第1話 キーウィ―の旅路
文字数 2,060文字
風がそよそよと吹き、わたしは浮岩 から滑り落ちた。
舫 い綱が張る。墜落制止用器具 が肩、腰、腿を上向きに引っ張り、衝撃がぼやけた思考を震わせた。太陽光が顔に照り、わたしは億劫に目を開く。眼下には層積雲の雲頂がロマネスコみたいに盛り上がり、目線を上げれば、巻雲が繊維のように毛先立っていた。
固まった体をうんと伸ばし、脱力する。体はくの字を倒したように折れ曲がり、古風な喩えを用いれば、鷲の鉤爪に捕まった小鹿さながらだった。
詰まる所、わたしは宙吊りになっていた。
「おはようございます」
「おはよー」
顔の下に、きれいな手が差し出される。
「手伝いますか?」
「大丈夫よ。知ってるでしょ?」
体をねじり、舫い綱と平行に脚を伸ばす。三本指――三趾足 の内の二本で舫い綱を掴み、体を上方に投げ飛ばした。
舫い綱はたわみ、宙を踊る。わたしは前方に一回転して半分ひねり、足場を見極めてから確実に着地する。
今日も落ちなかったと、得意げに顔を上げた。
昨夜の霧は止み、絶景が光に溢れていた。
白い雲海から緑の樹々が生えている。高さは十数メートルから数百メートルとまちまちで、東西に広がる森林は尾根のように畝っていた。
ジュゴンやヒメクスクスが風に浮かび、キーウィ―一羽包めそうなくらい大きな葉っぱと遊んでいる。
浮川 が北から南へ、高層から森林へと流れ、まさに透き通る虹だ。軽石、マナの実、油で光るネジが空中を漂い、青空に驚きと遊び心を与えている。
天頂より降り注ぐバナナの実を目指して、オウギバトの群れが樹上から飛び立った。
わたしはうっとりと瞳を濡らし、広大な浮島弧をその身で受け止めようと、両腕を目一杯広げた。
浮川と森林が交差する付近で、舫い綱が樹木から上に伸び、店舗らしき立方体と繋がっている。舫い綱はその店から更に上へ、また別の店に繋がり、数珠繋ぎみたいに縦に百メートル以上続いていた。
そんな市が三つ、三角形に立ち並び、時折吹く強風に煽られてしなっていた。ハリモグラ、オサガメ、アレクサンドラ・トリバネアゲハなどが集まり、周りを覗いたり嗅いだりする。
「賑やかそう。なに?」
「飛翔競技の前夜祭、と書いてありますね。レースで祭りで、大盛り上がりなのでしょう。ギギなんて興奮して、一足先に行っちゃいましたよ。我慢するという概念が、彼には存在しないのでしょうね」
「レースか。いいね」
わたしの脚に張り合える生き物が存在するだろうか。会場入りと同時に、動物たちが畏敬で瞳を輝かせる。
なんて緻密な鱗なの!
ぜひ自分たちのチームに!
いやいや僕らこそあなたに相応しい!
……なんてね。久しぶりの陸地だ。なんであれ楽しまなくちゃ。
準備を始めようとして、ぱっと横を向く。
「あんたは行かないの?」
一瞬、息の詰まった音が聞こえた。
「あなたを置いては……」
「行きなよ。浮岩群を跳んで進んだら、どう考えても遠回りでしょ。あんたにはあんたの目的があるんじゃなかった?」
「それは、そうなんですが、」
煮え切らない彼にいら立ち、わたしはぴしゃりと言った。
「しつこい。わたしは、落ちないキーウィ―よ」
「いや……、はい。では、その、先に」
舫い綱の下で待ち合わせする。下、下と何度も強調されて、ちょっとうんざりだった。
軽く運動し、装備を点検する。森林まで続く道――浮岩が点々と続くだけで、隙間を埋める大地はない――をよく観察する。最悪の展開を想像し、二重、三重の打開策を頭に用意しておく。
舫い綱の先端、浮岩に突き刺した釘を引き抜く。浮岩を蹴り出して、わたしは雲の上を大きく跳び越えた。
足が滑ると落ちる。
足を踏み外すと落ちる。
跳躍が足りないと落ちる。足場が砕けると落ちる。足場の動きづらさが小さ過ぎると落ちる。
降下物に激突するか、体が風に流されて軌道がずれると落ちる。
想定外の失態で足場を逃すと、落ちる。
だから、どうした。
落ちなければいいだけだ。
空隙を抜け、別の浮岩を踏みしめる。跳びはねて体を横に傾け、浮岩の側面を蹴り、前を向いたまま横に回って上下を反転させる。
片方の鉤爪で巨大な浮岩を下から突き刺し、もう片方の脚で反動をつけて後方伸身宙返り、浮岩の上にダイナミックに着地する。
全力で駆け出して一気に跳躍し、自重で鍛えたキーウィ―の脚力で以て、空気を切り裂くように前に前にと進んでいく。
翼の有無は鳥類の本懐ではない。
足場は大きいほど安定する。道は森林まで繋がり、浮岩の密度が高いほうがいい。落下時の猶予を考えると、出来る限り高度は上げておきたい。落下の可能性が零コンマ一パーセントでもあれば、その選択を拒絶する。
落下と隣り合わせの道を行く。青空はどこまでも高く開かれて、巻雲のシルクが立ち上がっていた。層積雲は地上を覆い尽くし、あらゆる罪の色から浮島弧を護っている。光を全色反射し、でこぼこと泡立つ。
走り、跳び、踏み、浮島弧を飛ぶ。
わたしは自由だ!
わたしは、快哉を叫んだ。
「青空と雲海の間を走るのって、ほんっと気持ちいい!」
固まった体をうんと伸ばし、脱力する。体はくの字を倒したように折れ曲がり、古風な喩えを用いれば、鷲の鉤爪に捕まった小鹿さながらだった。
詰まる所、わたしは宙吊りになっていた。
「おはようございます」
「おはよー」
顔の下に、きれいな手が差し出される。
「手伝いますか?」
「大丈夫よ。知ってるでしょ?」
体をねじり、舫い綱と平行に脚を伸ばす。三本指――
舫い綱はたわみ、宙を踊る。わたしは前方に一回転して半分ひねり、足場を見極めてから確実に着地する。
今日も落ちなかったと、得意げに顔を上げた。
昨夜の霧は止み、絶景が光に溢れていた。
白い雲海から緑の樹々が生えている。高さは十数メートルから数百メートルとまちまちで、東西に広がる森林は尾根のように畝っていた。
ジュゴンやヒメクスクスが風に浮かび、キーウィ―一羽包めそうなくらい大きな葉っぱと遊んでいる。
天頂より降り注ぐバナナの実を目指して、オウギバトの群れが樹上から飛び立った。
わたしはうっとりと瞳を濡らし、広大な浮島弧をその身で受け止めようと、両腕を目一杯広げた。
浮川と森林が交差する付近で、舫い綱が樹木から上に伸び、店舗らしき立方体と繋がっている。舫い綱はその店から更に上へ、また別の店に繋がり、数珠繋ぎみたいに縦に百メートル以上続いていた。
そんな市が三つ、三角形に立ち並び、時折吹く強風に煽られてしなっていた。ハリモグラ、オサガメ、アレクサンドラ・トリバネアゲハなどが集まり、周りを覗いたり嗅いだりする。
「賑やかそう。なに?」
「飛翔競技の前夜祭、と書いてありますね。レースで祭りで、大盛り上がりなのでしょう。ギギなんて興奮して、一足先に行っちゃいましたよ。我慢するという概念が、彼には存在しないのでしょうね」
「レースか。いいね」
わたしの脚に張り合える生き物が存在するだろうか。会場入りと同時に、動物たちが畏敬で瞳を輝かせる。
なんて緻密な鱗なの!
ぜひ自分たちのチームに!
いやいや僕らこそあなたに相応しい!
……なんてね。久しぶりの陸地だ。なんであれ楽しまなくちゃ。
準備を始めようとして、ぱっと横を向く。
「あんたは行かないの?」
一瞬、息の詰まった音が聞こえた。
「あなたを置いては……」
「行きなよ。浮岩群を跳んで進んだら、どう考えても遠回りでしょ。あんたにはあんたの目的があるんじゃなかった?」
「それは、そうなんですが、」
煮え切らない彼にいら立ち、わたしはぴしゃりと言った。
「しつこい。わたしは、落ちないキーウィ―よ」
「いや……、はい。では、その、先に」
舫い綱の下で待ち合わせする。下、下と何度も強調されて、ちょっとうんざりだった。
軽く運動し、装備を点検する。森林まで続く道――浮岩が点々と続くだけで、隙間を埋める大地はない――をよく観察する。最悪の展開を想像し、二重、三重の打開策を頭に用意しておく。
舫い綱の先端、浮岩に突き刺した釘を引き抜く。浮岩を蹴り出して、わたしは雲の上を大きく跳び越えた。
足が滑ると落ちる。
足を踏み外すと落ちる。
跳躍が足りないと落ちる。足場が砕けると落ちる。足場の動きづらさが小さ過ぎると落ちる。
降下物に激突するか、体が風に流されて軌道がずれると落ちる。
想定外の失態で足場を逃すと、落ちる。
だから、どうした。
落ちなければいいだけだ。
空隙を抜け、別の浮岩を踏みしめる。跳びはねて体を横に傾け、浮岩の側面を蹴り、前を向いたまま横に回って上下を反転させる。
片方の鉤爪で巨大な浮岩を下から突き刺し、もう片方の脚で反動をつけて後方伸身宙返り、浮岩の上にダイナミックに着地する。
全力で駆け出して一気に跳躍し、自重で鍛えたキーウィ―の脚力で以て、空気を切り裂くように前に前にと進んでいく。
翼の有無は鳥類の本懐ではない。
足場は大きいほど安定する。道は森林まで繋がり、浮岩の密度が高いほうがいい。落下時の猶予を考えると、出来る限り高度は上げておきたい。落下の可能性が零コンマ一パーセントでもあれば、その選択を拒絶する。
落下と隣り合わせの道を行く。青空はどこまでも高く開かれて、巻雲のシルクが立ち上がっていた。層積雲は地上を覆い尽くし、あらゆる罪の色から浮島弧を護っている。光を全色反射し、でこぼこと泡立つ。
走り、跳び、踏み、浮島弧を飛ぶ。
わたしは自由だ!
わたしは、快哉を叫んだ。
「青空と雲海の間を走るのって、ほんっと気持ちいい!」