第14話 菅原悠斗

文字数 1,404文字

「駅長さんが見てもいいって。ありがとうを言おう」秋山さんの声にかぶるように、亜弥ちゃんのありがとうの声と、弾けるような笑顔が返ってきた。秋山さんがポケットのコインを探る。

 いい、これでいいんだ。自分に言い聞かせた。

 展望台を風が吹き抜け、右端の望遠鏡をのぞき込んでいたジーンズにTシャツ姿の年若い男の髪を揺らした。蝉の泣き始めたころ丘にやってきた、菅原という名のまだ23歳の青年だった。奇しくも、秋山父娘と菅原君が初めて訪れた日も同じだった。



 留年や浪人をした学生であるのか、就職していたのかを尋ねたことはない。彼が話す恋人の話に耳を傾けるだげだ。

 恋人は殺された。彼は辛そうに語った。それが真実であるかは無論わからないけれど、死因に言及する人はほとんどいないから、彼の記憶にはそれとよく似た情景が刻まれているのだろう。

 それでも不思議なことに、かつて過ごした街に帰りたいとは思わない。まるで視野欠損でも起こしたように、見えていない部分があることに気がつかないのだ。それがこの町の見せる幻想だった。

 この展望台に、彼はすぐには登ってこなかったようだ。説明によれば、しばらく引きこもっていたそうだ。やめていた煙草に手を出したと苦笑いしていた。それもまた、よく覚えていると感心することのひとつだ。

 秋山さんも同じくで、彼はそれを、娘にいろいろ言い聞かせながら、自らの頭を整理していた時間と言った。

 菅原くんは絶望に打ちのめされ、秋山さんは亜弥ちやんがいたせいもあり比較的冷静だった、と言えるのかもしれない。

『今年成人式だったんですよ。これから楽しい人生が待っていたはずなのに……』

 展望台の双眼望遠鏡に初めて接した日、菅原君は端正な顔を少しゆがめ、寂しそうに口を引き結んだ。彼が恋人のことを、表現をあぐねるほどに愛おしんでいたことは、痛いほど伝わってくる。

『一度別れたことがあったんですよね』ベンチに座った彼は足下の草をむしり、ふっと吹いた。彼の口調はいつも静かだ。

『クリスマスのことです……』
 長い沈黙が続き、風が葉擦れの音を残して吹き過ぎた。注ぎ続ける水がいつしかグラスから(あふ)れるように彼は口を開いた。



『張り切ってディナーを予約したんです。といっても一流ホテルとか名の通ったオーナーシェフの店とかじゃなくて、町場のレストランでしたけど』

 そこは繁華街のビルにある、そこそこ流行っているイタリアンのレストランだったという。

『美味しくて行列必至、今が狙い目だってネットに出てたんです。でも、なんていうんですか? ダブルブッキングですか?』

 彼はその言葉を、とても言いにくそうに口にした。弾んだ気持ちで訪れた店に二人の席はなかった。当然店側は慌てるが席は空いていない。それに予約なしの客も店内の入り口の椅子に座っていた。

 あいにくその日は雨だったため、お洒落をしていた彼女のことを考えて他を探す選択肢は捨てた。そうこうしているうちに待合の椅子も埋まり、恐縮する支配人に二人が与えられたのは、少しガタつく椅子だった。おそらく使われなくなっていたものなのだろう。
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