第12話 セピック・エアレース/フィーが選んだ生きざま

文字数 2,467文字

 濃密雲に包まれ、視界は一切灰色だった。暴風が四肢を振り回し、雨滴が全身を撃ち抜く。寒気が露出した肌すべてに絨毯爆撃する。呼吸しづらい。
 落ち続ける中でまず思ったのは、神様の加護がなければ、暗雲の中はこんなにも冷たく、こんなにも強風で、こんなにもおどろおどろしい場所なのかということだ。

 脚を伸ばす。鉤爪が樹木の確かな幹を掴む。一緒に落ちる岩が頭を殴り、鉤爪は幹から離れていった。額から血が垂れて、雲に吸収される。足場だ、重力を受け止める力が必要なんだ。また南に脚を伸ばす。何か掴む。その場に留まろうと踏ん張って歯を食いしばる。

 浮島弧の浮力や不動力は永遠ではない。時と共に消耗し、使い果たせば雲の下まで落下する。島弧が浮かんでから、どれくらいの月日が経ったか、記録はない。それでもはじまりの島弧が浮き続けているとは考えづらい。

 ピジンに到着したあの朝、わたしが瞳を濡らした絶景は、はじまりの島弧を基盤にして育った次代の浮島弧だ。降り積もった新たな岩や樹々の不動力を支えにして、はじまりの島弧は神様の加護無き雲の下でも、まだ浮かんでいる。

 ゴール直前の落下とは、浮島弧直前の落下だ。脚さえ伸ばせば、その先にはきっと、はじまりの島弧が存在する。幹か岩か根か、足場があるんだ! 望みを捨てるには早過ぎる。

 鉤爪で捕らえた樹木の根が切り裂かれていく。いつか落ちたネジが脚を抉り、単行本が頬を叩き、パンノキの実が腹を打つ。上昇気流を帆のように受けども、足先の補足力に命を費やしても、重力は屈服しない。摩擦が足裏を焼き、鉤爪が剥がれて流血する。

 すでに何十、何百メートル落ちた? 落下が止まり、樹の根か岩にしがみつけたとしても、その先は? 迷路になっているであろうはじまりの島弧を登り、浮島弧に辿り着けると? この薄着だ、凍え死ぬのも時間の問題かもしれない。

 ギギの奮起、晴太の献身を忘れていない。ココモ、ヒクイドリ、二種の見事な連携を、忌むべき死の原因にしてはいけない。優しい彼らは、救えなかった命に、一生悔やむ。わたしの愚かな選択を、彼らの輝かしい日々の呪いにしてはいけない。

 勝つんだ。
 生き残るんだ。

 わたしが目指した強さは、いまこそ試される時だった。

 自分の意思で困難を選ぶ――。

 わたしの咆哮は風の音でもみ消されて、浮島弧の動物たち、きっと神様にだって、聞こえることはなかった。

 ※※※

 夕日が雲海を朱く染め上げる。樹々の影の中で、動物たちは雲頂を走査していた。物理法則が狂うのを期待して、浮き上がる物体を祈るように捜す。層積雲は黒く、あるいは朱く、それ以上も以下もなく、ごく普通に地上を覆っていた。

 片足は変なほうに曲がり、ぴくりともしない。もう片方の三趾足は、趾が一本、折れている。鉤爪は傷だらけで見るに堪えない。かじかんだ手指の感覚は既にない。額の流血が瞼を覆い、もう片方の瞼も、開けるので精一杯だ。

 舫い綱を掴む。残った二本の趾で、上へ昇る。力が入らない。何度もずり落ちる。墜落制止用器具(フルハーネス)の切れたベルトが邪魔だ。服の横腹部分が裂け、露出した皮膚は青くなっていた。悪寒で全身ぞくぞくとする。舫い綱を掴む。上へ、昇る。

 第一の店の木枠を掴む。よじ登る。片手が離れる。大地がわたしを吸い込まんと大口を開ける。また腕を伸ばす。引き揚げる、木枠に噛じりつく。足を上げて木枠に掛け、豚の丸焼きみたいになって、胴体を持ち上げる。

 上に手を伸ばす。趾で踏ん張る、上へ上へ。第一の店を乗り越え、次の舫い綱に手をかける。汗が滑る。擦れて手が切れる。流血で一層滑る。落ちろ、落ちろ。あんたは結局、落ちるキーウィ―なんだ。遙かな過去から呪詛が聞こえてくる。

 第二の店を突破する。ココモが目を丸くし、ヤシの実を嘴から離した。大慌てでどこかへ飛んでいく。第三、第四の店を通過する。咳き込んで、吐き気で胃が持ち上がった。両腕とも痺れて、いまにも垂れそうだ。重力が重い。

 店を終える。ステージまで、舫い綱、あと一本。晴太が涙をこらえて近づいてくる。ギギが馬鹿野郎と罵りながらやって来る。生きる力を振り絞り、じりじりと、上へ、上へ、手を、趾を進める。まだ為すべきことがある。命を燃やす理由がある。

 昇る、昇る。

 晴太とギギは、少し離れたところで、動けなくなった。傷だらけ角質突起のヒクイドリの青年が現れ、前触れなく目に涙を溜める。ドリルカスクの女性のココモは息を呑み、その光景をただ見つめた。

 ヒクイドリ、コヒクイドリ、パプアヒクイドリ、サイチョウのココモ、ヒメクスクス、アマガエル、ピグミーシーホース、キノボリカンガルー、ハリモグラ、ラケットカワセミ、フキナガシフウチョウ、オサガメ、ジュゴン、アレクサンドラ・トリバネアゲハ、オウギバト、ツムギが、ステージの周りに集まってくる。

 同じ言葉で、声を張り上げた。

「頑張れ!」
「敗けるな!」
「自由を見せつけるんだ!」

 その思いさえ糧に、上へ、先へ、未来へ、体を進めていく。心が握れない手を固め、魂が掴めない趾を支える。ステージの縁に手をかける。意地で腕を曲げ、肘から乗り出し、みっともなく腹ばいになって、体を無理やり押し込んでいく。

 折れた足で立ち、誇りが胸を張らせる。

 腰袋から、筒を取り出す。
 蓋を外す。

 勝利の栄光、フキナガシフウチョウの吹き流しをその手に掲げる。最後の息を吸う。その一言に思いの丈を何もかも込める。自分についてきてくれた仲間に、競い合った恐るべきライバルに、浮かぶ浮島弧の友に。

 運命を呪った過去の自分自身に。
 わたしは宣言した。

「キーウィ―は、けして弱くない!」

 大歓声、感情の大波、歓びの歌。
 優しい風が吹く。

 これで、少しは、キーウィ―の強さに近づけたかな?
 だったら、いいな。

 微笑む。
 力が抜けて、ふらつく。
 視界が閉じていく。

 わたしはやり遂げて、ステージの上から真っ逆さまに落下した。意識を失う直前、最後に見えたのは、ギギと晴太、一尾と一人が迎えに飛んできたその瞬間だった。
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