第二弦   過去の鎖

文字数 3,214文字

「どうして、ここに?」
僕は、繭子さんに温かいお茶を淹れながら、尋ねた。そもそも、繭子さんとはもう十年近く会っていなかった。なぜ僕の家を知っていたのか、そして、どうして家に来たのか。
「……透に会いたかったから、というのではいけない?」
繭子さんは、悪戯っぽい眼差しで僕をちらりと見た。僕は、その眼差しがなんとなく落ち着かない。とりあえず、無言でお茶の入った湯呑みを渡す。繭子さんは、ありがと、と受け取った。
「それもあるけれど、すこし困ったことがあって。新しい部屋が見つかるまでの間の居場所を探しているの」
繭子さんは、低いトーンでそう言うと、お茶にふうっと息を吹きかけ、お茶を一口飲んだ。すこし困ったこと、という言葉に、僕の胸はざわついた。
「……それは、父のことが関係しているんですか?」
僕が恐る恐る尋ねると、繭子さんは、そうね、と短く答えた。
僕の父と繭子さんの間の鎖は完全に途絶えてはいなかったのだ。

僕が小学四年生の秋、激しい台風の夜、ちょうどこんな時間帯。僕は、家の外で濡れ鼠になってがたがた震えていた。そのときが初めてではなかった。母が亡くなってから、父は事あるごとに行き過ぎた躾のために僕を虐げていた。殴ったり蹴ったりするようなことはしなかったが、酷い言葉を投げつけられたり、庭の木にくくりつけられたり、雨の中家に入らせてもらえなかったりすることは日常茶飯事だった。
父は小さな診療所で開業医をしていた。診療所も家も、住宅地から離れたところにあり、夜になれば人通りも少ないことから、父の行き過ぎた躾を知る人はいなかった。また、父は外面がよく、患者さんには信頼されていた。学校も無関心だった。僕の小さなSOSなど、誰にも届かなかった。
「……きみ、大丈夫?」
寒くて気を失いかけていたとき、誰かが僕に声をかけた。優しい、母のような声だった。
「とりあえず、わたしの家に来て」
僕は、言われるがまま、背負われた。温かい背中からは可憐な花の香りがした。
「お湯沸かすから、待っていてね」
僕を連れてきた人は、そう言うと、僕にやわらかいタオルを渡して、どこかへ消えた。僕はタオルで濡れた体を拭きながら、小さな声で泣いた。大きな声で泣くと叱られるから、僕は小さな声でしか泣けなくなっていた。
「もう、大丈夫だからね」
いつのまにか僕は温かい腕に包まれていた。僕は花の香りを胸一杯に吸い込んだ。
「いつも、なの?」
躊躇いがちに尋ねる声に、僕は、小さく頷いた。すると、僕を包んでいた腕の力が強くなった。苦しい、と僕が言うと、ごめんね、と腕の力が緩められた。
「わたし、古藤繭子。片丘高校の一年生。最近ここに引っ越してきたばかりなの。きみは?」
その人は、僕に右手を差し出した。僕も何となく真似をする。
「ぼくは……ひおき、とおる。よねんせい」
「とおるくんね。よろしく」
互いに握手した。これが繭子さんとの出会いだった。

その翌日、繭子さんは僕と小学校に行き、昨晩のことを担任に説明した。担任は繭子さんを見るやいなやすこし頰を染めて、いつも以上に張り切り、初めて父を学校に呼び出した。父は、学校に着くと、つい躾が厳しくなってしまった、といつもの温厚な外の顔で担任に謝った。僕は横でがたがた震えていた。きっとこの報復があるに違いない。
やはりその夜、父は僕に今日のことと昨晩のことを詰問してきた。ここで繭子さんの名前を出したくはなかったが、肌寒い季節に冷水をずっと浴びせられて、僕は繭子さんのことを話した。父は冷水シャワーを止めて、出かけてくる、と行ったきり、その夜は帰ってこなかった。悪い予感しかしなかった。

それから一か月ほど経ったある日、繭子さんが家に来た。僕は驚いた。どうして、とたずねると、バイトに来たのだという。診療所の受付と家事をすこし。それに、僕の勉強も見てくれるという。僕は不思議に思ったが、母が帰ってきたようで、嬉しかった。家も診療所も明るくなった。父が僕を虐げることもない。ようやく悪夢から抜け出せたのだと思った。
でも、それは錯覚だった。悪夢は別の場所に移っただけのこと、僕は鏡の中の触れない幸せな幻想だけを味わっていたのだった。

繭子さんと出会って二年が過ぎた頃だった。僕は六年生になり、なんだか繭子さんと話すのが気恥ずかしくなっていた。そのため、小学校から帰ってすぐに診療所を覗きに行くことはなくなって久しかった。だが、そのときは、何となく、診療所に続く扉を開けた。終業式か何かで、僕は帰宅が早かった。
診療所の受付は真っ暗で誰もいなかった。休診時間帯だったからだ。僕は家の方に戻ろうとした。だが、診察室の方からよく知る声が聞こえて、僕は診察室に近づいた。診察室の入口には薄い緑のカーテンが引かれている。僕は息を殺してカーテンめくった。
そこには、かつて僕が毎日のように見ていた悪魔のような父と……父と、あられもない姿の繭子さんがいた。
繭子さんは、ほとんど服を着ていないような状態で、大きな瞳に涙を浮かべながら、父にされるがままだった。断片的に、これで、あと一週間はお願いします、という繭子さんのか細い声が聞こえた。父は、わかった、あいつには何もしない、と笑いながら汚らわしい手を繭子さんに這いずり回していた。
僕は、その瞬間、自分の無知さを恥じ、今までのうのうと過ごしていたことに腹が立った。そして、カーテンをがらりと開けて、飛び出していき、父を思いっきり殴った。父は、突然のことで避けられず、床に頭を打ちつけてしばらく気を失った。僕は繭子さんに床に落ちていたブラウスをかけて、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝った。繭子さんは、いいの、ありがとう、と僕を震える手で抱きしめた。それが繭子さんと言葉を交わした最後だった。

「……あの当時の映像をね、持っているひとに見つかったのよ」
繭子さんがゆっくりと話し始めた。
「今まで何もなかったのが不思議なくらいなのだけど、透のお父さんは、盗撮して、自分の仲間に映像を譲渡していたみたい。仲間といってもそんなにいなさそうだし、わたしも訴えていないから、表沙汰にはなっていないけど」
「……そのひとに脅されているんですか?」
僕がそっと尋ねると、繭子さんは、こくりと頷いた。
「だったら、訴えて……」
僕がそう言うと、繭子さんは、大きく首を横に振った。
「それはだめ。透のお父さんのことも明るみになる。そしたら、透が困るでしょう。今、何回生? もうすぐ就活じゃないの」
「でも」
僕は未だに守られてばかりの自分に腹が立った。
「わたしはわたしの正義でしてきたことに後悔はないわ。今もわたしの正義で行動しているの。透は気にしなくていいからね」
繭子さんが子どものときのように僕の頭を撫でる。
「でも、僕はもう子どもじゃないんですよ」
僕は繭子さんの撫でる手をそっと掴んだ。繭子さんの頰がほんのすこし色づく。
「ただ、訴えることで繭子さん自身も苦しくなることはわかります。とにかく、安全が確保できるまでここにいてください。僕は友人の家に泊まりますから」
僕はベッドを整え、荷造りを始めた。克之なら今行っても泊めてくれるだろう。
「そんな、一緒でも構わないのに」
繭子さんが僕のシャツの裾を掴んだ。そんなに力は入っていないはずだが、なぜか動けない。僕はため息をついた。確か、クラブの合宿用に寝袋を買ったはずだ。
「じゃあ、ベッド使ってください。僕は床で寝ます」
繭子さんはまた何か言いたそうだったが、僕はクローゼットから寝袋を取り出し、さっさと寝る準備を始めた。
「ベッドありがとう。おやすみなさい」
繭子さんの声が闇に溶けていく。僕は、しばらく頭の中で羊を数えた。
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