松尾の依頼
文字数 6,966文字
伝之助は、松尾との約束通り田島屋に来ていた。
予定を入れておらずやる事もすぐに済ませたので、約束よりも早く来ていた。
松尾はどちらが早いかなど気にしない事を知っているが、伝之助自身が気になって家でゆっくりとしていられなかった。
今までこんな事など無かった。
何かあれば薩摩屋敷に行った時に言われるはずだ。
ただそれは些細な事の場合である。
わざわざ手順を踏んでおさきを仲介し、依頼してきたと言う事はただ事ではない。
中脇はああは言ったが、今はまだ性急でないと言うだけで、事は大きな事な気がする。
例え今が小さな事でも後に大きな事へと繋がりそうな気がする。
つまり嫌な予感がするのである。
「松尾様がお見えになりました」
田島屋の主、正吉が伝之助の待機している部屋に伝えに来た。
伝之助は頷くと松尾が入室するのを待った。
「おや、もう来ていたのか。待たせたな」
松尾は言うなり遠慮なく伝之助の向かいに座った。
それと同時に正吉が入室し、自ら酒と簡単なつまみの煮物を用意する。
薩摩の家老がここにいる事を知る人間を増やさないと言う、正吉の気遣いであろう。
「それでは私は失礼します」
正吉が控えると、伝之助は松尾に酒を注ぐなり切り出した。
「そいで、どげんしたでごわすか」
「はは、いきなりだな。まあ気にしていたと中脇君から聞いていた。正式に依頼を申し込んだのが却って気にさせたな」
「そいはもう。松尾さあはそげんこつ律儀じゃっで」
「悪かった。だが私はそう言う事はきっちりしておきたいのだ。例え小さな事でも自分の立場を利用してうまい汁を吸うようになると、それは段々と大きくなっていき、どんな人間でもいずれは綻んでくる。私はそうならない為に戒めている」
「そいはもうようわかっちょりもす。松尾さあがないより人に慕われるんも信用出来るんも、そげんこつを大切にしちょるからでごわす。じゃっどん、依頼内容によっては知る人を少なくしちょった方がよかこつもありもす。自身の為にもおさきの為にも」
「なるほど、確かにそうだ。ありがとう、その忠告は胸に刻んでおく。私とした事が視野の狭い事だった」
「いや、そげんこつを言いたかったとちごて……」
「はは、わかっている」
松尾は手で制すと続けた。
「じゃあ正式に依頼させてもらおう」
松尾は言うと話し出した。
坂谷の事件の後、坂谷の裏で糸を引いていた藤井を潰し切れなかった事で恨みを買った。
薩摩を守る為にも藤井の動向に暫く注意する必要があると判断し、藤井の元へ密偵を送り込んでいた。
暫くは大人しくしていたようだが予想は的中し、藤井に動きがあり、荒巻の事件へと繋がった。
密偵を送り込んでいたお蔭で早くに対処することが出来た。
密偵には引き続き藤井を探るよう伝えていた。
だが最近、密偵と連絡が取れなくなった。
面が割れたかと心配していた所、藤井の遣いから文を受け取った。
一度会わないかと。
文の内容は話がしたいとだけで、密偵の事は何も書かれていなかった。
「密偵に送り込んでいたのは私の幼馴染だ。幼い頃より薩摩の為を想い、殿をお支えしていた。私は表だって薩摩を支え、彼は裏で支えた。通常なら重罪の脱藩だが、あくまで形上脱藩した元薩摩の侍と言う事で、殿の公認の元、諜報活動を任せてきた。諜報活動も長く、優秀だから大丈夫だと信じたいが、恐らく何かあったのだろう。連絡が取れなくなって藤井から会う事を持ち掛けて来た事が気になる」
松尾は顎に手を当てて考え込む。
松尾の幼馴染と言えば上級武士であろうか。
もしそうであるならば、自身の立場を捨てて密偵となる事にどれ程の勇気が要ったであろうか。
形式上とは言え薩摩の侍ではなくなったと言う事は、家を継ぐ立場にない、つまり長男ではないのだろう。
それでも上級武士の名は大きい。
密偵とならなければどこか有力な武家に養子となるか、婿として迎え入れられるかしていたはずだ。
それを捨てて脱藩扱いとなって密偵をしているとは、余程薩摩の事を思っている人物に違いない。
「事情はわかりもした。そいで依頼はそん密偵がどげんなっちょうか調べるこつでごわんそか」
「いや、それも考えたが悠長にしたくない。何かあったのは間違いないだろう。何があったのか調べる間はない。すぐに行動に移さなければいけない。大山君も一緒に藤井と会ってくれないか。一緒に藤井を見極めてほしい。それが依頼内容だ」
藤井と会う……藤井に雇われていた時の事を思い出す。
あんな奴に雇われて用心棒をしていたのは汚点だ。
しかし幾ら過去の汚点と言えど、消せるものではない。
そして今も藤井との因縁は続いている。
松尾の申し出は、その因縁を断ち切る機会ではないだろうか。
消せないのであれば清算するまでだ。
「そん申し出受けもんそ。おいもあいつとは決着つけんといかんち思っちょりもした」
松尾は伝之助の言葉を聞くと、安堵した顔となった。
「良かった。大山君は藤井と会ってくれないと思っていた」
会いたくはない。
会えば斬りたくなる。
しかし斬れない。
それだけでなく怒りをずっと抑え、耐えて松尾と話す様子を見守らなければいけない。
目の前に敵がいるのに何もせず見ておかなければいけない事を思うと苦痛ではあるが、それでも松尾の為にも会わなければいけない。
それにこのような事を松尾が頼む事が気がかりであった。
松尾は普段からその切れる頭脳を武器に、最善の道を導き出す。
しかし藤井と会う事に対して伝之助に一緒に来てくれと依頼してきている。
それは自身の幼馴染が捕えられているかもしれないと言う事が、冷静さを失う可能性があると考えているのかもしれない。
今はこうして冷静に繕っているが、内心は穏やかではないはずだ。
「よかとです。そいで藤井はどこで会うち言うちょりもすか」
「うむ。大山君達が荒巻の事件で行くはずだったあばら家だ」
荒巻の事件でのあばら家――藤井と荒巻が密会して悪巧みをしていたあばら家。
京から近江に向かう途中にあるあばら家だ。
藤井が敢えてその場所を指定したのは、含みを持たせている気がする。
何か企みがあるかもしれない。
伝之助は荒巻の事件で、そのあばら家に辿り着く事は無かった。
そこに行くまでの宿屋で荒巻が潜伏しており、その宿屋で荒巻と斬り合ったからだ。
あばら家は分からないが、そこまでの道中はいくらでも潜伏して斬り掛かる事の出来る場所が多数ある。
「松尾さあ、そんあばら家で会う言うんは危険なこつと違いもすか」
藤井は何か仕掛けてくるかもしれない。
奴はそう言う男であると言うのは伝之助がよく知っている。
卑怯だとか恥だとか言う事を一切気にしない奴だ。
「ああ。藤井の人間性を考えるととても危険だ。やつは帰り際に襲い掛かってくるかもしれない」
やはり松尾もそこまで読んでいるようである。
「だが大山君と居れば大丈夫だろう。中脇君にも同行してもらうつもりだ。薩摩侍も幾人かはつける。大袈裟にはしたくないので大所帯でいくつもりはないが、無防備で行くつもりもない」
薩摩侍と中脇がつくなら安心だろう。
それに加えて伝之助もつくのだ。
しかし中脇の剣の腕は知るが、それ以外がわからない。
「わかりもした。おいの方からも人を出してよかとですか」
剣の腕がいい人物は多い方がいい。
伝之助が京の町で、中脇を除いて剣の腕がいい人物を知るとすれば羽田ぐらいだ。
そう思うと羽田が同居した事が救いであった。
「頼む」
その後松尾と話を詰め、藤井と会うのは三日後と言う事であった。
思っていた以上に、中々大事な依頼であった。
「羽田さん。何かうまい事やってやれんで申し訳ないです」
優之助は鈴味屋からの帰り道、羽田に切り出した。
優之助が着いていながら、お鈴とおさきの様子に圧倒されて、羽田に何も助け舟を出してやれなかった。
本当は何かとうまく取り繕ってやりたかったのだ。
「いえ、構いませんよ。僕は当然の報いを受けたまでです。それに話してもらえただけでなく、許してもらえる希望を貰えたと言う事でも、優之助さんに来てもらったのは大きな事です。普通なら相手にもしてもらえなかったでしょう」
確かに羽田の言うとおりである。
羽田はいくら荒巻の意向だったとは言え、その片棒を担いで鈴味屋を立ち退かせようとしたのだ。
その謝罪を聞いてもらえるだけでなく、事に寄ったら許してもらえると言われているのだ。
これは確かに思っている以上に救いである事に違いない。
「後は自身でただひたすら人々の為にやるだけです」
そう言う羽田の顔はいつもの飄々とした顔でなく、決意に満ちた顔であった。
「わかりました。しかし仕事の話、出来ませんでしたね」
鈴味屋におさきから仕事を貰いに行くつもりが、羽田の謝罪に付き合う事になった。
おさきは羽田と二人だと仕事の話はしたくないと言っていたし、あの後そんな話が出来る雰囲気でもなかった。
「そうですね。申し訳ないです」
「いや、気にせんとって下さい。明日にでもまた俺が出直します」
「お願いします」
その後二人は遅くなった昼食をうどん屋で簡単に済ませ、帰路に就いた。
「ただいま」
帰ると伝之助が既に帰っていたようで、居間で刀の状態を確認していた。
「仕事はあったとか」
「いや、それがですね……」
謝罪をして仕事の話には出来なかった事を話した。
「まあそいもそうじゃの。鈴味屋からすっとまだ許せん言うんもわかる」
「面目ないです」
羽田が項垂れる。
「やってしまったこつは仕方んなか。そん後の行いが大切じゃ。羽田どんはそん一歩を今日踏み出したとじゃ」
伝之助にしては良い事を言う。
そんな言葉を人にかけられるのかと思った。
「ありがとうございます」
羽田は言って頭を下げる。
「そいで羽田どんに頼みがある。知ってん通り薩摩の家老、松尾さあと話してきた。おはんも知っちょう藤井利也と会うこつんなった。そいでおいは松尾さあに着いて藤井と会う。おいと共に松尾さあの護衛をしてくれんかの」
「藤井とですか……」
羽田は驚き固まっている。
羽田からしても藤井は憎き相手であるのは違いない。
「そうじゃ」
伝之助は簡単に経緯を話した。
薩摩の密偵が藤井の元に送り込まれており、連絡が取れなくなったと同時に藤井から会わないかと持ち掛けて来た事を言う。
「そう言う事ですか。それはもうぜひ僕も同行させて下さい」
「よか。そいなら決まりじゃの。三日後じゃ」
「待って下さい。それ罠と違うんですか」
優之助はとんとん拍子に話が進んで行く所に、思わず止めに入った。
「松尾さあもそいはわかっちょう。じゃっで薩摩侍もいくらか連れて行く。流石に藤井も彦根の侍を動かさんじゃろ。動かすと大事んなる。下手すっと藤井の首が危なくなっからの。自身で浪人を雇って使うはずじゃ。そうすっと知らぬ存ぜぬも貫けるからの」
薩摩侍もいくらか連れて行くのなら安心だ。
確かに伝之助の言うように、藤井は彦根の上級武士だが彦根の侍は動かさないだろう。
それに動かす権力もないはずだ。
彦根の侍を使うと、薩摩と事構える事まで覚悟しなければいけなくなる。
藤井にその覚悟はない。
あればもっと違う動き方をするはずだ。
浪人を使うと、藤井のあずかり知らぬ所で勝手に襲ったと言い訳がきく。
責任逃れが出来るのだ。
しかし浪人を使うなら人数も限られる。
「それなら安心ですね。浪人を使うとなると数も知れてるでしょうし、余程の強者でもおらん限り大丈夫でしょ。何と言っても伝之助さんも羽田さんもついて薩摩侍もおるし」
「瑛介どんもつくからの」
「それならさぞ安心ですね」
「じゃ。そいよりもうまく情報を聞き出す駆け引きがうまくいくかじゃの。まあこいばかりは松尾さあの仕事じゃっで考えても仕方んなか。そいに松尾さあならうまくやるはずじゃ」
伝之助が言うと、優之助と羽田は頷いた。
「それじゃあ今回俺はお留守番ですね」
優之助は嬉々として言う。
伝之助は腕を組み考えるが、やがて「うーん、まあそうじゃの」と言った。
何とかして使えないかと考えていたのだろう。
残念ながら今回ばかりは使いようがない。
腕に覚はない。戦力外だ。
行った所で何も役に立てまい。
優之助は思わず笑みが綻んだ。
「お前嬉しそうじゃの」
「とんでもない。お二人が危険な目に遭うかもしれんのに嬉しいわけないやないですか」
言っていて口が曲がりそうになる。
別に二人が危険に遭ってほしいわけではないが、自身が危険な目に遭わなくて済むことを喜んでいるのだ。
「大山さん、僕達にも話せる範囲で構いませんので、松尾様と密偵の方のお話をしてもらえませんか」
羽田が二人の様子に構う事無く聞いた。
そう言えば経緯は聞いたが背景は聞いていない。
知る事が出来るのであれば知っておきたい。
その方が仕事にも取り組みやすい。
「ああそうじゃの。おはんらには話してよかち言われとる。但し、言うまでもなかち思うが他言無用じゃ」
「もちろんです」
二人が頷くのを見て伝之助は話し出した。
密偵の名は日高風史郎(ひだかふうしろう)。
松尾と同じく上級武士で家柄は良いが、三男坊である。
その為家の後継ぎにはなれないが、普通に過ごしていればどこかの有力な武家に養子となったか、婿として迎え入れられたであろう立場だ。
日高は幼き頃より松尾と共に今の薩摩藩主を支えた。
そして松尾同様、薩摩をこよなく愛する人物であった。
その愛情は凄まじく、松尾と同様江戸暮らしが長かったので薩摩言葉を話せなかったが、わざわざ勉強して時折江戸の言葉が混じる事もあれど、薩摩言葉を話す。
それだけでなく自身の立場を捨て、松尾が表立って藩主を支える代わりに、日高は裏で藩主を支える事を自ら選んで提案した。
その提案は、万が一自身に何かあっても薩摩に迷惑を掛けない為、形上脱藩とする事であった。
松尾はそのやり方を嫌がったが、日高本人が押し切り、藩主の許可を得て家を捨て、薩摩の為に一人裏で暗躍する事を選んだ。
そして日高は薩摩の二大剛剣の一つ、剛刃流(ごうじんりゅう)の遣い手であった。
それも並の遣い手ではない。
剛刃流始まって以来の腕前とまで言われ、剛刃流は一子相伝であるが、どの当主をも凌ぐ強さではないかとさえ言われる強さであった。
剛刃流は薩摩の二大剛剣と言われるだけあってもう一つの剛剣、天地流と剣理が似ている。
初太刀で決める事を念頭に置き、一太刀一太刀全力で斬り掛かり、寸分でも速く斬る事に重きを置く。
天地流はそれを更に先鋭化させ、天地両断の如く斬り掛かるよう技も少なくしているが、剛刃流は技数も多い。
天地流が猛稽古で人間の限界を超え、超人的な打ち込みを目指すのに対し、剛刃流は体系化されたその技で剛剣を生み出す。
同じ初太刀で決める事を剣理と定めた剣術でもまた違うのである。
日高は上級武士であったことによる教養の高さ、更に剣の腕前の良さと江戸言葉も話せることもあり、優秀な諜報活動をしてきた。
今回もうまくやっていたはずであった。
万が一何かあっても、持ち前の剣の腕で切り抜け、どこかに姿をくらませる事も出来るような人物である。
しかし連絡が取れなくなり消息を絶った。
「松尾さあは日高自身が選んだ道とは言え、引け目を感じておられた。そいで恐れちょったこつが起きた。冷静さを保っておられたが内心は穏やかでなかとよ」
伝之助が話し終える。
優之助も羽田も暫く呆然とした。
そのような立場の人間が、薩摩の為に自身の身を擲(なげう)って諜報活動をしている事に驚いた。
「そう言う事でしたか。なんか話聞いて伝之助さんとも似てるとこがありますね。剛剣の遣い手とか諜報活動とか」
伝之助も天地流の並ならぬ遣い手であり、それこそ日高同様天地流始まって依頼の腕前で、どの歴代当主をも凌ぐと言われている。
「おいは人斬りをやらされちょった。日高は場合に寄っちゃあ人を斬るこつもあっが、基本は諜報活動じゃ。そいにやらされちょるとちごて自身で望んでやっちょる」
「まあその辺りは似てるようで違いますけど」
伝之助は、家臣団の中でも当時特に発言力のあった、前藩主の取り巻き達の意志により、政敵や邪魔となる者を斬らされていた。
潜伏などの諜報活動もすることもあっただろうが、基本は暗殺である。
対して日高は誰にやらされているでもなく、時折暗殺をする事もあるだろうが、基本的には諜報活動だ。
潜伏し、情報を得て薩摩に流し、薩摩が有利となるよう敵方にあらゆる情報を流して混乱させるのが仕事である。
今回も藤井の元に潜伏し、松尾に情報を流していた。
藤井は今や薩摩の敵と見做されているのである。
「事情はわかりました。僕は最後まで大山さんに着いて行っていいんですね」
「よか。松尾さあの横に着くかはわからんが、聞かれて困るこつは話さんじゃろ」
「わかりました」
「羽田どん、藤井は恐らくないかしらは仕掛けてきよるち思う。斬り合いになっかもしれん。そん心積もりでおってくれ」
伝之助が言うと羽田の童顔に僅かに緊張が走ったが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。斬り合いは大山さんに手とり足とり教えられましたからね」
荒巻の事件で羽田は伝之助と斬り合いをした。
羽田は理精流の達人であったが、伝之助にうまくやりこめられ、刀の峰で頭を打たれて脳震盪を起こした。
お蔭で斬られる事なく一命は取り留めたのである。
「よか」
伝之助は羽田の笑みに応えるように、にっと笑った。
予定を入れておらずやる事もすぐに済ませたので、約束よりも早く来ていた。
松尾はどちらが早いかなど気にしない事を知っているが、伝之助自身が気になって家でゆっくりとしていられなかった。
今までこんな事など無かった。
何かあれば薩摩屋敷に行った時に言われるはずだ。
ただそれは些細な事の場合である。
わざわざ手順を踏んでおさきを仲介し、依頼してきたと言う事はただ事ではない。
中脇はああは言ったが、今はまだ性急でないと言うだけで、事は大きな事な気がする。
例え今が小さな事でも後に大きな事へと繋がりそうな気がする。
つまり嫌な予感がするのである。
「松尾様がお見えになりました」
田島屋の主、正吉が伝之助の待機している部屋に伝えに来た。
伝之助は頷くと松尾が入室するのを待った。
「おや、もう来ていたのか。待たせたな」
松尾は言うなり遠慮なく伝之助の向かいに座った。
それと同時に正吉が入室し、自ら酒と簡単なつまみの煮物を用意する。
薩摩の家老がここにいる事を知る人間を増やさないと言う、正吉の気遣いであろう。
「それでは私は失礼します」
正吉が控えると、伝之助は松尾に酒を注ぐなり切り出した。
「そいで、どげんしたでごわすか」
「はは、いきなりだな。まあ気にしていたと中脇君から聞いていた。正式に依頼を申し込んだのが却って気にさせたな」
「そいはもう。松尾さあはそげんこつ律儀じゃっで」
「悪かった。だが私はそう言う事はきっちりしておきたいのだ。例え小さな事でも自分の立場を利用してうまい汁を吸うようになると、それは段々と大きくなっていき、どんな人間でもいずれは綻んでくる。私はそうならない為に戒めている」
「そいはもうようわかっちょりもす。松尾さあがないより人に慕われるんも信用出来るんも、そげんこつを大切にしちょるからでごわす。じゃっどん、依頼内容によっては知る人を少なくしちょった方がよかこつもありもす。自身の為にもおさきの為にも」
「なるほど、確かにそうだ。ありがとう、その忠告は胸に刻んでおく。私とした事が視野の狭い事だった」
「いや、そげんこつを言いたかったとちごて……」
「はは、わかっている」
松尾は手で制すと続けた。
「じゃあ正式に依頼させてもらおう」
松尾は言うと話し出した。
坂谷の事件の後、坂谷の裏で糸を引いていた藤井を潰し切れなかった事で恨みを買った。
薩摩を守る為にも藤井の動向に暫く注意する必要があると判断し、藤井の元へ密偵を送り込んでいた。
暫くは大人しくしていたようだが予想は的中し、藤井に動きがあり、荒巻の事件へと繋がった。
密偵を送り込んでいたお蔭で早くに対処することが出来た。
密偵には引き続き藤井を探るよう伝えていた。
だが最近、密偵と連絡が取れなくなった。
面が割れたかと心配していた所、藤井の遣いから文を受け取った。
一度会わないかと。
文の内容は話がしたいとだけで、密偵の事は何も書かれていなかった。
「密偵に送り込んでいたのは私の幼馴染だ。幼い頃より薩摩の為を想い、殿をお支えしていた。私は表だって薩摩を支え、彼は裏で支えた。通常なら重罪の脱藩だが、あくまで形上脱藩した元薩摩の侍と言う事で、殿の公認の元、諜報活動を任せてきた。諜報活動も長く、優秀だから大丈夫だと信じたいが、恐らく何かあったのだろう。連絡が取れなくなって藤井から会う事を持ち掛けて来た事が気になる」
松尾は顎に手を当てて考え込む。
松尾の幼馴染と言えば上級武士であろうか。
もしそうであるならば、自身の立場を捨てて密偵となる事にどれ程の勇気が要ったであろうか。
形式上とは言え薩摩の侍ではなくなったと言う事は、家を継ぐ立場にない、つまり長男ではないのだろう。
それでも上級武士の名は大きい。
密偵とならなければどこか有力な武家に養子となるか、婿として迎え入れられるかしていたはずだ。
それを捨てて脱藩扱いとなって密偵をしているとは、余程薩摩の事を思っている人物に違いない。
「事情はわかりもした。そいで依頼はそん密偵がどげんなっちょうか調べるこつでごわんそか」
「いや、それも考えたが悠長にしたくない。何かあったのは間違いないだろう。何があったのか調べる間はない。すぐに行動に移さなければいけない。大山君も一緒に藤井と会ってくれないか。一緒に藤井を見極めてほしい。それが依頼内容だ」
藤井と会う……藤井に雇われていた時の事を思い出す。
あんな奴に雇われて用心棒をしていたのは汚点だ。
しかし幾ら過去の汚点と言えど、消せるものではない。
そして今も藤井との因縁は続いている。
松尾の申し出は、その因縁を断ち切る機会ではないだろうか。
消せないのであれば清算するまでだ。
「そん申し出受けもんそ。おいもあいつとは決着つけんといかんち思っちょりもした」
松尾は伝之助の言葉を聞くと、安堵した顔となった。
「良かった。大山君は藤井と会ってくれないと思っていた」
会いたくはない。
会えば斬りたくなる。
しかし斬れない。
それだけでなく怒りをずっと抑え、耐えて松尾と話す様子を見守らなければいけない。
目の前に敵がいるのに何もせず見ておかなければいけない事を思うと苦痛ではあるが、それでも松尾の為にも会わなければいけない。
それにこのような事を松尾が頼む事が気がかりであった。
松尾は普段からその切れる頭脳を武器に、最善の道を導き出す。
しかし藤井と会う事に対して伝之助に一緒に来てくれと依頼してきている。
それは自身の幼馴染が捕えられているかもしれないと言う事が、冷静さを失う可能性があると考えているのかもしれない。
今はこうして冷静に繕っているが、内心は穏やかではないはずだ。
「よかとです。そいで藤井はどこで会うち言うちょりもすか」
「うむ。大山君達が荒巻の事件で行くはずだったあばら家だ」
荒巻の事件でのあばら家――藤井と荒巻が密会して悪巧みをしていたあばら家。
京から近江に向かう途中にあるあばら家だ。
藤井が敢えてその場所を指定したのは、含みを持たせている気がする。
何か企みがあるかもしれない。
伝之助は荒巻の事件で、そのあばら家に辿り着く事は無かった。
そこに行くまでの宿屋で荒巻が潜伏しており、その宿屋で荒巻と斬り合ったからだ。
あばら家は分からないが、そこまでの道中はいくらでも潜伏して斬り掛かる事の出来る場所が多数ある。
「松尾さあ、そんあばら家で会う言うんは危険なこつと違いもすか」
藤井は何か仕掛けてくるかもしれない。
奴はそう言う男であると言うのは伝之助がよく知っている。
卑怯だとか恥だとか言う事を一切気にしない奴だ。
「ああ。藤井の人間性を考えるととても危険だ。やつは帰り際に襲い掛かってくるかもしれない」
やはり松尾もそこまで読んでいるようである。
「だが大山君と居れば大丈夫だろう。中脇君にも同行してもらうつもりだ。薩摩侍も幾人かはつける。大袈裟にはしたくないので大所帯でいくつもりはないが、無防備で行くつもりもない」
薩摩侍と中脇がつくなら安心だろう。
それに加えて伝之助もつくのだ。
しかし中脇の剣の腕は知るが、それ以外がわからない。
「わかりもした。おいの方からも人を出してよかとですか」
剣の腕がいい人物は多い方がいい。
伝之助が京の町で、中脇を除いて剣の腕がいい人物を知るとすれば羽田ぐらいだ。
そう思うと羽田が同居した事が救いであった。
「頼む」
その後松尾と話を詰め、藤井と会うのは三日後と言う事であった。
思っていた以上に、中々大事な依頼であった。
「羽田さん。何かうまい事やってやれんで申し訳ないです」
優之助は鈴味屋からの帰り道、羽田に切り出した。
優之助が着いていながら、お鈴とおさきの様子に圧倒されて、羽田に何も助け舟を出してやれなかった。
本当は何かとうまく取り繕ってやりたかったのだ。
「いえ、構いませんよ。僕は当然の報いを受けたまでです。それに話してもらえただけでなく、許してもらえる希望を貰えたと言う事でも、優之助さんに来てもらったのは大きな事です。普通なら相手にもしてもらえなかったでしょう」
確かに羽田の言うとおりである。
羽田はいくら荒巻の意向だったとは言え、その片棒を担いで鈴味屋を立ち退かせようとしたのだ。
その謝罪を聞いてもらえるだけでなく、事に寄ったら許してもらえると言われているのだ。
これは確かに思っている以上に救いである事に違いない。
「後は自身でただひたすら人々の為にやるだけです」
そう言う羽田の顔はいつもの飄々とした顔でなく、決意に満ちた顔であった。
「わかりました。しかし仕事の話、出来ませんでしたね」
鈴味屋におさきから仕事を貰いに行くつもりが、羽田の謝罪に付き合う事になった。
おさきは羽田と二人だと仕事の話はしたくないと言っていたし、あの後そんな話が出来る雰囲気でもなかった。
「そうですね。申し訳ないです」
「いや、気にせんとって下さい。明日にでもまた俺が出直します」
「お願いします」
その後二人は遅くなった昼食をうどん屋で簡単に済ませ、帰路に就いた。
「ただいま」
帰ると伝之助が既に帰っていたようで、居間で刀の状態を確認していた。
「仕事はあったとか」
「いや、それがですね……」
謝罪をして仕事の話には出来なかった事を話した。
「まあそいもそうじゃの。鈴味屋からすっとまだ許せん言うんもわかる」
「面目ないです」
羽田が項垂れる。
「やってしまったこつは仕方んなか。そん後の行いが大切じゃ。羽田どんはそん一歩を今日踏み出したとじゃ」
伝之助にしては良い事を言う。
そんな言葉を人にかけられるのかと思った。
「ありがとうございます」
羽田は言って頭を下げる。
「そいで羽田どんに頼みがある。知ってん通り薩摩の家老、松尾さあと話してきた。おはんも知っちょう藤井利也と会うこつんなった。そいでおいは松尾さあに着いて藤井と会う。おいと共に松尾さあの護衛をしてくれんかの」
「藤井とですか……」
羽田は驚き固まっている。
羽田からしても藤井は憎き相手であるのは違いない。
「そうじゃ」
伝之助は簡単に経緯を話した。
薩摩の密偵が藤井の元に送り込まれており、連絡が取れなくなったと同時に藤井から会わないかと持ち掛けて来た事を言う。
「そう言う事ですか。それはもうぜひ僕も同行させて下さい」
「よか。そいなら決まりじゃの。三日後じゃ」
「待って下さい。それ罠と違うんですか」
優之助はとんとん拍子に話が進んで行く所に、思わず止めに入った。
「松尾さあもそいはわかっちょう。じゃっで薩摩侍もいくらか連れて行く。流石に藤井も彦根の侍を動かさんじゃろ。動かすと大事んなる。下手すっと藤井の首が危なくなっからの。自身で浪人を雇って使うはずじゃ。そうすっと知らぬ存ぜぬも貫けるからの」
薩摩侍もいくらか連れて行くのなら安心だ。
確かに伝之助の言うように、藤井は彦根の上級武士だが彦根の侍は動かさないだろう。
それに動かす権力もないはずだ。
彦根の侍を使うと、薩摩と事構える事まで覚悟しなければいけなくなる。
藤井にその覚悟はない。
あればもっと違う動き方をするはずだ。
浪人を使うと、藤井のあずかり知らぬ所で勝手に襲ったと言い訳がきく。
責任逃れが出来るのだ。
しかし浪人を使うなら人数も限られる。
「それなら安心ですね。浪人を使うとなると数も知れてるでしょうし、余程の強者でもおらん限り大丈夫でしょ。何と言っても伝之助さんも羽田さんもついて薩摩侍もおるし」
「瑛介どんもつくからの」
「それならさぞ安心ですね」
「じゃ。そいよりもうまく情報を聞き出す駆け引きがうまくいくかじゃの。まあこいばかりは松尾さあの仕事じゃっで考えても仕方んなか。そいに松尾さあならうまくやるはずじゃ」
伝之助が言うと、優之助と羽田は頷いた。
「それじゃあ今回俺はお留守番ですね」
優之助は嬉々として言う。
伝之助は腕を組み考えるが、やがて「うーん、まあそうじゃの」と言った。
何とかして使えないかと考えていたのだろう。
残念ながら今回ばかりは使いようがない。
腕に覚はない。戦力外だ。
行った所で何も役に立てまい。
優之助は思わず笑みが綻んだ。
「お前嬉しそうじゃの」
「とんでもない。お二人が危険な目に遭うかもしれんのに嬉しいわけないやないですか」
言っていて口が曲がりそうになる。
別に二人が危険に遭ってほしいわけではないが、自身が危険な目に遭わなくて済むことを喜んでいるのだ。
「大山さん、僕達にも話せる範囲で構いませんので、松尾様と密偵の方のお話をしてもらえませんか」
羽田が二人の様子に構う事無く聞いた。
そう言えば経緯は聞いたが背景は聞いていない。
知る事が出来るのであれば知っておきたい。
その方が仕事にも取り組みやすい。
「ああそうじゃの。おはんらには話してよかち言われとる。但し、言うまでもなかち思うが他言無用じゃ」
「もちろんです」
二人が頷くのを見て伝之助は話し出した。
密偵の名は日高風史郎(ひだかふうしろう)。
松尾と同じく上級武士で家柄は良いが、三男坊である。
その為家の後継ぎにはなれないが、普通に過ごしていればどこかの有力な武家に養子となったか、婿として迎え入れられたであろう立場だ。
日高は幼き頃より松尾と共に今の薩摩藩主を支えた。
そして松尾同様、薩摩をこよなく愛する人物であった。
その愛情は凄まじく、松尾と同様江戸暮らしが長かったので薩摩言葉を話せなかったが、わざわざ勉強して時折江戸の言葉が混じる事もあれど、薩摩言葉を話す。
それだけでなく自身の立場を捨て、松尾が表立って藩主を支える代わりに、日高は裏で藩主を支える事を自ら選んで提案した。
その提案は、万が一自身に何かあっても薩摩に迷惑を掛けない為、形上脱藩とする事であった。
松尾はそのやり方を嫌がったが、日高本人が押し切り、藩主の許可を得て家を捨て、薩摩の為に一人裏で暗躍する事を選んだ。
そして日高は薩摩の二大剛剣の一つ、剛刃流(ごうじんりゅう)の遣い手であった。
それも並の遣い手ではない。
剛刃流始まって以来の腕前とまで言われ、剛刃流は一子相伝であるが、どの当主をも凌ぐ強さではないかとさえ言われる強さであった。
剛刃流は薩摩の二大剛剣と言われるだけあってもう一つの剛剣、天地流と剣理が似ている。
初太刀で決める事を念頭に置き、一太刀一太刀全力で斬り掛かり、寸分でも速く斬る事に重きを置く。
天地流はそれを更に先鋭化させ、天地両断の如く斬り掛かるよう技も少なくしているが、剛刃流は技数も多い。
天地流が猛稽古で人間の限界を超え、超人的な打ち込みを目指すのに対し、剛刃流は体系化されたその技で剛剣を生み出す。
同じ初太刀で決める事を剣理と定めた剣術でもまた違うのである。
日高は上級武士であったことによる教養の高さ、更に剣の腕前の良さと江戸言葉も話せることもあり、優秀な諜報活動をしてきた。
今回もうまくやっていたはずであった。
万が一何かあっても、持ち前の剣の腕で切り抜け、どこかに姿をくらませる事も出来るような人物である。
しかし連絡が取れなくなり消息を絶った。
「松尾さあは日高自身が選んだ道とは言え、引け目を感じておられた。そいで恐れちょったこつが起きた。冷静さを保っておられたが内心は穏やかでなかとよ」
伝之助が話し終える。
優之助も羽田も暫く呆然とした。
そのような立場の人間が、薩摩の為に自身の身を擲(なげう)って諜報活動をしている事に驚いた。
「そう言う事でしたか。なんか話聞いて伝之助さんとも似てるとこがありますね。剛剣の遣い手とか諜報活動とか」
伝之助も天地流の並ならぬ遣い手であり、それこそ日高同様天地流始まって依頼の腕前で、どの歴代当主をも凌ぐと言われている。
「おいは人斬りをやらされちょった。日高は場合に寄っちゃあ人を斬るこつもあっが、基本は諜報活動じゃ。そいにやらされちょるとちごて自身で望んでやっちょる」
「まあその辺りは似てるようで違いますけど」
伝之助は、家臣団の中でも当時特に発言力のあった、前藩主の取り巻き達の意志により、政敵や邪魔となる者を斬らされていた。
潜伏などの諜報活動もすることもあっただろうが、基本は暗殺である。
対して日高は誰にやらされているでもなく、時折暗殺をする事もあるだろうが、基本的には諜報活動だ。
潜伏し、情報を得て薩摩に流し、薩摩が有利となるよう敵方にあらゆる情報を流して混乱させるのが仕事である。
今回も藤井の元に潜伏し、松尾に情報を流していた。
藤井は今や薩摩の敵と見做されているのである。
「事情はわかりました。僕は最後まで大山さんに着いて行っていいんですね」
「よか。松尾さあの横に着くかはわからんが、聞かれて困るこつは話さんじゃろ」
「わかりました」
「羽田どん、藤井は恐らくないかしらは仕掛けてきよるち思う。斬り合いになっかもしれん。そん心積もりでおってくれ」
伝之助が言うと羽田の童顔に僅かに緊張が走ったが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。斬り合いは大山さんに手とり足とり教えられましたからね」
荒巻の事件で羽田は伝之助と斬り合いをした。
羽田は理精流の達人であったが、伝之助にうまくやりこめられ、刀の峰で頭を打たれて脳震盪を起こした。
お蔭で斬られる事なく一命は取り留めたのである。
「よか」
伝之助は羽田の笑みに応えるように、にっと笑った。