第三弦   君のために

文字数 3,626文字

「じゃあ、鍵は渡しておきます。僕はクラブの練習で遅くなるので、ご飯とか適当に食べていてください」
深緑色のギターケースを抱えた透が慌ただしく部屋を出ていく。わたしは、いってらっしゃい、と手を振って見送った。ほんとうに大人になってかっこよくなった。きっと大学でもモテているに違いない。もしかしたら、彼女もいるかもしれない。だとしたら、いきなり押しかけて悪いことをした。
わたしは、床で丸まっている寝袋を畳んだ。律儀な子だと思う。一度、成人したばかりの頃、断りきれずに男の人の部屋に泊まったことがあるが、当然のようにベッドの中で抱きしめられた。震えが止まらなかった。今でも、あのときのことを思い出してしまうのだ。透を守るために我が身を捧げたあのときのことを。

透の父親だと名乗ったやつれた男は、真っ暗闇の中、黒いコートを着て、死神のような出で立ちだった。わたしがアパートのドアを開けると、男はわたしをじろり睨み、君一人か、と尋ねた。わたしが、はい、と答えると、ずかずかと部屋の中に入ってきた。わたしは、戦うという気持ちと怖いという気持ちが綯い交ぜになっていて、がたがたと震えていたように思う。
男、つまり、透の父親は、わたしが勝手に透を保護したことや、学校に通報したことが気に入らなかったようだった。
「勝手に他人の家のことに首を突っ込まれたら困るんですよ」
男は表面だけ笑った顔で言った。
「……でも、透くんがあんなひどい天気の中外に放り出されているのを見て、何もしないわけにはいきませんでした。あなたがしているのは、虐待ではありませんか?」
わたしは、両手を握りしめながら、毅然とした態度で言った。透の父親は、わたしが反論すると思わなかったのか、一瞬ばつが悪そうに黙りこんだ後、笑顔の仮面も取っ払った。
「君は何もわかっていない。透が私の言うことをきかなかったから、躾の一環としてすこしばかり外に出したんだ。しばらくしたら、家に入れるつもりだった。それなのに、お嬢さん、あなたは勝手によその子を家に連れてきて、君のほうこそ、誘拐したんじゃないかね?」
「……勝手に透くんをお連れしたことは謝りますが、でも……」
わたしは、誘拐、という言葉にやや怯みながらも、反論の姿勢は崩さなかった。透の父親はさらに捲したてる。
「そもそも、君のご両親は何をされている方なのかな? こんな時間に娘を一人で置いておくなんて。因みに私はここらでは有名な医師ですが。やはり親も親なら子も子。とんだ非常識娘だ」
「……わたしの母はいません。父も、仕事があるので別々に暮らしています」
わたしは、自分の両親について何か言われることに対して弱かった。それに、透の父親にはあまり知られたくない事実があった。自分の声が萎んでいくのがわかった。透の父親は執拗にその点を攻めてくる。
「どうやら、他人に言えないご両親のようだね。お父さんはほんとうはろくな仕事をしていないんじゃありませんか。お母さんもそれで出て行ったんじゃないか?」
「それは、違います。母が出ていったのは別の理由です。それに、父は音楽をしていて……」
わたしは、余計な一言を口走ってしまい、咄嗟に口を塞いだ。しかし、透の父親は、にやりと笑い、わたしにじりじりと近づいてきた。わたしは離れようと後ずさる。
「……音楽、古藤……。なるほど、私は君のお父さんを昔からよく知っているよ。ずっと夢にしがみついていた愚かなギター奏者だ。私の妻もかつて奴の罠に引っかかっていたが」
透の父親は、わたしを壁まで追い詰めた。そして、わたしを舐め回すように見つめる。
「君が古藤と、私の妻の娘か。よく見ると、学生時代の妻の面影もあって私好みだ。顔が可愛らしくて、身体は蠱惑的だ」
透の父親がわたしにそろそろと手を伸ばす。わたしは、やめてください、とその手を払った。透の父親は懲りずにわたしの背中に腕を回す。わたしの背筋に寒気が走った。
「君も、弟を助けたいだろう? 私の言うとおりにすれば、透にあんな躾はしない。家族ごっこをしようじゃないか」
透の父親は、しばらく考える時間をやる、と言ってわたしの背中を撫でて出ていった。わたしは、寒気が止まらなくて、真冬のようにがたがた震えた。
それから一か月後、わたしは透の家でバイトをすることとなる。わたしの唯一の弟のためなら、家族ごっこなんてどうってことないと思っていた。嫌に冷たい手が白い皮膚の上を幾度も這うなんてわからなかったから。
何回めかのバイトで、それは始まった。でも、耐えるしかなかった。涙が溢れると、わたしは透のことを考えた。かつては、母を奪った者として嫉妬の対象だった。だが、次第に血縁者としての愛情が優っていった。母が亡くなったと知って、同じ悲しみを分かちあうため、近くに越したが、まさかあんな目に遭っているとは思わなかった。これからは、わたしが守らなくては。荒い息が耳にかかり、わたしは目をきつく瞑った。

「……繭子さん、起きられますか?」
透の低く心地よい声が聞こえて、わたしは目を覚ました。長い間眠っていたようだ。
「あれ、透、いつの間に?」
わたしが尋ねると、透はふっと微笑んで、
「ちょっと前に帰ってきたんです。今日はクラブ休みました。繭子さん来ているのに、何ももてなさないのもな、と思って」
と言った。
「そんな、無理を言っているのはこっちだからよかったのに」
わたしは慌てた。
「繭子さんのため、というか、僕のためでもあって。折角だから、今日は飲みませんか? 学生だから大したことはないけど、ちょっといいお酒も買ったんで……」
透がやや頰を染めて早口で話す。わたしは、そんな透を嬉しく思いつつも、胸に画鋲で刺されたような痛みを感じた。
「なんだか感慨深いわね。それじゃあ、再会パーティーでもしましょ」
わたしは、変に明るい声をあげた。

どうやらわたしが眠っている間に透は料理を準備していたようで、小さなテーブルには色とりどりの料理が所狭しと並んでいた。
「透、料理できるんだ」
「普段は、楽器もあるからしないんですけど、今日は」
透が照れ隠しで瓶を開け始める。
「楽器って、ギター?」
わたしは深緑色のギターケースを指差した。
「はい。大学入ったら、しようって思っていたんです」
透が嬉しそうに答える。よほどギターが好きなのだろう。
二つのグラスに深紅の液体が注がれたところで、わたしたちは乾杯をした。
透もわたしも、お酒が進むたび、昔の距離に戻っていくようだった。それでいて、会話は大学のことやわたしの仕事のことなのだから、なんだか妙な感じだ。あと、透は中々お酒が強いみたいだ。どうやら、クラブでは演奏会の打ち上げでOBから色々飲まされるらしい。それで強くなったのだと透は笑った。一方、わたしは最近飲んでいなかったせいか、あるいはワインだからか、酔いが回ってきていた。わたしは酔いが回るとお喋りになるのだと、同僚から言われたことがある。だからか、透にふと言ってしまった。
「実は、わたしの父もギターしているのよ」
すると、透は、え、と驚いて、もしかして、と興奮気味に言った。
「古藤って、あの古藤さんですか? うそ、僕CD持っています」
サインもらえないかな、とわくわくしている様子は子どもの頃から変わらない。わたしはくすくす笑いながら、いつかね、と頬杖をついた。
「でも、どうしてギターしたかったの?」
わたしは、無邪気な答えを期待していた。
「それは、えっと、父が毛嫌いしていたから、反動で。どうしてあんなに嫌っていたかわからないんですけど」
透は、申し訳なさそうに答えた。わたしは、気にしないで、と手を振りながら、期待していた答えではなかったが、透は何も知らないようだ、と胸を撫で下ろした。
しかし、何も知らない故に、わたしに誤った感情を抱いていることは、じわじわと伝わってきた。アルコールは一種の自白剤だ。酒に強い透もだんだんと酔いが回ってきたのか、静かになった。そして、炎のような眼差しをわたしに向ける。わたしは、そろりと目を逸らした。すると、透もはっとして、そろそろお開きにしましょうか、と呟いた。
テーブルの上を二人で片付けていると、お互い酒で熱くなった手がぶつかった。透の長い指がわたしの指に絡められる。わたしは不覚にもどきどきして透を見つめた。透の鳶色の瞳に不安げなわたしが映っている。透は、ごめんなさい、と言って指を解いた。
「……これ片付けたら、友だちに用があるんで、今夜はそっちに泊まってきます」
透が淡々と言う。わたしは、そう、気をつけてね、と囁いた。きっと自分の感情を持て余しているのだろう。
片付けが終わって透の後ろ姿を見送ると、わたしは床にへたりこんだ。
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