第9話 セピック・エアレース/命を託す脚

文字数 1,929文字

 わたしは落ちていた。

 層積雲到達まであと千、二千メートル? 一分、二分? 雲の下がどうなっているか、本当に地上が存在するか、わたし達は知らない。本能的に理解しているのは、神様がいないということだけだ。
 岩は浮かばず、空に足場はなく、猛スピードで地面に激突し、脳漿が炸裂するということだけだった。

 過ぎゆく浮岩に、ハンマーで釘を打ち込む。舫い綱がひゅるひゅると伸び、完全に張る。一メートル立方の凝灰岩は、質量一トンを超えるという。
 どんなに速くとも、体重が違うんだ――運動量は保存し、速度は忽ちゼロに近づく。不動力を考えればなんてことはない。墜落制止用器具(フルハーネス)が衝撃を分散し、わたしは上方に投げ飛ば……。

 釘が抜ける。落下、再加速、白雲がますます視野を満たす。ここは浮岩群の果て、そもそも浮岩が少ない。巨岩なら猶更だ。

 釘を打つ。二本目を打つ。抜ける。三本目を打つ。小さすぎて砕ける。落ちるか落ちないか、生きるか死ぬかで、甘いことは言えない。
 腰袋から五本の釘を引き抜き、ハンマーでそれぞれ浮岩に叩きつけていく。たくさんの風船で空を飛ぶ夢の少女みたいに、ちいさな浮岩を必死に集める。

 不動力、空気抵抗、動きづらさ、そして生きる意思。速度はゼロに、不動力と重力が釣り合う。ブランコの王女様みたいに、わたしは新たな「その場」に留まった。

 腕を伸ばして舫い綱を握り、器械体操の鉄棒みたいにスイングする。浮岩より上に跳び上がってから、釘を一本引き抜いた。自由になったその浮岩を、全力で蹴り出す。
 四つの浮岩を伴って上昇するが、すぐに勢いが落ちる。二本目の釘を引き抜く。再び浮岩を蹴り、初回より速く遠くに進む。

 浮岩の密集地帯まで、残弾三つ!
 わたしは生き残る。

 浮岩群の浮岩を踏みしめ、わたしは南に走り出した。時に重力を味方に速度を増す。島弧が浮かぶ前、走鳥類最速のダチョウは時速七十キロを記録していた。ヒクイドリは時速五十キロ程度で、キーウィ―のほぼ二倍だ。
 エアレースで代表を務めるほどの健脚なら、五十キロでは済まないかもしれない。

 鍛えていたとして、それは二十四時間のうち何時間? 八時間? 十時間? あとは悠々と浮かんで、雲海を見下ろしていたんじゃないの?
 二十四時間、重力が脚を圧迫する。脚力次第で、容易に死ねる日常を送る。レースじゃない、常に命懸けなの。脚に対する信頼で、わたしが浮島弧のヒクイドリに劣ることはない。

 ヒクイドリ相手でも、空飛ぶココモ相手でも、わたしの脚は敗北しない。

 晴太が繋いだバトン、吹き流しの筒を掴む。浮岩荒しを足場に、不協和音を背景音に走る。この状況は想定内だけど、晴太は対策を用意していなかった。何も要らないって、わかってたんだ。鉤爪で掴む、蹴る、浮岩を追い抜く。踏みしめて、体を押し出す。

 走る、走る。
 キーウィ―のように走る。

 速度はココモやヒクイドリのほうがやや速いけれど、もう間に合わない。

 ゴールは目前だ。

 凝灰岩は頑丈な岩ではない。行きの足場で踏まれ、浮岩荒しでひび割れた。鉤爪が噛んだ瞬間、足場の浮岩が砕ける。わたしは重力に絡めとられていく。

 その程度考えないキーウィ―ではない。ステージに向かって高度を下げても、最下層は走らなかった。落ちた先で浮岩を掴み、体勢を整えて走り出す。
 わずかな時間のロスが、致命傷になり得る。傷だらけ角質突起のヒクイドリの青年と、ドリルカスクの女性のココモが死に物狂いで追ってくる。

 それでも足りない。速さで敗けてない。

「ひ、卑怯だぞ!」

 ヒクイドリの青年が声を張った。

「そうよ! その通りよ! あたし達はあんたを攻められない! 殺しちゃうから!」

 女性のココモがはじめて青年と同調する。
 そして主張した。

「弱さを盾にするなんて、卑怯よ!」

 再び、浮岩が砕ける。
 今度は意図的に。

 もし狙って主張したのだとしたら、狡猾と感心し、邪悪と軽蔑する。いかなる方法で償おうとしても、赦すことは一生ないだろう。でもきっと、そうじゃない。ただの苦し紛れだ。悪あがきに付き合う論理的な理由は一つもなかった。

 感情が理に劣ると、誰が証明したのだろう?

 わたしは浮岩を砕きながら急停止し、途中で立ち止まった。

 不可解な行動に警戒したのか、その発言を後ろめたく感じたのかは知らない。青年と女性も同じように速度を落とし、少し離れた地点で止まった。追ってきた他のココモ、ヒクイドリも合流し、さらにギギと晴太が追いつく。

 わたしは振り返り、当たり前のように浮かぶ六羽、一尾、一人と向き合う。

 その表情は怒りに歪み、仁王像も裸足で逃げ出すほどだった。

「キーウィ―の生きざまが、弱い?」

 その場の誰もが金縛りに遭う。
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