【マジックミラー】
文字数 25,857文字
【マジックミラー】
目次
・プロローグ・
『マジックミラー』
・エピローグ・
・プロローグ・
***
またかよ、と男は思った。
なんとなく、そんな気がしていた。そろそろ大きい厄が訪れるころ合いではなかろうか、と危惧してはいた。一方で、「まだ大丈夫だろう」といった怠惰な油断がどこかにあった。結果として、気の緩みから舞いこんだ厄に流された。
そもそも、最近、どうもたるんでいる。落し物を拾うペースがあがっている。目のやるところ、あちらこちらに落ちている。こちらに拾ってくれと言わんばかりだ。だから最近は地面を見ないように、どころか、空を仰ぎつつ出歩いている。先日、友人の植木場千衣からは、「年中ロマンチストだな、おまえは」と褒められてしまったほどである。
その友人宅へ急ぐ道中に、それは落ちていた。
拾わずともよかったが拾ってしまった。
善行のひとつでも働いておこう。ついでに、遅刻の言い訳にしよう。
そう思ったのがいけなかった。
けっきょくその日、男は拾ったそれを交番へ届けでなかった。
翌日、目を覚まして男は思った。
――またかよ。
この日から三日後。男は、不本意な変調を来すことになる。
***
女は不安だった。
己の一部を徹底的に否定した過去を持つからこそ、過剰に不安だった。
女は考える。
もしかしたら、わたしが〝それ〟に気づかず、〝それ〟を不安に思わず、〝それ〟を確信しなければ、〝それ〟は異常ではなく、平常へと変わっていたのかもしれない、と。
変えてしまったのは、〝それ〟に対する認識ではなく。
変えてしまったのは、〝それ〟が齎すはずだった未来だったのかもしれない。
気づかず、思わず、認識しなければ。
〝それ〟は、そこに平然とあるものとして、定着していたのかもしれない。
なにも問題はなく。
なんの被害もなく。
有り触れた日常だけが築かれていたのかもしれない。
だからこそ女は不安だった。
『マジックミラー』
❤ラヴ❤
兄の様子がおかしいと気づいてから、二日が経った。
道央坂(みちおうさか)ノボル。これが兄の名だ。
兄の異常に気がついたゆいいつの人間は、道央坂ラウ、彼女ただひとりだけである。
普段から「正常」とは評価しにくい兄であったから、周囲の人間は、兄の異常を「異常」だとは見做さなかった。
そんななかで、なぜラウだけが、兄の異常を見抜けたかといえば、彼女には、兄と周囲とのあいだにある〝差異〟を感じることができたからだ。
――言霊。
以前、兄はその「呪符」のことをそう呼んだ。
要領を得ない説明を、うんざりとしながら聞かされたラウであるが、渡された「呪符」を身につけてから以降、ぱったり、と悩みが途絶えた。
悩みの種、そのものが払拭された。
幼いころから、道央坂ラウには、周囲の人間たちと共有できない風景が視えた。ある者はそれを「幽霊だ」と囃したて、またある者は、「ああ、いるよね」と白河夜船よろしく投げやりに同意し、多くの者は、「幻覚だ」と牽強付会に断定した。どの人間たちも、はなからラウの証言を真に受けたりしなかった。
――そんなものなど存在しない。
かような前提で、ラウの言動を捉えていた。
だが、ラウにはたしかに視えていた。彼女からすれば、みんなのほうが異常に思われてならなかった。
なぜこれだけのモノが視えないのか。気づけないのか。不思議でならなかった。
成長するにつれ、ラウは自身のほうを疑うようになった。ほどなくして悩みはじめた。異常なのはみんなではない、みんなが言うように、わたしのほうだったのかもしれないと。
己がひどく異常に思われた。病気であるならば、治しようがあるだろう。そう思い、医師の診察を受けようか、と考えたこともある。けれど、自身を異常だと思うようになってからは、視えてしまうそれらを無視することで、健常であるフリをしていた。両親もまた、こちらのその演技に安心している。いまさら不安になどさせたくない。不審な目で見てほしくもなかった。いまさら病院へ罹ろうとは思わない。
そんな周囲のなかであっても、兄だけはむかしから、こちらの言うことを真っ向から信じてくれた。
「うっわー! すごいじゃん!」「なになに、ここにいるの?」「ここになにかいるの?」「うっきゃー!」「こわいですよ!」「ちょっとラウちゃん、トイレまでついてきて」「ついでに今日はいっしょに寝てちょ」
ぎゃーぎゃー騒ぎたてていたのを未だにつよく覚えている。兄はむかしから現在にいたるまで、アホみたいに幼いままであるから、他人を疑うことを知らなかっただけかもしれない。あのとき身近にあった兄の反応を懐古するたびに胸が、ほっこりする。
いつまでも間抜けな童心を宿したままの兄であったから、いよいよとなったとき、ラウはためらうことなく兄へ相談した。
いや、相談などではない。
泣き縋ってしまったのだ。
いまとなっては醜態としか言いようがない。
けっして仲のわるい兄妹ではなかったが、仲が良かったとも言い難い。物心つきはじめたころから、互いに距離を置きはじめた。嫌っていたわけではいない。ただ、世のなかの兄妹というものは、そういうものなのだろう、といった漠然とした思いがあった。
十四歳の誕生日を迎える、三日前だった。
「わたし、狂ってる」泣き縋るように兄へ告白した。
どこもかしこも、視たことのない生物に覆われていた。それらもまた、周囲の人間にとっては視ることの叶わないモノ、共有されることのない風景だった。
自分が信じられなかった。これほどまでに気持ちわるく、恐ろしく、不気味な存在を目にしてしまう自分が。あたかも、自身にある醜悪な心の歪みが、こうして視覚化して風景にまざって視えてしまうっているようで。わたしはこれほどまでに腐った人間なのかと見せつけられているようで。たったひとり省かれてしまったようで。みんなとはけっして分かち合うことのできない存在であるかのようで。
心細かった。
このさきもわたしはたったひとり、こんな世界を生きつづけなくてはならないのか。こんな世界を抱きつづけなくてはならないのか。あのブキミな生物が家族や友人たちの身体に張りつき、まるで寄生するかのごとく、うごうご、と蠕動しているというのに。かれらはそれに気づくことなく、わたしだけがそれを、はらはらと、むかむかと、イヤイヤと、大好きなひとたちを見て嫌悪を抱いてしまう。そんな生活、耐えられるはずもなかった。毀れてしまいそうだった。狂ってしまいそうだった。いや、すでに狂っているからこそ、このような風景がわたしだけに視えてしまっているのだ。
狂っていることが日常となってしまっている自分がひどく恐ろしくなった。
この醜悪な世界に慣れてしまいそうな自分――いや、現に慣れつつある自分がどうしようもなく厭だった。
「わたし、狂ってる」
いつかきっと、そう口にすることもできなくなり、
「みんなのほうが狂ってる」
そう責め立ててしまいそうで。それがひどく不本意で。不本意なのに、そうなるだろうことが半ば自明だった。
視たくないに視えてしまい。視てほしいのに視えはしない。
理解してほしくて。理解しあいたくて。けれどそれは、この醜くも幻想的な世界を、大好きなひとたちに強要してしまうということで。仮に共有できる術があったとしても、そんなこと、したくなどはない。できるはずもなかった。
目をつむるにはあまりに凄惨な風景である。目を背けるにはあまりに切実な現実がある。
自分ひとりだけでの解決など無理だった。自分ひとりだけでいるなんて限界だった。
「お兄ちゃん……くるしいの」
凍てつき。
渇き。
ぼろぼろ、と。
崩れ去りそうなラウのなにかを。
やさしく撫でてくれる兄の手は。
そっと。
ほっと。
ぬくぬくと。
そそぐように満たしてくれた。
くるしみが、ふわり、ふわり、とけていく。
「だいじょうぶだって」
兄は言った。
とても無責任な言葉だった。だのに不思議となみだが溢れた。
「なにが不安なんだよ」兄が抱きしめてくれた。こちらの震えを抑えるようにし、「狂うなら狂えばいいだろうが」
ぎゅう、とつよく。
ふんわり、とやわく。
一身に引き受けてくれた。
ふるえと、
なみだと、
くるしみと。
――もういいんだよ。
そう言ってもらえた気がした。
――そのままだっていいんだよ。
やっと受け入れてもらえた心地がした。
それから二日後。ラウの悩みは一応の解決をみせた。
兄のおかげだ。でも、素直に感謝を表せなかった。泣き縋ったことを恥ずかしく思い、真正面から正直に感情を伝えるのもまた照れくさかった。
それがおよそ二年前のこと。
そして、現在。
視えないものを視てきたラウだからこそ、兄の異変に気がつけた。
いつものように、兄が落とし物を拾ってきた。その数日後のことである。ラウは気づいた。
兄が、不審だ。
いや、挙動不審にならぬようにと、平常を装っている。その素ぶりが不自然に映った。ほかの者たちからすれば、極々自然な兄、いつもと変わらぬ兄に映っていたことだろう。訝しむことすらなかったはずだ。
わたしだからこそ見抜けた。そういった、どこか自虐じみた自負がある。
演技を演技だと思わせない演技。そうした矛盾然とした取り繕いを見抜くには、観客たるこちらもまた、同じような演技ができる者でなくてはならない。餅は餅屋。そうでない者に、その演技を見抜くことはできない。
兄はしきりに、よこを窺っていた。
扉をくぐったあとに、わざわざ数秒の間をあけてから閉めていたり、ふとした瞬間に、あたふた、と取り乱したり。
まるでそこに透明人間がいるかのような素ぶりを必死に誤魔化そうとしていた。
むろん、そこに透明人間などはいない。なんども、ラウは確かめた。その都度、兄は、はらはらとした胸中を隠すようにこちらの邪魔をした。負けじと不意を突き、兄のよこを通り抜けてみたりしたものの、なにかにぶつかるようなことはなかった。
徹底的に兄を観察してみよう。ラウはこの日、決意した。
のボールの
「いつまでついてくるんだよ」半ば自棄になって投げかける。案の定、返事はない。「はいはい」と頭を掻きむしり、「捜せばいいんだろ」と足元を見遣る。
童女が、ちょこちょこ、まかまか、とついてくる。こちらを見上げ、目が合うと、なにが楽しいのやら、唇を一文字に結んだままにっこりとほほ笑む。
まえ髪を、ぱっつんと斜めに切りそろえてある。背は低い。ノボルの腰骨よりも低いが、容姿からは幼さを感じられない。幼児にちかい体躯であるが、表情には、凛、とした明確な理性が宿って見える。
この二日間、このコはまるで口を開かない。うなずくか、首をよこに振るか、眉をひそめるか。或いは、こうして可愛らしくほほ笑むかの、パターンとしては四つしかない。あとは、これらパターンの組み合わせがあるだけだ。たまにすそを引いてくるが、そのたびにこうして外へと導かれる。ノボルとしては当てのない散歩になるが、きっとこのコには、当てがあるのだろう。
現に、昨日はそうしてコレを見つけた。
ノボルはポケットのうえから、ソレを撫でる。
――青白くかがやく石板。
一昨日にも同じものを拾った。ことの発端はそれだった。
友人の植木場チイに呼び出されていた身のうえゆえ、交番に届け出る余裕もなかった。寝坊したせいだ。
とどのつまりが自業自得だ。
石板を拾った翌日のこと。目を覚ますとこのコがいた。まるで三カ月前のような展開であったが、これまでにも非日常を経験していたノボルであるから、もはや瞠目するにも及ばない。
この童女が何者なのかは定かではない。はっきりしているのは、彼女の姿が周囲の人間に視えていないという現実。いや、視えていないだけならば、彼女の実存を証明することはさほど難しくはない。だが厄介なことに、この童女――なぜか、その存在をなんびとにも悟られることがない。
存在しない存在。
だが実際にこうしてノボルには、このコの存在が如実に感じられる。感じられるどころか、視て、触れて、意思の疎通まで果たせてしまう。
幽霊か。
はたまた妖怪か。
座敷わらしという物の怪がこれにあたるかもしれない、と訝しんだりもした。一方では、姿が視えないだけでなく、他人に存在を悟られない点を鑑みれば、むしろ、ぬらりひょんにちかいかもしれない、などと無駄に穿鑿してみたりもした。ただどうにも、このコの雰囲気は、古ぼけてもいなければ不気味でもない。服飾にいたっては、近代的すぎるほどだ。
どこか赤みがかったストレートの長髪。包み込むように首元に巻かれているマフラーはサイズが合っていない。体躯に対してずいぶんと大きく、両手で押さえていなければ、口元が隠れてしまう。彼女がほほ笑むときはいつも、マフラーを両手で、ぐい、と引いてわざわざ顔全体を覗かせる。色彩の豊かなぽんちょを羽織っているから、一見すれば秋の妖精だが、今は冬だ。季節はずれとも言える。ホットパンツ然としたスカートのしたにはレギンスを穿いている。寒くないのだろうか、と心配になるが、本人はいたって平気そうだ。いずれにせよ、妖怪には見えない。
また、彼女は口を開くことがない。
無口、と言えば端的ではあるけれど、それにしてもおかしい。
ここ数日、飲食している姿すら見ていないのだ、通常の人間ではないだろう。
意思の疎通も一筋縄ではいかない。こちらが一方的に質疑を口にし、彼女が首をたてかよこに振る。イエス/ノーをそうして示してもらい、ノボルが彼女の意向を察する。
連想ゲームじみた質疑応酬の末、おおよその状況を把握した。同時に、童女が現れた目的も判明する。
ノボルの拾った落し物。
――石板。
拾った時点で大きく欠けていた。かなり古風な代物と見受けられる。風化はしていない。歴史を感じさせる外貌ではあるものの、緻密に刻まれた紋様がいっさい崩れていないのだ。材質はおそろしく固く、かつ頑丈であり、どうしてこれが割れてしまったのか、と首をひねらざるを得ない。
道に落ちていたのを見つけてしまったときのことを思いだす。よほど高価な骨董品にちがいない、と浅薄に断じてしまったのが運の尽き。こうしてまた、避けられたはずのイザコザに巻き込まれてしまった。
童女の主張によれば、ひとつの石板が割れてしまったのだという。ノボルの拾った石板のほかにも、欠けた石板が複数枚あるらしい。
それら破片を集めて、元通りにひとつの石板にしてくれないか、といった要望だった。
――お断り願いたかった。
ざんねんなことに、こういったお願いを聞き入れて、良い思いをした試しなどいちどもない。ただ、見た目がこうも、いたいけなのでは、追い出すにも気が引ける。
そういうわけで、一応の話を窺うことにしてしまったが、いま改めて思い起こしてみれば、その配慮もまた失敗だった。
このコに限っていえば、いっさいの配慮が不要だからだ。
飲まず食わず、一日中、歩き通しでも、なんら疲弊を窺わせない。へろり、と平気な顔をし、いつまでもどこまでもこちらのそばに付きまとう。言を俟つまでもなく、ノボルのほうが根をあげた。それが昨日までのことである。
童女の、コロコロと変わる指示を受けては、街中を歩き回った。そうしてようやくひとつ、石板を捜しあてた。カラスの巣の中にあったもので、見つけるまでもひと苦労だったが、見つけたあとで回収するのがまたいちだんと骨が折れた。
くたくたになり、帰路に着いたのが明朝の四時になってからのことで、家に帰ると、妹がまだ起きていた。
こちらの泥だらけの薄汚れた格好を見て、けらけらと笑った。
「ドロボウでもしてきたの」
「うん。そう」と肯定する。「泥棒してきたの」言い返す気力も湧かない。
「うっそ!? どこから」
「カラスさんの巣から」
妹はしかめ面を浮かべた。
こいつ、あたまだいじょうぶかよ、と言いたげだった。
「もうダメ。おやすみ」
言って自室へと向かう。妹の不審そうな視線が痛かった。
就寝して起床。
こうして迎えたのが本日だ。
目が覚めても童女は消えていない。ずっとベッドのそばに佇んでいる。まるで幽霊であるけれど、これが幽霊であるならばまだ解決の余地がある。お祓いをするか、成仏させてやればよいのだ。それが、どうしたものか、このコは、存在するのか存在しないのか、その区別すら定かではない。
壁を通り抜けたり、宙に浮いたりと、そういった超越的な動作ができるわけでもなく、普通の人間と同じように、地面を歩み、手で物を掴み、壁にぶつかったりする。そこに奇怪な性質は見てとれない。
だが、不思議なことに、彼女の行動すべて、誰の目にも触れない。
たとえば、このコが興味深そうに食卓に並んだ料理に手を伸ばすとする。彼女の姿が視ていない家族たちからすれば、お茶碗やらお皿やらが宙へと持ちあがって視えてしまうことだろう。当初はそれを危惧したノボルだったけれど、童女がいくら自由気ままにふるまっても、彼女のしでかす行為に対しては、ことごとくの他人が関心を示さない。目のまえで茶碗が割れようが、料理をぐちゃぐちゃにされようが、まったく動じない。それどころか、
「あら、いけない」
と、淡々と処理をしだす始末だ。まるで自分が割ってしまったと思い込んでいる。
これらの光景は、真実に童女が存在している、と証明するのに、有効な現象であると共に、童女がただ者ではないという疑惑を確信づけるのにもまた有効な現象だった。
このコは、真実存在する。童女の一挙手一投足がこうして物理世界に干渉していることでそれは明白だ。一方ではやはり、ノボル以外の者はおしなべて彼女の干渉に対して無関心を貫いている。
まるで視えていない。
童女の姿と、その存在を示す事象のすべてが。
童女の干渉が、あまねく他者に認識されない。
「いつまでついてくる気ですよ」この台詞は、他者からすれば、十割、ノボルの独り言だ。
そうでないことを証明するなど、とうてい不可能だ。
認識できないものをどうして信じられるだろうか。すくなくとも、根拠が「根拠」足りうるためにはまず、「根拠」となるべき事象を観測できなくてはならない。観測とは、認識と同義だ。目に見える必要はない。触れられる必要もない。感じられればそれでよい。そんな漠然とした観念である。そんな漠然とした観念を共有できさえすれば、それは「根拠」として受け入れられる。
だが、このコの存在は、感じさせることすらできないのだ。
すでにノボルは諦めている。どう説明しようとも、こちらの行うこのコへの対処は、総じて、不審な挙動として見做される。たびたび「ヘンタイ」と不本意な評価をくだされているノボルであるが、これ以上「ヘンタイ」のレッテルを張られるわけにはいかなかった。
足元に、ぴったりとついてくる童女。
こちらを見上げ、不安そうな顔をする。
「はいはい。わかっておりますよ」
さっさと石板を集めりゃいいんでございましょ、と約束する。半ば投げやりだ。
両手でマフラーを抱くように押さえながら彼女は、にっこりとほほ笑んだ。
❤ラヴ❤
兄の様子がおかしいと気づいてから、三日目。
夜行性の兄が、一昨日からは完全に規則正しい生活を過ごしている。明朝に帰宅するのは変わらずだが、珍しいことに午前中に目を覚ます。それから、遅めの朝食をさっさと済ませると、「行ってきます」とお出かけするのだ。
おかしい。
そして、あやしい。
うれしいことに本日は休日だ。哀しいことに予定はない。こんなこともあろうかと宿題は済ませてある。ラウは、いそいそと出かける準備をする。身だしなみを整え、髪型を整え、気合いを入れ、準備万端。そとは真冬なみの寒さとなるらしい。防寒はばっちりだ。
兄の追跡を開始する。気分はすっかりスパイである。
対象が家を出てからすでに三十分が経過している。だが心配には及ばない。こちらには、最終兵器、GPS機能付きメディア端末がある。兄とおなじ型だ。ラウのものではない。持ち主は母だ。いつも家に置きっぱなしにしている。いくら便利だからといっても、用途がなければ宝の持ち腐れだ。
さっそくメディア端末を起動させる。兄の持つGPSを探索。ディスプレイに地図が表示される。拡大させる。赤い点が移動していた。それが兄の現在地なのだろう。この町から車で数十分の場所、繁華街にある駅まえのようだ。
家を出る。もとよりの駅へと向かう。五分ほど歩いて到着し、そこから地下鉄に揺られることおよそ十五分。中心街で降りる。そのあいだにも兄は、街中を右往左往している。どうやら、目的地が定まっているわけではないらしい。
ひとまず、兄の姿を視認することにした。
のボールの
――おれは腑抜けかッ。
声にださずに憤怒した。
この無口な童女。思っていた以上に奇怪な存在だ。
おいおい勘弁してくれよ、と久々に血の気が引いた。
――このコ、人間を通りぬける。
カラスを追って山間を駆けずり回った昨日とは異なり、今日は雑踏の濃い中心街に出向いた。そこで判明したことである。
他人に触れることもできなければ、触れられることもない。ゆいいつの例外は、ノボルだけだ。
これだけの人込みのなか、童女は、文字どおりに素通りしていく。対向者があってもまったく意に介さない。彼女、ノボル以外の人間には接触できないようである。
ここだけを見れば、「幽霊」という解釈で、十二分に納得できそうだが、やはりというべきか、壁や地面などの無機質に対しては、どうあっても作用してしまう彼女であるから、実に奇怪だ。
「きみさ。ほんとに何者?」
返事を期待できずともそう口にせずにはいられない。案の定、彼女は困ったふうに首を傾げてほほ笑むだけだった。
さしずめ、「ごめんなさい。言えないの」といったところだろう。そんな仕草だ。
いい加減、彼女の素性を穿鑿するのにも飽いてきた。「あのさ。きみのなまえ、かってに付けてもいいかな」
いちいち、「きみ」と呼ぶのも煩わしい。ノボルが、「きみ」と口にすると、周囲の人間が反応するからだ。連れのいない孤独な男がすぐそばで、「きみ、いい加減にしてくれない」などと口にしているのだから、自分に向けられた言葉だと勘違いされてもおかしくはない。
一方で、仮に、無口の「ムーちゃん」と呼称すれば、雑踏のなかで白い目でみられることもないような気がしないでもなかった。ニックネームさえ決まっていれば、メディア端末を耳に当て、いかにも「他者と会話中のおれ」を周囲に示すこともできる。もっとも、会話の相手は、すぐそばにいるわけだが。
視線だけをさげて見遣ると、童女がスキップしていた。
「もしかして、付けてほしかったの? なまえ?」
彼女が、うんうん、とうなずいた。珍しく溌剌としている。期待するような眼差しでもある。
「ならね」ノボルは考えた。一見すれば、さほど厭な名前ではないが、実は厭な名前を付けてやろう、と企む。「ならね、きみは今から、『ルノ・スティック』だ」
自分の名である「ノボル」を文字って付けてやった。わざわざ、そうと説明してやる。「ルノの棒だ」
ルノと呼ぶから覚悟しろ、とおどけてみせる。
厭な顔をされても、それで押し通すつもりだったが、案に相違して彼女はよろこんだ。あまりに楽しそうにスキップとするものだから、ノボルも合わせて跳びはねた。
周囲からの白い視線が九割増した。
風が冷たい。
もうすぐ、雪が降るかもしれない。
❤ラヴ❤
兄がなにやらスキップをしている。
「あいつ……アホか」自分のように恥ずかしい。
自然と手にちからが入る。ファーストフードが、ぐしゅり、とつぶれた。
GPS機能を参考に、兄が通過するだろう地点で待ち構えていた。商店街の一画で、小腹が減っていたこともあり、ファーストフード店で見張ることにした。お店が二階にあったから、通行人たちが、ごみごみ入り混じるさまを、アツアツのハンバーガー片手に眺めた。一種、異様なパレードを観賞するような気分だ。推定時刻から、数分遅れで、兄が姿を現した。スキップをしていたから、一目瞭然だ。
「やめれぇ……」
もうやめてくれ、と届かぬ想いをラウは祈る。
身内の恥じがこれほどまでに、恥ずかしいとは思わなんだ。ちょっと気を抜けば、この場で悶えてしまいかねない。
――慙愧に堪えん。
それ以上に、
――正視に堪えん。
この場はひとまず、見逃すことにした。目を伏せる。ぜえ、ぜえ、と呼吸を整える。
家族がそとでどのように活動しているのか。
かような身内の生態を目にする機会など、とんと少ないものである。まさか、ああもイメージとかけ離れているとは。どこか恐怖じみて感じられる。精神的なダメージがちいさくない。
帰ったら母にチクるか。いや、それは今回の件が解決してからでも遅くはない。あのスキップが、兄の異常によって齎された奇行であるならば、まだ情状酌量の余地がある。
だがやはり、報告すべき事項だろう。
看過するにはあまりにも甚大だ。こちらの受けたダメージが。
食べかけのファーストフードを一息に口のなかへと放りこみ、ラウは席を立つ。
ここまできたら、兄の弱みをすべて握ってやる。土下座する兄の悲痛な顔が、目に浮かぶようだ。
ラウは店を後にした。
のボールの
「カラスのつぎは野良猫かよ」
勘弁してくれよ、と本気で泣きたくなる。
ノボルは猫が苦手だ。それもこれも、カンザキという男の影響だ。顛末を語ると長くなるが、ともかく、断固として、カンザキという男の影響である。
本来は猫好きのノボルだったが、往々にして、好きだからこそ嫌いになるということがある。美しいからおぞましく、愛しいから憎々しい。そうした自家撞着があるものだ。ノボルの猫苦手意識もそれにちかい。好きだったからこそ、ほんの一瞬のきっかけで、忌避したくなってしまった。関係ないが、理想というものは、高ければ高いほど、転落するのもまたはやいという。どうやら、挫折というものはそういうものであるらしい。
本日の石板捜しは、猫を追うことに終始しそうだ。
すでに辟易としているこの状態で、どれだけ奮闘できるだろうか。健闘を祈る、と他人事のように唱えてみる。
さあ、行きましょう、とばかりに「ルノ」こと童女が裾をひっぱり、先を急かす。
「はいはい。わかりましたよ」
全部そろえたら、願い事のひとつでも叶えてくれるんだろうなあ。
他愛もない愚痴を今さらのようにノボルはこぼす。
❤ラヴ❤
「あんの……あほんだら」
全身の力が抜けた。ショルダーバッグが肩からずり下がる。
兄が猫を追っている。
せっかくの休日だというのに、身内のアホな生態を観察するだけで終わりそうだ。
兄が異常かもしれない、というのはどうやら杞憂だったらしい。
なんせこの通り、兄は異常だ。
異常なことが自然である者にとっては、異常であることが平常なのだ。つまり、それが普通なのだ。たとえばそれは、生きている人間にとって、生きていることが自然と見做されてしまうように――などと、哲学的な思索にラウは逃げた。
これ以上、兄の奇行を眺めていると、あいつの妹こそが自分なのだ、と思いだしてしまいそうで癪にさわる。
血が繋がっている兄が休日の真っ昼間から、こんな街中で、地べたを這いずりまわりながら猫を追っかけまわしているのだ。ちょっとでも気を抜けば、あやうく全身を巡る、血という血を抜き取って、赤の他人となるべく、それこそ心血(新血)を注いでしまいそうだ。
ちょっと上手いことを言ってやったぞ。
当初の目論みどおり、ラウの意識は兄から離れる。
のボールの
うっクシュ。ノボルはくしゃみをこらえる。むずむず、と鼻をこする。
あの猫、名を「ポコタン」というらしい。野良猫にはちがいないが、通り名があるほどに、この界隈では有名な猫であるという。野良猫のボス的存在だ、とも聞いた。どこから聞いたかといえば、こちらに好奇の眼差しをむけながら井戸端会議に花を咲かす主婦や女子高生、果ては男子高生たちのささめき声、それが風にまじることなく露骨に聞こえてくる。彼らにしてみれば、やけっぱちになって「ポコタン」を追っかけているこちらの姿が、職務上やむを得ず野良猫駆除にやってきた保健所役員のように映っていたことだろう。「がんばれー」との声援が、ちらほらと聞こえてくるほどだ。
大方このポコタンは、有名であると共に、蛇蝎視されてもいるのだろう。
魚屋さんからホッケを咥えて遁走したり、八百屋さんからミカンをくすねたりと、商店街のみなみなさまから、たいそう不人気でおわすらしい。それをこうしてノボルが、惜しげもなく醜態を発揮し、えっちらほっちら追いかけているものだから、商店街の商人や通行人たちは、高みの見物を決め込みつつも、気やすめ程度の声援を投げかけてくれるのだ。
率直に言おう。ありがたくない。
およそ二時間、孤軍奮闘した。
ボス猫ポコタンをいちどは鷲掴みしたものの、あまりに激しく暴れるため、
「ぎゃあ、こわい!」
と手放した。
ポコタンを近くで眺めて、判ったことが一つある。実はポコタン、猫ではなかった。なにを隠そう、この猛獣、タヌキである。
昔から、狐狸は人を騙すという類の奇譚がある。ならば、実際に騙すことはなくとも、そういった巷説が人口に膾炙してしまうくらいに、タヌキやキツネが、賢そうなケモノだということになるだろう。どうりでモジャモジャしているわけである。
石板はどうやら、この化猫ならぬ「偽猫」の毛玉に絡まっているらしい。
よくよく観察してみれば、毛玉に、たくさんの異物を取りこんでいる。一見タヌキに見えない理由はここにある。だいいちに体毛が、ぐわー、となっている。ぐわー、としか言いようがない。ポコタンが道路を駆ければ、その様はモップの化物だ。しかも、ただのモップの化物ではない。薄汚れたモップの化物だ。こわいし、ちたない。
いずれにせよ、ポコタンは、道端に落ちている代物を気にいれば、それを毛に絡めて取りこみ、常時身に付けているようだ。石板もその中の一つとしてくっついているらしい。
こちらの希求しているものはなにも、薄汚れたポップの化物などではない。だが、やつを捕えられなければ、欲する物が手に入らない。ノボルは悟った。闇雲な捕獲作業では埒があかない。
ここは、巧妙な作戦が必要だろう。あごを撫でながら思索に耽る。
ふと、すそを引っ張られる。ルノがこちらを見上げている。
腰を落として、「どうした?」と見詰め返す。
眉をしかめ、首をひねっている。
まだなの? といった仕草だ。
まだなのだよ、とむっつり返す。ルノがうなだれた。すかさず、「待ってなさい」とおでこを、ぺちりとやさしくはたく。「あんなクソモップごとき、すぐに捕まえてみせますって」
❤ラヴ❤
こんどはいったいなんなのよ。ラウは歩道橋のうえから、兄の様子を窺った。メディア端末の望遠機能は倍率三六倍まで可能だ。
兄が商店街を離れ、雑踏のうすい路地裏へと入っていく。
手には、袋と檻。商店街で買い物をしてきたかと思ったら、あんなものを買ってきて。守銭奴な兄からは信じられない出費だ。
ビルに遮られて姿が見えなくなる。
ちょっとだけ場所を移動する。こんどは路地裏が一望できた。
檻を地面に置き、兄がひざまずいている。袋に手をつっこみ、四つん這いになった。
なにをしているのだろう。
メディア端末の望遠レンズを覗く。
兄は袋の中身を地面に並べはじめた。
出てきたものは、魚やら果物やら缶詰めやら、ゲテモノのおもちゃなど――それらを檻のなかへ放りこむと、兄はその場を離れ、十メートルほど離れた茂みに身を隠した。
隠れたのはよいが、残念なことに、こちらからは丸見えだ。たいへんみっともないザマである。きっと兄の意識は完全に檻へと向かっているのだろう。檻のある方面から、兄の姿は見えないはずだがその実、背面が、表通りに露出されているから、身内としては今すぐにでも、醜態を極めたそのケツを蹴りとばしてやりたい。
ただ、ラウは自分を慈悲ぶかい女であると自負しているから、今すぐにではなく、この懸案が解決を見せてからぞんぶんに蹴り飛ばしてやろうと神に誓う。
のボールの
この路地裏は、ポコタンの通り道であるらしい。ノボルはここに罠をしかけた。
賢いといえども、所詮はケモノ。目のまえに好物がぶらさがっていれば、食いつかぬわけにはいかぬだろう。
とっとときやがれ、単細胞め。
あとは獲物がかかるのを、こうして優雅に待っていればよい。策士、策に溺れないためには、繊密な計画など不要だ。裏の裏をかこうとするからヘマをする。ならば、単純な罠を巧妙に仕掛ければ良いだけのことだ。畳をいくつも積み重ねれば、重層な壁となるように、単純と単純を組み合わせれば、それはもう、重畳だ。
罠を仕掛けてから待つこと十分。ようやく標的が姿を現した。
――ポコタン。
ボス猫に擬態した、ぼろモップのような、クソったれタヌキ。
通り慣れた道だからだろう、さきほどまでの警戒しきった身のこなしではない。ぽてぽて、と歩んでいる。どこか愛嬌すら漂って見える。
縄張りであるこの道に、見慣れぬ檻が置いてあると気づいたようで、ポコタンは立ち止まった。様子を窺っている。迂回しつつ歩を進めている。檻のなかの代物には興味を抱いている様子だ。鼻をくんくん動かし、距離を縮めていく。ポコタンが檻のなかに顔をつっこんだのは、登場してから五分後のことだった。そのあいだ、ノボルは手に汗を握り、息を潜める。
❤ラヴ❤
兄が草かげに身をひそめてから、およそ十五分。通行人の、不審感を露わにさせた視線にすら気づかずに、あのバカはいったい何をしているのか。
〝風に動くぼろ雑巾〟を相手にいったい何を――と、ラウは気が気ではない。
どこからともなく飛んできたぼろ雑巾が、檻のなかへ吸い込まれるように入った。
待っていたかのように、檻が閉じる。
草かげから飛びだし、兄が檻のもとへと駆けていく。
なにやら雄たけびをあげそうな剣幕で檻を両腕で抱えあげている。やがて中身を確認しはじめるが、なかには用途不明の雑貨と、ボロ雑巾が入っているだけだ。なんら捕まってはいない。にも拘わらず兄は、満足したように檻を抱えたまま路地の奥へと入っていった。そちらの方向は、森へと通じている。
ラウは、ぎょっとする。
兄がふたたびスキップしはじめたではないか。やがて道の奥へと姿を消していく。
「そのまま消えちまえ!」
殺意を胸に、しかし尾行だけは続行だ。
のボールの
檻が閉じた。
茂みから飛びだして檻に近寄る。むんず、と掴む。なかでうろたえるポコタンにほくそ笑む。「ったく、このやろう」
手間かけさせやがって。「猫を騙った罪は重いぞ」
ポコタンが、きゅうん、と鳴いた。
かわいこぶったって、もうおそい。ノボルは鼻息を荒くする。
さてどうしたものか。
ここで石板を回収するには、ちと不適切に思われた。路地裏とはいえど、すぐそばが表通りに面している。動物虐待の嫌疑をかけられては敵わない。不当に誤解されることほど、もどかしいことはない。
裏路地の先は森へと繋がっている。ならばそこでポコタンを思う存分モミしだき、石板を奪還することにしよう。檻を抱え、歩を進める。
足元でルノが、ご機嫌に跳ねている。ちいさなその手はこちらのすそを掴んで離さない。宿敵への勝利を掴んだノボルもまた、スキップスキップらんらんらん、と陽気に跳ねた。
檻のなかのポコタンが丸くうずくまる。
すこし可哀想に思い、
「すぐに出してやるからな」と約束する。
ポコタンは、くうん、と耳を立てた。
だが、あまりにジャングルジャングルもじゃもじゃしているため、そこから石板のみを取りだすのは、さすがにちと至難に思われた。「あ、すぐはウソかも」と訂正する。
ポコタンはしなびるように、ふたたび耳をたたんだ。それを珍しそうにルノが、ほえー、と眺めている。檻にゆびを突っこうもうとするので制する。
「やめなさい。あぶないでしょうに」
ほへー、とルノがびっくりした顔をした。なんだか、妙に懐かしい。ふと、妹の顔が脳裡に浮かんだ。
❤ラヴ❤
兄が森に入ると、GPSが反応を示さなくなった。
きっとこの森の地形か、または地質に問題があるのだろう。磁場が狂うのか、なんなのか。詳しい要因は不明だが、どうやら圏外であるらしい。
見失う前になんとか兄の姿を捕捉することに成功した。追跡を続行する。
森のなかは薄暗い。
防寒は重層にしてきたはずだが、身体が総毛立つ。寒さもさることながら、ここは不気味だ。
不気味なのは森の雰囲気だけではない。
兄の奇行が不気味だ。
檻から出したボロ雑巾を、ごしごし、と地面に押し付けている。かと思えば、ボロ雑巾を抱きかかえ、地面を転げまわる。さながら子犬とじゃれるかのごとくだ。
こりゃいよいよ本格的にまずいぞ。ラウは唇を噛みしめる。
自明どころの話ではない。
――わたしの兄は異常だ。
重要なのは、「兄が異常」ではなく、「わたしの兄が異常」なことだ。
赤の他人がどれほど狂っていようが、こちらに危害が及ばないかぎり関係はない。ひるがえっては、身内の異常事態は、どんなに無害であっても、看過できない。
そこに理由はない。仮に理由があっとしても、その理由を抜きにしたって見過ごせない。
ラウはいかなる状況であれ、常にこう考える。
――わたしの家族が異常であってはならない。
なぜなら、自分以上に異常な者を、ラウは未だかつて見たことがないからだ。
そんな自分を、家族は普通の人間として見てくれる。異常者ではなく、ほかのみんなと同じように見做してくれながら、特別な感情を抱き、注いでくれもする。
それが世間一般で言うところの「愛」なのかは分からない。そもそも「愛」なんてそんなもの、見たことも触れたこともない。
未だにラウは、「他人と共有できないモノ」を視る。だが、みんなの言うような「愛」を、感じたことはない。
仮に、家族が自分に対して与えてくれているコレが、「愛」だというのなら、なんてつまらないものだろう、と思う。ラウにとって、こんなモノは当りまえであるからだ。与えられて当りまえのものであるし、相手にそそぐことも当たりまえなのだ。みなが声たかだかに謳い、崇めるような代物ではありえない。
つまりやはり、当りまえなのだ。
そこに理由はない。根拠もない。ゆえに、「愛」などもなくてよい。
こんなモノは、どこにでも有りふれていて、どこにでも溢れていて、だからこそ、特別でもなんでもなくって、けれど、だからこそ、特別なのだろう。
この地球がわたしたちにとって当りまえの存在であるように。
この宇宙がわたしたちにとって当りまえの存在であるように。
けれど、
この宇宙が無くては、わたしたちが存在し得ないように。
この感情もまた、わたしたちが存在するには必要なのだ。
その必要なモノが、「愛」か否かは関係ない。重要なことは、こうして兄の奇行を目の当たりにし、それを奇行だと思っていながらにしてなおも許容してしまいたいとなんの戸惑いもなく思えてしまう、そんな自分がとんでもなく気色わるい、というこのどうしようもなく看過できない現状こそが究極的に問題なのだ。
――わたしの家族が異常であってはならない。
たとえ、世界中が兄を異常者と見做したとしても。
わたしだけは、お兄ちゃんを異常だなんて見做さない。
わたしのお兄ちゃんは、異常なことが平常だから。普通なほうが異常なのだから。
しかしそれでも、だからこそ、
ボロ雑巾と戯れているこの兄の姿は、ラウの許容し得る兄の異常ではなかった。
――わたしのお兄ちゃんは、こんな、わたしみたいな狂い方をしてはいなかった。
以前、失望と絶望の狭間でゆれていたラウに、兄は言ってくれた。
なにが不安なんだよ、と。
狂うなら狂えばいいだろうが、と。
兄はこちらのいっさいを拒もうとすらしなかった。兄のその「想い」と「覚悟」と「狂い加減」は、ラウにとっては心地のよいぬくもりに満ちていた。
それでもラウは、自分の異常性が厭だった。己の異質を疎んでいた。
兄が受け入れてくれると言ってくれた、その性質を。
できるなら取り除きたかったし、消し去りたかった。
そんな、わたしの異常を。
――兄は払拭してくれた。
ラウは感謝している。そんな狂った兄がすきだった。いまだってすきだ。兄の狂った部分を含めてだいすきだ。
その異常さは、だから、兄が兄であるために必要な成分で、それはきっと、みんなが言うような「個性」であって。除去すべきものでも、矯正すべきものでも、ましてや、否定する必要もないもので、ラウにとっては「個性」以外のなにものでもなくって。
けれど、でも。
ラウの異常は、自分で自分を否定してしまいたくなるほどに厭な性質で、それを「個性」などと呼ばれたくはなくて、ラウはだから変わろうと思った。だから祈った。兄に泣き縋ることで、全身を悲鳴させることで、ラウは祈ったのだ。
そんなこちらの悲痛な想いに、兄は応えてくれた。
自分を否定して、本来の自分を歪めようとするわたしという存在そのものを兄は受け入れてくれた。
「狂うなら狂えばいいだろうが」と言ってくれた。
今になって初めてラウは解った気がする。
その言葉の真意を。
言葉に秘められた浅はかさと、あたたかさを。
――どんなになっても、おまえはおまえだよ。
――どんなになっても、変わらぬ想いがおれにはあるよ。
兄はきっと、そう嘯いていた。
殴りたくなるほどのしたり顔で。
のボールの
「なんでとれねーんだよ!」
ポコタンの体毛は予想をはるかに超えてモジャモジャだった。それはもう、じゃじゃ馬のごとき、モジャモジャだった。
はじめこそ、毟り取るわけにはいかぬ、と謙虚さを全面に押しだしての、やんわり、としたお取り扱いであったのだが、さすがにこれだけしつこいモジャモジャであると、「ワレモノ注意」の札がついているわけでもなしに、がむしゃらにむしゃくしゃとむちゃくちゃに毟り取ってやった。ポコタンが激しく抵抗したが、問答無用で攻めたてた。
不思議なことに、いくら毟っても、まったく本体を見せない。
タヌキであると思っていたが、これもまた見当違いであったかもしれない。
そもそも、最初に見かけたとき、これほどまでにモジャモジャであっただろうか。否、そんなことはなかった。これが猫ではなく、タヌキであると判るほどの特徴が見てとれたはずだ。
少なくともお顔とあんよの二か所くらいは見えていた。それが今はどうだ、この通り、みごとなモジャモジャではないか。薄汚れたモップではもはや比喩にならないほどのモジャモジャ具合だ。むしろ、モジャモジャになっていく。
「おまえ、巨大化してない?」
はつか大根の成長を高速再生して観ている気分だ。あれよあれよという間に、モジャモジャのもふもふが、ボワボワのぼふぼふへと変貌していく。刺激を与えて膨れるなんてまるでフグでござる。
神に触れた者はあまねく神の怒りに触れると聞き及ぶ。なんて狭量なのだろう神さまは。きっとそれと同じように、ポコタンのモジャモジャを乱暴に毟り取ろうとする者はあまねくポコタンの怒りに触れるのだ。なんて短気なのだろうポコタンは。ノボルは憤懣やるかたない。「おいおい、こんなことで怒るなよ」
すそを引かれた。ルノだった。こんなときにいったいなんだ、と顔を向ける。
ルノは巨大化したポコタンを指差した。イヤイヤ、と首をよこに振ってもいる。
彼女が示す先には、石板が青く露呈して見えている。
「ポコタンはわるくないってこと?」ノボルはルノの言いたそうなことを声にだして確認する。「でもって、アレをはやく取って来いって、そういうことか?」
それで解決するのか、と問うとルノは、うんうん、とうなずいた。
「つってもなあ」
もういちどポコタンを見上げる。
巨大化したポコタンは今や、森の権化然とした迫力を全面に押しだしている。目測では、身の丈十メートルを超している。これにどうやって挑めというのか。
ムリだ。
早々にさじを投げる。
「ぜったいに、ムリ!」
断言したと同時に、ルノが手を離した。あごを、つん、と上げてこちらを見据える。これまでになかった表情だ。
ぶー、と聞こえてきそうな不満顔。
じりじり、とルノが後ずさる。まだこちらを向いている。そちらにはポコタンが屹立している。
「あぶないって」
掴もうとした。
手を伸ばしたが、掴めなかった。
触れたはずが、すり抜けた。ルノの姿が薄くなっていく。彼女の存在そのものが希薄になっていく様を感じた。
「わかったって!」
わかったから。
おれが行くから、だから――。
声にだして訴えるよりもさきに身体が動いている。
霞むルノへと駆け寄り、自ら、無謀に飛びこんだ。
❤ラヴ❤
高台を離れ、兄のもとへ駆ける。
手首に巻き付けた「数珠」を取り外し、握った。
以前に、兄から渡された「呪符」である。縄のようによじって腕輪にしていたものだ。元々の材質が、布のような丈夫なものであったから、「呪符」の紋様と相まって、アクセサリーと言い張ってきた。
当初は身に付けるのにも抵抗があったが、今は気に入っている。身だしなみを整える小道具として気に入っているというものもちろんあるけれど、それ以上に、「数珠」を装備しているあいだは、「共有されないモノ」を視ないで済んだ。
これを用いれば兄もまた目を覚ましてくれるだろう。
いや、逆なのかもしれない。
目を瞑らせることができる、とこちらが正しい解釈なのかもしれない。
どちらでもよい。
今はただ、兄を変えてしまっている根本を払拭したい。それだけだ。
だから今できることは。
わたしにできることは。
こうして全力で山を駆けて、兄のもとへ駆けつけること。
急ぐ必要はない。
でもラウは、一刻もはやく兄の元へと辿りつきたいと望んだ。
兄の顔面に、渾身の一撃を放たなければ気が済まない。
この「呪符」ごとちからいっぱい殴りつけてやるのだ。
ラウは髪をなびかせ、森を抜ける。
のボールの
突撃する直前。
ポコタンが弾けた。モジャモジャがしゅるしゅるとひも解かれていく。
ぱらぱら、と種種雑多な小物が降ってくる。
ポコタンに絡まっていたガラクタのようだ。
イチョウの葉みたいに回転しながら落ちてくる。スプーンに、小銭に、プルタブ、標識……小さいのから大きいのまで、よりどりみどりだ。
それらの中に、青くかがやく物体があった。
石板だ。
ひとつではない。どうやらポコタン、手当たりしだい、いくつも蒐集していたらしい。
僥倖だ。手間が省けた。
キャッチしようと視線をうえへと向けたまま、ノボルは前進する。
ポコタンはなおも、しゅるしゅると綻びていく。風船が縮むような勢いがある。
原形に回帰していくポコタンをしり目にノボルは、あわわ、あわわ、とのどを伸ばす。
空を仰ぎ、石板を目視する。
ここで、ふと、視界に異物が紛れこんだ。
あたり一面を覆うモジャモジャを突きぬけ、それは突如現れた。
猛進してきたかと思うや否や、それは、こちらをちからいっぱい殴り飛ばした。
火花が飛び散る。
顔面が粉砕されたのかと焦った。
が、ノボルは安堵する。
顔面どころか身体ごと、ぶっ飛んでいる。
❤ラヴ❤
全力で殴ってやった。
アホ面さげて、あわわ、あわわ、とゾンビの真似ごとをしていたのだから、ラウとしては全力でブッ飛ばさないわけにはいかなかった。
すこし前まで遡る。
木々を抜きぬけ、目指す場所に到着した。
兄は、ぽかんと口を開け、そらを仰いでいた。阿波踊りを舞うような態勢で、UFOを呼んでいるわけでもなかろうに、オペラ歌手のような恰好で、一見すれば真面目な様で、奇妙な立ち振るまいをみせていた。こちらの受けた傷心は計り知れない。
――狂ってやがる!
思うよりもさきに身体が動いた。
兄までの距離はざっと十数メートルはあったが、すべてを助走に費やした。
加速と体重と膂力を存分に拳へと収斂させてから、
「おりゃー!」
渾身の一撃を放った。
兄の顔面を捉える間際。
はた、と気づいて拳を開く。
げんこつで殴ってしまっては、「数珠」を兄へ張り付けられない。
結果として、渾身の一撃は、全力での平手打ちとなった。
兄はブッ飛び、溜飲が下がる。
のボールの
身体を起こすと、視線のさきに人影があった。陽が沈みつつあるのだろう、視界は薄暗く、覚束ない。目を細めて、凝視する。
「ちょっとお兄ちゃん。しっかりしてよね」
はっきりと聞こえた声はどこか幻聴のようだ。
「ラウちゃん?」なぜか妹がそこにいた。「なんでここに?」
それはこっちのセリフよ、と近寄ってくる。目のまえまでくると妹は立ち止まり、腰に手を当て、仁王立ちする。視線だけを下げて侮蔑のかたまりを注いでくるものだから、ノボルとしては気が気ではない。
「あの、ラウちゃん?」なんで怒ってらっしゃるの、と頬が引き攣る。
「それ、ホンキで言ってるわけ」腰から身体を折って妹が覗きこんでくる。「わたしは別におこってない。それよりもお兄ちゃん、ここでなにしてたの」
冷たい声が、雪の女王を思わせる。
「なにシカトしてんの。ここでなにしてたかって妹さまが訊いてるのが聞こえないの」妹がこちらを足蹴にする。
「今日のラウちゃん、ちょっとこわいんだけど」
「こわくない」
言ったその顔がすでにこわい。
「ほら。もっとほがらかに笑ってごらん。たとえばそう、赤ちゃんみたいに」
見本も兼ねて笑ってみせる。
「やめて。きもちわるい。ほんきで」
毒づく妹だが、いつものような覇気がない。「で?」と繰り返す。「ここで何してたの」
「なにも」誤魔化すよりない。おそらく妹はどこかでこちらの挙動を目撃し、不審に思って跡をつけて来たのだろう。だとすれば、これまでのこちらの行動は、病気を疑うほどの奇行として妹には映っていたはずだ。
「それよかラウちゃん」と話を逸らす。「お兄ちゃんを尾行するなんて、ラウちゃんらしくないじゃない。ブラコンにでも目覚めちゃったのかな」それとも探偵にでもなりたいのかな、とおどけて煙に巻く。「思春期だからってあんまり変なことしちゃだめだぞ」
「なにそれ」妹は伏せていた顔をあげ、「ヘンなのはお兄ちゃんのほうでしょッ」
なぜか悲痛に怒鳴るのだ。
予想外の反応に、顔を逸らす。
暗闇にぼんやりと青じろい光が浮かんでいる。
なんだろう、と目を凝らす。
ルノだ。
胸元が発光している。石板を抱いているようだった。
――よかった。
もしかしたら消えてしまったのではないか、と不安だった。いや、彼女が消えてしまうことよりも、自分もまたほかの者たちと同じように、たしかに存在するはずのルノを感じられなくなることのほうがよほどおそろしく感じられた。
「なに笑ってんの。きもちわる」妹が両手で肩を抱き、仰々しく身震いする。それから気が抜けたように、「もういいからさ」とそっぽを向く。「説明はあとでいいから。家、帰ろ」
あー、さむいさむい、と妹は演技がかって言った。
心配してくれたんだな、ラウちゃん。
なぜか謝罪の念よりも、感謝の念が勝った。
「はやく立てよ」と妹が足蹴にしてくる。
立ちあがる。
視線のさきにはルノがいる。
こちらがどこを見詰めているのかが気になったのだろう、妹もあちらを向いた。
ルノが石板を手にし、こちらへ寄ってくる。
きっと妹には視えていない。でも、すべてを話そうと思った。この三日間、共に行動していた、このコとの時間を。
❤ラヴ❤
「だれ。あのコ」
訊きながら顔を向けると、兄が素っ頓狂な顔を浮かべた。ただでさえまぬけ面だっていうのに、これではまるでひょっとこだ。
「視えるのか?」瞠目したまま兄は、わなわなとゆびを指す。
なにを言っているのだろう、こいつは。
こちらへ歩いてくる女のコへと近づき、ラウは肩に手を添えてみせる。「このコがなに?」
ぱくぱく、と兄が口を開閉している。
「はは。死にかけの金魚みたい」
「いやいや。へ? どういうこと?」
「なにが」
「いやだってさ。えぇ」何が腑に落ちないのか、兄は童女へ向けて、「どういうこと?」
はるか年下の女児に縋るように尋ねる兄の姿は、無様以外のなにものでもない。
女のコはふしぎそうにこちらを見上げていたが、やがて「まあいっか」といったふうに兄に向き直り、ちょんちょんと裾を引っ張った。それを受けてしゃがむ兄は、小慣れた様子だ。
胸に抱いたガラクタを持ち上げ、女のコがにっこりほほ笑む。
なにをしたいのかはさっぱりだが、兄には伝わったようで、
「へえ、これで全部そろったんだ」
よかったじゃん、と彼女の頭を撫でる。女のコも女のコでうれしそうだ。
なんだか蚊帳の外。おもしろくない。
無視すんな、と兄の背中を蹴りつける。「だからそのコ、だれなの」
なぜだか無性に腹がたつ。
のボールの
ルノの姿が妹にも視えている。視えているだけでなく触れてもいた。
どういうことだ。
家にいたときは、そんな素ぶりなどみせなかったのに。
妹を見てから、ルノを見遣る。石板が目に入る。
もしかしたら、と閃いた。
ルノいわく、石板はこれですべて集まったらしい。石板の効用でルノの存在が妹にも知覚できるようになったのかもしれない。
それともほかに要因があるのだろうか。判然としない。
こうして頭を悩ませているあいだも妹が背中をどついてくる。
「ラウちゃん……いたい」
「そのまま死ねロリコン」
いつものラウちゃんだ。
安心しつつ、
「でも。よかったな」とルノに言う。
大切そうに石板を抱いているルノは、満足げに、とあごを引いた。
ポケットに仕舞ってあった二つの石板を取りだし、ルノに手渡す。
これで正真正銘、全部そろった。
と、思われた。
――が。
集めた石板をパズルみたいに繋ぎ合わせると、ルノの表情から笑みが消えた。
「どうしたんだ」
石板を見詰めていたルノが、ゆっくりこちらを見上げる。うるんだ瞳は、今にも溢れだしそうにフルフルと揺らいでいる。
「どうしたんだ」
もういちど聞きなおす。
いいから言ってみなさい、と促すと、ルノはふたたび目を伏せて、石板をゆびでなぞった。そこには、割れた石板のつなぎ目が、ヒビ割れたように浮かんでいる。
なるほど。
全部ではなかったのだ。
ルノが求めていたのは、すべての石板だった。砕け散った際に飛沫した石板のカケラ、粉末のひとつぶ、ひとつぶまで拾い集めなくてはならなかったのだ。
おそろしく硬い材質であるから、こうして大きなパーツに割れたものの、ちいさなカケラとなって落ちてしまった破片もあるのだろう。
そんな破片までをも集めるとなると、相当な労力を要する――率直な感想として、ムリだと思った。
ここで、諦めよう、と投げかけるのは容易い。だが言えない。
ルノから漂う雰囲気は悲愴ではなく、絶望そのものだからだ。
ここで希望を否定するようなことになれば、
ここで切望を拒絶するようなことをすれば、
きっとこのコは毀れてしまう。それこそ、この石板のように。
そんなことに、させはしない。そんなふうに、させたくない。
でも――。
飛沫した細かな破片のすべてを拾い集めるなど、不可能にちかい。
どうにかしてあげたいのに、どうにもできない自分がもどかしい。
悔しくて、情けない。なによりも、そんな現実を否定したくてしかたがない。
❤ラヴ❤
急に気まずくなった。
今しがたまでどこか、ふんわりとした雰囲気だったではないか。
なにがあったの、と問うのも躊躇われる。
仕方なく視線を外す。
うーん、と背伸びをしつつ、兄たちが動くのを待った。
頭上に伸ばした両の手を見て、ふと、目が留まる。
――数珠。
どこへ消えたのだろう。
兄の顔面に張りつけてやったつもりが、あまりにちからいっぱいに張り手を喰らわせてしまったものだから、勢いあまって兄といっしょに吹き飛んでしまった。
ええっと、どこだろう。
周囲の地面を見渡す。
暗がりに包まれているが、ふしぎとラウには「数珠」が浮かんで視えた。
あった、あった。
屈んで手に取る。まさしく愛用の「数珠」だ。
ひとまずこれを兄に身に付けてもらおう。それで異常が消えてくれれば御の字だ。そのあとで、そこの女児といったいどういった関係なのかを詰問しなければなるまい。事と次第によっては、実の兄を警察に引き渡さなければならなくなるが、それはそれで致し方あるまい。
よし、とひざを打ち、立ちあがる。
のボールの
背中を叩かれたので振り向くと、妹が拳をつきだしていた。殴られるかと思い、反射的に身を強張らせるが、暴力を振るうつもりはなかったらしく、「んっ」と手を突きだしてくる。
見覚えのある輪っかが握られていた。
以前に妹へ渡した、「呪符」である。
「これをどうしろと」訊きながら受けとる。
「いいから持ってて」妹は無愛想に言った。
「でも、それだとラウちゃんが」
困るだろ、と口にする前に、よこから手首を掴まれた。
ルノだった。
呪符を凝視すると、彼女は目を輝かせ、こちらを見上げた。いちどは失われたかに思われた希望が、ルノの瞳に宿ってみえた。
うむ。
ノボルは呪符を掲げ、「これ、もらっていいんだよな」と妹に確認する。いいわよ、と許可をもらうと、すかさずルノに手渡した。「好きにつかっていいよ」
――おれたちからのプレゼントだから。
ルノは受け取り、おじぎした。
どうするつもりだろうか。
見守っていると、ルノは呪符を引きちぎり、輪っかを「線」にした。そうして、石板の割れ目に埋め込んだ。
作業を終えるとルノはこちらを振りかえり、満足気に、しかしすこし淋しそうに笑った。
ノボルは瞬きをしなかった。世界がじわりとゆがんで視えた。
❤ラヴ❤
兄が泣いており、女のコが掠れて消えていく。
石板を胸に抱いた女のコはそのまま、ふっといなくなった。
兄も女のコも一言も交わさずに、握手を交わすこともなく、ただ見詰めあうだけで別れの挨拶を終えていた。
なんだよもう。
またもや蚊帳の外でおもしろくない。
しばらく兄は茫然としていた。声をかけたかったけれど思うように言葉が見つからない。
風が木々をゆさぶり、音を立てる。闇夜が辺りを埋め尽くす。
視えなくなったからといって、存在までが消えるわけではない。
だのに、あのコは消えてしまった。消えてしまったのだ、とラウには判った。
目を瞑っても、なにも視えなくっても、世界はなにも変わらない。
変わらずに変わりつづけている。
ラウは思う。
そこにわたしの干渉は反映されない。干渉することはできるけれど、反映はされない。
わたしが見なくともそこには世界が存在し、
わたしに視えていても、存在しないものは存在しない。
だったらわたしの存在に、いったいどんな意義があるのだろう。
わたしは世界を必要としているのに、わたしは世界に必要とされ得ない。
わたしの干渉のいっさいは、川のながれに、ちいさな波紋を立てる程度のささやかな影響でしかなく、生じた波紋はすぐに、川のながれにながされる。
――まるで幻相。
膨れては割れて弾けてしまう泡のように。
なんて中身のない、うすっぺらな存在なのだろう。
――わたしなんて。
ラウは、哲学的な夢想に耽った。そのままどこまでも沈んでいきたいと望みながら、それでも誰かに手を掴んで引きあげてもらいたいと願った。
のボールの
終わってしまった。ルノとの別れを名残惜しく思っている自分に気づく。
落とし物を拾えばいつも決まって面倒事に巻き込まれた。今回だってそうだ。うんざりしたはずだった。
だが今は、胸にぽっかりと穴が空いているみたいだ。冬の夜空のように透きとおった清々しささえ感じられた。
溜め息を漏らす。これでよかったのだ。
「じゃあ、帰りますか」
言いながら振りかえると、ぎょっとした。
妹が塞ぎこんでいる。
コートを握りしめ、うつむいている。
ああ、と思った。胸がくすぐったい。
こんなときの妹はとくにいじらしい。
「さあ、帰るぞ」頭を小突くみたいに撫でてやる。「アレの代わりだって、またもらってこなきゃな」とゆびで輪っかをつくり「呪符」を示す。
数歩すすんでから背後を窺う。妹はまだその場に佇んでいる。
やれやれ。
うなじを掻きあげる。
「ラウちゃん、はやくきてって。お兄ちゃん、ひとりじゃこわくって帰れないんだから」
踵を返して、妹の手を取る。無理やりに歩かせる。
引きずるように。
引きあげるみたいに。
「お兄ちゃんはさ」妹がうつむいたままつぶやいた。
なんだ、と相槌を打つ。こちらの手を握り返し妹は、
「お兄ちゃんはさ、どうしてそんなに……アホなの」
「んー、どうしてだろうなぁ」
苦笑するよりない。「わかるわけないっしょ。だってお兄ちゃん、アホだもん」
森を抜けると空がひらけ、辺りが一気に色めきだす。
・エピローグ・
***
男は懐古する。
少女と出会ってから別れるまで、そのあいだに要した時間は三日間だ。
少女と共に過ごした時間の経過は、轟々と流れる川をせき止める岩のごとくに、男の平穏だった日常に渦を巻いた。
濃密な時間だった。充実した時間だった。そんなふうに、今は思う。
無事にこの平穏な日常へと舞い戻ってこられたからこそ、このように感慨に耽ることができる。それを男はきちんと自覚している。
奇態極まりない少女に、三日のあいだ、ずうっと付き纏われていたのだから、気を揉むな、というほうが無理がある。プライベートなど、皆無だった。
が、こうして回顧してみるとやはりというべきか、どこか物淋しい。
会えるならもういちど逢いたいものだな、と冗談半分にそう願う。
この三日間を期に、たまにではあるにせよ、男は道端へ目をやっている。どこかに、再会のきっかけが落ちてやしないか、と、つい探してしまうのだ。
***
もしかしたら、と女は考える。
ふと、なにともなしに、なんとなく。
もしかしたら、わたしたちの認識しているこの世界というのは、ひどく断片的で、曖昧なものなのではなかろうか。スクリーンに投影された映像のように。誰もがみな、投影された虚像を眺めているだけではなかろうか。
投影された像は、固定されている。どの座席から観賞しようとも、見える映像が同じなように。
けれどもその映像というものは、本来、もっと奥行きのある世界だったはずだ。どこにも固定されていない、広大で深淵で彩色豊かな、そんな風景であったはずだ。それを、だれもが、スクリーンに投影された映像ばかりを真実だと勘違いしているだけではなかろうか。投影された映像のそとがわ――映っていない箇所では、もしかしたら、とんでもない世界が広がっているかもしれない。それを確かめることは、だれにもできない。
わたしの視たあの童女は果たしてどちらだったのだろう。
ふと、なにともなしに、なんとなく、女はそう考えた。
【マジックミラー】おわり。
目次
・プロローグ・
『マジックミラー』
・エピローグ・
・プロローグ・
***
またかよ、と男は思った。
なんとなく、そんな気がしていた。そろそろ大きい厄が訪れるころ合いではなかろうか、と危惧してはいた。一方で、「まだ大丈夫だろう」といった怠惰な油断がどこかにあった。結果として、気の緩みから舞いこんだ厄に流された。
そもそも、最近、どうもたるんでいる。落し物を拾うペースがあがっている。目のやるところ、あちらこちらに落ちている。こちらに拾ってくれと言わんばかりだ。だから最近は地面を見ないように、どころか、空を仰ぎつつ出歩いている。先日、友人の植木場千衣からは、「年中ロマンチストだな、おまえは」と褒められてしまったほどである。
その友人宅へ急ぐ道中に、それは落ちていた。
拾わずともよかったが拾ってしまった。
善行のひとつでも働いておこう。ついでに、遅刻の言い訳にしよう。
そう思ったのがいけなかった。
けっきょくその日、男は拾ったそれを交番へ届けでなかった。
翌日、目を覚まして男は思った。
――またかよ。
この日から三日後。男は、不本意な変調を来すことになる。
***
女は不安だった。
己の一部を徹底的に否定した過去を持つからこそ、過剰に不安だった。
女は考える。
もしかしたら、わたしが〝それ〟に気づかず、〝それ〟を不安に思わず、〝それ〟を確信しなければ、〝それ〟は異常ではなく、平常へと変わっていたのかもしれない、と。
変えてしまったのは、〝それ〟に対する認識ではなく。
変えてしまったのは、〝それ〟が齎すはずだった未来だったのかもしれない。
気づかず、思わず、認識しなければ。
〝それ〟は、そこに平然とあるものとして、定着していたのかもしれない。
なにも問題はなく。
なんの被害もなく。
有り触れた日常だけが築かれていたのかもしれない。
だからこそ女は不安だった。
『マジックミラー』
❤ラヴ❤
兄の様子がおかしいと気づいてから、二日が経った。
道央坂(みちおうさか)ノボル。これが兄の名だ。
兄の異常に気がついたゆいいつの人間は、道央坂ラウ、彼女ただひとりだけである。
普段から「正常」とは評価しにくい兄であったから、周囲の人間は、兄の異常を「異常」だとは見做さなかった。
そんななかで、なぜラウだけが、兄の異常を見抜けたかといえば、彼女には、兄と周囲とのあいだにある〝差異〟を感じることができたからだ。
――言霊。
以前、兄はその「呪符」のことをそう呼んだ。
要領を得ない説明を、うんざりとしながら聞かされたラウであるが、渡された「呪符」を身につけてから以降、ぱったり、と悩みが途絶えた。
悩みの種、そのものが払拭された。
幼いころから、道央坂ラウには、周囲の人間たちと共有できない風景が視えた。ある者はそれを「幽霊だ」と囃したて、またある者は、「ああ、いるよね」と白河夜船よろしく投げやりに同意し、多くの者は、「幻覚だ」と牽強付会に断定した。どの人間たちも、はなからラウの証言を真に受けたりしなかった。
――そんなものなど存在しない。
かような前提で、ラウの言動を捉えていた。
だが、ラウにはたしかに視えていた。彼女からすれば、みんなのほうが異常に思われてならなかった。
なぜこれだけのモノが視えないのか。気づけないのか。不思議でならなかった。
成長するにつれ、ラウは自身のほうを疑うようになった。ほどなくして悩みはじめた。異常なのはみんなではない、みんなが言うように、わたしのほうだったのかもしれないと。
己がひどく異常に思われた。病気であるならば、治しようがあるだろう。そう思い、医師の診察を受けようか、と考えたこともある。けれど、自身を異常だと思うようになってからは、視えてしまうそれらを無視することで、健常であるフリをしていた。両親もまた、こちらのその演技に安心している。いまさら不安になどさせたくない。不審な目で見てほしくもなかった。いまさら病院へ罹ろうとは思わない。
そんな周囲のなかであっても、兄だけはむかしから、こちらの言うことを真っ向から信じてくれた。
「うっわー! すごいじゃん!」「なになに、ここにいるの?」「ここになにかいるの?」「うっきゃー!」「こわいですよ!」「ちょっとラウちゃん、トイレまでついてきて」「ついでに今日はいっしょに寝てちょ」
ぎゃーぎゃー騒ぎたてていたのを未だにつよく覚えている。兄はむかしから現在にいたるまで、アホみたいに幼いままであるから、他人を疑うことを知らなかっただけかもしれない。あのとき身近にあった兄の反応を懐古するたびに胸が、ほっこりする。
いつまでも間抜けな童心を宿したままの兄であったから、いよいよとなったとき、ラウはためらうことなく兄へ相談した。
いや、相談などではない。
泣き縋ってしまったのだ。
いまとなっては醜態としか言いようがない。
けっして仲のわるい兄妹ではなかったが、仲が良かったとも言い難い。物心つきはじめたころから、互いに距離を置きはじめた。嫌っていたわけではいない。ただ、世のなかの兄妹というものは、そういうものなのだろう、といった漠然とした思いがあった。
十四歳の誕生日を迎える、三日前だった。
「わたし、狂ってる」泣き縋るように兄へ告白した。
どこもかしこも、視たことのない生物に覆われていた。それらもまた、周囲の人間にとっては視ることの叶わないモノ、共有されることのない風景だった。
自分が信じられなかった。これほどまでに気持ちわるく、恐ろしく、不気味な存在を目にしてしまう自分が。あたかも、自身にある醜悪な心の歪みが、こうして視覚化して風景にまざって視えてしまうっているようで。わたしはこれほどまでに腐った人間なのかと見せつけられているようで。たったひとり省かれてしまったようで。みんなとはけっして分かち合うことのできない存在であるかのようで。
心細かった。
このさきもわたしはたったひとり、こんな世界を生きつづけなくてはならないのか。こんな世界を抱きつづけなくてはならないのか。あのブキミな生物が家族や友人たちの身体に張りつき、まるで寄生するかのごとく、うごうご、と蠕動しているというのに。かれらはそれに気づくことなく、わたしだけがそれを、はらはらと、むかむかと、イヤイヤと、大好きなひとたちを見て嫌悪を抱いてしまう。そんな生活、耐えられるはずもなかった。毀れてしまいそうだった。狂ってしまいそうだった。いや、すでに狂っているからこそ、このような風景がわたしだけに視えてしまっているのだ。
狂っていることが日常となってしまっている自分がひどく恐ろしくなった。
この醜悪な世界に慣れてしまいそうな自分――いや、現に慣れつつある自分がどうしようもなく厭だった。
「わたし、狂ってる」
いつかきっと、そう口にすることもできなくなり、
「みんなのほうが狂ってる」
そう責め立ててしまいそうで。それがひどく不本意で。不本意なのに、そうなるだろうことが半ば自明だった。
視たくないに視えてしまい。視てほしいのに視えはしない。
理解してほしくて。理解しあいたくて。けれどそれは、この醜くも幻想的な世界を、大好きなひとたちに強要してしまうということで。仮に共有できる術があったとしても、そんなこと、したくなどはない。できるはずもなかった。
目をつむるにはあまりに凄惨な風景である。目を背けるにはあまりに切実な現実がある。
自分ひとりだけでの解決など無理だった。自分ひとりだけでいるなんて限界だった。
「お兄ちゃん……くるしいの」
凍てつき。
渇き。
ぼろぼろ、と。
崩れ去りそうなラウのなにかを。
やさしく撫でてくれる兄の手は。
そっと。
ほっと。
ぬくぬくと。
そそぐように満たしてくれた。
くるしみが、ふわり、ふわり、とけていく。
「だいじょうぶだって」
兄は言った。
とても無責任な言葉だった。だのに不思議となみだが溢れた。
「なにが不安なんだよ」兄が抱きしめてくれた。こちらの震えを抑えるようにし、「狂うなら狂えばいいだろうが」
ぎゅう、とつよく。
ふんわり、とやわく。
一身に引き受けてくれた。
ふるえと、
なみだと、
くるしみと。
――もういいんだよ。
そう言ってもらえた気がした。
――そのままだっていいんだよ。
やっと受け入れてもらえた心地がした。
それから二日後。ラウの悩みは一応の解決をみせた。
兄のおかげだ。でも、素直に感謝を表せなかった。泣き縋ったことを恥ずかしく思い、真正面から正直に感情を伝えるのもまた照れくさかった。
それがおよそ二年前のこと。
そして、現在。
視えないものを視てきたラウだからこそ、兄の異変に気がつけた。
いつものように、兄が落とし物を拾ってきた。その数日後のことである。ラウは気づいた。
兄が、不審だ。
いや、挙動不審にならぬようにと、平常を装っている。その素ぶりが不自然に映った。ほかの者たちからすれば、極々自然な兄、いつもと変わらぬ兄に映っていたことだろう。訝しむことすらなかったはずだ。
わたしだからこそ見抜けた。そういった、どこか自虐じみた自負がある。
演技を演技だと思わせない演技。そうした矛盾然とした取り繕いを見抜くには、観客たるこちらもまた、同じような演技ができる者でなくてはならない。餅は餅屋。そうでない者に、その演技を見抜くことはできない。
兄はしきりに、よこを窺っていた。
扉をくぐったあとに、わざわざ数秒の間をあけてから閉めていたり、ふとした瞬間に、あたふた、と取り乱したり。
まるでそこに透明人間がいるかのような素ぶりを必死に誤魔化そうとしていた。
むろん、そこに透明人間などはいない。なんども、ラウは確かめた。その都度、兄は、はらはらとした胸中を隠すようにこちらの邪魔をした。負けじと不意を突き、兄のよこを通り抜けてみたりしたものの、なにかにぶつかるようなことはなかった。
徹底的に兄を観察してみよう。ラウはこの日、決意した。
のボールの
「いつまでついてくるんだよ」半ば自棄になって投げかける。案の定、返事はない。「はいはい」と頭を掻きむしり、「捜せばいいんだろ」と足元を見遣る。
童女が、ちょこちょこ、まかまか、とついてくる。こちらを見上げ、目が合うと、なにが楽しいのやら、唇を一文字に結んだままにっこりとほほ笑む。
まえ髪を、ぱっつんと斜めに切りそろえてある。背は低い。ノボルの腰骨よりも低いが、容姿からは幼さを感じられない。幼児にちかい体躯であるが、表情には、凛、とした明確な理性が宿って見える。
この二日間、このコはまるで口を開かない。うなずくか、首をよこに振るか、眉をひそめるか。或いは、こうして可愛らしくほほ笑むかの、パターンとしては四つしかない。あとは、これらパターンの組み合わせがあるだけだ。たまにすそを引いてくるが、そのたびにこうして外へと導かれる。ノボルとしては当てのない散歩になるが、きっとこのコには、当てがあるのだろう。
現に、昨日はそうしてコレを見つけた。
ノボルはポケットのうえから、ソレを撫でる。
――青白くかがやく石板。
一昨日にも同じものを拾った。ことの発端はそれだった。
友人の植木場チイに呼び出されていた身のうえゆえ、交番に届け出る余裕もなかった。寝坊したせいだ。
とどのつまりが自業自得だ。
石板を拾った翌日のこと。目を覚ますとこのコがいた。まるで三カ月前のような展開であったが、これまでにも非日常を経験していたノボルであるから、もはや瞠目するにも及ばない。
この童女が何者なのかは定かではない。はっきりしているのは、彼女の姿が周囲の人間に視えていないという現実。いや、視えていないだけならば、彼女の実存を証明することはさほど難しくはない。だが厄介なことに、この童女――なぜか、その存在をなんびとにも悟られることがない。
存在しない存在。
だが実際にこうしてノボルには、このコの存在が如実に感じられる。感じられるどころか、視て、触れて、意思の疎通まで果たせてしまう。
幽霊か。
はたまた妖怪か。
座敷わらしという物の怪がこれにあたるかもしれない、と訝しんだりもした。一方では、姿が視えないだけでなく、他人に存在を悟られない点を鑑みれば、むしろ、ぬらりひょんにちかいかもしれない、などと無駄に穿鑿してみたりもした。ただどうにも、このコの雰囲気は、古ぼけてもいなければ不気味でもない。服飾にいたっては、近代的すぎるほどだ。
どこか赤みがかったストレートの長髪。包み込むように首元に巻かれているマフラーはサイズが合っていない。体躯に対してずいぶんと大きく、両手で押さえていなければ、口元が隠れてしまう。彼女がほほ笑むときはいつも、マフラーを両手で、ぐい、と引いてわざわざ顔全体を覗かせる。色彩の豊かなぽんちょを羽織っているから、一見すれば秋の妖精だが、今は冬だ。季節はずれとも言える。ホットパンツ然としたスカートのしたにはレギンスを穿いている。寒くないのだろうか、と心配になるが、本人はいたって平気そうだ。いずれにせよ、妖怪には見えない。
また、彼女は口を開くことがない。
無口、と言えば端的ではあるけれど、それにしてもおかしい。
ここ数日、飲食している姿すら見ていないのだ、通常の人間ではないだろう。
意思の疎通も一筋縄ではいかない。こちらが一方的に質疑を口にし、彼女が首をたてかよこに振る。イエス/ノーをそうして示してもらい、ノボルが彼女の意向を察する。
連想ゲームじみた質疑応酬の末、おおよその状況を把握した。同時に、童女が現れた目的も判明する。
ノボルの拾った落し物。
――石板。
拾った時点で大きく欠けていた。かなり古風な代物と見受けられる。風化はしていない。歴史を感じさせる外貌ではあるものの、緻密に刻まれた紋様がいっさい崩れていないのだ。材質はおそろしく固く、かつ頑丈であり、どうしてこれが割れてしまったのか、と首をひねらざるを得ない。
道に落ちていたのを見つけてしまったときのことを思いだす。よほど高価な骨董品にちがいない、と浅薄に断じてしまったのが運の尽き。こうしてまた、避けられたはずのイザコザに巻き込まれてしまった。
童女の主張によれば、ひとつの石板が割れてしまったのだという。ノボルの拾った石板のほかにも、欠けた石板が複数枚あるらしい。
それら破片を集めて、元通りにひとつの石板にしてくれないか、といった要望だった。
――お断り願いたかった。
ざんねんなことに、こういったお願いを聞き入れて、良い思いをした試しなどいちどもない。ただ、見た目がこうも、いたいけなのでは、追い出すにも気が引ける。
そういうわけで、一応の話を窺うことにしてしまったが、いま改めて思い起こしてみれば、その配慮もまた失敗だった。
このコに限っていえば、いっさいの配慮が不要だからだ。
飲まず食わず、一日中、歩き通しでも、なんら疲弊を窺わせない。へろり、と平気な顔をし、いつまでもどこまでもこちらのそばに付きまとう。言を俟つまでもなく、ノボルのほうが根をあげた。それが昨日までのことである。
童女の、コロコロと変わる指示を受けては、街中を歩き回った。そうしてようやくひとつ、石板を捜しあてた。カラスの巣の中にあったもので、見つけるまでもひと苦労だったが、見つけたあとで回収するのがまたいちだんと骨が折れた。
くたくたになり、帰路に着いたのが明朝の四時になってからのことで、家に帰ると、妹がまだ起きていた。
こちらの泥だらけの薄汚れた格好を見て、けらけらと笑った。
「ドロボウでもしてきたの」
「うん。そう」と肯定する。「泥棒してきたの」言い返す気力も湧かない。
「うっそ!? どこから」
「カラスさんの巣から」
妹はしかめ面を浮かべた。
こいつ、あたまだいじょうぶかよ、と言いたげだった。
「もうダメ。おやすみ」
言って自室へと向かう。妹の不審そうな視線が痛かった。
就寝して起床。
こうして迎えたのが本日だ。
目が覚めても童女は消えていない。ずっとベッドのそばに佇んでいる。まるで幽霊であるけれど、これが幽霊であるならばまだ解決の余地がある。お祓いをするか、成仏させてやればよいのだ。それが、どうしたものか、このコは、存在するのか存在しないのか、その区別すら定かではない。
壁を通り抜けたり、宙に浮いたりと、そういった超越的な動作ができるわけでもなく、普通の人間と同じように、地面を歩み、手で物を掴み、壁にぶつかったりする。そこに奇怪な性質は見てとれない。
だが、不思議なことに、彼女の行動すべて、誰の目にも触れない。
たとえば、このコが興味深そうに食卓に並んだ料理に手を伸ばすとする。彼女の姿が視ていない家族たちからすれば、お茶碗やらお皿やらが宙へと持ちあがって視えてしまうことだろう。当初はそれを危惧したノボルだったけれど、童女がいくら自由気ままにふるまっても、彼女のしでかす行為に対しては、ことごとくの他人が関心を示さない。目のまえで茶碗が割れようが、料理をぐちゃぐちゃにされようが、まったく動じない。それどころか、
「あら、いけない」
と、淡々と処理をしだす始末だ。まるで自分が割ってしまったと思い込んでいる。
これらの光景は、真実に童女が存在している、と証明するのに、有効な現象であると共に、童女がただ者ではないという疑惑を確信づけるのにもまた有効な現象だった。
このコは、真実存在する。童女の一挙手一投足がこうして物理世界に干渉していることでそれは明白だ。一方ではやはり、ノボル以外の者はおしなべて彼女の干渉に対して無関心を貫いている。
まるで視えていない。
童女の姿と、その存在を示す事象のすべてが。
童女の干渉が、あまねく他者に認識されない。
「いつまでついてくる気ですよ」この台詞は、他者からすれば、十割、ノボルの独り言だ。
そうでないことを証明するなど、とうてい不可能だ。
認識できないものをどうして信じられるだろうか。すくなくとも、根拠が「根拠」足りうるためにはまず、「根拠」となるべき事象を観測できなくてはならない。観測とは、認識と同義だ。目に見える必要はない。触れられる必要もない。感じられればそれでよい。そんな漠然とした観念である。そんな漠然とした観念を共有できさえすれば、それは「根拠」として受け入れられる。
だが、このコの存在は、感じさせることすらできないのだ。
すでにノボルは諦めている。どう説明しようとも、こちらの行うこのコへの対処は、総じて、不審な挙動として見做される。たびたび「ヘンタイ」と不本意な評価をくだされているノボルであるが、これ以上「ヘンタイ」のレッテルを張られるわけにはいかなかった。
足元に、ぴったりとついてくる童女。
こちらを見上げ、不安そうな顔をする。
「はいはい。わかっておりますよ」
さっさと石板を集めりゃいいんでございましょ、と約束する。半ば投げやりだ。
両手でマフラーを抱くように押さえながら彼女は、にっこりとほほ笑んだ。
❤ラヴ❤
兄の様子がおかしいと気づいてから、三日目。
夜行性の兄が、一昨日からは完全に規則正しい生活を過ごしている。明朝に帰宅するのは変わらずだが、珍しいことに午前中に目を覚ます。それから、遅めの朝食をさっさと済ませると、「行ってきます」とお出かけするのだ。
おかしい。
そして、あやしい。
うれしいことに本日は休日だ。哀しいことに予定はない。こんなこともあろうかと宿題は済ませてある。ラウは、いそいそと出かける準備をする。身だしなみを整え、髪型を整え、気合いを入れ、準備万端。そとは真冬なみの寒さとなるらしい。防寒はばっちりだ。
兄の追跡を開始する。気分はすっかりスパイである。
対象が家を出てからすでに三十分が経過している。だが心配には及ばない。こちらには、最終兵器、GPS機能付きメディア端末がある。兄とおなじ型だ。ラウのものではない。持ち主は母だ。いつも家に置きっぱなしにしている。いくら便利だからといっても、用途がなければ宝の持ち腐れだ。
さっそくメディア端末を起動させる。兄の持つGPSを探索。ディスプレイに地図が表示される。拡大させる。赤い点が移動していた。それが兄の現在地なのだろう。この町から車で数十分の場所、繁華街にある駅まえのようだ。
家を出る。もとよりの駅へと向かう。五分ほど歩いて到着し、そこから地下鉄に揺られることおよそ十五分。中心街で降りる。そのあいだにも兄は、街中を右往左往している。どうやら、目的地が定まっているわけではないらしい。
ひとまず、兄の姿を視認することにした。
のボールの
――おれは腑抜けかッ。
声にださずに憤怒した。
この無口な童女。思っていた以上に奇怪な存在だ。
おいおい勘弁してくれよ、と久々に血の気が引いた。
――このコ、人間を通りぬける。
カラスを追って山間を駆けずり回った昨日とは異なり、今日は雑踏の濃い中心街に出向いた。そこで判明したことである。
他人に触れることもできなければ、触れられることもない。ゆいいつの例外は、ノボルだけだ。
これだけの人込みのなか、童女は、文字どおりに素通りしていく。対向者があってもまったく意に介さない。彼女、ノボル以外の人間には接触できないようである。
ここだけを見れば、「幽霊」という解釈で、十二分に納得できそうだが、やはりというべきか、壁や地面などの無機質に対しては、どうあっても作用してしまう彼女であるから、実に奇怪だ。
「きみさ。ほんとに何者?」
返事を期待できずともそう口にせずにはいられない。案の定、彼女は困ったふうに首を傾げてほほ笑むだけだった。
さしずめ、「ごめんなさい。言えないの」といったところだろう。そんな仕草だ。
いい加減、彼女の素性を穿鑿するのにも飽いてきた。「あのさ。きみのなまえ、かってに付けてもいいかな」
いちいち、「きみ」と呼ぶのも煩わしい。ノボルが、「きみ」と口にすると、周囲の人間が反応するからだ。連れのいない孤独な男がすぐそばで、「きみ、いい加減にしてくれない」などと口にしているのだから、自分に向けられた言葉だと勘違いされてもおかしくはない。
一方で、仮に、無口の「ムーちゃん」と呼称すれば、雑踏のなかで白い目でみられることもないような気がしないでもなかった。ニックネームさえ決まっていれば、メディア端末を耳に当て、いかにも「他者と会話中のおれ」を周囲に示すこともできる。もっとも、会話の相手は、すぐそばにいるわけだが。
視線だけをさげて見遣ると、童女がスキップしていた。
「もしかして、付けてほしかったの? なまえ?」
彼女が、うんうん、とうなずいた。珍しく溌剌としている。期待するような眼差しでもある。
「ならね」ノボルは考えた。一見すれば、さほど厭な名前ではないが、実は厭な名前を付けてやろう、と企む。「ならね、きみは今から、『ルノ・スティック』だ」
自分の名である「ノボル」を文字って付けてやった。わざわざ、そうと説明してやる。「ルノの棒だ」
ルノと呼ぶから覚悟しろ、とおどけてみせる。
厭な顔をされても、それで押し通すつもりだったが、案に相違して彼女はよろこんだ。あまりに楽しそうにスキップとするものだから、ノボルも合わせて跳びはねた。
周囲からの白い視線が九割増した。
風が冷たい。
もうすぐ、雪が降るかもしれない。
❤ラヴ❤
兄がなにやらスキップをしている。
「あいつ……アホか」自分のように恥ずかしい。
自然と手にちからが入る。ファーストフードが、ぐしゅり、とつぶれた。
GPS機能を参考に、兄が通過するだろう地点で待ち構えていた。商店街の一画で、小腹が減っていたこともあり、ファーストフード店で見張ることにした。お店が二階にあったから、通行人たちが、ごみごみ入り混じるさまを、アツアツのハンバーガー片手に眺めた。一種、異様なパレードを観賞するような気分だ。推定時刻から、数分遅れで、兄が姿を現した。スキップをしていたから、一目瞭然だ。
「やめれぇ……」
もうやめてくれ、と届かぬ想いをラウは祈る。
身内の恥じがこれほどまでに、恥ずかしいとは思わなんだ。ちょっと気を抜けば、この場で悶えてしまいかねない。
――慙愧に堪えん。
それ以上に、
――正視に堪えん。
この場はひとまず、見逃すことにした。目を伏せる。ぜえ、ぜえ、と呼吸を整える。
家族がそとでどのように活動しているのか。
かような身内の生態を目にする機会など、とんと少ないものである。まさか、ああもイメージとかけ離れているとは。どこか恐怖じみて感じられる。精神的なダメージがちいさくない。
帰ったら母にチクるか。いや、それは今回の件が解決してからでも遅くはない。あのスキップが、兄の異常によって齎された奇行であるならば、まだ情状酌量の余地がある。
だがやはり、報告すべき事項だろう。
看過するにはあまりにも甚大だ。こちらの受けたダメージが。
食べかけのファーストフードを一息に口のなかへと放りこみ、ラウは席を立つ。
ここまできたら、兄の弱みをすべて握ってやる。土下座する兄の悲痛な顔が、目に浮かぶようだ。
ラウは店を後にした。
のボールの
「カラスのつぎは野良猫かよ」
勘弁してくれよ、と本気で泣きたくなる。
ノボルは猫が苦手だ。それもこれも、カンザキという男の影響だ。顛末を語ると長くなるが、ともかく、断固として、カンザキという男の影響である。
本来は猫好きのノボルだったが、往々にして、好きだからこそ嫌いになるということがある。美しいからおぞましく、愛しいから憎々しい。そうした自家撞着があるものだ。ノボルの猫苦手意識もそれにちかい。好きだったからこそ、ほんの一瞬のきっかけで、忌避したくなってしまった。関係ないが、理想というものは、高ければ高いほど、転落するのもまたはやいという。どうやら、挫折というものはそういうものであるらしい。
本日の石板捜しは、猫を追うことに終始しそうだ。
すでに辟易としているこの状態で、どれだけ奮闘できるだろうか。健闘を祈る、と他人事のように唱えてみる。
さあ、行きましょう、とばかりに「ルノ」こと童女が裾をひっぱり、先を急かす。
「はいはい。わかりましたよ」
全部そろえたら、願い事のひとつでも叶えてくれるんだろうなあ。
他愛もない愚痴を今さらのようにノボルはこぼす。
❤ラヴ❤
「あんの……あほんだら」
全身の力が抜けた。ショルダーバッグが肩からずり下がる。
兄が猫を追っている。
せっかくの休日だというのに、身内のアホな生態を観察するだけで終わりそうだ。
兄が異常かもしれない、というのはどうやら杞憂だったらしい。
なんせこの通り、兄は異常だ。
異常なことが自然である者にとっては、異常であることが平常なのだ。つまり、それが普通なのだ。たとえばそれは、生きている人間にとって、生きていることが自然と見做されてしまうように――などと、哲学的な思索にラウは逃げた。
これ以上、兄の奇行を眺めていると、あいつの妹こそが自分なのだ、と思いだしてしまいそうで癪にさわる。
血が繋がっている兄が休日の真っ昼間から、こんな街中で、地べたを這いずりまわりながら猫を追っかけまわしているのだ。ちょっとでも気を抜けば、あやうく全身を巡る、血という血を抜き取って、赤の他人となるべく、それこそ心血(新血)を注いでしまいそうだ。
ちょっと上手いことを言ってやったぞ。
当初の目論みどおり、ラウの意識は兄から離れる。
のボールの
うっクシュ。ノボルはくしゃみをこらえる。むずむず、と鼻をこする。
あの猫、名を「ポコタン」というらしい。野良猫にはちがいないが、通り名があるほどに、この界隈では有名な猫であるという。野良猫のボス的存在だ、とも聞いた。どこから聞いたかといえば、こちらに好奇の眼差しをむけながら井戸端会議に花を咲かす主婦や女子高生、果ては男子高生たちのささめき声、それが風にまじることなく露骨に聞こえてくる。彼らにしてみれば、やけっぱちになって「ポコタン」を追っかけているこちらの姿が、職務上やむを得ず野良猫駆除にやってきた保健所役員のように映っていたことだろう。「がんばれー」との声援が、ちらほらと聞こえてくるほどだ。
大方このポコタンは、有名であると共に、蛇蝎視されてもいるのだろう。
魚屋さんからホッケを咥えて遁走したり、八百屋さんからミカンをくすねたりと、商店街のみなみなさまから、たいそう不人気でおわすらしい。それをこうしてノボルが、惜しげもなく醜態を発揮し、えっちらほっちら追いかけているものだから、商店街の商人や通行人たちは、高みの見物を決め込みつつも、気やすめ程度の声援を投げかけてくれるのだ。
率直に言おう。ありがたくない。
およそ二時間、孤軍奮闘した。
ボス猫ポコタンをいちどは鷲掴みしたものの、あまりに激しく暴れるため、
「ぎゃあ、こわい!」
と手放した。
ポコタンを近くで眺めて、判ったことが一つある。実はポコタン、猫ではなかった。なにを隠そう、この猛獣、タヌキである。
昔から、狐狸は人を騙すという類の奇譚がある。ならば、実際に騙すことはなくとも、そういった巷説が人口に膾炙してしまうくらいに、タヌキやキツネが、賢そうなケモノだということになるだろう。どうりでモジャモジャしているわけである。
石板はどうやら、この化猫ならぬ「偽猫」の毛玉に絡まっているらしい。
よくよく観察してみれば、毛玉に、たくさんの異物を取りこんでいる。一見タヌキに見えない理由はここにある。だいいちに体毛が、ぐわー、となっている。ぐわー、としか言いようがない。ポコタンが道路を駆ければ、その様はモップの化物だ。しかも、ただのモップの化物ではない。薄汚れたモップの化物だ。こわいし、ちたない。
いずれにせよ、ポコタンは、道端に落ちている代物を気にいれば、それを毛に絡めて取りこみ、常時身に付けているようだ。石板もその中の一つとしてくっついているらしい。
こちらの希求しているものはなにも、薄汚れたポップの化物などではない。だが、やつを捕えられなければ、欲する物が手に入らない。ノボルは悟った。闇雲な捕獲作業では埒があかない。
ここは、巧妙な作戦が必要だろう。あごを撫でながら思索に耽る。
ふと、すそを引っ張られる。ルノがこちらを見上げている。
腰を落として、「どうした?」と見詰め返す。
眉をしかめ、首をひねっている。
まだなの? といった仕草だ。
まだなのだよ、とむっつり返す。ルノがうなだれた。すかさず、「待ってなさい」とおでこを、ぺちりとやさしくはたく。「あんなクソモップごとき、すぐに捕まえてみせますって」
❤ラヴ❤
こんどはいったいなんなのよ。ラウは歩道橋のうえから、兄の様子を窺った。メディア端末の望遠機能は倍率三六倍まで可能だ。
兄が商店街を離れ、雑踏のうすい路地裏へと入っていく。
手には、袋と檻。商店街で買い物をしてきたかと思ったら、あんなものを買ってきて。守銭奴な兄からは信じられない出費だ。
ビルに遮られて姿が見えなくなる。
ちょっとだけ場所を移動する。こんどは路地裏が一望できた。
檻を地面に置き、兄がひざまずいている。袋に手をつっこみ、四つん這いになった。
なにをしているのだろう。
メディア端末の望遠レンズを覗く。
兄は袋の中身を地面に並べはじめた。
出てきたものは、魚やら果物やら缶詰めやら、ゲテモノのおもちゃなど――それらを檻のなかへ放りこむと、兄はその場を離れ、十メートルほど離れた茂みに身を隠した。
隠れたのはよいが、残念なことに、こちらからは丸見えだ。たいへんみっともないザマである。きっと兄の意識は完全に檻へと向かっているのだろう。檻のある方面から、兄の姿は見えないはずだがその実、背面が、表通りに露出されているから、身内としては今すぐにでも、醜態を極めたそのケツを蹴りとばしてやりたい。
ただ、ラウは自分を慈悲ぶかい女であると自負しているから、今すぐにではなく、この懸案が解決を見せてからぞんぶんに蹴り飛ばしてやろうと神に誓う。
のボールの
この路地裏は、ポコタンの通り道であるらしい。ノボルはここに罠をしかけた。
賢いといえども、所詮はケモノ。目のまえに好物がぶらさがっていれば、食いつかぬわけにはいかぬだろう。
とっとときやがれ、単細胞め。
あとは獲物がかかるのを、こうして優雅に待っていればよい。策士、策に溺れないためには、繊密な計画など不要だ。裏の裏をかこうとするからヘマをする。ならば、単純な罠を巧妙に仕掛ければ良いだけのことだ。畳をいくつも積み重ねれば、重層な壁となるように、単純と単純を組み合わせれば、それはもう、重畳だ。
罠を仕掛けてから待つこと十分。ようやく標的が姿を現した。
――ポコタン。
ボス猫に擬態した、ぼろモップのような、クソったれタヌキ。
通り慣れた道だからだろう、さきほどまでの警戒しきった身のこなしではない。ぽてぽて、と歩んでいる。どこか愛嬌すら漂って見える。
縄張りであるこの道に、見慣れぬ檻が置いてあると気づいたようで、ポコタンは立ち止まった。様子を窺っている。迂回しつつ歩を進めている。檻のなかの代物には興味を抱いている様子だ。鼻をくんくん動かし、距離を縮めていく。ポコタンが檻のなかに顔をつっこんだのは、登場してから五分後のことだった。そのあいだ、ノボルは手に汗を握り、息を潜める。
❤ラヴ❤
兄が草かげに身をひそめてから、およそ十五分。通行人の、不審感を露わにさせた視線にすら気づかずに、あのバカはいったい何をしているのか。
〝風に動くぼろ雑巾〟を相手にいったい何を――と、ラウは気が気ではない。
どこからともなく飛んできたぼろ雑巾が、檻のなかへ吸い込まれるように入った。
待っていたかのように、檻が閉じる。
草かげから飛びだし、兄が檻のもとへと駆けていく。
なにやら雄たけびをあげそうな剣幕で檻を両腕で抱えあげている。やがて中身を確認しはじめるが、なかには用途不明の雑貨と、ボロ雑巾が入っているだけだ。なんら捕まってはいない。にも拘わらず兄は、満足したように檻を抱えたまま路地の奥へと入っていった。そちらの方向は、森へと通じている。
ラウは、ぎょっとする。
兄がふたたびスキップしはじめたではないか。やがて道の奥へと姿を消していく。
「そのまま消えちまえ!」
殺意を胸に、しかし尾行だけは続行だ。
のボールの
檻が閉じた。
茂みから飛びだして檻に近寄る。むんず、と掴む。なかでうろたえるポコタンにほくそ笑む。「ったく、このやろう」
手間かけさせやがって。「猫を騙った罪は重いぞ」
ポコタンが、きゅうん、と鳴いた。
かわいこぶったって、もうおそい。ノボルは鼻息を荒くする。
さてどうしたものか。
ここで石板を回収するには、ちと不適切に思われた。路地裏とはいえど、すぐそばが表通りに面している。動物虐待の嫌疑をかけられては敵わない。不当に誤解されることほど、もどかしいことはない。
裏路地の先は森へと繋がっている。ならばそこでポコタンを思う存分モミしだき、石板を奪還することにしよう。檻を抱え、歩を進める。
足元でルノが、ご機嫌に跳ねている。ちいさなその手はこちらのすそを掴んで離さない。宿敵への勝利を掴んだノボルもまた、スキップスキップらんらんらん、と陽気に跳ねた。
檻のなかのポコタンが丸くうずくまる。
すこし可哀想に思い、
「すぐに出してやるからな」と約束する。
ポコタンは、くうん、と耳を立てた。
だが、あまりにジャングルジャングルもじゃもじゃしているため、そこから石板のみを取りだすのは、さすがにちと至難に思われた。「あ、すぐはウソかも」と訂正する。
ポコタンはしなびるように、ふたたび耳をたたんだ。それを珍しそうにルノが、ほえー、と眺めている。檻にゆびを突っこうもうとするので制する。
「やめなさい。あぶないでしょうに」
ほへー、とルノがびっくりした顔をした。なんだか、妙に懐かしい。ふと、妹の顔が脳裡に浮かんだ。
❤ラヴ❤
兄が森に入ると、GPSが反応を示さなくなった。
きっとこの森の地形か、または地質に問題があるのだろう。磁場が狂うのか、なんなのか。詳しい要因は不明だが、どうやら圏外であるらしい。
見失う前になんとか兄の姿を捕捉することに成功した。追跡を続行する。
森のなかは薄暗い。
防寒は重層にしてきたはずだが、身体が総毛立つ。寒さもさることながら、ここは不気味だ。
不気味なのは森の雰囲気だけではない。
兄の奇行が不気味だ。
檻から出したボロ雑巾を、ごしごし、と地面に押し付けている。かと思えば、ボロ雑巾を抱きかかえ、地面を転げまわる。さながら子犬とじゃれるかのごとくだ。
こりゃいよいよ本格的にまずいぞ。ラウは唇を噛みしめる。
自明どころの話ではない。
――わたしの兄は異常だ。
重要なのは、「兄が異常」ではなく、「わたしの兄が異常」なことだ。
赤の他人がどれほど狂っていようが、こちらに危害が及ばないかぎり関係はない。ひるがえっては、身内の異常事態は、どんなに無害であっても、看過できない。
そこに理由はない。仮に理由があっとしても、その理由を抜きにしたって見過ごせない。
ラウはいかなる状況であれ、常にこう考える。
――わたしの家族が異常であってはならない。
なぜなら、自分以上に異常な者を、ラウは未だかつて見たことがないからだ。
そんな自分を、家族は普通の人間として見てくれる。異常者ではなく、ほかのみんなと同じように見做してくれながら、特別な感情を抱き、注いでくれもする。
それが世間一般で言うところの「愛」なのかは分からない。そもそも「愛」なんてそんなもの、見たことも触れたこともない。
未だにラウは、「他人と共有できないモノ」を視る。だが、みんなの言うような「愛」を、感じたことはない。
仮に、家族が自分に対して与えてくれているコレが、「愛」だというのなら、なんてつまらないものだろう、と思う。ラウにとって、こんなモノは当りまえであるからだ。与えられて当りまえのものであるし、相手にそそぐことも当たりまえなのだ。みなが声たかだかに謳い、崇めるような代物ではありえない。
つまりやはり、当りまえなのだ。
そこに理由はない。根拠もない。ゆえに、「愛」などもなくてよい。
こんなモノは、どこにでも有りふれていて、どこにでも溢れていて、だからこそ、特別でもなんでもなくって、けれど、だからこそ、特別なのだろう。
この地球がわたしたちにとって当りまえの存在であるように。
この宇宙がわたしたちにとって当りまえの存在であるように。
けれど、
この宇宙が無くては、わたしたちが存在し得ないように。
この感情もまた、わたしたちが存在するには必要なのだ。
その必要なモノが、「愛」か否かは関係ない。重要なことは、こうして兄の奇行を目の当たりにし、それを奇行だと思っていながらにしてなおも許容してしまいたいとなんの戸惑いもなく思えてしまう、そんな自分がとんでもなく気色わるい、というこのどうしようもなく看過できない現状こそが究極的に問題なのだ。
――わたしの家族が異常であってはならない。
たとえ、世界中が兄を異常者と見做したとしても。
わたしだけは、お兄ちゃんを異常だなんて見做さない。
わたしのお兄ちゃんは、異常なことが平常だから。普通なほうが異常なのだから。
しかしそれでも、だからこそ、
ボロ雑巾と戯れているこの兄の姿は、ラウの許容し得る兄の異常ではなかった。
――わたしのお兄ちゃんは、こんな、わたしみたいな狂い方をしてはいなかった。
以前、失望と絶望の狭間でゆれていたラウに、兄は言ってくれた。
なにが不安なんだよ、と。
狂うなら狂えばいいだろうが、と。
兄はこちらのいっさいを拒もうとすらしなかった。兄のその「想い」と「覚悟」と「狂い加減」は、ラウにとっては心地のよいぬくもりに満ちていた。
それでもラウは、自分の異常性が厭だった。己の異質を疎んでいた。
兄が受け入れてくれると言ってくれた、その性質を。
できるなら取り除きたかったし、消し去りたかった。
そんな、わたしの異常を。
――兄は払拭してくれた。
ラウは感謝している。そんな狂った兄がすきだった。いまだってすきだ。兄の狂った部分を含めてだいすきだ。
その異常さは、だから、兄が兄であるために必要な成分で、それはきっと、みんなが言うような「個性」であって。除去すべきものでも、矯正すべきものでも、ましてや、否定する必要もないもので、ラウにとっては「個性」以外のなにものでもなくって。
けれど、でも。
ラウの異常は、自分で自分を否定してしまいたくなるほどに厭な性質で、それを「個性」などと呼ばれたくはなくて、ラウはだから変わろうと思った。だから祈った。兄に泣き縋ることで、全身を悲鳴させることで、ラウは祈ったのだ。
そんなこちらの悲痛な想いに、兄は応えてくれた。
自分を否定して、本来の自分を歪めようとするわたしという存在そのものを兄は受け入れてくれた。
「狂うなら狂えばいいだろうが」と言ってくれた。
今になって初めてラウは解った気がする。
その言葉の真意を。
言葉に秘められた浅はかさと、あたたかさを。
――どんなになっても、おまえはおまえだよ。
――どんなになっても、変わらぬ想いがおれにはあるよ。
兄はきっと、そう嘯いていた。
殴りたくなるほどのしたり顔で。
のボールの
「なんでとれねーんだよ!」
ポコタンの体毛は予想をはるかに超えてモジャモジャだった。それはもう、じゃじゃ馬のごとき、モジャモジャだった。
はじめこそ、毟り取るわけにはいかぬ、と謙虚さを全面に押しだしての、やんわり、としたお取り扱いであったのだが、さすがにこれだけしつこいモジャモジャであると、「ワレモノ注意」の札がついているわけでもなしに、がむしゃらにむしゃくしゃとむちゃくちゃに毟り取ってやった。ポコタンが激しく抵抗したが、問答無用で攻めたてた。
不思議なことに、いくら毟っても、まったく本体を見せない。
タヌキであると思っていたが、これもまた見当違いであったかもしれない。
そもそも、最初に見かけたとき、これほどまでにモジャモジャであっただろうか。否、そんなことはなかった。これが猫ではなく、タヌキであると判るほどの特徴が見てとれたはずだ。
少なくともお顔とあんよの二か所くらいは見えていた。それが今はどうだ、この通り、みごとなモジャモジャではないか。薄汚れたモップではもはや比喩にならないほどのモジャモジャ具合だ。むしろ、モジャモジャになっていく。
「おまえ、巨大化してない?」
はつか大根の成長を高速再生して観ている気分だ。あれよあれよという間に、モジャモジャのもふもふが、ボワボワのぼふぼふへと変貌していく。刺激を与えて膨れるなんてまるでフグでござる。
神に触れた者はあまねく神の怒りに触れると聞き及ぶ。なんて狭量なのだろう神さまは。きっとそれと同じように、ポコタンのモジャモジャを乱暴に毟り取ろうとする者はあまねくポコタンの怒りに触れるのだ。なんて短気なのだろうポコタンは。ノボルは憤懣やるかたない。「おいおい、こんなことで怒るなよ」
すそを引かれた。ルノだった。こんなときにいったいなんだ、と顔を向ける。
ルノは巨大化したポコタンを指差した。イヤイヤ、と首をよこに振ってもいる。
彼女が示す先には、石板が青く露呈して見えている。
「ポコタンはわるくないってこと?」ノボルはルノの言いたそうなことを声にだして確認する。「でもって、アレをはやく取って来いって、そういうことか?」
それで解決するのか、と問うとルノは、うんうん、とうなずいた。
「つってもなあ」
もういちどポコタンを見上げる。
巨大化したポコタンは今や、森の権化然とした迫力を全面に押しだしている。目測では、身の丈十メートルを超している。これにどうやって挑めというのか。
ムリだ。
早々にさじを投げる。
「ぜったいに、ムリ!」
断言したと同時に、ルノが手を離した。あごを、つん、と上げてこちらを見据える。これまでになかった表情だ。
ぶー、と聞こえてきそうな不満顔。
じりじり、とルノが後ずさる。まだこちらを向いている。そちらにはポコタンが屹立している。
「あぶないって」
掴もうとした。
手を伸ばしたが、掴めなかった。
触れたはずが、すり抜けた。ルノの姿が薄くなっていく。彼女の存在そのものが希薄になっていく様を感じた。
「わかったって!」
わかったから。
おれが行くから、だから――。
声にだして訴えるよりもさきに身体が動いている。
霞むルノへと駆け寄り、自ら、無謀に飛びこんだ。
❤ラヴ❤
高台を離れ、兄のもとへ駆ける。
手首に巻き付けた「数珠」を取り外し、握った。
以前に、兄から渡された「呪符」である。縄のようによじって腕輪にしていたものだ。元々の材質が、布のような丈夫なものであったから、「呪符」の紋様と相まって、アクセサリーと言い張ってきた。
当初は身に付けるのにも抵抗があったが、今は気に入っている。身だしなみを整える小道具として気に入っているというものもちろんあるけれど、それ以上に、「数珠」を装備しているあいだは、「共有されないモノ」を視ないで済んだ。
これを用いれば兄もまた目を覚ましてくれるだろう。
いや、逆なのかもしれない。
目を瞑らせることができる、とこちらが正しい解釈なのかもしれない。
どちらでもよい。
今はただ、兄を変えてしまっている根本を払拭したい。それだけだ。
だから今できることは。
わたしにできることは。
こうして全力で山を駆けて、兄のもとへ駆けつけること。
急ぐ必要はない。
でもラウは、一刻もはやく兄の元へと辿りつきたいと望んだ。
兄の顔面に、渾身の一撃を放たなければ気が済まない。
この「呪符」ごとちからいっぱい殴りつけてやるのだ。
ラウは髪をなびかせ、森を抜ける。
のボールの
突撃する直前。
ポコタンが弾けた。モジャモジャがしゅるしゅるとひも解かれていく。
ぱらぱら、と種種雑多な小物が降ってくる。
ポコタンに絡まっていたガラクタのようだ。
イチョウの葉みたいに回転しながら落ちてくる。スプーンに、小銭に、プルタブ、標識……小さいのから大きいのまで、よりどりみどりだ。
それらの中に、青くかがやく物体があった。
石板だ。
ひとつではない。どうやらポコタン、手当たりしだい、いくつも蒐集していたらしい。
僥倖だ。手間が省けた。
キャッチしようと視線をうえへと向けたまま、ノボルは前進する。
ポコタンはなおも、しゅるしゅると綻びていく。風船が縮むような勢いがある。
原形に回帰していくポコタンをしり目にノボルは、あわわ、あわわ、とのどを伸ばす。
空を仰ぎ、石板を目視する。
ここで、ふと、視界に異物が紛れこんだ。
あたり一面を覆うモジャモジャを突きぬけ、それは突如現れた。
猛進してきたかと思うや否や、それは、こちらをちからいっぱい殴り飛ばした。
火花が飛び散る。
顔面が粉砕されたのかと焦った。
が、ノボルは安堵する。
顔面どころか身体ごと、ぶっ飛んでいる。
❤ラヴ❤
全力で殴ってやった。
アホ面さげて、あわわ、あわわ、とゾンビの真似ごとをしていたのだから、ラウとしては全力でブッ飛ばさないわけにはいかなかった。
すこし前まで遡る。
木々を抜きぬけ、目指す場所に到着した。
兄は、ぽかんと口を開け、そらを仰いでいた。阿波踊りを舞うような態勢で、UFOを呼んでいるわけでもなかろうに、オペラ歌手のような恰好で、一見すれば真面目な様で、奇妙な立ち振るまいをみせていた。こちらの受けた傷心は計り知れない。
――狂ってやがる!
思うよりもさきに身体が動いた。
兄までの距離はざっと十数メートルはあったが、すべてを助走に費やした。
加速と体重と膂力を存分に拳へと収斂させてから、
「おりゃー!」
渾身の一撃を放った。
兄の顔面を捉える間際。
はた、と気づいて拳を開く。
げんこつで殴ってしまっては、「数珠」を兄へ張り付けられない。
結果として、渾身の一撃は、全力での平手打ちとなった。
兄はブッ飛び、溜飲が下がる。
のボールの
身体を起こすと、視線のさきに人影があった。陽が沈みつつあるのだろう、視界は薄暗く、覚束ない。目を細めて、凝視する。
「ちょっとお兄ちゃん。しっかりしてよね」
はっきりと聞こえた声はどこか幻聴のようだ。
「ラウちゃん?」なぜか妹がそこにいた。「なんでここに?」
それはこっちのセリフよ、と近寄ってくる。目のまえまでくると妹は立ち止まり、腰に手を当て、仁王立ちする。視線だけを下げて侮蔑のかたまりを注いでくるものだから、ノボルとしては気が気ではない。
「あの、ラウちゃん?」なんで怒ってらっしゃるの、と頬が引き攣る。
「それ、ホンキで言ってるわけ」腰から身体を折って妹が覗きこんでくる。「わたしは別におこってない。それよりもお兄ちゃん、ここでなにしてたの」
冷たい声が、雪の女王を思わせる。
「なにシカトしてんの。ここでなにしてたかって妹さまが訊いてるのが聞こえないの」妹がこちらを足蹴にする。
「今日のラウちゃん、ちょっとこわいんだけど」
「こわくない」
言ったその顔がすでにこわい。
「ほら。もっとほがらかに笑ってごらん。たとえばそう、赤ちゃんみたいに」
見本も兼ねて笑ってみせる。
「やめて。きもちわるい。ほんきで」
毒づく妹だが、いつものような覇気がない。「で?」と繰り返す。「ここで何してたの」
「なにも」誤魔化すよりない。おそらく妹はどこかでこちらの挙動を目撃し、不審に思って跡をつけて来たのだろう。だとすれば、これまでのこちらの行動は、病気を疑うほどの奇行として妹には映っていたはずだ。
「それよかラウちゃん」と話を逸らす。「お兄ちゃんを尾行するなんて、ラウちゃんらしくないじゃない。ブラコンにでも目覚めちゃったのかな」それとも探偵にでもなりたいのかな、とおどけて煙に巻く。「思春期だからってあんまり変なことしちゃだめだぞ」
「なにそれ」妹は伏せていた顔をあげ、「ヘンなのはお兄ちゃんのほうでしょッ」
なぜか悲痛に怒鳴るのだ。
予想外の反応に、顔を逸らす。
暗闇にぼんやりと青じろい光が浮かんでいる。
なんだろう、と目を凝らす。
ルノだ。
胸元が発光している。石板を抱いているようだった。
――よかった。
もしかしたら消えてしまったのではないか、と不安だった。いや、彼女が消えてしまうことよりも、自分もまたほかの者たちと同じように、たしかに存在するはずのルノを感じられなくなることのほうがよほどおそろしく感じられた。
「なに笑ってんの。きもちわる」妹が両手で肩を抱き、仰々しく身震いする。それから気が抜けたように、「もういいからさ」とそっぽを向く。「説明はあとでいいから。家、帰ろ」
あー、さむいさむい、と妹は演技がかって言った。
心配してくれたんだな、ラウちゃん。
なぜか謝罪の念よりも、感謝の念が勝った。
「はやく立てよ」と妹が足蹴にしてくる。
立ちあがる。
視線のさきにはルノがいる。
こちらがどこを見詰めているのかが気になったのだろう、妹もあちらを向いた。
ルノが石板を手にし、こちらへ寄ってくる。
きっと妹には視えていない。でも、すべてを話そうと思った。この三日間、共に行動していた、このコとの時間を。
❤ラヴ❤
「だれ。あのコ」
訊きながら顔を向けると、兄が素っ頓狂な顔を浮かべた。ただでさえまぬけ面だっていうのに、これではまるでひょっとこだ。
「視えるのか?」瞠目したまま兄は、わなわなとゆびを指す。
なにを言っているのだろう、こいつは。
こちらへ歩いてくる女のコへと近づき、ラウは肩に手を添えてみせる。「このコがなに?」
ぱくぱく、と兄が口を開閉している。
「はは。死にかけの金魚みたい」
「いやいや。へ? どういうこと?」
「なにが」
「いやだってさ。えぇ」何が腑に落ちないのか、兄は童女へ向けて、「どういうこと?」
はるか年下の女児に縋るように尋ねる兄の姿は、無様以外のなにものでもない。
女のコはふしぎそうにこちらを見上げていたが、やがて「まあいっか」といったふうに兄に向き直り、ちょんちょんと裾を引っ張った。それを受けてしゃがむ兄は、小慣れた様子だ。
胸に抱いたガラクタを持ち上げ、女のコがにっこりほほ笑む。
なにをしたいのかはさっぱりだが、兄には伝わったようで、
「へえ、これで全部そろったんだ」
よかったじゃん、と彼女の頭を撫でる。女のコも女のコでうれしそうだ。
なんだか蚊帳の外。おもしろくない。
無視すんな、と兄の背中を蹴りつける。「だからそのコ、だれなの」
なぜだか無性に腹がたつ。
のボールの
ルノの姿が妹にも視えている。視えているだけでなく触れてもいた。
どういうことだ。
家にいたときは、そんな素ぶりなどみせなかったのに。
妹を見てから、ルノを見遣る。石板が目に入る。
もしかしたら、と閃いた。
ルノいわく、石板はこれですべて集まったらしい。石板の効用でルノの存在が妹にも知覚できるようになったのかもしれない。
それともほかに要因があるのだろうか。判然としない。
こうして頭を悩ませているあいだも妹が背中をどついてくる。
「ラウちゃん……いたい」
「そのまま死ねロリコン」
いつものラウちゃんだ。
安心しつつ、
「でも。よかったな」とルノに言う。
大切そうに石板を抱いているルノは、満足げに、とあごを引いた。
ポケットに仕舞ってあった二つの石板を取りだし、ルノに手渡す。
これで正真正銘、全部そろった。
と、思われた。
――が。
集めた石板をパズルみたいに繋ぎ合わせると、ルノの表情から笑みが消えた。
「どうしたんだ」
石板を見詰めていたルノが、ゆっくりこちらを見上げる。うるんだ瞳は、今にも溢れだしそうにフルフルと揺らいでいる。
「どうしたんだ」
もういちど聞きなおす。
いいから言ってみなさい、と促すと、ルノはふたたび目を伏せて、石板をゆびでなぞった。そこには、割れた石板のつなぎ目が、ヒビ割れたように浮かんでいる。
なるほど。
全部ではなかったのだ。
ルノが求めていたのは、すべての石板だった。砕け散った際に飛沫した石板のカケラ、粉末のひとつぶ、ひとつぶまで拾い集めなくてはならなかったのだ。
おそろしく硬い材質であるから、こうして大きなパーツに割れたものの、ちいさなカケラとなって落ちてしまった破片もあるのだろう。
そんな破片までをも集めるとなると、相当な労力を要する――率直な感想として、ムリだと思った。
ここで、諦めよう、と投げかけるのは容易い。だが言えない。
ルノから漂う雰囲気は悲愴ではなく、絶望そのものだからだ。
ここで希望を否定するようなことになれば、
ここで切望を拒絶するようなことをすれば、
きっとこのコは毀れてしまう。それこそ、この石板のように。
そんなことに、させはしない。そんなふうに、させたくない。
でも――。
飛沫した細かな破片のすべてを拾い集めるなど、不可能にちかい。
どうにかしてあげたいのに、どうにもできない自分がもどかしい。
悔しくて、情けない。なによりも、そんな現実を否定したくてしかたがない。
❤ラヴ❤
急に気まずくなった。
今しがたまでどこか、ふんわりとした雰囲気だったではないか。
なにがあったの、と問うのも躊躇われる。
仕方なく視線を外す。
うーん、と背伸びをしつつ、兄たちが動くのを待った。
頭上に伸ばした両の手を見て、ふと、目が留まる。
――数珠。
どこへ消えたのだろう。
兄の顔面に張りつけてやったつもりが、あまりにちからいっぱいに張り手を喰らわせてしまったものだから、勢いあまって兄といっしょに吹き飛んでしまった。
ええっと、どこだろう。
周囲の地面を見渡す。
暗がりに包まれているが、ふしぎとラウには「数珠」が浮かんで視えた。
あった、あった。
屈んで手に取る。まさしく愛用の「数珠」だ。
ひとまずこれを兄に身に付けてもらおう。それで異常が消えてくれれば御の字だ。そのあとで、そこの女児といったいどういった関係なのかを詰問しなければなるまい。事と次第によっては、実の兄を警察に引き渡さなければならなくなるが、それはそれで致し方あるまい。
よし、とひざを打ち、立ちあがる。
のボールの
背中を叩かれたので振り向くと、妹が拳をつきだしていた。殴られるかと思い、反射的に身を強張らせるが、暴力を振るうつもりはなかったらしく、「んっ」と手を突きだしてくる。
見覚えのある輪っかが握られていた。
以前に妹へ渡した、「呪符」である。
「これをどうしろと」訊きながら受けとる。
「いいから持ってて」妹は無愛想に言った。
「でも、それだとラウちゃんが」
困るだろ、と口にする前に、よこから手首を掴まれた。
ルノだった。
呪符を凝視すると、彼女は目を輝かせ、こちらを見上げた。いちどは失われたかに思われた希望が、ルノの瞳に宿ってみえた。
うむ。
ノボルは呪符を掲げ、「これ、もらっていいんだよな」と妹に確認する。いいわよ、と許可をもらうと、すかさずルノに手渡した。「好きにつかっていいよ」
――おれたちからのプレゼントだから。
ルノは受け取り、おじぎした。
どうするつもりだろうか。
見守っていると、ルノは呪符を引きちぎり、輪っかを「線」にした。そうして、石板の割れ目に埋め込んだ。
作業を終えるとルノはこちらを振りかえり、満足気に、しかしすこし淋しそうに笑った。
ノボルは瞬きをしなかった。世界がじわりとゆがんで視えた。
❤ラヴ❤
兄が泣いており、女のコが掠れて消えていく。
石板を胸に抱いた女のコはそのまま、ふっといなくなった。
兄も女のコも一言も交わさずに、握手を交わすこともなく、ただ見詰めあうだけで別れの挨拶を終えていた。
なんだよもう。
またもや蚊帳の外でおもしろくない。
しばらく兄は茫然としていた。声をかけたかったけれど思うように言葉が見つからない。
風が木々をゆさぶり、音を立てる。闇夜が辺りを埋め尽くす。
視えなくなったからといって、存在までが消えるわけではない。
だのに、あのコは消えてしまった。消えてしまったのだ、とラウには判った。
目を瞑っても、なにも視えなくっても、世界はなにも変わらない。
変わらずに変わりつづけている。
ラウは思う。
そこにわたしの干渉は反映されない。干渉することはできるけれど、反映はされない。
わたしが見なくともそこには世界が存在し、
わたしに視えていても、存在しないものは存在しない。
だったらわたしの存在に、いったいどんな意義があるのだろう。
わたしは世界を必要としているのに、わたしは世界に必要とされ得ない。
わたしの干渉のいっさいは、川のながれに、ちいさな波紋を立てる程度のささやかな影響でしかなく、生じた波紋はすぐに、川のながれにながされる。
――まるで幻相。
膨れては割れて弾けてしまう泡のように。
なんて中身のない、うすっぺらな存在なのだろう。
――わたしなんて。
ラウは、哲学的な夢想に耽った。そのままどこまでも沈んでいきたいと望みながら、それでも誰かに手を掴んで引きあげてもらいたいと願った。
のボールの
終わってしまった。ルノとの別れを名残惜しく思っている自分に気づく。
落とし物を拾えばいつも決まって面倒事に巻き込まれた。今回だってそうだ。うんざりしたはずだった。
だが今は、胸にぽっかりと穴が空いているみたいだ。冬の夜空のように透きとおった清々しささえ感じられた。
溜め息を漏らす。これでよかったのだ。
「じゃあ、帰りますか」
言いながら振りかえると、ぎょっとした。
妹が塞ぎこんでいる。
コートを握りしめ、うつむいている。
ああ、と思った。胸がくすぐったい。
こんなときの妹はとくにいじらしい。
「さあ、帰るぞ」頭を小突くみたいに撫でてやる。「アレの代わりだって、またもらってこなきゃな」とゆびで輪っかをつくり「呪符」を示す。
数歩すすんでから背後を窺う。妹はまだその場に佇んでいる。
やれやれ。
うなじを掻きあげる。
「ラウちゃん、はやくきてって。お兄ちゃん、ひとりじゃこわくって帰れないんだから」
踵を返して、妹の手を取る。無理やりに歩かせる。
引きずるように。
引きあげるみたいに。
「お兄ちゃんはさ」妹がうつむいたままつぶやいた。
なんだ、と相槌を打つ。こちらの手を握り返し妹は、
「お兄ちゃんはさ、どうしてそんなに……アホなの」
「んー、どうしてだろうなぁ」
苦笑するよりない。「わかるわけないっしょ。だってお兄ちゃん、アホだもん」
森を抜けると空がひらけ、辺りが一気に色めきだす。
・エピローグ・
***
男は懐古する。
少女と出会ってから別れるまで、そのあいだに要した時間は三日間だ。
少女と共に過ごした時間の経過は、轟々と流れる川をせき止める岩のごとくに、男の平穏だった日常に渦を巻いた。
濃密な時間だった。充実した時間だった。そんなふうに、今は思う。
無事にこの平穏な日常へと舞い戻ってこられたからこそ、このように感慨に耽ることができる。それを男はきちんと自覚している。
奇態極まりない少女に、三日のあいだ、ずうっと付き纏われていたのだから、気を揉むな、というほうが無理がある。プライベートなど、皆無だった。
が、こうして回顧してみるとやはりというべきか、どこか物淋しい。
会えるならもういちど逢いたいものだな、と冗談半分にそう願う。
この三日間を期に、たまにではあるにせよ、男は道端へ目をやっている。どこかに、再会のきっかけが落ちてやしないか、と、つい探してしまうのだ。
***
もしかしたら、と女は考える。
ふと、なにともなしに、なんとなく。
もしかしたら、わたしたちの認識しているこの世界というのは、ひどく断片的で、曖昧なものなのではなかろうか。スクリーンに投影された映像のように。誰もがみな、投影された虚像を眺めているだけではなかろうか。
投影された像は、固定されている。どの座席から観賞しようとも、見える映像が同じなように。
けれどもその映像というものは、本来、もっと奥行きのある世界だったはずだ。どこにも固定されていない、広大で深淵で彩色豊かな、そんな風景であったはずだ。それを、だれもが、スクリーンに投影された映像ばかりを真実だと勘違いしているだけではなかろうか。投影された映像のそとがわ――映っていない箇所では、もしかしたら、とんでもない世界が広がっているかもしれない。それを確かめることは、だれにもできない。
わたしの視たあの童女は果たしてどちらだったのだろう。
ふと、なにともなしに、なんとなく、女はそう考えた。
【マジックミラー】おわり。