第一弦  はじまりの再会

文字数 1,397文字

風が涼しくなって、定期演奏会の日も近づいてきたある日、四弦が切れた。クラシックギターの弦はあまり切れないが、どうしてもこの弦だけは切れやすい。もうすぐ合奏練習だというのに、四弦の予備もない。さて、どうしよう、と内心焦っていると。
「……日置先輩、よかったら、これ、使ってください」
鈴みたいな声が背後から聞こえた。振り返ると、新品の四弦を持った三井さんが、上目遣いでこちらを見ている。
「あ、ありがとう」
僕は、三井さんの小さな手のひらにある四弦を受け取り、急いでギターに弦を通した。三井さんはなぜかその様子を横でじっと見つめている。
「じゃあ、今日は第一部の……のアレグロから、30小節目。明日ちゃんは戻ってきて。日置くんは準備できたら入って」
指揮者の皐月さんのパキパキした声が響いた。明日ちゃん、と呼ばれた三井さんは、慌てて自分の席に戻っていった。僕も、急いでペグを回して調弦する。合奏が一旦途切れたところで、自分の席に座った。

「透、今朝明日ちゃんから弦貰ってたろ。いいなぁ」
昼休み、学生会館のテラスで、同じサードギターの克之が僕の頰を乱暴につつく。僕は、口に入れていたサンドイッチが飛び出そうで顔をしかめた。
「克之が欲しいんなら今日の帰りにでも新弦買って替えてやるよ」
「そういう話じゃないよ。やっぱ透かっこいいから、明日ちゃんみたいな子も好きになっちゃうんだよな」
克之が大きなため息をつく。
「克之って三井さんのこと好きなのか?」
僕が尋ねると、克之は、んー、まぁ、と言葉を濁した。
「でも、俺も完全に脈なしの子にいくほど考えなしじゃないよ。だって、明日ちゃん、透に惚れてるし」
僕は克之の言葉に首を傾げた。三井さんとはパートも違うし、そんなに交流がないから、惚れられる覚えはない。むしろ、克之と三井さんが談笑しているような気がする。
「正直さ、明日ちゃん、どうなの? クラブの中でも可愛いし、性格いいし、あと、ほら、大きいし、みんなのお気に入りの子なんだよ?」
克之がちらちらとこちらを伺う。こういう話は女子だけがするものだと思っていたが、大学生になってから、男同士でもこういう話が増えた気がする。ただ。
「ごめん、僕はあまり興味ないんだよね。三井さんが、というより、そういう、恋愛とか」
僕がそう言うと、克之は、ごめん、と小さく言った後、宝の持ち腐れ、羨ましい、とジタバタした。僕は、克之のこういうところが好きだ。盛大に笑ってやった。

さすが、定演も近づいてきたから、練習は夜八時まで続いた。ギターは好きだけど、長時間の練習はきつい。帰りに克之とラーメンを食べて、アパートに帰り、ギターをおろす。机の上の電波時計は夜十時を過ぎていた。給湯器のスイッチを押して、歯を磨いていると、こんな時間にもかかわらず、玄関のインターホンが鳴った。誰だろう。僕は訝しげに思いながら、モニターを覗いた。そこには、信じられない人が映っていた。まさか。どぎまぎしながら、玄関のドアを開ける。
「……突然、ごめんね。元気だった?」
雪のように白い肌、夜空のような瞳、紅茶色の髪、桜貝のような小さな唇。
「大きくなったね、透」
花が咲くような微笑みは、昔と変わらない。
「……繭子さん……」
僕は、彼女を家の中に入れた。忘れかけていた茉莉花の香りがふわりと広がった。
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