3 『坊っちゃん』とジャンル

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3 『坊っちゃん』とジャンル
 このように分類を意識していた漱石の『坊っちゃん』も文学ジャンルに属している。しかし、この作品がジャンル論から読まれることはあまりないように思われる。『坊っちゃん』は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に代表される一人の人間の成長を描く教養小説とは異なり、物語が終わりを迎えても、主人公には精神的な発展性がない。精神的変化は、近代小説とは違い、関心ではない。『坊っちゃん』は、言ってみれば、叙事詩である。けれども、

 アリストテレスの『詩学』を踏まえるなら、叙事詩と抒情詩は、通常、世界に対する視点の違いによって区別する。前者は支店が世界の外部ないし境界に位置し、語りの声は客観的である。他方、後者は支店が世界の内部にあり、声は主観的である。詩に限らず、この観点に~分類すると、物語は叙事詩的、演劇は抒情詩的である。付け加えるなら、落語は前者、漫才は後者だ。ここでの叙事詩は、登場人物の内面ではなく、出来事の展開に重心が置かれていることを意味している。抒情詩を内面指向とすれば、叙事詩は出来事指向といった区別である。実際、近代詩は抒情詩が圧倒的で、叙事詩は実質的に散文に吸収されている。

 なるほど、『坊っちゃん』は英雄や神々の世界とは無縁である。主人公の坊っちゃんは、アキレウスやオデュッセウス、ツァラトゥストゥラに比べれば、はるかにスケールが小さい。彼は神でも、英雄でもなく、中学校の一数学教師である。清はオデュッセウスの妻ペーネロペイアには及ぶべくもない。舞台もトロイ戦争のごとく壮大ではなく、主に四国松山である。また、『イリアス』はヘクトルの葬儀のシーン、『オデュッセイア』は女神アテーネーがオデュッセウスを諭すシーンによってそれぞれ、終わりを告げる。『坊っちゃん』のエンディングは、それらに比べると、あっさりしている。そこからは亡くなった清の墓が養源寺にあることが書かれているだけで、赤シャツや野だ、うらなり、マドンナ、狸、山嵐だけでなく、坊っちゃんがどうなったのかもわからない。

 しかし、文学の評価基準を「カタルシス」(アリストテレス)とするか「エクスタシー」(ロンギノス)とするか、すなわち構築とするか過程とするかは、叙事詩的であるか抒情詩的であるかによって決定されるのであるし、また叙事詩の中にも、悲劇的叙事詩や喜劇的叙事詩、ロマンス的叙事詩、神話的叙事詩などさまざまな様式がある。涙をわきおこさせるものが悲劇であり、笑いを誘うものが喜劇であるという区別は素朴である。悲劇には共同体からの訣別・追放、他方、喜劇には共同体との融和・同化の傾向がある。プロパガンダ的な作品は、その意味において、悲劇的ではなく、喜劇的様相を呈している。『坊っちゃん』もかつて喜劇として理解されてきたが、今では悲劇として解釈する試みが主流となっている。そうした読解として片岡豊の『〈没主体〉の悲劇-「坊っちゃん」論』や有光隆司の「『坊っちゃん』の構造 悲劇の方法について」などが挙げられる。だが、それらは『坊っちゃん』をペーソスとして理解している江藤淳の考察を超えるものではない。

 江藤淳は、新潮文庫『坊っちゃん』解説「『坊っちゃん』について」において、『坊っちゃん』には「寂しさの認識」にとどまらず「帰るべきところ」を「渇望」する「暖かさ」が「底流」していると次のように述べている。

 その言葉は、ほかの誰の言葉でもない漱石の生得の言葉である。つまりそれは醇乎たる江戸弁である。排他的で、リズミカルで、やや軽佻浮薄な趣きがなくもない江戸ッ子弁。そういう言葉でしか語らない坊っちゃんという一人称の主人公を登場させたとき、漱石はそれと同時に、ためらうことなく堂々と勧善懲悪の伝統を復活させてみせた。これはいうまでもなく、二十年前に坪内逍遥が『小説神髄』で説いた近代小説理論への反逆であり、近代以前の小説がその上に基礎を置いていた価値観への復帰である。
 私はかつて、主人公坊っちゃんの原型を江戸期の文芸のなかにたずねるなら、たとえば近松の『国性爺合戦』の和藤内があり、さらにこの系譜を遡れば、近松以前に江戸で流行した「金平浄瑠璃」の主人公にまで行きつくかもしれない、と書いたことがある。この主人公は思慮が足りないが勇壮活溌で、腕力にまかせて勧善懲悪をおこない、結局悪党を退治するのである。
 『坊っちゃん』の善玉たるわが坊っちゃんと山嵐も、紆余曲折の末悪玉の赤シャツと野だを退治する。坊っちゃんの倫理観は単純明快、その行動は直情径行で、インテリ特有の計算や反省などは薬にしたくもない。いうまでもないことながら、英国帰りの大インテリである漱石がこのような主人公を創り出した意味は決して小さくはない。漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼き刃にすぎない。人は決して、そんなものによって生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代が与えた価値ではない。……
 しかし、作者漱石は、同時にこのような立場が、無限に敗れつづけなければならぬ立場であることを熟知していた。(略)坊っちゃんも山嵐も、赤シャツと野だを退治こそするが、実はよく考えてみれば単に腹癒せをしたというにすぎない。勝ったはずの二人は辞表を出して「不浄の地」を離れなければならなくなり、おそらく赤シャツと野だは恬として中学校を牛耳りつづけるだろうからである。

 学校を去るのが「善玉たるわが坊っちゃんと山嵐」であり「悪玉の赤シャツと野だ」ではない。『坊っちゃん』は、勧善懲悪という主題から考えるなら、大団円で終わらない。主人公坊っちゃんに「偉大さ」がないと、『坊っちゃん』に対抗して書かれた石川啄木の『雲は天才である』は、啄木自身の教師生活をモデルにして主人公が同僚の女教師や生徒と協力して悪玉の教頭グループを追放するというプロットで、勧善懲悪をモチーフとしている。両者は舞台設定では似ているが、まったく正反対の主人公と結末をしている。『雲は天才である』は、『坊っちゃん』に比べて評価できるものではないが、それは勧善懲悪に対する姿勢のせいではない。

 漱石が、『虞美人草』が示しているように、「勧善懲悪の伝統」を意識していたことは認められる。政教分離に伴い、近代は価値観の選択が個人に委ねられている。近代文学も、当然、従来の規範に従う必要はない。勧善懲悪は共同体が認めてきた価値観に沿っており、個人主義の近代文学にとって打破されるべき因習でしかない。しかし、勧善懲悪を主題にすることによって、作品のおもしろさが損なわれるとは限らない。ミステリーには勧善懲悪が入りこんでいるが、そのことによって、話のおもしろさが相殺されることはない。概して推理小説は謎解きが魅力で、「善とは何か」とか「悪とは何か」などどさしたる課題ではない。それは真の原理と美の原理に基づいている。『勧善懲悪に対するアイロニーをテーマにしたパロディー的な作品のほうが作者のシニカルな態度によっておもしろみがないことも少なくない。

 『虞美人草』が魅力に欠けるのは、正宗白鳥が指摘したような勧善懲悪をテーマにしているからではない。そこに出来事が人間を規定しそして発展させるというダイナミズムが欠けているから、すなわち登場人物が動きの中におかれていないからである。例えば、スタンダールの作品の登場人物は類型的であるけれども、それによってその魅力が損なわれることはない。スタンダールの作品はダイナミズムが魅力なので、それが基づいているのは美の原理だからだ。

 『坊っちゃん』が基づいているのは真の原理ではなく、善と美である。他方、『虞美人草』には美の原理はなく、真と善がある。また、啄木の『雲は天才である』は、『虞美人草』同様、それが基づいている原理に美も真もなく、善だけがあるために、作品からスピードを奪い、つまらなくしてしまう。『坊っちゃん』の場合、登場人物の性格描写は明快で、それが出来事を動かす。こういう性格の人だからこんな行動をするとして物語rが展開する。対して、『虞美人草』においては性格が出来事の動きと必ずしも連動していない。そのため、ダイナンズムが感じられない。

 江藤淳の解釈は、『坊っちゃん』に対してよりも、むしろ、クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティー・ハリー』にこそふさわしい。主人公ハリー・キャラハンの原型は、クリント・イーストウッドが『ダーティー・ハリー』主演以前に演じてきた西部劇の主人公である。キャラハンは悪党こそ退治するものの、映画のラストには警察のバッチを投げ捨て、「帰るべきところ」に帰っていく。そこには「寂しさの認識」にとどまらず「暖かさ」が「底流」している。

 文学的に言えば、ペーソスは等身大の主人公が共同体に参加しようとするにもかかわらず、そこから排除されるという形態のもので、バルザックの悲劇などに見られる。ところが、坊っちゃんは共同体への参与とそこからの排除といった形態ではなく、主人公は能動的に共同体から離れていく。その時間は回帰的ではあるが、敗北ではない。坊っちゃんは敗北したのだという判断は、ヘクトルの遺体を傷つけることを神々にとがめられたのだからアキレウスは敗北したのだとか、女神アテーネーにたしなめられたのだからオデュッセウスは敗北したのだという議論と何ら変わるところがない。

 叙事詩は、歴史的に、主人公が神から英雄、一般的な人間へと移り変わっていくと同時に、神話的物語からロマンス、さらにアイロニー文学へと移行している。『坊っちゃん』は、坊っちゃんの誕生に関する記述から始まって清の死に終わり、また主人公が精神的発展も遂げないことから見ても、ロマンス構造に基づいている。

 しかし、ロマンスでは華々しい英雄が困難を克服するのに対して、坊っちゃんは直面してもそれを解決できない。ところが、それが、坊っちゃんにとって、悔いにもなっていない。江藤淳の主張する「アーサー王伝説」といったロマンス的な叙事詩的なるものが影響を与えているかどうかはわからないが、『坊っちゃん』はロマンスのパロディーと考えられる。ただ、それはロマンス的世界に対する悪意を表わしたアイロニーではなく、いかなる失敗をも忘却することこそ望ましいとした茶番劇である。このように、『坊っちゃん』には、叙事詩やファルスの要素がある。

 日本における茶番は寄席で演じられる芝居のパロディーの意味である。狂言とは違い、あくまで元の芝居がある。一方、西洋においてファルスはキャラクターが変化しない仮面劇の一種で、喜劇と違い共同体との融和・同化を迎えることはない。しかし、ファルスは、悲劇とも異なり、その特徴である「道徳的な牽引と反発の感情が喚起され、捨て去られる」(フライ『批評の解剖』)ことはない。ファルスは、悲劇と同様、人間の生につきまとう根源的矛盾を提示するが、それを笑い飛ばす様式である。ファルスは、その結論からは、何を意味しているのかわからない特徴がある。

 フライは、『批評の解剖』において、ファルスを「喜劇の非模倣的な形式」と定義している。だが、悲劇の「非模倣的な形式」の場合もある。例えば、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』はイエスの悲劇としての福音書に対するパロディー、すなわち茶番である。なるほど『ツァラトゥストゥラ』に見られる「哄笑」はユーモアのさりげない笑いとは異質である。「哄笑」はユーモアと同じ目標を持っており、ユーモアのクライマックス的な笑いが「哄笑」である。高笑いと「哄笑」は違う。高笑いは高見に立って見くだす笑いである。ユーモアや「哄笑」に支えられているファルスはカーニバル的な要素があるが、サーカス的要素は乏しい。サーカスもカーニバルも仮面劇に属している。サーカスは、祝祭の雰囲気をもりあげる道化であるピエロがペーソスを誘うように、「喜劇の非模倣的な形式」である。サーカスは驚きによって演者と観客が認識を共有する。その上で、観客は空中ブランコの成功に拍手喝采する。そこには悲劇などおよび出ない。ところが、山口昌男の『道化的世界』や『歴史・祝祭・神話』などの論考は、中心的人物から見れば喜劇である世界を周辺的人物から認識することによって悲劇とすることを明らかにしている。それはスケープ・ゴートを生み出して共同体との融和・同化をはかる喜劇の持つメカニズムを顕在化する。言ってみれば、喜劇『ヴェニスの商人』をシャイロットの視点から悲劇ととらえなおすことである。

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