9 坊ちゃんと力への意志

文字数 3,457文字

9 坊ちゃんと力への意志
 『坊っちゃん』についてニーチェを援用して分析をしてきたけれども、今までの漱石受容の歴史から考えると、これはいささか逸脱した試みであろう。漱石がニーチェの『ツァラトゥストゥラ』を英訳で詳細に読んでいたことは知られている。しかし、彼がニーチェに関して言及する際、必ずしも肯定的ではない。

 しかし、そうした意見と裏腹に、漱石がニーチェに極めて隣接していたことは、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を執筆していた時期の1905~06年の断片が、次のように告げている。

 二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのぢや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己れを調節する機械ぢや。自らを抑へる道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷けぬ為め自己の体に油を塗りつける(の)ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人は勝てる訳はない。--夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫王常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪、邪正、当否の問題ではない--power デある。--willである。

 ここで漱石は「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という生物の存在要請の根源として意識ではなく、「power 」、すなわち力や「will」、すなわち意志の問題を見出している。漱石は生命活動の中で論理や倫理を把握している。この世界には多様な差異が現われ出ているが、それを可能にしているものとして漱石は「意志」や「力」を認めている。より強く生きようとする力、すなわち生命体としての存在要請はその身体や環境に応じてさまざまな形になる。そうした生命体のより強く生きようとする根本的な衝動こそが、ニーチェの言う「力への意志」である。

 『虞美人草』や『こころ』など、『坊っちゃん』以後の作品は、必ずしもニーチェ的ではない。ただ、少なくとも、この時点では漱石はニーチェ的な「力への意志」の思想を保持している。何から影響を受けたのか否かということの真偽をめぐる議論以上に、思想が彼石に何をもたらしているのかということを考察するほうが有意義である。それは漱石が、ニーチェ的な哲学に隣接することによって、いかなる生の世界へと誘われているのかということだ。

 漱石は、『坊っちゃん』以後も、生きることとは何かではなく、生きることを可能足らしめているものは何かという問いを据えているように思われる。漱石は、この点では、ニーチェと問題を共有している。そうした彼のニーチェ読解は、今日的に見て、和辻哲郎などよりもはるかにすぐれている。ニーチェを理解するためには古代ギリシアがわからなければならない。だが、それに関する認識は、ニーチェから影響を受けたとされるものには、あまり見受けられない。一方、漱石の場合は、主人公坊っちゃんが彼の古代ギリシア的な世界に関する認識を体現している。理論として述べているわけではないが、作品がそれを思想として示している。

 坊っちゃんの卒業した物理学校は1881年に創立した東京物理学校(現東京理科大学)のことである。坊っちゃんは1902年(明治35年)9月に入学し、05年7月に卒業している。ここは、小野一成の『「坊っちゃん」の学歴をめぐって-明治後期における中・下級エリートについての一考察-』によれば、入学はやさしいが、進級・卒業はなかなか大変な学校である。坊っちゃんは、落第を一度もしていないことから、優等生ということになる。当時は正規の教師の絶対数が足りず、坊っちゃんのような無資格教師が多くいる。小野一成によると、坊っちゃんが、教師をやめた後、東京市街鉄道株式会社の技術職員になったことは、その学歴から考えても、妥当である。物理学校は、主に、教員と技術者を輩出している。

 有名な書き出し「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」は坊ちゃんの父が職人であることを伝えている。ただし、女中がいるのだから、おそらく父は落語『三軒長屋』の頭ではない。近代化に適応したエンジニアだろう。「殖産興業」を掲げる明治政府は近代的科学技術に通じた技術者やそれを現場で担う職工を育成するための高等教育機関の設立を進める。職人の息子がそうした方針の下にある物理学校に進学することは不思議ではない。鉄道は文明開化の象徴であり、いまだ不定時法の習慣から抜け出せない日本社会において定時法を順守しなければならない世界である。教員を経た物理学校の卒業生が就職するにふさわしい。

 東京の小学教師の月給は、巡査などと同じく、10~13円くらいで、坊っちゃんの教師時代の給料40円は明らかに高額である。だが、それは、教師不足の地方にあって、教員確保のための優遇策である。また、辞職後についた技師の36円は、当時帝大卒の第一銀行の行員の月給が35円であったことを考えれば、決して安くはない。40円が高すぎる。付け加えると、鉄道技師は必ずしもブルー・カラーではない。『大阪朝日新聞』には、阪堺鉄道開通の際、鉄道員の制服が着たいという理由で、あるブルジョアが雇ってくれないかと願い出た--会社側が彼を丁重に断っている--記事が載ったくらいである。

 こうした点からも、坊っちゃんは文学や哲学には明るくはないが、数学や科学といった領域にはなかなか向いているプラグマティックな人間だということが明瞭になろう。坊っちゃんが知性を感じさせる所以はここにある。

 その坊ちゃんを古代ギリシア的と指摘したが、漱石は、むろん、『坊っちゃん』によってプレ・ソクラテスへの回帰を促しているわけではない。

 ロンギノスは、『崇高について』において、自分の生きている軍政ローマの時代と古代ギリシアを比べて、次のように憧憬をよせている。

 子どもの幼い四肢を緊縛することによって、その一生を小人にとどめることができるのだが、それと同じだ。われわれの若い精神は、奴隷的偏見と慣習によって拘束され、みずからを拡大することが不能で、古代人の円満美妙の偉大に達しえない。古代人は人民本位の政治のもとに生活していたので、その行動と同じ自由をもって著作したのである。

 漱石は、ロンギノスと同様、「古代人」、すなわち古代ギリシア人のような精神に憧れている。古代ギリシア人はコスモロジーを持っている。それは生への意欲が導き出したものである。古代ギリシア的世界に目を向けるならば、自分自身の生に向き合わざるを得ない。人は、その時、より高い生を創造することを求めるようになる。

 坊ちゃんが古代ギリシア的ということは、先に述べた彼の規範意識が近世的であることと矛盾しない。それは、規範意識が近世的であるけれども、その認知行動は古代ギリシア的ということである。

 こうした認識を欠いた読解として、土居健郎の「漱石文学における『甘え』の研究」を挙げることができる。彼は坊っちゃんと清の関係に「甘え」が見られると言う。しかし、それは我田引水でしかない。清は坊ちゃんをあるがままに肯定する。そこにはいルサンチマンがない。彼女は、ロンギノスが「古代人」に対してそうしているように、坊っちゃんに対する憧れの圏内に生きているのであって、彼女が語っているのは夢である。それは坊っちゃんという強きものへの憧れが発しているのであり、生の感触として表われているものである。清は坊っちゃんとともに生きられたことに感謝・満足している。坊っちゃんを「駱駝」や「獅子」のレヴェルではなく、「幼な子」としてとらえている清の倫理や論理は、坊っちゃん以外の他の四つのカテゴリーの中で、生に対する「聖なる肯定」を向いており、最も健康的だ。「赤シャツと野だ」・「生徒たち」・「うらなりや山嵐」・「清」の四つのカテゴリーが大なり小なり近代的な倫理や論理を持っている。対して、主人公坊ちゃんは生命活動の中で「力への意志」によって倫理や論理を育成している。このため、近代にとらわれていると、扱いにくい。

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