第32話 丘の訪問者

文字数 1,266文字

 振り返ると、錫杖(しゃくじょう)の音にでも驚いたのか地蔵の傍らにじっと佇む人影が見える。私は思わず呟いた。

 どういう、ことだ?

 その後ろ姿は明らかに冬の装いなのだ。だとするなら、この人も長く家に引きこもっていたか、いや、それであるなら夏の服装に着替えているはずだ。

 長い闘病生活でも送った人だろうか。いずれにせよ、すぐに息を引き取ったのではないと考えられる。だから季節を引きづり手近な服を着てきたとも。しかし、外はこれほど暑いのに間違えるだろうか。

 私自身がそうであったように、ほとんどの人が部屋で目覚め現実に返る。愛する人が死んでしまったという、この町が見せる方便の現実に。

 それから、重い体と心を励まして着替えることになる。ただ、例外的な人をひとりだけ知っている。気づいたら丘のふもとに立っていたという人を。それは塩田さんだ。彼女もそうなのだろうか。

 私は驚かさぬようにゆっくりと足を踏み出した。(こうべ)を垂れて地蔵に手を合わせる後ろ姿が、やがてこちらに向き直った。歩み寄る私を確認したその顔に、少しの(おび)えの色が浮かぶ。
 私は帽子をかぶり直し、両足をそろえて敬礼をした。

 作業ズボンにランニングシャツ。頭には鉄道の官帽子。首にはくたびれた汗拭き用のタオル。珍妙なスタイルに気を許したのか、小首を(かし)げたあと、真っ直ぐに体を向けて敬礼を返してきた。

 短めの髪に卵のような輪郭。細身のジーンズに一見ゴム長靴のようにも見える茶色いレインブーツ。その左手には淡いブルーに濃い水玉を散らした閉じた傘。その傘の柄に、手作りらしきてるてる坊主が下がっている。

 世を去る原因になった日の雨を是が非でも止んで欲しいと願ったのだろうか、健気(けなげ)に揺れるペアのてるてる坊主。

 オリーブグリーンのミリタリー調のハーフコートを羽織(はお)っているからだろう、額に粒の汗を浮かべている。



 再び歩き出した私がタオルで汗を拭うのを見て思い出したのか、ショルダーバッグから取り出したハンカチで額を押さえた。その姿がだんだんと近づいてくる。足を止め、間近であらためて姿を確認して、声をかけた。

「お地蔵さんに興味がおありですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」口元で右手を小さく振る女性。その左の眉頭(まゆがしら)にはちいさなホクロ。ずいぶんと別嬪(べっぴん)さんだ。

「ただ、なんとなく」そう言いながら左を振り返り、傍らの地蔵に目をやり、やがて右手を立て札に向ける。

「そこに書いてあるのは、どういう意味なんですか」
「あぁ……おん かかか びさんまえい そわか ですね」
「はい」

「この丘の守人だった塩田さんという方が書いたお地蔵様の真言です。簡単に言えば、類い希なる尊いお地蔵さまという意味です。説明を始めると少し長くなりますけど、いいですか」
 彼女はこっくりと頷いた。

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