第四弦   悪い夢

文字数 2,688文字

二駅ほど歩くと、克之の住むアパートが見えてきた。夜の冷たい空気ですっかり酔いがさめた。僕は、先ほど無意識に繭子さんの華奢な指に自分の指を絡めてしまったことを思い出して、気恥ずかしくなった。繭子さんに、触れたくなって、しまったのだ。あのまま一緒にいたら、僕は茉莉花の香りに当てられて、とんでもないことをしてしまうのではないかと、怖くなった。自分が自分でなくなるようで、怖い。そんな恐怖を断ち切るように、克之の部屋のインターホンを鳴らす。少し間を置いて、克之の眠たそうな声がインターホン越しに聞こえてきた。それから、ドタバタと足音が近づいてくる。
「あれ、透? どうした?」
ドアを開けた克之はやはり眠たそうな目をしていた。もう遅い時間だったから、寝ていたのかもしれない。
「こんな時間にごめん。今日、泊めてほしいんだけど……」
僕がそう言うと、克之はいいよ、と答え、部屋の中に入れてくれた。僕は、ありがとう、と言いながら、スニーカーを脱いだ。克之の家の匂いが鼻を通り抜ける。他人の家にはそれぞれの匂いがあるものだ。
「で、どうしたの? 今日は昔の知り合いが来たんじゃなかったっけ?」
克之は僕に冷たい水を入れてくれた。
「来ているんだけど、うん、何というか、一緒の部屋で寝るのは、一般論として、望ましくないからさ……」
僕は、子どもの頃にお世話になった女性が来ているのだと呟いた。何だか頰が熱い。克之がそんな僕を見て、すっかり眠気が飛んだようで、目を爛々とさせている。
「なるほど、憧れのお姉さんが自分の部屋にいるってわけだ。そりゃあ、寝れないわな」
僕は、俯いた。
「それにしても、人気者の日置くんにもとうとう春が来たってなると、明日ちゃんをはじめ、クラブの女子が泣いちゃうな」
克之が僕の肩をつつく。
「そういうのじゃ、ないと思う。僕の場合は、なんというか、感謝の気持ちと、まさか再会するなんて、という驚きと、まあ、綺麗なひとがいる緊張感というか、そういう類の気持ちが綯い交ぜになっていて……」
僕は慌てて克之の見立てを否定した。恋はもっときらきらしたサイダーみたいなものだと思うが、僕が先ほど繭子さんに抱いた感情はもっと昏い。
「……まあ、自分で自分の気持ちに気づいていないだけだと思うけど。それにしても、突然の再会だったんだな。お世話になったってどういう繋がり?」
克之が無邪気に尋ねる。
「子どもの頃、勉強を教えてくれたり、遊んでくれたりしたんだ」
僕は当たり障りのない回答をした。
「ふうん。でも、そんな繋がりで、突然会いにくるなんて、よほど透に会いたかったんだな、そのひと」
「え」
そうなのだろうか。たしかに、僕の家まで調べて繭子さんは会いにきたのだ。でも、それは事情が事情であるからだろう。僕は頭の中で都合のいい解釈を打ち消した。
「その会いたかった理由はわからないけど、そのひとも透のこと、ずっと気になっていたんじゃないか?」
克之は、そう言うと、欠伸を一つして、客用布団を敷いてくれた。僕はありがとう、と礼を言い、布団に潜り込んだ。克之が電気を消してくれた後、僕はとろとろと眠りの世界に落ちていった。

夢を、見た。昔の夢だ。僕はランドセルを背負って、通学路を歩いている。繭子さんの通っている高校の前に来たとき、ちょうど、繭子さんと、知らない男子高校生が門から出てきた。二人は僕に気づくことなく、帰り道を歩き始める。僕は、探偵になったような気分で、二人の後をつけていく。繭子さんの隣にいるその高校生は、ギターケースを背負っていた。二人は、高校からすこし離れると、どちらからともなく、お互いの指を絡めた。僕は、ドラマみたいだ、と心がむずむずするのを感じながら、ひっそりと二人の後ろ歩き続ける。
やがて、二人は繭子さんのアパートに着いた。繭子さんは花が咲くような笑顔で、高校生を見つめている。高校生は、爪の伸びた右手で繭子さんの長い黒髪を優しく撫でて、そうっと顔を繭子さんに近づける。繭子さんは、頰を桜色に染めて、瞳を閉じた。二人の影が重なり、時が止まる。僕は、ただ見つめていた。心が鉛のように重くなっていくのを感じながら。
二人はアパートの一室に入ると、ドアを閉めた。
暗転、場面転換。
僕はなぜか、二人のいる部屋の押入れに隠れている。襖の隙間から、朧げに二人が見える。繭子さんは、高校生の弾くギターの音色に耳を傾けて、うっとりとしている。ギターはもの悲しげなワルツを奏でている。僕は、息を殺して二人を見つめていた。高校生の顔はシルエットになって見えない。
やがて、ギターの音色が途絶え、代わりに繭子さんの聞いたことのないような声が聞こえてきた。いつも僕に話しかけるような、あの母のような優しくてきっちりとした声ではない。耳を侵すような蜂蜜色の甘い囁き。僕は恐る恐る襖の隙間を大きくする。そこには、高校生にギターのように抱えられている繭子さんがいた。繭子さんは、やはり桜色の頰で高校生を見つめている。高校生は、弦を爪弾くように繭子さんのリボンタイを解いて、ブラウスのボタンを丁寧に外していく。繭子さんがゆっくりと白い肌を露わにしていく。どうして、僕はこんな場面を見ているのだろう。
すると、突然高校生がこちらを見つめた。シルエットだった顔に光が当たる。
それは、僕の顔だった。僕の顔をした高校生は、小学生の僕を一瞥すると、憐れみをにじませた目でにやりと笑った。
高校生は、僕に見せつけるかのように繭子さんと重なりはじめる。繭子さんは控えめに嬌声を上げながら、沈んでいく。
そのうちに、高校生は顔が変化し、僕の顔から、あの悪魔の父の顔になった。神経質そうな細い目がギラギラと嫌な光を放ちながら、繭子さんを舐めるように見つめている。繭子さんは、次第に恐怖と苦痛に顔を歪ませていく。そして、呪文のように繰り返す。透には何もしないでください、わたしが何でもしますからーー。

電子音の不快なアラーム音が耳を叩く。僕は、はっと目を覚ました。嫌な汗が流れて、灰色のTシャツが黒く染まっている。不気味な夢を見てしまった。心臓がまだバクバクと脈打っている。
「おはよ。透、なんかうなされていたみたいだけど、大丈夫か?」
隣で克之が眠たい目を擦りながら尋ねた。
「ちょっと悪い夢を見たんだ」
僕は、汗が滲むTシャツ脱ぎながら、息を整えた。そして、克之に尋ねる。
「……しばらく、泊まってもいいか?」


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