決行

文字数 8,199文字

それからしばらく二人で待った。

すると唐突に戸が開かれる。

藤井が不機嫌極まりない顔で現れた。

「日高、木本のとこの浪人と来たとはどう言う事や。浪人を入れる場合は木本からの連絡がいる」

藤井は二人の前に何の警戒も無く座るなり、いきなり切り出した。

「その木本からの連絡が不可能になったからこうして木本の所の浪人と参った」

藤井が伝之助をじろじろと見る。

「また変わった浪人やな。で、何があっ――」

藤井が言い終わる間もなく、日高に視線を戻した瞬間、白刃が煌めいた。

伝之助が座った姿勢から立ち上がり様に抜き打ちを放った。

藤井の胸から首、顔にかけて鮮血が広がる。
そのまま仰向けに卒倒した。

「……っ」

藤井は声を上げようとしたが口からは呼吸が洩れるだけであった。

「声を出せんようじゃの。丁度よか」

藤井は目を見開いている。

上体を起こして肘をつき、後ずさりしようとするが、上手く力が入らないようで滑っては倒れる。

「今までどげん悪行してきたか、全部は知らん。じゃっどんおいにしてきた仕打ちからしても、お前はこげんして斬られるに十分値する。挙句、薩摩にも弓引くとはの」

藤井は冷や汗を流しながら、ひゅうひゅうと呼吸する。

この包帯男はまさか……

謀ったな――藤井はそう思ったがもう手遅れだ。

日高を利用して薩摩の家老、松尾を討つつもりであった。
もちろん全てが終われば日高も消す予定であった。

日高は間違いなく松尾を憎んでいたはずだ。
松尾が薩摩を裏切ったと考えていたはずだ。
松尾を討つまでは共闘の姿勢だったはずだ。

それがなぜ……

一体どこで間違えた。
誰の手引きだ。

藤井は裏切り者を考えるが、あらゆる顔が次々と浮かびわからない。

多数の人間に恨みを買っている。
それは自覚していた。

しかしそれは奴らが弱いからだ。
踏み台にされ、利用されるのはその人間が弱いからだ。

そして自分は強い。
強き者が弱き者を喰らって何が悪いと言うのだ。
世の中とはそう言うものではないか。

強き者こそが欲を満たし、思いのままに生きられる。
自分はただ世の中の理に従い、常に強き側にいるよう立ち回っていただけだ。

強き側にいる為に多数の者を利用した。
命も奪った。
金にものを言わせてあらゆる欲も満たしてきた。

だからこんなところで終わる訳にはいかないのだ。
まだまだ生きながらえ、弱きをかっ喰らい、欲を満たして思いのままに生きていくのだ。

藤井はただただ己の最期を認めたくないよう逃げようと試みるが、上手く行かない。

助けを呼べずとも誰かが来てくれないかと願う。
そしてそれは無駄な事だと覚る。

この本宅から大きく離れた離れは、内密な話をする為に自身が作らせた。
加えてここに来るまでに人払いもしている。

大声を上げられたならまだしも、今ここで何が起こっているかなど誰も知りようがない。
精々いつも通り人に聞かれたくない話をしていると思われているだけだ。

「止めを」

日高の声が無慈悲に響く。

藤井はその声に絶望した。

伝之助が静かに言った。

「おいは大山伝之助じゃ。そん名を頭に刻み、黄泉ん国に行っても忘れんな。そん名に震え続け、地獄でおいに会うたこつを後悔せい」

伝之助は隼人丸を自身の頭の高さに持ってきて刃を外に向け、地面と平行にする。
天地流が室内で戦う為の刀法だ。

そのまま上体のみ起こした藤井目掛け、袈裟懸けに斬り掛かる。

体の力全てが乗った刃は、抵抗なく藤井の体を切り裂いた。

和紙で刀を拭い、納刀する。

日高が念の為藤井の喉を突いた。

「そげんせんでももう死んどる」
「念の為だ。確実に絶命しているだろうが、もう一度絶命させると万に一つもあり得ないだろう。俺達の活動に万が一は許されない」
「用心深いこつじゃ」
「それが俺がやって来た活動だ」

日高は懐から紙を出して屍となった藤井に投げた。
紙には「天誅」と書かれている。

「こいはないじゃ」
「他藩からの政治絡みの仕打ちではなく、恨みを買っての仕打ちと言う事を強調する」
「抜かりのなかこつじゃ」
「当たり前だ。さあ覚悟を決めてさっさと行け」
「覚悟なら遠に決まっちょる。ひっ飛ぶど」

にっと伝之助が笑う。

「ああ。ひっ飛ぼう」

日高も応えるように能面顔に片笑みを浮かべた。

普段表情を変える事をしない為か、その笑顔はとてもぎこちなかったのが笑えたが、伝之助はそれを見るなり勢いよく引き戸を開けて飛び出した。

忍ばせておくと言っていた小木の部下はすぐ目に入った。

あまりに勢いよく包帯男が飛び出してきたので、何事かと呆気に捕らわれている。
その様子を尻目に、伝之助は草履を履くなり駆け出した。

続けて日高も飛び出す。

「想定外の事が起きた。すぐに小木殿に伝えてくれ」

日高が草履をつっかけながら慌てた様子で小木の部下に言う。
もちろん演技だ。

しかし小木の部下は言われていた事と全く違う事態が起こっており混乱しているので、演技とは露程も思わない。
寧ろ想定外の事が起きたのは小木の部下だ。

「な、何を伝えれば……いや、それよりどうされた」
「火急の事だ。俺は奴を追う。小木殿に任務は果たしたが、想定外の事が起きたと伝えてくれ」

言うなり日高は駆け出した。

伝える事は言ったが、何一つ具体的な事は言っていない。
具体的な事は何一つないのだから当然だ。

しかし何事が起きたかわかっていない小木の部下は、何かを言われた気になった。

「承知した」

そう答えるなり小木の居る間に駆け出した。

日高はそれを見るなり伝之助の後を追う。

伝之助に追い付くと、二人で正門を目指す。

正門には小木に取り次いだ男がいた。
小木に取り次いだと言う事は小木の配下なのだろうと信じたい。

男はなぜこちら側に逃走してきたのだと思っているだろう。
困惑の表情を浮かべている。

「想定外の事が起きた。小木殿より正門から急ぎ出るよう言われた」

日高は現時点で出来るだけ騒ぎにしたく無かったので、門の前に男がいた事に安堵したが、この男が小木の配下でなく計画の根回しもされていないとなると厄介である。

強行突破も視野に入れないといけない。

伝之助も同様の考えか、場合によっては相手を斬るつもりであるようだ。

「し、失敗されたのですか」

どうやら日高の想定通り、小木の配下であったようだ。

日高を確実に小木に取り次ぐ役なのだから、適当な部下にはやらせていないはずと踏んでいた。

「成功はしたが裏手からは行けなくなった。藤井の配下が見回っており、小木殿の配下の者を配置できなくなったそうだ。そこで急遽正門に配下がいるのでその者の手引きで出られよとの事だ。その後すぐに森に駆け込む」

男は僅かながらに安堵したように見えた。
失敗したとなると自身の身も危うくなる。

「わかりました。そう言う事でしたらこちらへ」

男は正門横の勝手口を開ける。

「それではご武運を」

男は厭らしい笑みを浮かべて言った。

この男も森の中に小木の配下がいる事を知っているのだ。
そして日高と包帯男を始末すると言う情報も耳に入っているに違いない。

男のお蔭で門番には一切疑われなかった。

二人は駆け出す。

「上手く行き過ぎて不安になるくらいだ」

藤井の屋敷が遠くなっていくと日高が言った。

まだ騒ぎは大きくなっていないようだが、そろそろ小木の耳に入り慌て出すだろう。

正門にいた小木の配下の男は自身の失態に気付く事になる。
そしてあの厭らしい笑みを浮かべていた自身をさぞ間抜けに思うだろう。

遠くから人々が騒ぎ出す声が聞こえてきた。
どうやら気付いたようだ。

藤井の死に気付いたのか、小木が裏をかかれた事に気付いたのかは分からない。

しかしこうなった今は、小木も自身の配下だけでなく、藤井の配下達もその周囲の武家達も巻き込んで二人を討ち取ろうとするだろう。

「騒ぎ出したようじゃの。森に紛れっとか」
「いや、まだだ。森には既に配置されている小木の部下がいる。もう少し距離を取ってから紛れ込みたい」
「よか。そいじゃ、もっと速く走っど」

二人は速度を上げて走る。

鍛え抜かれた二人の薩摩隼人は、息を切らさず風のように駆け抜ける。

騒ぎにはなったがまだ混乱の最中のはずだ。
冷静さを取り戻し、動き出すまでまだ時がある。
それまで出来るだけ距離を稼ぎたい。
日高はそう思った。

藤井の屋敷はもう小さくなっている。

「もうすぐで武家屋敷が立ち並ぶ通りを抜ける。ここを抜けたら森に入ろう」

日高が伝之助に言い終わると同時に、どんっと音が鳴る。

足を止める事無く音の方を見ると一つの武家屋敷から男が鉄砲を構えていた。
中から別の男が出てくる。
その男も鉄砲を持っていた。

「日高、怪我はなかか」
「大丈夫だ。計画変更だ。すぐ右の角を折れて森に入ろう」

また撃たれる前に森に紛れないと、次こそは弾が当たらないとも限らない。

二人は森の中に駆け込む。
足を止める事無く屋敷と反対方向に走る。

そして武家屋敷の通りを走っていた時には気付かなかったが、森の中はやたらに騒がしかった。
多数の人がいるようである。

「小木め、これ程の人を配置していたのか」

人々が大声を上げる声は思った程遠くは無い。
多数の人員を広範囲に配置していたようだ。

「小木にこい程の人を動かせっとか。そいとも藤井はそげんに恨み買うちょったとか」

恐らく両方であろう。
小木を見縊っていた。
思いの外、藤井に恨みを買う侍達を味方につけていたようだ。

先程鉄砲を撃って来た武家屋敷の侍も、この事態にすぐ反応したわけではない。
予め武家屋敷方面に逃げ込んできた者を撃つよう、指示されていただけだろう。

「こうなると出来るだけ負傷者は出さずに行くと言うのは難しいかもしれん」
「遮るもんは斬るち言うこつじゃな」
「ああ」

二人とも刀を抜いた。

「おいらは二人、敵は何十、いや、何百か。おもしろか。ことごとく斬り伏せっど」
「面白がっている場合じゃない。相手にとって不足はないぞ。だがまあ、お前の言うとおりだ」

「よか」

二人してにっと笑う。

「怪しい二人がいるぞ!」

後ろの方で声が上がる。

二人は振り向く事無く走る。

「見つかったか」

瞬く間に後ろの方から人が追いかけて来る。

どんっとまた鉄砲の音が鳴る。

右手側に人が現れる。

伝之助は目視するなり距離を推し量った。

近付いて来るなら斬る。
そう思っていると何やら喚きながら近付いてくる。
瞬時に間合いを詰められる距離に入ってくる。

その瞬間ぱっと方向を変え、猛禽類が獲物に襲い掛かるよう、男に袈裟懸けに斬り掛かる。
男は刀を抜いていたが、振るう事無く斬られた。

伝之助は何事もなかったかのように日高の隣に戻って走る。

「一人目だな」
「斬る度にずっと数えっとか」
「いや、ただ言っただけだ」

後方の彦根侍は引き離されていく。
代わりに前方が騒がしくなる。

「まさか、ここまで配置していたと言うのか」

日高は、小木なら藤井の屋敷から近い所で勝負をかけると思っていた。
だから藤井の屋敷周辺に多く人員を配置していると思っていた。
しかし藤井の屋敷からも他の武家屋敷からも離れた位置に、ここまで配置しているとは思わなかった。

「今に始まったこつでもなか。敵中突破じゃ」

伝之助がにっと笑う。

少し息が弾んでいる。
さすがにこのまま走り続けるのはきついが、敵中を抜けるまでは息をつくわけにいかない。

前方に彦根の侍が現れる。

よく見ると浪人の様な者もいる。
彦根の侍なのか浪人を雇ったのかは分からない。
男達は十人もいないだろう。

「押し通るぞ」

弓矢を持った男が三人見える。

的を絞らせぬよう伝之助と日高は別方向へと逃げる。

男達はどちらを狙うか判断に迷う。
二人で来た効力が思わぬ所で発揮した。

伝之助は日高に狙いを定めようとする男に近付き、迷わず斬り掛かる。

男はぱっと伝之助の方へ矢を向けるが、時すでに遅し、男が振り向く前に斬る。

引き絞られた矢は目標を見失って、明後日の方向へ飛んで行く。

それを見た他の男が伝之助に狙いを定めようとすると、伝之助がやったのと同様に日高が斬り掛かる。

もう一人の弓を持った男は伝之助に狙いを定める。

伝之助は近くにいた刀を持った男に斬り掛かる。

弓矢の男は撃つ事に躊躇する。

刀を持った男は気を抜いていたのか、呆気なく斬られる。

二人は混乱の隙を突いて駆け抜ける。

「飛び道具が厄介じゃの」
「的を絞らせずに危ないと思ったら刀を持つ者に斬り掛かればいい。先程の様子からして奴らは同士討ちを恐れて撃てないだろう」
「そんようじゃの」

追手を躱し、逃げる。
前方に敵の気配はないが、後方にはまた彦根の侍が追って来ていた。

どんっどんっどんっと音が鳴る。

今度は複数で鉄砲を撃ってきているようだ。
距離としては遠いが、もはや鉄砲の乱射が伝之助と日高を討つ唯一の可能性を秘めている。

どんっどんっどんっと間髪入れずに撃って来る。

二人は構わず走り抜ける。

また鉄砲の音がした時は、遥か遠くから聞こえる程となっていた。

もう鉄砲が届く距離ではない。
しかし撃ったからには視認しているのかもしない。

「日高、あと一息じゃ。気張れ」

追う事を諦めたのかもしれないが、気は抜けない。

最後の鉄砲の音が聞こえた地点で、視認されていると考えた方が良い。
そこから更に距離を開けるべきだ。

返事が返ってこないので、横を走る日高の方を見ると、日高は口から血を流していた。
しかし走る速度は決して緩めない。

「おはん、鉄砲が当たったとか」

伝之助は思わず足を止めそうになる。

「足を止めるな!走り続けろ」

日高の剣幕に伝之助は再び速度を速める。

それに比例して日高は速度が落ちだす。

「大丈夫だ。俺に構わず走れ」

日高がすぐ後ろから言う。
伝之助は振り向かずに聞く。

「どこ撃たれたとか」

前を向いたまま聞くが、日高から答えは無い。
言葉を発する余裕はないようだ。

思わず後ろを走る日高を見ると左肩の辺り、いや、胸の辺りだろうか、その辺りから血を流している。

微妙な位置だ。
肺を貫かれてはいないだろうか。
弾は抜けたのだろうか。

走っているのだから致命傷ではないのか。
いや、もしかすると風前の灯として、命を燃やして何とか走っているのかもしれない。

「敵はもう追ってきちょらん。どこいかで一度休めっど」

伝之助は言うなり、隠れられそうな所を探しながら走る。

小さな岩場が先の方に見える。
あの内の一つに身を隠そう。

あそこまで逃げれば、例え追って来ていたとしてもすぐには追い付けないだろう。

「先に岩場があっど。そこで一息つく。気張れ!」

日高は聞こえているのだろうか。
顔が青白い。

伝之助が先に岩場へ着く。
一番大きな岩に身を隠すと水筒から水を飲み、息を整える。

岩陰から走ってきた方向を見ると日高が何とか辿り着く。

その後ろには彦根の侍は見えない。
あの鉄砲の乱射が最後の足掻きだった様だ。

「水飲め」

岩に体を預けて座る日高に水を飲ませる。

日高の呼吸が整ってくるが、痛みからか出血からか呼吸は浅い。
伝之助は手拭いを傷口に強く当てた。

「中脇の左手を斬った天罰が下ったな。俺の事は置いていけ。奴らは追ってくることは諦めたが、一応辺りを捜索はするだろう」

日高は自嘲気味に言う。

「ないが天罰じゃ。置いてくち、そげんこつ出来るか。あともう一息じゃ」
「もう一息なものか。京までどれ程の距離があると思っている。負傷した俺を連れてはいけん」

確かに京まで走るのはまず無理だ。

歩いて行こうにもこの怪我だ。
途中で力尽きる事は目に見えている。

いずれにせよ、怪我の治療をしない事にはどうしようもない。

「そげん喋れるなら動ける」
「無茶言うな。それに俺は条件を出したはずだ。大山を生きて帰す為に俺の命を使うとな。薩摩の戦法、捨て奸(がまり)だ。負傷した侍一人とは頼りないかもしれんが、俺は命ある限りお前の逃走を死守して戦う。俺の命、ここで使い果たして終わりだ」

それを言われると伝之助は言葉に詰まってしまった。

互いに無言で見合う。
伝之助は静かに口を開いた。

「おはんの命はおいと決着をつけて果たすとじゃ」

伝之助の言葉に日高は能面顔を変えずに聞いていたが、内心はぽかんとしていた。

「何を言っている」
「おはんとは一勝一敗じゃ。斬り合いで二度も戦いまだ互いに生きちょるち、可笑しなこつじゃ。おはんは怪我を治し、おいと決着をつけっとじゃ」

伝之助は斬り合いの勝負が着いていないと言う。

日高は伝之助が何を言っているのか分からなかった。
なぜならもう伝之助とは斬り合う理由がない。

日高からすると、理由もないのに戦う意味が分からなかった。

それとも人斬りをやっていた性(さが)なのだろうか。
理由がなくとも、強者と斬り合いたいと考えるのだろうか。

伝之助はそのような血に狂った男に見えないが、実は内に秘める人斬りの血が騒ぐとでも言うのだろうか。

「何を言っている」

もう一度同じ問いをぶつける。

伝之助は表情を歪ませた。
それを見て日高は覚った。

伝之助は何も本当に決着をつけろと言っているのではない。
もう日高を説得する手立てが見つからず、日高の剣士としての部分に煽り立てて動かそうとしているのだ。

つまりは苦し紛れの説得である。
だが自身を律する事に長けている日高は、そのような煽りで動かない。

「大山、決着で言うならもうついている。その刀で天地流を扱うお前には勝てん。それに俺にはもうお前と戦う理由がない。どれ程お前が斬り合いたいと思っても、木本の屋敷の時以上の気持ちで斬り合えることは二度とない。あの時程お前を必ず斬ると思い、絶対に負けられんと考えて臨んだ戦いはない。その上で負けた。互いに全力でやり合って俺が負けたんだ。それが結果だ」

伝之助は日高の言葉に歯噛みする。
どうすれば日高を動かせるのだろうか。

「お前の気持ちはわかっている。だが俺はもうここまでだ。さあ、早く行け」

可能性があるなら捨て置いて自身だけ生き残ると言う事は、伝之助の考える薩摩隼人の像として有り得なかった。

そうして生き延びるぐらいなら腹を切る。
薩摩隼人でなくなった自身等、生きる価値はない。
何より自分自身が許せない。

どうする事が最善か。
まずは日高の傷を医者に見せなければいけない。

傷が癒えるまでは当然動けない。
京にどうやって戻るかよりも、近くで一時的に身を隠す事を考えるべきだ。

それにしても暑い。
こう暑いと考えがうまくまとまらない。
だが走り続けていたのだから暑いのは当然だ。

いや、それ以上に汗が顔にへばりつく。
そう言えば顔に包帯をしていたのだ。

もう取ってもいいだろうか等と考えていると、一つの考えが浮かぶ。

「日高、もう少し歩くど」

少しでも遠く、そしてどこか村でも町でも何でもいい。
人里を見つける。

「聞こえなかったのか。お前一人で行け」

伝之助は包帯を取る。

「包帯のせいでまっこて暑か。もういらんじゃろ」

日高は急に話が変わったので何事かと思った。

「彦根の侍どもにとっておいは包帯の男じゃ。大山伝之助でなく包帯の男を追うじゃろ」
「顔が割れていないと言う事か」

日高は言うなり自身の懐から手拭いを出した。
伝之助の言わんとする事がわかったようだ。

伝之助は日高の手拭いを受け取ると、傷口に当てた自身の手拭いをそのままに括り付けた。

「おはんの能面顔は記憶され憎か。彦根の侍は包帯男を伴った二人組を追うじゃろ。おはんが負傷したんは知られちょらん。どこいか人里を見つけ、そこで一旦休む。おいが近くの町で籠を呼び、おはんはどこいかで医者に診て貰え」
「お前はどうやっても俺を置いて行かんようだな」
「おいは薩摩隼人じゃ。どげんもならんならまだしも、可能性があるのにお前を置いて犠牲にし、自身が生き延びるなんち言うこつはせん」

薩摩隼人か。

かつて薩摩隼鬼と言われ恐れられた男は、薩摩隼人として必死に生きている。

日高はそんな事を思った。
そしてそうである以上、伝之助は一切引かないだろう。

「仕方ない。もう少し足掻いてみるか」

言うなり日高は立ち上がる。
顔は青白いが、少し休んだことで幾分ましになった。

応急処置で出血がどこまで抑えられるかは微妙な所だ。

「そん意気じゃ。いっど」

二人は歩き出す。

今の間に少しでも距離を稼ぐ。
次に彦根の侍に嗅ぎ付けられたら二人とも終わりだ。

見つけた人里があったとしても彦根の侍が張っていないとも限らない。
途中、日高が力尽きるかもしれない。
予想以上に捜索が早く、こうして歩いている間に見つかるかもしれない。

あれこれ悪い可能性を考えるときりがないが、もう立ち止まる事も引き返す事も出来ない。

ひっ飛べるところまでひっ飛ぶしかない。
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