第五弦   花の日々

文字数 3,376文字

あの夜以来、友だちの家に泊まる、という連絡を貰っただけで、透には会っていない。わたしは、人口密度の高い列車に眉を潜めながら、車窓を流れるビル群をぼんやり眺めた。部屋もなかなか見つけられていない。仕事を辞めるわけにもいかないから、必然的に住む場所は限られてくるが、そうなると、再びばれる可能性は高くなる。もう十年も前のことが、今になって蘇るなんて。

透の父親の古い知り合いだと名乗る男は、薄ら笑いを浮かべながら、自分のスマートフォンに落とした映像をわたしに見せつけた。画質は荒いが、わたしの顔や身体は白く浮き上がっており、はっきりとわかった。小さな画面の中にいる高校生のわたしは、ぐちゃぐちゃになりながらも、弟を、透を守るために必死だった。必死なわたしが、悪魔の手によって、壊されていく。いつまでも、離れない記憶。わたしは男を睨みつけた。男は、スマートフォンの画面を操作し、いつでも拡散できる、とわたしの耳元で囁きながら、粘っこい手をわたしに伸ばした。だけど、君があいつにしたのと同じようにしてくれるなら、拡散などしない、それにしても、ますますいい女になったなーー。わたしは、男の手を振り払い、そばにあった鞄だけ持って、思いっきり走った。その晩は、すこし離れたビジネスホテルに泊まった。シャワーを何度も浴びて、先ほど纏わりついてしまった男の気配と、溢れる涙を流し去った。
それから、今後の行くあてを考えた。ひとりでいたくない、誰かのところへ行きたい。インターホンを激しく鳴らされるのはもうこりごりだ。しかし、わたしには泊めてくれるようなひとなどいなかった。職場の女性は皆既婚者であるし、そのほかとなると、泊めてもらう「代償」を求める者ばかりだ。そんなとき、ふと、透のことが頭によぎった。以前、自分の母校のホームページで、透の名前を見つけたのだ。有名大学に進学した合格体験記だった。大学は奇しくも職場から二駅ほど離れたところだった。大学のホームページにも透が載っていた。今度は名前だけでなく、ギタークラブの集合写真に、スーツを着た透が写っていた。すっかり立派になっていて、感慨深かった。そうだ、透に会いにいこう。そこから、わたしはどうにか透の家にたどり着いたのだった。

ぷしゅう、という音を立てて、列車のドアが開き、降りる。そのとき、微かに誰かに肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、懐かしい顔があった。うそ、まさか。
「……豊橋くん?」
「久しぶり、繭ちゃん」
高校生のときの、わたしの数少ない綺麗な思い出。一時期、一緒に下校したり、出かけたりした。
「繭ちゃん、相変わらず綺麗だから、すぐわかった。俺、夏からこっちに転勤して、時々電車で見かけていたんだけど、なかなか話しかけられなくてさ」
豊橋くんは、すこし頰を染めながら俯いた。
「豊橋くんも変わらないね。久しぶりに会えて嬉しい」
わたしは微笑んだ。
「そうだ、もしよかったら、今夜、ご飯でも行かないか?」
豊橋くんがきらきらとした瞳でわたしを見つめる。その瞳はどこか小学生の透を彷彿とさせた。
「いいよ、行きましょ」
わたしがそう答えると、豊橋くんは、今夜七時に駅で、と言って、ホームを駆けていった。

約束の時間に駅に着くと、すでに豊橋くんが自販機の前で待っていた。わたしに気づくと、大きく手を振る。わたしは彼に駆け寄った。
「ごめんね、待った?」
「いや、俺もさっき来たところだから」
豊橋くんはそう言って微笑むと、行こうか、とすこし人通りの少ない道を指差した。
「こうやって並んで歩くの、いつぶりだろう」
豊橋くんがわたしを嬉しそうに見つめる。
「高校生のとき以来だから、10年ぶりくらいじゃない?」
「そうだよな。あのとき、すごくかわいい転入生が来たって話題でさ、誰が彼女と仲良くなれるか、男子は必死だったんだ。だから、繭ちゃんと帰ることができた日は、嬉しくて嬉しくて」
豊橋くんがあまりにも当時のわたしを褒めるものだから、わたしは頰が熱くなるのを感じた。
「と、豊橋くんだって、人気だったじゃない?」
わたしは、話の方向を変えようとした。当時、豊橋くんは人気で、彼に誘われたということが広まった途端、女子の態度が急変したのを今でも鮮明に思い出すことができる。
「それは、ギター補正というやつさ。ギター弾けたら何割か増しってね。それよりも、繭ちゃんの人気の方がすごかったよ。かわいいし、それでいて、どこか陰がある。みんなの憧れだった」
豊橋くんは、遠い目で当時を思い出しているようだった。わたしは、複雑な気持ちだった。陰を、思い出してしまった。
わたしが黙ったので、豊橋くんも静かになった。やがて、古民家風の建物が見えてきて、豊橋くんがそこの引き戸を慣れた手つきで開けた。出汁の香りが鼻孔をくすぐり、急にお腹が空いているのを思い出した。出汁の香りは、幸福の匂いだ。
「ここ、隠れ家みたいで、滅多に人は連れて来ないんだけど」
繭ちゃんは特別、と豊橋くんが呟いた。わたしも、ありがとう、と呟く。
二人、二階にお願いします、と豊橋くんが慣れた感じで店員に伝える。そして、急勾配の階段をギシギシと上がっていく。わたしもそれに続いた。酔っ払ってしまったら、落ちてしまいそうな階段だ。それに、嫌に段数が多い。
「この階段、慣れないと怖いけど、慣れたらいいもんだよ」
ようやく二階に着いたとき、豊橋くんが振り返って笑った。二階は、扉つきの個室が並んでいて、一昔前のアパートみたいだった。豊橋くんに導かれ、「ほ」と札の掛かった扉の中に入る。畳敷きの部屋に卓袱台があり、昭和の食卓のような懐かしい雰囲気だ。
「本当に隠れ家みたいね」
わたしは、深緑色の座布団に腰を下ろした。
「ここ、料理もお酒も美味しいし、落ち着くから、お気に入りなんだ。繭ちゃんと来れるなんて夢みたいだよ」
豊橋くんはじっとわたしの瞳を見つめた。やはり彼はすこし透に似た面影がある。
「わたしも、豊橋くんに会えてよかった」
わたしが微笑むと、豊橋くんはすこし頰を染めて、照れ隠しのようにメニューを広げた。思い思いの料理やお酒を注文し、その後は思い出話に花を咲かせる。
やがて、美味しい料理とお酒が運ばれてきて、わたしはしたたか酔ってしまったーー。

「家まで送るよ」
気がつくと、わたしはタクシーの中にいた。どうやら、眠ってしまっていたようだ。
「ごめんね。わたし、寝ちゃって……」
「疲れていたんだよ、気にしないで。それより、住所を教えて」
豊橋くんが、微笑む。わたしは、透のアパートの近くにあるコンビニの名前を伝えた。
「そうだ、お会計いくらだった?」
わたしが尋ねると、豊橋くんは首を横に振った。
「俺が誘ったんだから、今日は奢らせてよ。そのかわり、といってはなんだけど、来週またご飯行かないか?」
豊橋くんがあまりにも真剣な眼差しで尋ねるものだから、わたしは首を縦に振るしかなかった。
「ありがとう」
豊橋くんが安心したようにため息をつく。それと同時に、透のアパートの近くのコンビニに着いた。
「今日はありがとう、楽しかったわ。またね」
わたしがタクシーから降りると、豊橋くんは優しく手を振った。

豊橋くん、相変わらず優しい。わたしは、豊橋くんが一切触れてこなかったことを嬉しく思った。来週のごはんも楽しみだ。それにしても、眠ってしまうなんて、ひどいことをした。どうして眠ってしまったのだろう。わたしは不思議に思ったが、考えるのをやめた。それよりも、眩しい思い出が蘇ってくるのが、心地よかった。サイダーの海に溺れていくようだった。

それから、豊橋くんとは、週に一度ご飯に行き、その度に眠ってしまったが、彼は嫌な顔一つしなかった。そして、わたしにいたずらに触れることもなかった。
今日が四度目のご飯だった。いつもと同じ、あの隠れ家だ。今日は豊橋くんが勧めるカクテルは飲まなかった。いつもそのカクテルで酔って眠るようだったから。すると、今度は彼が眠ってしまった。相当酔っているようで、わたしでは運べない。
わたしは、店員さんを呼ぼうと思い、立ち上がった。



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