巻28章において、ドン・キホーテについて次のように書いている。

 いとも大胆な騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを世に送った時代こそ、まことにたのしい、幸福な時代であった。なぜかと言えば、すでに凋落して、ほとんどほろびていた遍歴の騎士なる制度をよみがえらせ、世の中に再現しようという、じつにけなげな決心を彼がいだいたおかげで、この心浮きたつ楽しみ少ないこのわれらの時代に、彼の実録の面白さばかりか、部分的には物語そのものに劣らず楽しい、技巧と真実に富んだ、実録の中に現われる短編や神話の面白さをわれわれはいま存分に味わうことになったからである。

 『坊っちゃん』の語りにこうした意識的な姿勢はない。『ドン・キホーテ』における語り手と書き手の関係と『坊っちゃん』のそれは異なっている。『坊っちゃん』には、『ドン・キホーテ』に見られるようなノスタルジーがない。繰り返しになるが、『坊っちゃん』は学校を舞台にし、『ドン・キホーテ』以上に過去と訣別している。『坊っちゃん』が勧善懲悪のパロディーとするならば、武士を主人公にするはずで、このような設定は不必要である。

 ドン・キホーテは、セルバンテスの自覚に基づいて、ロマンスのパロディーとしての性格を担っている。他方、坊っちゃんは、漱石がこのような自覚を書き表していないように、勧善懲悪のパロディーにふさわしい性格ではない。『坊っちゃん』は曽我兄弟の仇討とかけ離れている。オデュッセウスやアキレウスのように、坊っちゃんの怒りは怒りであり、恨みには転化しない。勧善懲悪は共同で共有されている規範の認める善が報われ、悪が罰せられるというものだ近世を舞台にした落語なら、『唐茄子屋政談』のように、これは「政談」として扱う。お白洲の部分が省かれたとしても、法を盾にして行われる悪行に対しては主人公の義憤にかられた行動は名奉行の頓智頓才によって情状酌量される。ところが、坊ちゃんは伝統的規範の認める恩返しや孝行をしているわけでもなく、自己完結していて、パロディーになっていない。だから、「ドン。キホーテ」は無謀な戦いを挑むことを始めとして比喩として用いられるが、「坊ちゃん」にそうした用法はない。

 このように、『坊っちゃん』は前近代に代わり近代が広まりつつあった時代的・社会的背景を具現した作品である。失われたものを懐かしむ作品ではない。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み