第26話 呼び止める声
文字数 970文字
「ちょっとよろけてるわね。あれ、エッセよね。黄色いエッセなんて女性の初心者かしら」妻がのぞき込むように身を乗り出した。
「追い越した方がいいな。それとも先に行かすか──事故ったらたまったもんじゃないし」
車間距離を取りながら様子を見た。やがてテールランプを赤くして止まったエッセを、ヘッドライトが照らした。後方を確認して横を通り過ぎた。路面に溜まった雨をタイヤが切り裂く音がした。
と、そのときだった。叫びにも似た声が、篠突 く雨を縫って車内に届いた。
「──ださい!」
「なになに、ヤダなんか言ってるわよ。それに男の人だわ。不気味だわよ、あの声」
ルームミラーを見ると、遠ざかるエッセの窓から男が身を乗り出し、さかんに手を振っているのが見えた。
「まさか、エンストして引っ張ってくれって話かな」困惑 しながらもブレーキを踏み込んだ。
「でも故障で困ってるなら見過ごせないわよねぇ……何しろこの雨だし。あーあ、ずぶ濡れになっちゃうわあの人」
後ろを振り返る妻の声に、ギアをバックに入れた。あ、と妻は口を開いた。
「酒臭かったら無視して戻ってきてよ。飲酒運転に関わり合うのは御免だわ」
「分かった」と答えて、半身で後ろを確認しながらエッセの前に車を止めた。雨が気になったが、サイドウィンドウを開けた。
「どうしました⁉」手庇 をかざして窓から半分顔を出した。
「助けてください!」濡れた前髪を振り乱しながら叫ぶ若い男の顔は、ただならぬものがあった。
「どうしたんですか⁉」私は大きめの声を返した。
「刺されました!」
「なに! 刺された⁉」
「なに、それ!」助手席の妻が、悲鳴に似た声を上げた。
これが嘘なら、明らかな悪意が潜んでいる。悪ふざけの冗談なら、頭のおかしな質の悪い人間だ。関わり合ってはならない。
秋山和也は雨を避けるように目を細め、じっと男を見つめた。
学生かサラリーマンか微妙な年頃だったが、街灯に照らされた男の顔は、人を騙して喜ぶふうはみじんもなかった。あれほどまでに驚愕と苦悶に歪む人間の顔を、かつて見たことがない。シートベルトを外した刹那、妻が助手席から身を乗り出した。
「追い越した方がいいな。それとも先に行かすか──事故ったらたまったもんじゃないし」
車間距離を取りながら様子を見た。やがてテールランプを赤くして止まったエッセを、ヘッドライトが照らした。後方を確認して横を通り過ぎた。路面に溜まった雨をタイヤが切り裂く音がした。
と、そのときだった。叫びにも似た声が、
「──ださい!」
「なになに、ヤダなんか言ってるわよ。それに男の人だわ。不気味だわよ、あの声」
ルームミラーを見ると、遠ざかるエッセの窓から男が身を乗り出し、さかんに手を振っているのが見えた。
「まさか、エンストして引っ張ってくれって話かな」
「でも故障で困ってるなら見過ごせないわよねぇ……何しろこの雨だし。あーあ、ずぶ濡れになっちゃうわあの人」
後ろを振り返る妻の声に、ギアをバックに入れた。あ、と妻は口を開いた。
「酒臭かったら無視して戻ってきてよ。飲酒運転に関わり合うのは御免だわ」
「分かった」と答えて、半身で後ろを確認しながらエッセの前に車を止めた。雨が気になったが、サイドウィンドウを開けた。
「どうしました⁉」
「助けてください!」濡れた前髪を振り乱しながら叫ぶ若い男の顔は、ただならぬものがあった。
「どうしたんですか⁉」私は大きめの声を返した。
「刺されました!」
「なに! 刺された⁉」
「なに、それ!」助手席の妻が、悲鳴に似た声を上げた。
これが嘘なら、明らかな悪意が潜んでいる。悪ふざけの冗談なら、頭のおかしな質の悪い人間だ。関わり合ってはならない。
秋山和也は雨を避けるように目を細め、じっと男を見つめた。
学生かサラリーマンか微妙な年頃だったが、街灯に照らされた男の顔は、人を騙して喜ぶふうはみじんもなかった。あれほどまでに驚愕と苦悶に歪む人間の顔を、かつて見たことがない。シートベルトを外した刹那、妻が助手席から身を乗り出した。