千物語「怪」

文字数 102,428文字

千物語「怪」

目次
【ツノ様】
【雪女の灼熱】
【小豆洗いはそそぐ】
【モンメの一端】
【階段を下りる怪談】
【霊感がゼロになった日】
【お盆は神さまに別れを】
【夢のなかの猿】
【幽霊の仕事】
【夢のなかの声】
【チコちゃんとお盆】
【融けるほどに暑く】
【ぬりかべは潜む】
【ろくろ首の山】
【砂かけ婆は嗤う】
【海のもの】
【作家は死者に取材する】
【アジサイ。紫の顔。人影。】
【王道の怪談】



【ツノ様】

 鉄柵のざらついた冷たさだけを鮮明に憶えている。私は当時八つになったばかりのわっぱで、親の都合で親戚の屋敷に預けられていた。
 むかしで言うならば丁稚のようなものだった。旧家と言えばよいのだろうか、山間の集落にあり、屋敷を中心に伝統が里全体を覆っていた。伝統は根強く法の域にまで達していた。
 ぞんざいな扱いこそ受けなかったが、働かざる者食うべからずの理屈が生きていた。
 与えられた仕事は屋敷の掃除、食材の買い出し、それから農家から要請があれば、家畜の世話をした。糞を集め、床を掃除し、飼料を掻き混ぜ、分配する。
 私がもし女だったら屋敷の家事手伝いに専念できただろう。ほかにも私のような子どもがいたので、親戚の子どもは誰もがいちどはこの屋敷に奉公にでる習わしだったのかもしれない。
 私が頑張れば頑張るほど仕事は増え、よりたいへんな作業を任される。
 だがそれも一年もすると、ぴたりとやんだ。
「きょうからここがおまえの仕事場になる。おまえは働き者で、何より忠誠心がある。よく働いた褒美と思ってくれ。なに、むつかしい仕事ではない」
 そう言って連れて行かれたのが、屋敷の裏手にある蔵だった。屋敷の主人がじきじきに案内した。彼は手に桶を持っていた。蓋がしてあり中身は不明だ。蔵のなかは暗く、書物が書架にぎっしりと収まっていた。
 屋敷の主人は書架の一つをどかすと、床に現れた扉を開けた。
 階段だ。
 さらに地下へと下りて行けた。
 地下はがらんとした空洞で、炭鉱の坑道のようだった。
 道は長く、屋敷のそとにでただろう位置にまでくると、立派な門構えが現れた。閂がされており、さらに上から鎖と南京錠で厳重に封がされていた。
 なかに入ると、座敷が広がっている。足場は畳だが、案内をした屋敷の主人は畳に足をつけずに、真ん中に点々と埋め込まれた石のうえを歩いた。庭園の飛石めいている。畳の奥は途切れており、砂利が敷かれ、さらに奥には池があった。
 湧水だろうか、池は驚くほどに澄んでおり、魚や水草がイキイキと水底に命の営みを築いていた。岩には苔が生しているが、足場となる飛石のうえだけはきれいなものだった。池を渡る。水のうえを歩いているような高揚感が湧いた。
 奥には社があった。ぽつんとあった。神社の拝殿のようでもあるが、賽銭箱はなく、麻縄や本坪鈴もない。扉はなく、一面が障子張りだった。
 障子を開くと、鉄柵が見えた。中には入れない造りのようだ。鉄柵の真ん中には四角く穴が開いていた。
 屋敷の主人は桶を掲げ、
「きょうから毎日ここにこれをお供えしてもらいたい」
 言うと主人は桶の蓋を開けた。中から骨についた肉の塊を掴み取ると、それを鉄柵の穴のなかへと投げ入れる。
 桶の中身が生肉だったことにも驚いたが、神聖だろう社のなかに放り投げたことのほうが当惑した。もっと丁重な所作でなくてよいのだろうか。戸惑いを覚えた。
 桶をすっかり空にすると主人はふたたび蓋をする。
 障子を閉じる。
 そのときだ。
 社のなかで音がした。
 細長い棒か何かで壁を擦るような音だ。連続して鳴る。
 次点で、肉を食いちぎり、骨を噛み砕く音がつづいた。
 私は恐怖で動けなかった。
「なに、心配はいらんよ」主人は柔和にほころびると、頼めるかな、とこちらの肩に手を置いた。重圧だった。牛舎で重い荷物をいくつも担いだが、それらと比べものにならないほど主人の手は重く、重く、重たかった。
 承知いたしました、以外の言葉を吐けるわけもなかった。
 社の障子には難解な漢字が、一枠につき一つずつ記されていた。どこか呪文じみているそれの奥からまた、壁を擦る音が、カツカツずずずと窮屈そうに聞こえた。
 屋敷の主人は、作業の手順のほかには何も説明しなかった。こちらから質問すれば或いは答えてくれたのかもしれないが、そうする発想を持てなかった。
 きっとこれはこの屋敷の、ひいては村の、一族の、秘奥にちかい仕事に違いなかった。
 信用のおける一族の者に代々任されてきた慣例なのではないか、しきたりなのではないか。
 家畜の肉は、猟師が毎日捌いて屋敷に届けてくれる。明け方に届いたそれを、厨房の女将さんから受け取る。桶に入れられているので、傍から見たら私が何を受け取り、それを何の目的で、どこに運んでいるのかは分からないはずだ。女将さんがどこまで知っているのかはついぞ判らなかった。女将さんができれば関わりあいになりたくないと思っている心象だけは否応なく伝わった。私を見る目つきが、これまでお手伝いをしていたときとはまったく違っていた。唾棄すべきものを敢えて見ぬようにしているようにも、怯えにも、見えた。
 私は元から人との付き合いが浅かったため、一人でこなせる仕事をもらって以来、屋敷のなかで孤立した。
 かといって苦しくはなかった。しずかなのは好きだ。桶を蔵の地下に運ぶことさえすれば、あとの時間を好きなように過ごすことができた。蔵のなかにはたくさんの書物が仕舞われており、私は一日の大半をそこで書物を読んで過ごした。
 社のなかには生き物がいる。その世話を仰せつかったのだと解釈した。
 社のなかの生き物を私はツノ様と呼んだ。食事の際に聞こえる物音はおそらくツノ様の角か何かが壁を擦る音だ。鹿や牛を神の遣いとして社のなかで育てているのかもしれない。
 それにしては社の中からは家畜に特有の臭いはせず、また掃除をしていないのに花のような香りがするのだった。
 灯りは社のそばに火が焚かれている。いつ地下に下りても燃えているので、誰かが油を継ぎ足しているのではないか、と想像した。
 社の障子の奥は真っ暗で見えない。鉄柵に開いた四角い穴は、幼子ならば中に入れるだろう大きさだが、齢八つの私には無理そうだった。 
 社をぐるりと回って見た。どこにも入り口らしき戸はなく、いったいどうやって中にツノ様を入れたのかが不明だった。赤子のうちに鉄柵に開いた四角い穴から中に落としたのだろうか。いかな獣といえど母親から離しても生きていけるものだろうか。
 疑問に思うことはほかにもたくさん湧いた。蔵の地下までの道はどこも細い。木材を運べば、なかで社を組み立て、池をこさえ、庭園のように整えることはできる。たいへんだが、できないことはないだろう。
 しかしいったい何のためにそんな労力を割いて、このような細工をこさえたのか。誰に見せるわけでもなく、こそこそとツノ様を閉じこめ、それで死なさぬように餌を届ける。目的が解らない。私はことさら蔵のなかからこの集落に関する書物を探し、読んだ。
 思ったよりも集落の記録は残っていた。そのほとんどは家系図や土地が誰から誰に譲渡されたかといった覚書きだった。なかには伝記を集めたものもあり、代々の屋敷の主人のなかには物書きを生業とした者がいたようだと推量がついた。
 伝記の書物は古く、私には読めない文字で書かれていた。
 各話の題名だけがなんとか読み解けた。
 同じ筆記だからだろう、どの話のなかにも「竜神伝説」の文字が含まれていた。竜神伝説は書物そのものの題名でもあり、中核をなす話なのだろうと当て推量だが想像できた。
 竜と言えば屋敷の家紋は、竜の爪と角からなる。三つの爪が内側に向かい合い、真ん中に二つのツノが絡み合って、網目を模した図形を描いている。一見すると太極図のようだ。
 気になったので、以前仕事を手伝った農家のひとに話を聞きにいった。転々とした職場のなかで最も気さくで、世話を焼いてくれたひとだった。警戒をせずに、かつ話を聞かせてくれそうに思えたのだ。
「竜神伝説かい、そりゃ知っとるけど、なんだい知らんのか」瀬戸さんは禿頭の男性だった。いつも目を見開いており、眼力がある。そのせいなのか、深い皺がひたいに三つ波打って刻まれている。「知らないので、教えてくれませんか」
「ええけどよ。なんでまた」
 瀬戸さんはまだ仕事が残っているそうで、あとでもういちど来てくれ、と時間を指定した。仕事の邪魔をしないように時間を選んだつもりだったが、季節ごとに作業時間がずれるのを考慮していなかった。
 時間になってから瀬戸さんをふたたび訪ねる。
「飯食ってくだろ。晩酌に付き合っとくれ」
 お酌をしながら瀬戸さんの近況を聞く。新しく手伝いを雇ったが、使えない。またおまえに来てほしい。そういう愚痴とも懇願ともつかない話が長々とつづく。
 竜神伝説になんとか話を繋げようと私は瀬戸さんの機嫌を損ねないように、屋敷の主人に聞いてみますね、と否定も肯定もせずに、まずは手伝う気があるという体で相槌を打った。日々の時間には余裕がある。手伝うだけなら別に構わないとこれは本気で思っていた。屋敷の主人の返答次第だ。
 ひとしきりしゃべって満足したのか、瀬戸さんは顔を紅潮させながらほろ酔いで、竜神伝説について語ってくれた。
「むかしからある話だわな」
 要約すれば瀬戸さんから聞いた話は、比較的よくある類の昔話だった。かつて竜がこの村を守っていた。ある日、竜が里の娘に懸想した。しかしその娘は里の長の娘だった。相手は竜だ。娘は人だ。いくら神とて嫁がせるわけにはいかない。里の者たちは竜を退治すべく、竜の巣に油を撒き、火を放った。竜は怒り狂った。竜は炎を操り、里を灰燼に帰した。里の者たちはいち早く土地を離れたが、畏れを成して以降、竜のいる山には近づかなかったという話だ。
「神に楯突いちゃアカンちゅう話だわな」
 瀬戸さんは簡単にまとめたが、そう単純な話ではない気がした。瀬戸さんの話を信じないわけではなかったが、私はこの日から数日をかけて、ほかの里の者たちから竜神伝説についての話を聞いて集めた。
 大筋はみな同じだったが、細部が人によって異なった。たとえば竜の怒りを鎮めるために娘を生贄に差しだした、という者もあれば、娘のほうでじぶんから嫁に嫁いだという話もある。村の長が村娘に懸想しており、竜と娘を引き離そうとした、と語る者もあったが、これはそもそも竜を神と見做していなかったので、話を歪曲して記憶したものと考えられる。
 年若い者ほど、竜神伝説を知らない傾向にあった。とくに外からやってきてこの地に移住した者はほぼ十割、竜神伝説を耳にしたことはないようだった。
 この村にひっそりと語り継がれてきたのだろう。そこにあってしぜんな伝説でありながら、ことさら大仰に持て囃すほどには信仰と化してはいない。ふしぎと里に神社は一つもなく、竜を祀っているという話も聞かなかった。
 竜神伝説を仮に史実としてみれば、この里はそもそも竜のおわす山から離れた土地にある。信仰が根付かずとも不自然ではないのかもしれなかった。
 蔵の地下へ肉を届ける仕事は毎日欠かさずに行った。
 ときおり屋敷の主人が、問題ないか、と声をかけてくることがあり、それとなく本当に肉を届けるだけでよいのか、ほかに世話を焼かなくてよいのか、と迂遠に訊ねたが、言われたことだけをしなさい余計な気遣いは不要だよ、と念を押されて終いだった。
 肉だけでなく水をやったほうがよいのではないか、排泄物の掃除をしたほうがよいのではないか。
 日に日に私の心配は胸に溜まったが、案に相違して、社のなかの生き物は弱ることもなく、また臭気を発することもなかった。
 朝夕にヒグラシの鳴き声が聞こえなくなった秋の初め、桶のなかの肉がいつもより少なかった。猟師が肉を調達できなかったのだろうか。似たようなことが数日つづき、さすがにツノ様が可哀そうに思えた。
 弁当代わりに包んでもらったおにぎりを穴のなかに投じたのはほんの出来心だった。食べられれば腹の足しになるだろうし、無理ならそれまでだ。
 もし肉以外を食べられるならば、私にもできることは増える。
 余計な気遣いは不要だよ。
 屋敷の主人の言葉を思いだしはしたが、しかしツノ様の世話を仰せつかった以上、弱らせてはいけないと思った。
 ある日、いつものように社に肉を投じても、例のツノを壁に擦る音が聞こえなかった。死んだのでは、と案じたが、肉をすべて投げ入れると、それを待っていたようにツノ様がこちらに近づくのが判った。
 ツノ様は鉄柵に触れる距離にはこられない。それは私が世話をしはじめてから理解した数少ないことの一つだ。
 きっとツノが邪魔で、まえにでられないのだ。ときおりツノ様の角と思しき硬質な何かが鉄柵に当たり、鐘のような音を響かせる。それでもこちらから社のなかはまったく見えず、ツノ様のお姿は杳として知れなかった。
 おにぎりを鉄柵の穴から放ると、待っていたようにツノ様はそれを食べた。咀嚼音がするのでそうと判る。肉より米のほうが口に合うようだ。それはそうだ。ツノ様が鹿や牛に類する生き物であるならば、肉などそもそも与えていいわけがない。
 何かしらの事情があってこのような飼育方法をとっているのは漠然とであるにせよ察せられたが、ツノ様の世話をしはじめて何か月も経っている、さすがに情のようなものが湧く。
 以来、私は日に日に量の減る肉を届けると共に、台所で出た残飯をきれいなところだけ集めて、持ちだすようになった。ツノ様はことのほかそれら残飯がお気に召したようで、私が社に近づいただけで、障子の裏まで寄ってくるようになった。
 餌付けにすぎないとは分かってはいたが、ツノ様に懐かれたようでわるい気はしなかった。肉は肉であとで食べているのか、腐敗した臭いはやはり漂わなかった。
 里の風景にうっすらと白化粧が張るようになるころには、桶のなかの肉はカラっぽになった。代わりに薬草のような、ヨモギに似た草が樽のなかに申しわけていどに入っており、こんどはそれをツノ様に与えた。
 屋敷の主人に、本当にこれだけでよいのでしょうか、と伺いを立てたが、構わないよ、とにこやかな返事をもらうだけで、新たな肉や食料はもたらされなかった。社のなかの生き物が弱っているようですが、と直截に言えば、中を見たのか、と凄まれてしまい、いえ、と縮こまるしかない。
「きみが気にすることではないよ。そうだね、そろそろすることもなくなっただろう。蔵の掃除を頼めるかな」
 言われるまでもなく、この間、読書の合間を縫って蔵をきれいにしてきた。埃の被った箇所を見つけるのがむつかしいほどだ。
「解かりました」その事実を私は屋敷の主人に言わなかった。
 元日が近づくと、各々屋敷に預けられた子どもたちは暇を出される。帰省できるのだ。家に帰れる。親と会える。
 私も例に漏れず、仕事から解放された。ツノ様のことは気がかりだったが、屋敷の主人の意向に逆らってまで世話を買ってでるほど、私のツノ様への情はそこまで厚くはなかった。
 このままいけば遠からずツノ様は死ぬだろう。屋敷の主人はそれをこそ望んでいるとしか思えなかった。密かに祭りのようなものが開かれるのかもしれない。そこでツノ様の肉が並ぶのだ。供物として。
 そう考えれば腑に落ちるというだけのことであり、真実そうなのかは定かではない。
 正月を久方ぶりに親と過ごした。家族とはこういうものだったな、と近代文明の恩恵を思いだしながら、あの里は時代遅れだ、とコンビニ一つない里の風土をふしぎに思った。
 ことしの夏までの辛抱だから、と親は言った。私は親のもとで七日をぬくぬくと過ごし、八日目にしてまた里に戻された。
 屋敷は騒然としていた。
 正月明けはこういうものなのだろうか、と気後れしながら事情を訊くと、当主が失踪したという。どこを探しても見つからない。旅行に出たという話も聞かない。屋敷のお金も、荷物も、何一つ減っていない。どこへ行ったのか。
 事故に遭ったのではないか、事件ではないか。
 屋敷に留まらず、里は大いに騒ぎとなっていた。
 私はしばらく事の成りいきを眺めていたが、誰一人として蔵のなかを探そうとしない。なぜだろう。ひょっとして蔵の地下のあの空間のことを誰も知らないのではないか、と思い至った。
 疑惑は募り、三日目にして私は夜、こっそり寝床を抜けだし、蔵のなかに入った。
 地下に下りる。
 門の鍵は開いていた。やはりこのなかに屋敷の主人はいるのではないか。
 畳を越え、砂利を越え、池を越える。
 社のまえに立ち、呆然とする。
 障子は開いていた。
 鉄柵の穴に頭を突っこみ、倒れている男の身体がある。ぴくりとも動かない。なぜか下着姿で、周りに衣服は見当たらない。
 明かりは二つあったはずが、一つしか灯っていなかった。
 社に近づく。
 息を呑む。
 男は絶命していた。それはそうだ。首がない。
 否、首はあるが、頭部が破裂している。脳みそがなく、栗の抜けたイガグリのように傷口がぱっくりと開いていた。
 鉄柵には社の内側から無数の突起物が突きだしている。角だろうか。夥しい数の角の先端が、鉄柵の合間を縫ってはみ出している。独立した無数の角ではない。
 大樹のごとく枝葉が複雑に絡み合った二本の角だ。明かりを差し向け、角の根元が宙に浮いているのを確認する。闇から角が生えているように見えなくもない。
 角の主はどこへ消えたのか。
 角が引っかかり、社のなかですら自由に動き回れなかった。裏から言えば、角さえなければ社のなかであっても充分な広さがあったのではないか。だから折った。邪魔な角を折り、鉄柵に開いた四角い穴からそとに出た。
 では、屋敷の主人の頭蓋骨の中身を浚ったのはなぜだ。
 屋敷の主人を殺害したのは、誰なのか。
 ツノ様。
 私はいまいちど社を見上げ、それから足元の遺体を見た。
 私は迷っていた。
 どうすべきかを迷っていたにも拘わらず、身体はそうあるようにと手に持っていた火を社のなかに擲っている。これまで肉を放り入れてきたのと同じように、そうするほかないのだと知っていたかのように。
 私は逃げた。
 蔵から煙があがっている、と里の者たちが騒ぎだすころには、火の勢いは止めようもないほどに燃え盛っていた。蔵の書物までは火は回らないだろうと考えていた私であったが、考えが甘かったようだ、間もなく蔵は全焼した。
 私は蔵のなかにぎっしり詰まった書物を思いだす。社のある場所から蔵までは距離がある。あいだには坑道じみた空洞が開いていた。岩場だ。火が燃え広がることはないはずだ。誰かが火を蔵のなかまで運ばない限りは。
 私が蔵のそとにでるまでのあいだ、あそこには何者かが潜んでいたのかもしれないし、そうではないのかもしれなかった。
 その後、蔵の地下の空間が里の者たちに知れ渡ったかは判らない。屋敷の主人の跡を誰が継いだのかも私が知ることはなく、夏を待たずに私は家に戻され、以来、里との繋がりはとんと途絶えた。
 親に訊ねても、目新しい情報は得られない。親戚の家に預けていただけだ、と口を揃えて言い張るばかりだ。
 私は今年、高校を卒業し、晴れて大学生となった。
 成人してからいまいちどあの里に足を運ぼうと計画してはいるものの、里の住所はおろか、土地の名前すら私は未だ知り得ない。親はもはや、そういうこともあったわね、と記憶喪失を演じるばかりで、埒が明かない。真実、もはや記憶にないのかもしれなかった。
 竜神伝説は日本各地にある。大学では民俗学を専攻するつもりだ。
 各地の伝説を集め、研究すればいずれはあの里に行き着くだろうとの企みが根底にある。
 私はひそかにとある妄想を胸に抱いている。
 蔵の地下にあった社には龍が閉じこめられていたのではないか。
 毎年冬に屋敷の主人は竜と対面する必要があった。だから敢えて弱らせていたのではないか。肉以外を与えず、さらにその肉ですら冬になると断つ。
 それを私がこっそり穀物や食料を運んでしまったから、竜は屋敷の主人の見立てよりもずっと活発に動けたのではないか。
 屋敷の主人を殺したのは竜だ。
 角をねじ切り、鉄柵の四角い穴から社の外に脱した。社の陰に隠れながら屋敷の主人がくるのを待ち伏せ、そして殺した。なぜ脳髄を啜ったのか。食事の一環か、ほかにも理由があったのか。屋敷の主人の衣服がなかったことから、それ相応の知恵を竜は有していたと見てよさそうだ。
 鉄柵の穴を通れたことから、竜は細長いか、そもそも子どものような体躯だったと推量できる。
 屋敷の主人の衣服をまとい、蔵の外にでた竜は、その後行方を晦ませた。人間の衣服を身にまとえたならば、竜は人型と言える。屋敷の主人の脳髄を摂取したことで姿を変えたか、生来のものか。
 竜神伝説では、竜に見初められた娘はその後、竜に嫁いだという。その間にできただろう子はいったいどんな姿形をしているのか。
 社のなかに見た複雑に絡み合った角の光景を私は忘れられない。燃えたとはいえ、角はまだあそこに残ったままではないのか。
 いまいちど里に舞い戻り、真偽を確かめてみたい。
 きっとそこには埋葬されずに炭化した屋敷の主人の遺体もそのままになっていることだろう。或いは、里の者が見つけ、丁重に葬っていてもおかしくない。
 そうなっていれば竜の角もとっくに始末されているはずだ。
 妄想ばかりを浮かべてしまう。何もかもが定かではなく、詳らかなことは何一つとしてない。私の親が、里の存在を否定すれば、あの里での日々ですら私の妄想に成り果てる。
 里の者たちと交わした会話、こなした仕事、蔵の地下に湧いた池の棲んだ水の揺らぎ、そしてツノ様の世話をした日々。
 どれをとっても、いまはもう色褪せた記憶だ。
 鉄柵のざらついた冷たさだけを鮮明に憶えている。
 その向こうに張りついた竜の角はまるで、この世の憎悪の権化のごとく、ゆがみ、曲がり、ねじれ、絡みあっていた。
 ツノ様はいまもどこかで生きている。
 憶えていてくださるだろうか。
 私はいまでも、ときおり夢に見る。頭部に二つの丸い傷跡を持った人物が接触してきてはくれまいか、と。
 従者のごとく待ちわびているのである。 




【雪女の灼熱】

 真夏の陽炎ゆらめく繁華街を彼女は彷徨っていた。
 僕の目には世界から浮きあがるように見えていた彼女の姿をほかの通行人たちは一顧だにせず、彼女のよこを、うしろを、通り抜けていく。
 僕は胸からぶら下げたお守りをぎゅっと握り、意を決して彼女に声をかけた。
 黒髪に透き通るような肌、それでいて冷気すら漂う希薄な印象は、ひと目で彼女が雪女なのだと僕に予感させた。もちろん最初はただ目についただけだ。道に迷っているそぶりを見せていたので、放っておけなかった。
 話しかけてみると、僕が声をかけたことそのものに驚いたようで、警戒を示されるよりさきに、ちょうどよかったと言わんばかりに事情を彼女のほうから語ってくれた。
 彼女はとある男を探していた。むかし雪山で助けて以来、ひそかに恋慕の念を抱き、一枚、一枚、層を厚くするように恋心を育んできたが、いよいよ我慢ならずに下山し、男を探す旅にでたそうだ。
 だが手がかりがない。記憶のなかで寂しそうに笑う男の姿があるばかりだ。
「会えば判るとそう思うて、山をでてみたのだが、よもや下の世にこれほどまで多くの人のコらがいようとは」
「山から下りたのは初めてなのですか」
「以前に一度あるのだがね。や、二度か。そのころはこのような堅牢な岩は突き出ておらんかった」
 雪女はビルを見上げ、ほぉ、と息を吐く。
「人のコらは我をバケモノと呼ぶが、これではどちらがバケモノか解からぬな。我はおぬしらがおそろしい」
 雪女の息が吐かれるたびに、宙にキラキラと光が舞った。
「融けて消えたりはしないんですか」
「心配は無用じゃ。だが思ったよりもずっと熱がたむろっておる。休める場所があるとうれしいのだが、日よけできる場所はあるか」
「狭苦しくて、汚い場所でよければ」
「汚いのは嫌じゃが」
「僕の家って意味なんですけど」
「おぬしの住処とな。住める汚さならば許す。案内せい」
 傲慢な物言いの割に、彼女は満身創痍の様相だった。見捨てて立ち去れなかった理由がそこにあり、なにより彼女は怯えていた。
 慣れない現代社会の街並みに、時代に取り残された雪女が交じって平気なわけがない。僕ですら都会の街並はひどく疲れる。
「あれはなんだ」彼女は自動販売機をゆびさす。「たくさん見掛けるが、何の意味があるのだ。何の神を祀っておる」
「社ではないです。もちろん狛犬でも」
 自動販売機すら見たことがなかったらしい雪女にとって、この街は猛獣ばかりの密林よりも気を張るに違いなかった。
 この暑さでもある。
 ことしも例に漏れず記録的猛暑を更新した。アスファルトは炎天の熱気を溜めこみ、天然のフライパンと化している。
 さすがの雪女とて、このような猛暑ではまいるだろう。
 僕は彼女を家に連れ帰った。
「よい家じゃな。汚いと聞いておったゆえ、覚悟したが、なに、きれいなものではないか」
 彼女は床の埃をゆびでつまんだ。言葉と所作がずれている。気を使うならもうすこし上手にお願いしたい。掃除くらいしておくんだったと恥辱の念が湧く。
 お茶をだし、これからどうするのか、頼れるひとはいるのか、を訊ねた。
「頼れるも何も顔見知りがおらんし、どうするかと問われてもな。探し人を見つけるまではどうしようもなかろう」
「手がかりはでも記憶だけなんですよね。似顔絵とかは」
「似顔絵とな」
 紙とペンを手渡す。探し人の特徴が掴めれば、人に訊くなり、ネットで情報収集をするなり選択肢が広がる。
 だが彼女の絵は独創的にすぎて、芸術的ではあるが、捜索の手がかりには向かなかった。
「雪女さんにはそのように人間の顔が見えているんですかね」
「ダメか?」
「ダメというか、なんというか」
 顔というよりも模様と言ったほうがちかい。下手ではない。だがそれは雪の結晶を顔に見立てたと言ったほうが正しい表現に思える。
 さらさらと迷いなく線を引いていた。きっと独特の眼差しで世界を視ているのだ。それが彼女に固有の性質なのか、それとも雪女だからなのかは分からない。
「もうすこし詳しく話を聞かせてください」
「どうしてだ。べつにおぬしには関係なかろう」突き放すような言葉ではあったが、響きはやわらかい。「それともいっしょに探してくれるとでも言うのか。手伝ってくれると?」
「そのつもりだったんですけど、あれ、違ったんですか」
「お人よしだのう。人のコらはみなそうなのか」
 いったい誰を想定しているのかは分からない。彼女の話を聞くにかぎり、彼女は人間との交流を長きにわたって築いてこなかった。
「疑問なんですけど、探している男のひととはいつ会ったんですか。なんとなくですが、ずいぶんむかしのことに思えますけど」
「まるでむかしだとわるいみたいではないか」
 彼女は茶を口に含む。冷めるのを待っていたようだ。
 なんと言ったらいいものかと案じる。
 僕は胸から垂らしたお守りを握る。
 時間を稼ぐつもりを兼ねて席を立ち、台所に行って茶菓子を探す。賞味期限切れ間際のミニドラヤキを見つけた。持って戻り、食卓のうえにばら撒く。
 彼女は物珍しそうに、一個一個包装紙にくるまれたそれを手に取った。
 よく見ると彼女は椅子のうえに正座をしている。初めて椅子に座ったのではないか。
「足、痛くありませんか」
「痛く?」
「足を下ろすと楽かもしれません」
「これだとダメなのか」
 狼狽するのは、礼に欠いた行いをしたくないという彼女の誠実さからくる戸惑いだろう。楽ならそれでも構いませんよ、と言って、暗に、好きなように振る舞ってほしい旨を示唆する。ともすれば彼女には僕のほうこそ礼儀知らずに映っているかもしれない。郷に入っては郷に従えの考えに彼女は忠実に従おうとしているのだ。
「これは可能性の問題であって、いちおう考えていたほうがよいと思うから言うだけですので深い意味はないのですが」
「まどろっこしい言い方をする。遠慮なく申せ」
「探し人さんはいま、この時代に生きてらっしゃるのですか」
 彼女は眉間にしわを浮かべた。
「僕たち人間の寿命は、たぶんですけど雪女さんたちよりもずっと短いような気がするので」
 目をぱちくりさせたあとで彼女は、いかほどだ、とつぶやく。僕は応じた。
「だいたい八十年くらいです。四季が八十回巡るくらい。初雪を八十回、目にするくらい」
「そんなに」
 彼女は言葉を切った。尻つぼみに消えた言葉は、長いのか、ではないだろう。やはり誤謬を抱いていたようだ、とやりきれない思いが募る。
「もしその方と会ったのが何十年も昔なら、そもそもあなたの記憶のなかにある姿ではないでしょうし、存命されているのかどうかも」
「人のコらは儚いとは聞いたことがあったが、そういう意味であったか」
「見た目が同じなので、そこのところ誤解しがちですよね」何の慰めにもならないが、言わずにはいられない。「いずれにせよ、諦めるには早いです。もしよければこの家を拠点に、もうしばし探し回ってみてはどうでしょう。なんとなくですが、見た目が変わっていても、いざ目の当たりにすればあなたになら判るかもしれませんし」
 これは似顔絵を見ての所感だ。彼女の目には、外見の姿形だけでなく、その人物に固有の波動のようなものが視えている気がした。希望的観測には違いないが。
 この日から彼女はときおり僕の住まう家へとやってきて、しばらく休むとまた姿を消した。家にやってくる周期はまちまちで、半年ほど見ないこともあれば、三日おきに訪れることもあった。
 彼女を街で見かけ、声をかけてから十年もすると、僕にとって彼女は遠い親戚のような存在となっていた。身内と呼ぶほどには親密ではないが、訪問があるとそれとなくもてなしたくなる。心が潤う。いなければいないで構わないが、そばにいればそこはかとなく日々に活気が宿る。
 心待ちにするほどのことでもないが、彼女がいつ現れてもいいように、家の掃除はこまめにする習慣がついた。
 彼女がよろこぶだろうかと思い、庭に花を植えたり、空調を新たに設置したりした。やはり涼しいほうが好ましいようで、夏場は必ず顔を見せた。
「探し人はまだ見つかりませんか」
「おぬしの言うように、もう去ってしまったのかもしれぬな」
 彼女は遠い目をし、ここにいない者を眺める。
「山には戻っているのですか」
 当然そうだろうと思い、この十年、訊かずにきた。だが会うたびに、わずかなりとも人間の生活に馴染みを深めていく彼女の言動を垣間見ているうちに、ひょっとしてずっと探し回っているのではないか、との疑念が湧いてきた。
 身なりこそ小奇麗なままで、いつ見ても彼女は質の良い着物をまとっている。そのぶん、疲労による目の下のクマや、こけた頬など、目についた。
「山には戻れぬ」彼女は口にしてから、喉に引っかかった魚の骨を取り除かんと唾を呑みこむような間を開けたのち、「いや、いまさらか」とつぶやくと、「じつはな」と打ち明けた。
 聞けば、雪女にも規律があり、そのうちのいくつかを破ることで彼女は山を離れることを許されたという。つまるところ、破門されたのだ。彼女にはもう、戻るべき場所がない。家がない。死ぬまで現世を彷徨いつづける。どうあっても馴染めぬ定めと知りながら。
「そこまでして会いたい相手だったのですか」気持ちのつよさは解かっていたつもりだ。そのじつ、しばらく探して見つからなければ諦めるだろう、といった楽観の所感を抱いてもいた。
「どうだかな。いまになってしまっては、なぜそこまでして、と思わないでもないが」
 口調もだいぶん今風になった。雪女にとっても十年はけして短い時間ではない。新しい環境を見て学ぶには十分な年月だったようだ。
「身体に害はないのですか」
 山を離れても問題はないのか、と案じる。むろんないわけがない。それくらいの想像は巡らせられた。
「たいしてない。ちと寿命が縮むが、なに、おぬしら人のコと比べれば充分に長生きだ。山にいたところでとくにすることもないがゆえ、退屈しないで済む分、こちらで過ごすほうが【生きる】という意味では濃厚だ」
 生きた時間よりも、どう生きるかのほうがだいじだと彼女は謳う。
 桃を剥いて差しだす。彼女は桃を口に運びながら、美味い物も食べれるしな、と目のかたちを弓なりに細めた。
「一つ気づいたことがあるが、いいか。いつか確かめよう、確かめよう、と思うておったが、おぬしの顔を見るといつも忘れてしまって、きょうまできてしまった」
「なんでしょう」
「全国津々浦々、おぬしらの街を歩き回ってみて了解したことがいくつかある。そのうちの一つだが、おぬしら人のコは、我を気に留めん。まるでそこにいないものとして扱うようだの。ただ一人、おぬしを除いては」
「そうなんですか」
「薄々気づいてはおったのだが、おぬし。ただの人のコではないな」
「いえ、ただの人のコなんですよ」
 ただし、僕は街中で彼女を初めて見掛けたよりもずっと前から、彼女の姿を知っていた。祖父の写真に写っていた。祖父の財布のなかにあったそれは写真だ。お守りの袋のなかに隠すように、入っていたのを発見したのは、祖父の葬式を終えてから、形見分けのために母の了解を得て、財布をもらい受けてからのことだった。
 当時高校生だった僕は、その写真の人物への興味関心というよりも、祖父とそのひととの関係を想像するほうに魅力を感じていた。僕は祖父にとってのゆいいつの孫だったし、早くに他界した祖母の代わりに、幼いころから僕が祖父の話し相手になっていたこともあって、家族のなかでいちばん祖父のことを解っているつもりだった。
 この家だって元は祖父のものだ。いまはまだ父親名義だが、じっしつ僕が受け継いでいるようなものだし、今後は名実ともにそうなるだろう。
 そんな僕であっても知らない祖父の過去がある。それはあるだろう、とは思うが、祖父にとってだいじであればあるほど、その過去を僕にも黙っていた背景に思いを馳せずにはいられなかった。
 いったい誰なのだろう、この写真の女性は。
 そうして大学卒業を機に、この家へと引っ越した僕は、この街で奇しくも写真のなかの女性とうりふたつの人物を見掛けた。
 他人の空似に決まっている。それはそうだ、写真の撮られた年代は祖父の若かりしころだ。雪山を背景に、まるでそういったアート作品のように着物姿の女性が物憂い気に映っている。撮られていることを意識していないしぜんな表情が、妙に様になっており、プロのモデルとしか思えない。だが僕にはそれが祖父の手により撮られた写真だと判断ついた。似た景色の写真が、アルバムのほうにいくつも納まっていたからだ。目の高さや、写真の画質から言ってまず祖父の撮ったもので間違いなかった。
 街で見かけた女性は困っているようだった。他人の空似だったとしても無視するのは僕の信条に反する。それを、祖父の信条に、と言い換えてもよい。相手が誰であろうと困っていたら手を差し伸べる。祖父から受け継いだのは何も財産ばかりではない。いいや、財産というなれば、カタチなきこれら無言の教えのほうこそだ。
 僕は一瞬の回顧から回帰する。目の前で、戸惑いがちに僕の様子を窺っている女性、かつて祖父の出遭っただろう雪女のまえへ、お守りを置いた。肌身離さず持ち歩いていた。中には過去撮られただろう、彼女の写真が入っている。
 これはなんだ。
 彼女はお守りの中身を改め、そして息を呑んだ。
「黙っていてすみませんでした。おそらくあなたの探し人は僕の祖父です」
「そやつはいま」
「亡くなりました。あなたが僕と出会う前にはもう」
 下唇をはむと、彼女は天井を見上げ、鼻から息を漏らした。
「なぜ黙っておった」
「なぜ、なんでしょうか。迷ってはいたのですが、どうしても告げるのはいまではないような気がして」
「騙しておったのだぞ。無駄な時間を過ごしただけではないか。無駄骨だ。徒労だ。おぬしはさぞかし愉快であったろうな。とっくになくなっているものを、見つかるはずのないものを求めつづけ、彷徨いつづけた我を眺めているのは」
 さぞかし滑稽であったろうな。
 歯を食いしばる彼女の言葉には、怨嗟というよりも、身を切り裂くようなせつなさが感じられた。それを耳にしたときの切創に似た胸の痛みは、幾度となくこの期間、彼女をまえにしながらも祖父のことを打ち明けられずにいたあいだに覚えた苦悶とよく似ていた。
「言い訳のしようもありません。償えるものなら何でもあなたの望みを叶えて差し上げたいですし、謝っても許されることではないと重々承知しております」
「短くない付き合いだ、悪意がなかったくらいのことは判る。十年ぞ。雪女の我からしても、短くはない。そのうえで問う。なぜ黙っておった」
「見たくなかったのだと思います」
「見たくなかった?」
「あなたの落胆した顔を。がっかりした顔を。希望を失った顔を」
 唾液を飲みこみ、このさきを言ってもよいものか、と逡巡する。彼女はそれをこそ求めるように、それで、と相槌を挟んだ。
「祖父を探していると知ったとき、迷ったんです。あなたは街に下りて日が浅かったようですし、きっとまだろくに探し回れていないのだろうと。何もしないままで、あなたの希望はすでにこの世にいないのだと知らせることは、なんだかあなたから希望を奪ってしまうようで」
「それで黙っておったと」
「最初はそうでした。伝えなきゃ、伝えなきゃ、と思ってはいたんです。あなたがこの家を骨休めの場として利用してくれるようになって、顔を合わせるようになって、そうしたらもう、僕はあなたに本当のことを告げるのが苦しくなってしまって」
「我を思ってのことだったとそう申すか」
「最初は、最初はそうだったんです。でもいつの間にか、僕は僕のために、あなたとお別れをしたくないとの気持ちに流されていました。祖父はもうこの世にいない。あなたの探し求めているひとはいない。それを知ったらあなたはきっと山に帰ってしまうと思ったから」
「だが我はもう山には戻れん。それを知って、安心して、ゆえにこうして明かしたか」
「さもしい欲求に流されてしまいました。あなたを無駄に傷つけた。謝っても謝りきれない、償えるとは思ってはいません」
「そこまでのことではなかろう。命を弄んだわけではない。嘘を吐いたわけでもない。知っていたことを伝えなかった。そのせいで我は十年を無駄な旅に費やしたが、まあ、それなりに楽しくはあった」
 が、やはりつらいな。
 沈黙の合間に家鳴りが響く。
「いまこの瞬間に開いた、我らのわだかまりは大きい。おいそれとなかったことにはできんぞ」
「はい」
「これまでのようにはいかぬな」
 去るつもりなのか。
 呼び止めたい衝動に駆られる。これからもこの家を拠点にしてほしい。顔を見せてほしい。償いと称してこの家を明け渡したいくらいだが、おそらく彼女はこちらの顔も見たくないだろう。家だけを譲り、こちらはほかの地に移り住む。それが最も妥当な償いに思えた。
「しばしぎこちなさが残るが、まあ、それも時間が解決するだろう。もう方々を探し回る必要もなくなった。しばしこの家に居つくが、構わぬな」
「一週間ほど時間を戴けば、僕の荷物はカラにできます」
「荷をどうすると? よもや引っ越すなどと言うつもりではなかろうな。我は掃除が苦手だ。おぬしがおらんでは、困るぞ」
 顔をあげる。彼女は顔をしかめると、独りにするな、と言った。「我はもう二度と探し回りたくはない。ここにいろ。我の世話をしてくれ。これまでと変わらずにな」
「それが償いになりますか」
「償うな。これは我の本懐だ。望みだ。願いなのだ。聞いてくれるか」
 拒む理由などあるはずもなかった。
 深々と頭を下げ、ただ無言で、感謝の念を示すよりなかった。
「礼を言いたいのはこちらのほうだ。いましばらく世話になる。改めてよろしくお願い申しあげる」
 この日、初めて彼女との関係に名前がついた気がした。数日が経ち、数週間が経ち、数か月もすると、果たしてどんな名前がついたのか、と考えるが、これといって明瞭には浮かばず、以前よりも彼女の顔を見掛ける頻度が高くなっただけであり、家のなかに彼女の息遣いが感じられるようになっただけであるから、とくに変わり映えがないと言えば変わり映えはなかった。
 ただ、彼女をまえにしても以前のような胸の詰まる苦しさを覚えずに済んだ。あべこべに胸のうちにじんわりと湧くぬくもりがある。雪女たる彼女をまえにして抱く所感ではないようにも思えたが、いずれにせよ、彼女をまえにして凍えたことはいちどもない。
「もし祖父がいまもまだ生きていたとして」ある日、僕は何気なく思いついた疑問を口にした。庭には去年植えたばかりの菊が咲いている。「あなたは祖父とどうなりたかったのですか」
「さてな。すでにほかの者と婚姻を果たしておったのだろう。子まで儲けていたのだ。どうもしなかったろうな」
「それでも山には帰れないのですよね」
「元から戻る気はなかっただけのことだ」彼女は庭にしゃんがんでいたが、立ちあがり、「なんだ、まだ気に病んでおったのか」と振り返る。黒髪が彼女の首筋に膨らみ、撫でた。
「いえ。ただ」
「おぬしも我より先に死ぬ」彼女はこちらの言葉を遮った。「おぬしを残して我は去らぬし、おぬしを縛ろうとも思わぬ。安心しろ。我は雪女だが、伝承のように消えたりはせぬ。邪魔になったら申せ。そのときはおとなしくここを去ろう」
「邪魔だなんてそんな」
「そう思ったときに言えばいい。遠慮はするな。どの道、長い旅の道中だ。おぬしが死ねば、いやでも旅立たねばならぬ。それまでの骨休めでしかない」
「それはあまりに」
 寂しいと思った。しかし、それを彼女に突きつけるのは酷に思え、言葉を飲みこむ。誰より彼女が覚悟していることだ。
「山にはもう本当に絶対に戻れないのですか。仲間や家族に会うだけなら」
 山でなくとも、向こうから会いに来てくれるなら可能なのではないか、と問うと、それは無理な相談だ、と彼女は言った。
「仲間も家族もおらん。山にはもう誰もおらぬのだ。我で最後だ。ゆえに山を去った」
 戻れても意味はないのだ、と彼女は言った。
「いずれ徐々に雪女としてのチカラも失せよう。あれは山の御霊のお陰で得られた神通力のようなもの、山から離れれば薄れるのが道理だ」
 ほれ、と彼女は息を細く吐く。菊の花の表面に霜がおりる。
「以前ならば粉々に砕けるまで冷やせたが、いまではもうこの程度だ。冷凍庫のほうがまだ役に立つ」
「雪女伝説はご存じですか」
「昔話であろう。街の本屋で目にした。なにゆえ最後、女は去った?」
「約束を破ったからではないんですか」
「べつによかろう。正体が知られて困ることもあるまいに。いずれ巷説、創作にすぎぬから真面目に考えるだけ愚かなのかもしれぬが」
「人間とのあいだに子を儲けたそうですが」
「雪女としての力を失えば、そういうこともあるかもわからんな」
「あなたはでは子は」
「おぬしとの子ができるか否かか?」
 からかうような響きがあったが、彼女はそこで目を伏せ、いらぬことを言った、と手で宙を払った。
「できるのですか」僕は食い下がった。
「おぬしを縛るつもりはないと先刻申したばかりだ。この話はやめだ。にどとせぬ」
「夫婦になってはくれませんか」僕は縁側から庭に下り、逃げるように背を向ける彼女のゆびさきに、おっかなびっくり、触れる。熱が抜ける。「共に生きてはくれませんか。僕のほうがさきに世を去るというのであれば、それまでどうかそばに。ここに。共に生きてはくれませんか」
「ばかもの」彼女は夕陽に目を細めると、「端からそのつもりだ」と唇の下にシワを刻む。「いまさら誓うほどのことでもない」と、これはむつけたようにつぶやいた。
 彼女の写真を見てから二十二年、彼女と出会ってから十八年が経った。
 家のちかくの川へと散歩にでかける。彼女といっしょにだ。日課の一つとなっていた。
 僕はカメラのレンズを彼女に向ける。岩場に立ち、彼女は手で日傘をつくる。朝陽を眺める。
 つんと澄ました彼女の立ち姿に焦点を当ててから、しばし考え、レンズを下ろす。
「撮らぬのか」
 肩を竦める彼女のよこに立ち、僕は、雪女なのに変ですよね、と彼女のゆびにゆびを絡ませる。
「何がだ」
「凍えるどころか、焦げて、焼けつくくらいの熱量ですから。写真いらずですね」
 目に、胸に、焼きつき、焦がれて仕方ありません。
 続けようと思った言葉は、気恥ずかしくて、ついぞ口からは飛びでなかった。彼女はぎゅうと手をつよく握り返し、凍え死ぬかと思ったわ、と俗世慣れした台詞を口にした。
 雪解けの水が足元を流れていく。 




【小豆洗いはそそぐ】

 毎夜、奇妙な音で目覚める。シャキシャキともジャラジャラともつかぬ数珠を手で揉むような音だ。
 日中はただでさえ記録的猛暑で、疲労が嵩み、睡眠不足に悩まされている。音の出処を探すも、庭からだと思い障子を開け放つと、音は止み、そこには何の影もない。闇がのっぺりと広がっているのみだ。
 窓を開けておいて、音の源を突きとめてやろうと試みたが、やはり音のみが聞こえ、庭に目をやると止む。
 何かがいることはたしかだが、ではそれが何なのかまでは解からない。
 虫か、カエルか、それとも野生のアライグマでも潜んでいるのかもしれない。
 心なし、空気が淀んでいる。
 ときおり生臭い空気が鼻を掠める。
 どこかで下水道の工事でもしているのだろうか。
 からっとした快晴とは裏腹に、陰々滅々とした日がつづく。
 残暑の厳しい八月中旬になってから友人が訪ねてきた。
 小説家をしながら全国を放ろうしている世捨て人で、以前顔を合わせたのは六年前のことだ。あのときはもうにとど会うことはないだろうと思い、別れたが、それはつまり友人のほうで金輪際私に会おうとは思わないのだろうな、と想像したからだが、案に相違して彼は私を忘れなかったようだ。
 こうして会いに来てくれた。
 金の援助を申し出られるくらいならば許容しようと思っていた。彼に頼られるのはしょうじきわるい気はしない。
「近くにきたからついでに寄ったのか」茶をだし、扇風機を彼に向ける。部屋の冷房機は古く、室内はいまいち涼しいとは言えなかった。「いつまでこっちにいるんだ、泊まってくなら構わんが」
「ありがたいが、遠慮しとく。気になったんで立ち寄っただけだ。さいきん調子はどうだ。顔色が優れないようだが」
「ああ。寝不足でな」
「この暑さでか」
「それもある」
 旅の話を聞きたかったが、彼は執拗にこちらの体調を気遣った。彼に心配されるのはこそばゆく、ふだんならこちらが彼を心配する役だったからだが、端的に話題を切りあげたかったこともあり、夜中にちょっとな、と例の気になる音の話をした。
「まるで小豆洗いだよ」
 ふと口をついた言葉だったが、なるほどあれがそうか、とかつて奇怪な音を妖怪の仕業と見做した人々のことを思った。
「まるでじゃなかったらどうするよ」彼は湯呑を手にとる。口をつけずに水面を眺めた。「小豆洗いだったらどうする」
 愛想笑いを浮かべてみせるが、彼の表情は真剣そのものだ。むかしから冗談の類を口にしない性分で、そのくせ、冗談みたいなことしか言わないので、聞いているほうは反応に窮する。
「妖怪が真実存在するならそれはそれで愉快だろうさ。とっ捕まえて動物園にでも売りにいくよ」
「妖怪の人権は無視か」
「妖怪なんだから人権はないだろ。ただまあ、自我があるなら、たしかにそう、可哀そうではあるが」
 大のおとながふたりしていったい何の話を、と呆れにも似た陽気が込みあげる。
「そもそもよく分からないよな」話を続けたのは、場をなごませたかったからだ。「なんで小豆洗いは小豆を洗ってんだろうな。何のためなんだか」幽霊にしろおばけにしろ妖怪にしろ、存在の是非を論じる以前にそもそもいったい何のためにそんなことをしているのか、と疑問に思った。「小豆洗いがいったいどんなわるさを働くのかもよく分からん。小豆を洗っているおっさんが本当にいただけかもしれない。なぜ妖怪扱いされたんだろうな」
「小豆の音で人間をおびき寄せて、そのまま川に引きずり込むそうだ」
「罠ってわけだ。だがいまどき小豆の音ごときに引き寄せられる者もいないだろう。それにここに川はないわけだしな」
「理由がそれだけとも限らん」
「理由? 小豆洗いが小豆を洗う理由か? ほお、たとえば?」
「そうだな。たとえばアライグマなんぞは、食べ物を洗うと言われるが、野生のアライグマにその傾向は見当たらない。個体差があり、そのうえ動物園で飼われている個体に多く見られる習性だ。なぜかはよく分かっていないらしいが、一説には、嗅覚の鋭いアライグマにとって、動物園で与えられる食べ物が、毒にまみれて感じられるからではないか、といった説がある。事実、アライグマの健康をおもんぱかり、食べ物に薬を含ませることもあるようだ。野生のアライグマであってもアカハライモリを地面にこすりつけ、腹部の毒をこそげおとそうとしているとしか見えない行動をとる個体も観測されている。合理的に考えるならば、罠と考えるよりかは、生態のうちのひとつだと考えたほうがより妥当だ」
「アライグマの話ならだろ」
「ラッコにしろビーバーにしろ、奇妙な行動には必ず合理的な理由がある。生物であればその確率のほうが高い。むろん、罠としての側面があっても、それはそれで合理的な理由に成り得るが」
 新海のチョウチンアンコウみたいにか、と言うと、そうだ、と彼は首肯する。
「その点、じゃあ小豆洗いはどうなんだ」
 私は足を崩してあぐらを組む。
 そもそも真実存在する動物を引き合いにだして、いるかも定かではない、高確率で存在しない妖怪の生態を推理することが果たしていかほどに合理なのかは一考の余地がある。
 そのように揶揄すると、
「存在するかしないかは重要ではない。存在し得ない存在にすら、この世の法則を当てはめて考えたほうが、仮に存在し得たときに対処が容易になるだろう、俺はそういう前提のもとにきみと議論を交わしたいのだ」
「これは議論だったのか」
「そうカッカしなさんな」
「してはいないが、しかしなんだ、急な話で混乱しているのは、そう、そのとおりだ。小豆洗いの話を真面目に論じるだなんて、よもや想像もしていなかったものでね」
「きみは何かとすぐに皮肉を口にするな」
「誰かさんとしゃべるときだけだよ」
 鼻で笑い、彼はようやく茶をすすった。
 話を掘り下げるべきか悩んだが、いつになく饒舌な友の心中を鑑み、乗ることにした。
「妖怪ってのは本来、奇妙な現象へのこじつけだろう。解釈のために生まれた想像上の産物だ。奇妙なままだと不気味で落ち着かない。妖怪という未確認生物のせいにしてしまえば、付け焼刃にしろ対処を打てるし、安心できる。そういう意味では、因果が逆なんじゃないのか」
「なんの因果だ」
「対処可能にするために妖怪の生態を考えるのは本末転倒なんじゃないかってことさ」私は言った。「対処できないものを放置しておいてもだいじょうぶなように、安心するために妖怪をでっちあげる。妖怪そのものが対処の一つだってことが言いたいんだ」
「妖怪がいなければ、の話だろうそれは」
「いないんじゃないのか。や、それを議論するつもりはないよ。いるにしろ、いないにしろ、証明するのはむつかしい。すくなくともいまここでは無理だ」
「そうは思えんが、まあいい。きみの言説には穴がある。すべて間違いだと言う気はないが、それだけでは不足な面が妖怪の類にはある。たとえばきみの論理では子泣きじじぃへの解釈が不当だ」
「そうか?」
 ためにしに頭の中で思考を展開する。「たしかにそうかもな。子どものように泣くじじぃがいて、それを背負ったら重さを増して押しつぶす。まるでトンチンカンだ。元となる事象そのものの存在がまず疑わしい」
「解釈すべき事象が存在しないならば、なにゆえ解釈のための妖怪をでっちあげる必要がある? おそらく似たような存在がじっさいに観測されたことがあるのだろう。それが一つの事象か、それとも複数のべつの事象を、同列の事象として解釈された結果に、浮かび上がった複合された像かは定かではないが」
「子どものような鳴き声と言えば、繁殖期の猫なんかはそれらしく聞こえるね。ただ、背中におぶると重くなるというのはよく分からない」
「暗がりで困ったお年寄りをおぶる。人間一人をおぶれば身体の自由はきかなくなるだろう、暗がりに乗じて複数人で飛びかかれば、身動きを封じ、金品を奪えるかもしれん」
「それを妖怪のせいにして罪を逃れた者たちがいたと?」
「或いは、単なる盗人に奪われたのでは体面の保てない者たちが、人間よりも上位の存在である妖怪を担ぎだし、面目を保とうとしたか」
「解釈だけならいくらでも言えるだろうに」
 空論を投げあっても、それこそ砂かけ婆のごとく埒が明かないのではないか、と言うと、何がごとくなのか因果が不明だ、とすかさず反論される。砂かけ婆とどこが似ているのか、と。
「言葉の綾だ。連想しただけのことでいちいち突っかかるな」
「飛躍のしすぎは小説家の領分だ。きみの出る幕ではないよ」
 いったい何の話をしていたのか、朦朧としてくる。
 小豆洗いは小豆を洗っているのではない、と彼は言った。「あれは人の内にわだかまったしこりを洗っているのだ」
「こんどは何の話だ」含み笑いをしてみせるが、彼は言葉を止めなかった。「心を洗うなんて言い方があるだろう。足を洗うとも言うな。手を洗うだとこれは一般的すぎてそのままだが、やはり邪や穢れを払う意味合いが含まれる」
「小豆洗いはじゃあ、いい妖怪ってことになるな」
「妖怪によいもわるいもないよ。あるのは解釈だ」
「生態だって話はどこにいったのやら」
「茶化すんじゃないよ。きみのわるい癖だ」
「筋が通っていないというまっとうな指摘に思えるけどね」
「アライグマの生態によいもわるいもないだろう。同じ話だ。ちなみにきみの癖をわるいと評価したのは俺の主観だが、客観的に見てもよいとは言えない」
「ああそうかい」
「筋を絡めているのはきみのほうだと言っているのだ。あたかも本筋から逸れるように、核心に近づかぬようにしているようにも見える。怯えているのではないか」
「怯える、私がか?」
「でなければよほどのアホウかだ」
「久闊を叙したばかりだから呑みこんでいたが、さすがに度がすぎやしないか」
「妖怪は存在するよ。ただし、それを認知する者の世界にのみだ。実体を持たない。認知世界の生命体なのさ妖怪はね」
「錯覚だと言いたいのだろ、解っているさ」
「いいや、錯覚ではない。真実、認知世界において実存すると言っているのだ。概念生物なのだよ。正確には、電気信号集合体と言うべきかな。きみが耳にした小豆を洗うような音は、概念生物たる小豆洗いが、きみの内に巣食ったしこりを貪っている音なのだ」
「そんなバカな話はない。信じられるわけがないだろう」
「そうかな。きみは奇妙な音のせいで眠れないと言っていたが、よく思いだしてみるといい。きみはもっと前から不眠症に悩まされていたはずだ。きみは眠れなかった。残暑のせいではない。きみには特大の悩みの種があり、きみ自身、それに苛まれていた」
「そんなことは」
「ないと言い切れないのだろう。記憶はすっかり小豆洗いに食われてなくなっているはずだ。しかし食われた記憶の部位は、ぽっかりと空洞になっている。空白になっている。その違和感は誤魔化せないはずだ、違うか」
「妄言はいい加減にしてくれ、付き合いきれないな」
「ところで、この家にきみは一人で住んでいるのか。それにしては広い家だ。二世帯住宅と言ってもいいくらいの広さがある。庭の手入れも、それなりに行き届いている。むしろここ数週間のうちに急速に荒れはじめて見えるが、水やりはちゃんとやっているのか」
 私は猛烈に目のまえの友を罵倒したくなった。追いだしたくなった。顔も見たくなかったが、なぜじぶんがそこまで心底彼を疎ましく思ったのか、そこのところがどうしても引っかかって、混乱した。まるでいつもの私ではないみたいだ。思考の大半を違和感が埋める。
「以前きみと別れたとき、きみは新婚だった。細君は元気かな」
 へどろに似た臭気が鼻を突く。どこか甘ったるいのはなぜだろう。息を止めながら、脳髄にじかに流れこんでくる刺激臭を、それがいったいどこから流れてくるのかと探りながら、いざ辿れそうになると意識を切り離す、ということを繰りかえしているじぶんに気づく。
「小豆洗いは人の邪心を貪り、結果として洗い流すが、ざんねんながら小豆洗いに魅入られる者は得てして邪にすっかり染まりきった者だけだ。いくら洗い流されたところで、過去まで変わるわけではない。遠からず発覚はするだろうとは思ったけれど、知己と認めたきみのことだ、大きなお世話かと思ったが、無駄に刑を重くされる謂われはないだろう。言っておくが精神病扱いはされないよ。きみは極めてまっとうだ。ゆえに、知らぬ存ぜぬを通せば、それだけ刑は重くなる。思いだせないのも無理はない。だが、認めることはできるはずだ。きみのなかに根付いた空白が、違和感が、きみに何が真実かを示唆している」
「教えてくれ。分からないんだ。いったい私は何を」
「そこの襖を開けてみればいい。この臭気のなかで暮らしていたとは、よほど小豆洗いに好まれたようだね」
 わるいがソレには失せてもらう。
 我が友は、キセルを取りだすと火を点けずに煙をくゆらせた。煙は白蛇さながらに宙にとぐろを巻き、昇ると、天井に当たって面となった。
「空白は埋められる。現実はつづいているのだからね。小豆洗いさえ失せれば、否応なく、きみのなかに開いた穴に現実が流れこみ、補完するだろう。罪を償うかどうかはきみに任せる。友として俺にできるのはここまでだ」
 彼はキセルを仕舞うと、座布団から腰をあげ、さよならだ友よ、と言い残し、来たときと同じように風のように去っていった。
 あとにはただ、淀んだ空気と、鼻を突く臭気、そして畳のうえに点々と無数に浮かぶ黒い染みと、襖についたじぶんのものとしか思えない手形が滲んでいる。
 私は妻の名を呼ぶ。
 襖の奥から、チャキと一度だけ、数珠の転がすような音が聞こえた。 




【モンメの一端】

 隙間から視線を感じてはいたのだ。視線とはいえど、そんなものは気のせいにすぎない。目から光線が出ているわけではあるまいし、視線なるものはなんとなくの、あるような気がするものでしかない。
 気配と似たようなものではあるだろう。しかし気配は何かしら、匂いやら、空気の揺らぎやら、感知可能な事象が生じている。
 では視線はどうかと言えば、ただ見ているだけだ。レンズがそこに存在するだけで、その焦点にじぶんが位置するだけで、レンズの存在を感知可能かと言えば、いささか怪しい。
 とはいえ、仮にレンズを光が通っていれば、それは光が凝縮され、太陽光を集めて紙を焦がすような事象を生じさせ得る。
 だが視線はそうではない。光が網膜から投射されているわけではないのだ。
 壁などに乱反射されるのとは違った光の吸収が見られるために、その微妙な揺らぎを感じとるのだろうか。いいや、そこまでの高感度なセンサが人間に備わっているとは寡聞にして聞かない。もしそんなことが可能ならば、光よりもよほど音波のほうが感度が高そうだが、人はしかし、コウモリのようにはいかない。
 視線とは気のせいにすぎない。
 見られている、という自意識過剰な妄念が見せる一時の錯誤だ。
「量子力学、つまり極小の世界ではけれど、観測されることで確率の揺らぎが収束すると考えられているからね。あながち、視線なるものがまったくの幻想とも言い切れないんじゃないのかい」
 僕の恋人は年中むつかしそうな本を読んでいて、僕の知らない知識を会話の節々で挿しこむので、浅学な僕なぞは彼女のそうした知能の高さ、もっと言えば頭脳のできの差にまいどのことながら痛痒に似た妬心を抱く。自尊心を削られるような感覚、もっと言えば、僕のほうが格下の人間であるかのような錯覚を味わうのだ。
 それを錯覚だと思いこみたがる我が身の卑しさは、ともすれば、人間なんかみんな平等、五十歩百歩だよ、差異なんてあってなきがごとくさ、と言い切る彼女の思想の影響かもしれなかった。
 大学院生でありながら彼女はすでに研究機関に属していて、端的に社会人としてお金を稼いでいる。研究熱心な彼女とはだから、月に三回会えればよいほうで、いまでは月に一度も会わないことも珍しくない。
「僕たちは付き合っていると言えるのかな」
「すくなくともあたしはきみ以外の生殖器に触れたいとは思わないよ」
「それ僕が言ったら最低の言葉なのに、ずるいな」
「言いたかったら言ってもいいよ。あたしには何を言ってもいいよ。きみなら許す」
 そんなことを言われたら、付き合っているか否かに拘っていた僕がまるで狭量で、本当にそういうところなんだぞ、と彼女に漠然とした怒りをぶつけたくもなる。
 要するに、要する必要のないくらいに僕は、人間としての格の違いを見せつけられていじけているのだ。僕なんかに彼女はもったいない。もったいなさすぎるというのに、こんな僕を彼女は好いており、すくなくとも見捨てようとは思っていないことだけはたしかなのだと、僕ですら断言できた。
 甘えているのだろう。彼女の好意に、そしてその器のでかさに。
 彼女と会えない時間、触れあえない日々を、僕はそうして無駄に卑下して過ごしている。
 隙間から感じられる視線はだから、そんな甘えん坊の僕が、彼女のぬくもり欠乏症に罹ってしまったがゆえに、見せる幻覚の類なのだろう。幻肢痛さながらに、過去の僕が体験した、彼女からの視線の再現にすぎないのだろう。脳裡に思い描いた、まやかしにすぎない。
 だがそのまやかしはじぶんの部屋にいるときに限り、外出しているあいだは感じることがなかった。外は騒がしいから、寂しさが紛れるのだろう。
 かように解釈してはみるが、家のなかでは否応なく視線がそそがれて感じられる。日に日にその違和感はつよまり、いよいよ僕はじぶんが病的にまいっている事実を認めた。
 いちど認めてしまえば、幻であろうと、錯覚であろうと、そこにいるはずのない、しかしたしかに感じられる存在を探そうとすることへの抵抗も失せた。
 探したところでそれが幻覚であるならば、意味のない行為であり、ともすれば頭のおかしい人間であることの証明になり得るかもしれなかったが、もはやじぶんがどうにかなってしまっていると認めてしまえば、それは単なるおかしな行いとして、おかしい人間のとって当然の行動に昇華され得る。
 つまるところ僕は、部屋にある家具という家具をどかし、そこに潜むだろう、しかし確実に潜むべくもない視線の主を引きずりだそうと躍起になったのである。
 僕はおかしくなったのだ。おかしい人間は、いもしない存在を探しだそうと、いもしない場所を引っくり返しても、それはおかしい行動ゆえに、おかしい人間のとる行動としては妥当な行いになる。裏の裏は表だ、くらいに単純な理屈だ。すべてを引っくり返して、ほらね、やっぱり何もいなかった、僕は頭がおかしいのだ、と判ればそれでよかった。
 だが意に反して、本棚をどかすと、白く細長いものが見えた。それは生き物めいた動きで、となりの箪笥の裏に移動した。
 虫がいただけのことだ、とそう片付けるには、その白く細長いものの動きは独特で、ふよふよと、はためいて映った。
 見間違いの可能性も考えた。箪笥は壁とほとんどくっついており、隙間らしい隙間がない。逃げこむにしては、白く細長いものは幅があり、虫だとすれば相当に大きい部類だと言えた。
 やはり幻覚だったのだ。
 思いながらも、頭のおかしい僕は箪笥をどかし、そこにいるはずのない存在がやはりいないことを確かめようとした。
 かくして、そこには、いないはずの、しかし僕の目には映る、白く細長い、帯状の波打つナニカシラが存在した。
 たとえば夜道を、ふんどしを垂らした男が全力疾走をすれば、闇夜に浮かぶふんどしは、ぱたぱたとはためいて見えることだろう。同じような動きでそれは、ふよふよと宙に浮き、隙間があればそこに逃げこもうとした。それこそ、隙さえあれば、といわんばかりに目を離した途端に、物陰に滑りこもうとするので、僕はそれをヘビでも放りこむように、空のペットボトルに詰めこんだ。
 白く細長い、帯状のそれは、骨格がないようだ。包帯を丸めるように扱っても、ペットボトルの中でふたたび開き、出口を求めて、やはりヘビのように身じろぐのだった。
 僕はそれを観察した。それには目がなかった。目どころか、全体は紙ほどに薄く、ぺらぺらで、それでいて蠕動運動をしながら、宙を舞う。そう、それは宙に浮くのだ。
 たとえば何かの映像で観た憶えがあるが、海のなかを身体を波打たせて移動する古代の生き物がいるらしいが、それに似た動きで、その白く細長い帯状の物体は、宙を、何の補助もなしに、波打ちながら移動する。
 スカイフィッシュなる未確認飛行生物が、一昔前に巷を騒がせたが、それだろうか。むろんスカイフィッシュは空想上の生物だ。ツチノコのほうがまだ存在の余地がありそうに思えた。
 が、目のまえでふよふよとペットボトルのなかで身をくねらせるそれは、未だ発見されていない未知の生物だと見做すのに充分な奇妙さ、あり得ない生態をその身に備えて見えた。
 僕はとりあえず一晩寝てみることにした。あすの朝になってもそれがそのままペットボトルのなかにいることを認めてから、それの存在を既成事実として自分自身に信じさせようと、実証の許可を与えようと、そう思った。
 僕は頭がおかしいのだから、それくらいの慎重さを置いて損はない。
 だがそのじつ、翌朝目覚めても、ペットボトルのなかには白く細長い物体が、ふよふよと宙に身じろいでおり、或いは僕は頭がおかしくなく、ゆえにこの謎の動く物体もまた、そうした新種の生物として、この世に存在していてもおかしくはないのかもしれなかった。
 まずは誰かに確認してもらいたいと思った。
 僕の主観だけではなく、客観的事実として、これがほかの人の目から見ても、ここにたしかに存在する物体かどうかを確かめたかった。
 その前にまずは動画に撮ってみて、映像越しに見てもそれがそこに、生き物のように蠢いて見えるかを検証してみようとし、じっさいにしてみたが、やはり僕の目からは映像越しであってもそれはたしかにそこに実存する謎の生き物のようにしか見えないのだった。
 それを捕獲してから以降、部屋のなかにいても視線を感じることはなくなった。それに目はないのだからどちらにせよ視線を感じたのは僕の気のせいだったのかもしれず、そうではないのかもしれなかった。
 そうではないのかもしれない、と考えるのはつまり、目はないにしろそれには、自由意思のような、もっと言えば自我めいたものがあるように思えたからだ。
 どのような原理かは分からない。分からないが、それは僕を認識し、僕が近づくと、甘えるような仕草を見せる。ペットボトルのそとに出たがり、しかし暴れたりはせず、おとなしく、どこかしら愛らしい仕草をする。
 たとえば、首だけを持ちあげて、まるでじっと見つめるように僕の歩行に合わせて辿ってみせたり、僕が反応を示さずにいるとしょんぼりし、声をかけたり、近寄ると、はしゃぐように動きを活発にさせた。もちろんそれのどこからどこが首かは分からないが、それには頭部と臀部といった具合に明確に顔のようなものを意識して動かすきらいがあった。
 だがそうした活発な反応も長くはつづかなかった。捕獲してから数日もすると、それの動きは如実に鈍った。
 餌を与えていないから当然と言えば当然であり、そうなるとやはりそれは生き物だということになる。首と同じく、口がどこにあるのかはさっぱりだ。
 いったい何を与えたら食べるだろう。どうやって食べるのかも定かではない状態で、僕はためしにパンやら穀物やらを与えてみせるが、それの反応は芳しくなかった。
 僕の恋人に送るために部屋に常備していた薔薇の花びらを与えてみても、やはり食べる気配はないのだった。
 部屋で虫を見掛ける頻度が高くなっているのに気付いたのは、どかした家具を元に戻し、ついでに掃除でもするかと思い立ったさらに数日後、モンメを捕獲してから一週間後のことだった。
 モンメとは僕の見つけた白く細長い、帯状の生き物のことだ。僕はそれを明確に生き物と定義づけた。
 モンメを捕獲したことと、部屋に虫が増えたこととのあいだに因果関係があるのかは不明だ。しかし相関関係はあるのかもしれず、端的に言ってしまえば、これまではモンメがひそかにこの部屋の虫を食べていたのではないか、との推量が成り立つ。もしこの考えを僕の恋人に披瀝したら、それは希望的観測というものだが閃きとしては順当だね、と褒めてくれただろう。しかし、それを褒め言葉だと認めるのはきみの認知であり、歪みだ、あたしが真実に褒めているかどうかは確定されていないよね、と彼女ならきっと言うだろう。あれでけっこうにめんどうな人物なのだ。それでいて愛嬌があるから困る。
 ためしに部屋で捕まえた虫をペットボトルに放りこんでおいたら、その日の夜には虫がいなくなっていた。蓋はしてあったし、空気穴すら開けていない。窒息死の心配をそのときになってしたが、虫を食べたからなのか、モンメはすこしだけ元気になったようだった。
 それから虫を捕まえるたびにペットボトルに放りこんでおいた。百均で大きめの瓶を購入したのは、それからさらに一週間後のことだ。
 モンメはその間、たびたび身を丸めていることがあった。それがモンメの食事シーンなのだとの判断を逞しくしたのは、モンメの観察日記をつけはじめてからのことで、ひと月後には様々な推測から検証を経て、モンメの生態の理解がだいぶん進んだ。それで理解したつもりになるようじゃきみは研究者にはなれないだろうね、ときっと僕の恋人なら言うだろうけれど、僕はべつに研究者になりたいわけではないから構わない。
 モンメは虫を捕食する際、身体でぐるっと包みこむ。イソギンチャクやヒトデのように、全身が口なのかもしれなかった。そうしてすっかり消化吸収してしまったあとには虫の足一本残されてはいない。モンメは糞尿をしなかった。
 瓶のなかに何もないのは寂しいかと思い、薔薇を一本挿すようにしていたが、モンメにそれを喜んでいる素振りはなかった。
 ペットショップでヘビの餌用のカエルを購入したのは、検証の結果を増やしたかったからだ。研究者になりたいわけではなかったけれど、いつか僕の恋人にこのふしぎな生き物を紹介する際、すごいじゃないか、と褒めてもらいたかったので、僕はことさら力を入れてモンメの生態を調べた。
 カエルだけでなく、モンメはネズミの赤ちゃんですら、消化吸収せしめた。
 モンメは成長した。容れ物を瓶に替えたのがよかったのかもしれない。一回り大きくなったようだ、と目視だけでよく分かった。瓶では狭苦しいだろうという大きさにモンメがなったので、三十リットルは入る水槽を購入し、こんどはそれに入れ換えた。
 餌代が思った以上にかかりはじめたので、僕は自前で餌を増やすべく、ネズミの雄と雌を飼いはじめた。ネズミはネズミでかわいくもあり、せっかく生まれた赤ちゃんネズミをモンメに与えるのは、慣れはするが、けして気持ちのよいものではなかった。これがいわゆる罪悪感なのだろうか、と思うが、そう悩みながらも牛の肉をフライパンで焼いて食べたりする。これもまた解釈の違いにすぎないのかもしれない。きみは気分屋だな、と僕の恋人なぞは言うだろう。
 もはやこの数か月、恋人と会うよりも、恋人を想うよりも多くの時間をモンメに費やし、モンメにそそいだ。
 夢にまでモンメがでてきたのには笑ってしまったが、それは愛情というよりも、好奇心にちかかった。
 モンメは身体の面積を拡大しても、犬や猫のように重くなるわけではない。反して、浮遊するちからは増しているようで、ときおり水槽が床から持ちあがり、横転しそうになる。本棚の中身を空にして、ぴったり水槽を納めて固定してみせたが、本棚ごと浮きそうになったのを機に、僕はモンメを水槽のそとにだしてみる決心を固めた。
 モンメは水槽のなかでは狭いのだと思った。なによりモンメはおとなしかった。
 水槽のそとにだしてからは、もっとはやくこうしていればよかった、と僕はじぶんの認識、ともすれば鑑識眼のなさに落ち込んだ。モンメは隙間さえあればそれがどんなに狭い空間であっても、身を寄せ、身を隠し、心地よさそうにした。僕の考えとは逆だったのだ。モンメは狭いほうが好ましいようだった。
 部屋に解放したら、この部屋からも逃げだしてしまうのではないか、と覚悟していた。モンメならばたとえ鍵を閉めていても窓の隙間からそとに出るくらいは容易だろうと思われた。現に、モンメを呼んでも姿を現さないときがあり、そうしたときは、ああもうこの部屋にはいないのだな、と諦観の念、それはどちらかと言えば落胆にちかかったが、胸にそうした思いを抱くのだが、そのじつモンメは一日以上姿を晦ますことはなく、気づくといつも僕の部屋の隙間から、尻尾のような白く細い帯状のものをヒラヒラとゆらめかせ、ときに僕の呼び声に応じて顔を、僕には顔に見えるそれを、覗かせるのだった。
 モンメは日に日に大きくなっているようだった。僕の与えている餌では足りないのでは、と案じたが、ひょっとしたらモンメは不足の分を部屋のそとに食べに出かけているのかもしれなかった。
 ある日、部屋のそとが騒がしいので窓を開けてみると、部屋の壁のすぐそばに丸まっているモンメを発見した。
 モンメは蠢いていた。
 否、モンメの中身が暴れているのだ。
 きゃんきゃん、と悲鳴じみた声が聞こえ、モンメが犬を食べているのだと察した。
 僕は慌てた。さすがに犬はやりすぎだ。飼い犬だったらたいへんだ。弁償とかそういう問題ではない。犬は人の家族足り得る。他人のたいせつなものを食べてはいけないのだと教育する必要性を感じたが、しかし僕がどのように手を加えても、けっきょくモンメから犬を救いだすことは適わず、モンメは僕に叱られたと思ったらしく、しばらく姿を現さなかった。
 そのままお別れなってしまえばよかったのかもしれないが、モンメはしばらくするとまた僕のまえに姿を晒した。
 モンメは明らかに僕に懐いていた。モンメに餌を与える必要はない。モンメのほうで好きに生きていける。元から好きに生きていただけのことなのだろう。僕の存在はモンメにとって、衣食住以外の何かを補う役割があったのかもしれないし、やっぱりおやつをくれるひと以上の何かではないのかもしれなかった。
 もはや僕には、モンメの生態を調べる気力は失せていた。
 モンメが人一人を包みこめるくらいの面積をその身に宿したとき、僕たちが出会ってから一年が経過しようとしていた。
 僕はその間、僕の恋人にモンメを紹介することはなく、また恋人と直接顔を合わせたのは数える程度しかなかった。
 しかしことしからは、僕の恋人は大学院を卒業することになっているので、これまでよりもずっと会う頻度を増やせるようになるよ、と彼女はうれしそうに言っていた。彼女は僕に会うことを好ましく思っており、そう思っていることを僕に知ってもらいたいと望んでいるようだった。
 僕は何か嫌な予感を覚えていた。それは本来、明瞭に脳裡に像として浮かべられる類の予想であったはずが、僕は敢えてそれを見ずに済むようにと、曖昧にぼやかして、予感の域からでないようにしていた。そのことだけを知っていた。
 僕はこのころ、脳裡に常に天秤が張っているのに気づいていた。両側にいったい何が乗り、どのように吊りあい、或いは吊りあわないのかについて、僕は何も考えたくはないのだった。
「そろそろ同棲してみる気はないのかなって」
 僕の恋人は僕と結婚を前提とした密なお付き合いへと移行したいと要求した。彼女にしては迂遠な言い方だったが、僕にそれを拒む理由はなく、しかし躊躇する理由はあった。
 僕はまず、彼女に仮の話として、妄想として、巨大な帯状生物についての考えを伝えた。それはのきなみモンメの生態日記からの引用であったが、彼女は映画のあらすじでも聞くような態度で、そんなものが本当にいるのなら見てみたいものだね、と言った。
「そしたら研究機関に売り払って、一生働かずに楽ができるのに」
 もちろんその所感は彼女なりの冗談の一種なのだろうけれど、僕にはそこに彼女の本質が滲んで聞こえた。おそらく彼女が真実、モンメをまえにすれば、彼女はけっして謎の生き物を手元に黙って置いておくことはないのだろうと、僕は、はっきりと予感できた。そのとき僕の脳裡に張りついていた天秤が、ガコンと音を立てて傾いたのを、僕はぽっかりと胸に開いた空洞と共に感じたのだった。
 僕は僕の恋人の引っ越しを手伝いながら、さきにじぶんの部屋を片付けると言って数日のあいだ部屋に引きこもり、そしてモンメに言葉で事情を伝え、それが伝わったかもわからぬままに、部屋のそとに追放する、という真似を、再三繰り返した。何度部屋の外に追いだしても、モンメはふよふよと隙間を抜けて、宙を漂い、舞い戻った。
 僕は部屋の隙間という隙間を目張りした。まるでガス自殺を図る人生の疲弊者のように、息苦しく暗い部屋の中で、窓のそとから感じられる視線が失せるまでのあいだ、ずっとそこに引きこもっていた。
 本当にこのまま窒息死してしまうのではないか、という三日後になって、家に恋人が訪ねてきて、窓ガラスを割ろうとする彼女の影を認めてから、慌てて目張りを取り去り、彼女に顔を見せた。
 いったい何をしていたんだ、と叱られながら、ゴキブリを駆逐しようと思って、と苦しい言いわけを口にしながら、解放した部屋にモンメの姿がないことをよくよく確かめ、僕はすこしの安堵と、いっぱいの寂しさと、それから拓けた未来への不安を、いっしょくたに胸にして、僕の恋人に、すこし早めの、しかし遅すぎるプロポーズをした。部屋に常備していた薔薇の花を束にして渡す。
「怒ってるときにしなくたって」
 彼女は呆れていたが、僕の決死の求婚を無下にしたりはせずに、指輪は安くていいからね、と念を押し、もう二度と変なことしないで、とやはり念を押した。
 同棲をはじめると、僕たちは互いのこれまで知らなかった一面を知った。たくさん知った。知りたくなかった側面を見て、もうにどとしてほしくないこと、したくないことを散々にしたり、されたりをした。それをしても相手を好く気持ちが一向に衰えないのを、何かの魔法のようにふしぎに思った。
 そうして僕は僕の恋人と幾度かの言い争いをし、互いの至らぬ点、相容れぬ点を、新品の陶器に見つけたヒビのように、ときに修正し、ときに放置して、妥協点を模索した。それでも僕の恋人は、研究のこととなると僕を蔑ろにするので、その報復とも言うべきか、僕は彼女の意向を無視して高い婚約指輪を購入し、やはり彼女と喧嘩をした。
 結婚式の予定を話し合い、親族だけでこじんまりと開くことにして、式とは名ばかりの飲み会をするだけに決めた。
 翌年には彼女は僕たちの子を身ごもり、なんだかまるで実感が湧かないが、僕は父親になった。
 一軒家を購入し、そこに新居を構えた。新居とはいえど、古い家で、台風がくるとガタガタと家全体が揺れる。しかしこれまでずっと壊れずに残ってきたことを思えば、信頼できる物件と言えた。
 仕事を終え、家に帰ると、赤子の鳴き声が聞こえる。妻が、交替っ、と叫びながら僕にその元凶を押しつけ、仕事部屋へと引っこむ。彼女は彼女で、母親としての側面のほかに、研究者の仕事をつづけている。僕がしがない事務員のほかに、父親をやっているのと同じだ。
 赤子を風呂に入れ、寝かしつけてから、遅めの夕食を摂る。妻に夜食のおにぎりを握ってやり、おやすみの挨拶と共に部屋に置いたあとで、赤子を回収すべく赤子を寝かせていた居間に立つと、そこには白く、大きな、帯状の物体が、赤子の真上に、シンとまるで赤子を凝視し、見下ろすように浮かんでいた。
 僕はなぜか分からないが、恐怖に駆られた。脳裏には、犬を捕食していたそれの姿が蘇える。赤子のうえに覆いかぶさり僕は、真上に浮かぶそれを睨みつけた。
「去れ」
 二度とここにくるな、と呪いをかけるつもりで口にした。
 火に触れたように、白く、大きな帯状の物体は、身をひるがえし、閉じた窓の隙間を縫って、外の暗がりに消えた。
 声を聞きつけたのだろう、どうしたの、と妻が顔を覗かせた。
「ゴキブリが顔のところに」
 赤子にたかっていたのだ、と説明し、ふうん、と釈然としない表情の妻は、起こさないようにしてね、と熟睡したままの赤子の頬を撫で、また仕事部屋へと戻っていった。
 僕は赤子を抱えており、そのまま寝室に移動しようと足を踏みだすと、足元に、季節外れの薔薇の花が一輪、転がっていた。
 動悸が乱れる。
 震える手で拾いあげる。
 薔薇の茎からは棘がきれいに取り除かれており、やわらかい花弁だけが鮮やかに、白く、白く、幾重にも折り重なっている。僕は窓のそとに目をやり、久しく口にしていなかった、その名を呼んだ。
 かつてあれほど感じていた視線を、僕はもう感じることがない。 




【階段を下りる怪談】

 階段を下りるたびにギシギシと軋む音が反響する。足音を消す必要はないのに、しぜんと忍び足になって、ますます微かな物音にびくびくする。
「ねぇいまなんか動かなかった」
「やめてくださいよミカさんそういうわるふざけ」
「いやほんとになんか動いたように見えたんだって」
「見間違えです、ネズミです、もう嫌、はやく出ましょうよ」
「待って。ちゃんと噂を確かめなきゃ」
 こういうときばかり威勢がよく、いちど言ったら曲げない真面目さを発揮する。その半分でいいからミカさんにはもっと日ごろからしゃんと生きてほしいと私は望む。
 階段を下りきると、短い通路があり、左右と奥に扉が合わせて三つある。噂が本当なら、突き当りの部屋にそれはあるはずだった。
「あれかな」
「もうやめませんか」
「行こう」
 ミカさんの腕にしがみつきながら私は、彼女の力強い足取りに、頼り甲斐と心細さの両方をいちどきに覚える。きっと私を置き去りにしてでもミカさんは突き進むのだろう。こんなことなら付いてこなければよかった。
 奥歯を噛みしめながら私は二日前を思いだしている。
 発端は、ミカさんがバイト先で聞いたという噂話だった。
「廃墟があるんだって。で、地下に下りると部屋があって、そこには洋風人形が一つだけ椅子に置かれた状態で放置されているらしくて。そこで人形の回りを三周まわって、目を閉じて祈ると、願いが叶うらしいよ」
「それはえっとぉ、怖い話なんですか」
「願いが叶うのだもの、夢のある話なんではないかとミカさんは思うよ」
 もうすでにこのときミカさんはリュックサックを引っ張りだしてきて、懐中電灯やら軍手やらを床に並べていた。行く気満々のミカさんに私は、廃墟の場所知ってるんですか、と問う。
「バッチシよ。でも足がないから頼むね」
「いい加減運転免許とってくださいよ」
「免許とっても車がないからさ」
「買えばいいじゃないですか」
「お金あると思う?」
「貯めたらいいじゃないですか」
「そんな余裕があると思う?」
「節約してくださいよ。思い立ったが吉日とは言いますが、ミカさんはちょいと思い立ちすぎですよ、すこしは旅行を控えてください」
 暗に、暇なときは家に引きこもってろ、と指弾する。
「うんうん、そうするそうする。でもいまは足がないわけだから、頼むね」
「足がないのはオバケだけにしてください」
「あ、オバケと幽霊の違いってなんだろね。気になる気になるー」
 ミカさんに振り回されるのは慣れっことはいえど、奇行に付き添う道理が本来ならば私にはない。ここで断ってもよいはずなのに、ねえねえお菓子何持ってく、と相談されてしまうと私は、そうですねぇ、といっしょになって腕を組んで、あれこれと候補を挙げつらねてしまうのだ。
 翌日に買い物をして必要なものを揃え、ミカさんのお家で映画を観て、楽しい気持ちをめいいっぱい蓄えてから向かえたきょう、ミカさんの指示のもと私は自動車を転がした。
 本当に廃墟なんてあるのだろうか、との私の不安をよそに、人里離れた山中に、洋風の屋敷が見えてきた。
 壁は蔓に覆われ、割れた窓ガラスの隙間からは、ボロボロに破れたカーテンが覗いている。風が吹いているのだろう、ひらひらと靡くカーテンの動きは、そこに何者かが潜んでいるような錯覚を呼び起こす。
 私はすでに怖くなっていた。
 いまからあそこに入るの、嘘でしょ、の気分でいっぱいだった。
 私の小心翼々具合を嗅ぎ分けたのか、車に乗っててもいいけど、とミカさんは殊勝な言葉をかけてくれる。
「ここで待ってるほうが怖いですよ、置いてかないでください」
「足場がわるいかもだから、はぐれないようにね」
 自動車のそとに出るとミカさんは懐中電灯で足元を照らす。
 周囲を見渡すと、夕焼けの最後の明かりが山の向こうに消えた。これから夜がやってくる。
 カラスたちの鳴き声が森のほうから聞こえ、不気味とは何かを知らしめてくる。
 私たちのほかにも、定期的に肝試しにやってくる者たちがいるのだろう。入口は破壊されており、汚れてはいるが足場は思ったよりもきれいだった。
「たぶんここって私有地ですよね。これ、犯罪になっちゃいません」
「なるかもね。バレないうちに行って戻ってこよ」
 ミカさんはずんずんと屋敷なかを進んだ。
 上の階にのぼる階段は容易に見つかったが、地下への階段がなかなか見つからない。扉を片っ端から開けていくことで、ようやく地下への道を発見する。
 階段の下のほうからは冷たい風が噴きだしている。風の音がひとの呻き声のようだ。
 階段をすっかり下りる。幅の狭い通路が伸びている。奥に目当ての扉があるのが見えた。
「鍵かかってるんじゃないですか」
 ミカさんは扉のまえまであっという間に進むと、取っ手を握った。ギギギギ、と魔女のイビキみたいな音を立てて扉に隙間が開いていく。
 埃臭い空気が鼻を撫でる。
「ちょっとそんなに引っ付かないで」
「ミカさんのほうこそ私を置いて歩かないでください」
 犬になぜ首輪をはめなければならないのかをミカさんは解かっているのだろうか。はぐれてしまわないようにだ。私だって好きでミカさんに縋りついているわけではない。
 ミカさんは扉をくぐり、奥に懐中電灯の光を向けた。
「うわぁ、本当にあったよ」
 埃が舞っているのか、闇の中にトンネルに似た光の筋が浮かぶ。そのさきには子供用の椅子だろうか、やけに華奢な椅子が一つだけあり、そのうえに人形がちょこんと尻を付けて載っていた。
 光が部屋をひと通り舐めまわす。子ども部屋だったのか、壁紙は花柄で、ところどころ剥げていた。本棚があるが、からっぽだ。壁際に木材が転がっているけれど、ベビーベッドが壊れて散らかっているだけかもしれない。
「三回まわってお願いしなきゃ」ミカさんはつぶやき、吸い寄せられるように椅子に近寄っていく。私は彼女の手を握り、待ってください、と引き止める。
 あごを振って床を示し、
「足跡が」
 私たち以外の足跡がある。
 まっすぐと椅子のまえまでつづいている。
 戻ってきた分の足跡がない。
 いったいいつの足跡かは定かではないけれど、足跡の主はこの部屋に入ったあとで、すくなくとも私たちの背後にある扉から出ていったりはしていない。ほかに出口があるかもしれないが、それらしい窓や扉はざっと見渡したかぎり目につかなかった。
「三回まわってお願いしなきゃ、三回まわってお願いしなきゃ、三回まわって」ミカさんはしきりにつぶやく。
 私は足を踏ん張り、ミカさんを綱引きよろしく、押しとどめる。うんとこどっこいしょ、うんとこどっこいしょ。ミカさんはそれでもなかなか止まりません。
「ミカさん、正気に戻って」
 私は羽交い絞めにしたミカさんの首筋に唇を押しつけ、念を籠めるようにして、噛みついた。
「アイタ」
 正気に戻ったのか、ミカさんは、なにしとんのきみ、と叫んだ。
 私はそのままミカさんを部屋のそとまで引っ張りだす。
 扉を閉めようとしたそのときだ。
 ミカさんの手からそそがれる懐中電灯の明かりが部屋の奥を一瞬照らす。椅子のうえに人形の姿はなく、すぐ足元に、人形がぽつんとあった。
 全身が粟立ち、反面、身体の芯から凍てついた。
 扉を勢いよく閉め、ミカさんの手を引っ張って、引っ張って、引っ張って、屋敷のそとの車まで戻った。
 座席に座り、シートベルトをする。ミカさんはまだ呆けており、座席に収まるなり、うとうととまどろみはじめる。
 もう二度とくるか。
 ハンドルを握り、怒り半分、安堵半分、すこしの不安と、何事もありませんようにとの未来への祈りを籠めて、帰ったら塩飴いっぱい舐めてやる、と考えられ得るかぎりの除霊の方法を、できるだけ苦しくない楽な方法を、つれづれと思い浮かべるのだった。
 後日譚。
 ミカさんは翌日にはけろりとしており、屋敷に行ったことを夢か何かだと思いこんでいる節があった。いっしょに行ったのは確かだけれど、証拠は?と問われたらぐうの根もでない。写真の一つでも撮ってくるのだった。変なものが映ったらこわいからと撮らずにいた我が身の臆病加減をこのときばかりは反省した。
 バイト先で聞いた怖い話は憶えてるんですか、と私は訊いた。
 ミカさんはこてんと首を傾げ、
「バイトっていつの? あたし、しばらくバイトしてないんだけど」
 妙なものを見るような目つきで私を見詰めた。ミカさんはいつの間に手に入れたのか、お腹を押すとしゃべるいかにも古そうな人形をひざのうえに置いており、それはミカさんの手のなかで、いっしょに遊ぼ、とくぐもった声を発した。




【霊感がゼロになった日】

 幽霊が視える、とミカさんが突然に言いだしたのは私が高校二年生のころである。それから一年間、ミカさんが高校を卒業して大学生になるまでのあいだ私は、ときおり頑迷に、あそこに死者の霊が、と騒ぎ立てるミカさんに辟易しながらも、遅れてやってきた思春期なのかな、とあたたかくもさめざめとした眼差しで見守り、ときに突き離し、それでもミカさんとの交流を途絶えさせずにきた。
 しかしミカさんには本当に幽霊が視えていたのだ。
 なにせ、死んだ私をミカさんは泣いて、怒って、受け入れてくれたのだから。
 その日、大学生になったミカさんに会うべく、私は電車に乗ろうとしてプラットホームに立っていた。熱中症なのか、受験勉強の疲れなのか、なんなのか、立ちくらみがして、気づいたら私は特急電車に撥ねられていた。
 撥ねられていた、なんてかわいらしい形容をしているけれど、そのじつ私の肉体は電車に触れた瞬間にミキサーに放りこまれたニンジンさながらにレールと車輪の合間に引きずり込まれて、つぎつぎに切り刻まれ、一瞬のうちに細切れになってしまった。脚と胴体部の一部は、レールの真ん中に落下したので、そのままのカタチを保持しており、服ははだけてちょっと恥ずかしい部位が露出していた。どうせならもっとどこがどこの部位かも分からないくらいにグチャグチャにしてくれたらよかったのに、と私は幽霊になって、じぶんの無残な身体を眺めていた。
 幽霊になると人は思いのほかすんなり、状況を呑みこめる。というよりもパニックになりようがないのだ。
 他人に干渉を及ぼせないどころか、じぶんに干渉を及ぼすものもないのだから。
 敵がない。
 危害がない。
 無敵になれる代わりに、誰かと触れあうこともできなくなる。
 そのはずだったのに、じぶんの葬式に参列にきたミカさんのまえに立つと、彼女は私を私として認め、死を悲しみ、かってに死ぬなんて、と罵倒し、私を無駄に傷つけた。
 私だって死にたくなかったし、ミカさんともう二度と言葉を交わせないと思って悲しかったのだ。じぶんだけ損をした、みたいな顔をしないでください、と私たちは、生者と死者という見えない壁をものともせずに、まるでそんなものは端から存在しないかのごとく言い争いを繰りひろげ、語気を荒らげ、最後にはなんだか分からないけれど、私がいないとネクタイもまともに締められないミカさんのだらしなさを責めて、じゃあなんとかしてよ、と売り言葉に買い言葉がミカさんの口から飛びだしたのを契機に、私たちは沈黙し、そして私から噴きだしてしまった。
 なんて幼稚な喧嘩だろう。
 死んでまでこんな、私のプリンかってに食べたでしょ、みたいな口喧嘩をするなんて思っていなかった。死んだら人はもっとセンチメンタルに、儚げな悲しみを背負って、いくらかうつくしくなれるのだと思っていた。
 よもや泥団子をつくってどちらがより美味しそうな泥団子かを競うみたいな意地の張り合いをするとは思わなかった。せめて硬さとか丸さとか、表面のつややかさを競いたい。
 これが私の性質なのか、それともミカさんのお陰なのかは知らないけれど、死んでからも私はしばらくのあいだ、塞ぎこまず、どちらかと言えば現世のしがらみから抜けだして、空腹にも倦怠感とも無縁な日々のおだやかさにうつつを抜かしていた。それこそ現世にいないのだから、うつつを抜かすどころか、肝心のうつつそのものがないのだけれど。
 ミカさんは相も変わらずに悠々自適というか、泰然自若というか、その日のきぶんで行動を決め、約束を破り、人を怒らせ、憎めない性格を駆使してなあなあにお茶を濁して、遁走を図り、ほとぼりが冷めるのを待ちながらハンバーガーを大きな口を開けて頬張ったりする。
「いいなあ、美味しそう」
「きみはどこにもついてくるのな」
「だって私がいなきゃミカさんがたいへんでしょ」
 ミカさんには幽霊が視える。それは私相手に限ったことではなく、街中に溢れた、そこかしこに漂う有り触れた死者たちの姿がミカさんには視えてしまう。ただ視えるだけならまだしも、視えていることを知られてしまうようで、そうすると幽霊のほうでも、ミカさんのことがまるで闇の世界に現れた光のように映ってしまうらしく、ちょっと油断するだけでミカさんの周りは幽霊でごった返す。
「いちおう、これがあるからマシなんだけど」
 胸から垂らしたお守りをミカさんは握る。名のある霊媒師からもらったという護符だそうだが、私に効かない時点で眉唾物だ。
 ミカさんは心底信じきってしまっているが、私から言わせれば体のよいカモだ。詐欺師のために生まれてきた子羊のような純朴さがミカさんにはあった。
 ミカさんが大量の幽霊に魅入られないのは、私がそばにいるからだ。率直に申し上げれば、私が睨みをきかせているからだ。
 私は案外にまともに生前の記憶ごと人格を保持しているけれど、ほかの幽霊は大半が野良犬じみており、端的に危うい。
 光があれば寄ってくる羽虫がごとく様相を呈しており、見る人が見れば悪霊と呼ぶだろう。ミカさんがこれまで祟られていなかったのがふしぎなくらいだ。
 そう思い、ミカさんに寄ってくる大量の幽霊を、ミカさんが視認するよりさきにバッタバッタと薙ぎ倒す日々を送っているうちに、あれ、と疑念を覚えた。
 ひょっとしたら私は、ミカさんのそばにいたから、これら幽霊に祟られて、電車に撥ねられたのではなかったか。
 幽霊にとり憑かれてふらふらになったミカさんの姿を目にして、私は閃いてしまった。
 私の立ちくらみは、熱中症のせいではなかったかもしれない。
 幽霊共の仕業だったのかもしれない。
 本来、しかし幽霊は、生者には接触できない。干渉を及ぼせない。
 ただ一つ、ミカさんという光のそばでは、それらあの世の理すら霞むのかもしれなかった。
 事実、ミカさんの周りでは、悪霊どもは物体に触れ、ミカさんに危害を加えようとする。そこには何か、ミカさんをじぶんたちと同じ存在にしてやろう、との衝動のようなものが窺える。悪霊どもは基本、自我がないが、稀に、言葉を介し、意思を疎通可能な個体と遭遇することがある。
 なぜ邪魔をするのか、と問われることもしばしばだ。
 邪魔をしているのはおまえらだろ、と私は反論する。ミカさんの人生を、命を、邪魔しているのはおまえたちのほうだろ、と。
「彼女はこれからさきもワタシやアナタのような存在につきまとわれつづけるの。さっさとあるべき姿に還ったほうが彼女のためというものじゃない?」
「幽霊があるべき姿? 苦しいから一人でも多くの、共感しあえる仲間を欲してるだけでしょ。寂しいだけでしょ。ミカさんをあなたの孤独に巻きこまないで」
 私は生きていたあいだに振るったことのない暴力で、自我ある幽霊たちをボロボロにし、ときに跡形もなく消し去った。
 幽霊が成仏できるのかは定かではないけれど、幽霊をちり紙みたいにバラバラに引きちぎると、五分五分の確率で再生しなくなった。
 なかにはいくら引きちぎっても、ズタボロにしても、復活する幽霊もあり、それら個体に共通するのはいずれも、ほかの幽霊を取りこんでいることだった。
「それどうやるの、卑怯でしょ」
「教えたところであなたには真似できないよ」 
「やってみなきゃわからないでしょ」
「あなたのたいせつなひとを殺してしまうことでも?」
 私は二の句が継げなかった。
 ミカさんみたいな生者はときおり出現するらしかった。あの世とこの世を結ぶ存在、そうした結び目のような人間を殺し、その魂を取りこむことで、幽霊はほかの幽霊を吸収できるようになるのだという。
「どんな霊体でも、おおよそ半世紀もすると消えちゃうから。消えたくないならこうするほかないでしょ」
 私は必死になって、それら悪霊の親玉みたいな個体と争い、遠ざけ、ミカさんを護った。
 それら攻防は、ミカさんの与り知らぬ領域、死角にて行われた。ゆえにミカさんは、暢気に私を虚仮にするし、私は私でミカさんの罵倒に腹を立てる。
「ミカさんまた遅刻しますよ。ご飯つくったので、食べてください」
「この目ざまし時計、うるさいけど料理の腕はまあまあだからな」
「だからなんですか」
「追いだすにはすこし惜しい」
「このやろう」
 ミカさんのそばにいるときに限り私は、物体に触れ、扱えた。
 大学を卒業するとミカさんは地元の中小企業に就職した。でも半年後には辞めてしまい、なぜだか家に引きこもってしまった。
「このままだと生活できなくなっちゃいますよ」
「そしたら死ねばいい」
「そんな投げやりな」
「幽霊よりも人間のほうが煩わしい。ホラーとかで、幽霊よりも本当に怖いのは人間だ、みたいなのあるけど、ホントだよ。著名な小説家はそれを否定するようなこと言ってたけど、じっさい幽霊よりも人間のほうがよほど怖いわ」
 それは私が邪悪な幽霊をミカさんから遠ざけているからだ。思ったけれども、それを伝えたところで、ならさっさと死んで幽霊になって仕返ししてやる、とのたまかれたら反論のしようがないので、お世話してあげるのでもうすこし生きるのがんばってください、と背中をせっつくに留めた。
「生きてるだけで褒められたい」
「生きてるだけで偉いですよ」
「もっと大勢から褒められたい」
「欲張りだなこのひと」
「ほらすぐそうやって責めるから」
「責めるからなんです?」
「死にたくなっちゃうんだよー」
「死んだら私としか一生しゃべれませんよ。一生いっしょですよ。幽霊にお世話なんか必要ないので、残るのはミカさんを責めることだけですね。やった」
「がんばって生きよ」
 他者との関わりを避けながらも、ミカさんはなんとか人間としての生活を送った。幽霊たる私がいなければとっくに破滅していたかもしれないけれど、それはつまり私の陰の努力、ほかの幽霊たちとの死闘の日々があってこその日常であるから、いいや、それを抜きにしたって私はミカさんの私生活を縁の下どころか大黒柱を支える勢いで援助していた。
 仕事がなく、お金もないミカさんが餓死せぬように、私は世の中に溢れる廃棄食品を掻き集めて、ミカさんに届けたし、保険や年金、光熱水道代が払えないとなったら、免除手続きや、支援制度をミカさんの代わりに処理した。
「至れり尽くせりだね」
 ミカさんは布団のうえでしなびたまま、棒読みで言った。
 私はミカさんに生きてほしかったので、彼女を生かすために、できることをすべてした。
 私がそうして躍起になって、率先して世話を焼けば焼くほどに、ミカさんはどんどん生気を失い、布団と一体化していくのだった。亀はこうして進化していったのだな、と誤った知識を憶えてしまいそうになるほどに、ミカさんはひがな一日布団のうえで過ごし、生きるしかばねの見本を示しつづけた。
 ミカさんが弱ると、ミカさんの存在感が薄れるからか、悪霊が寄りつかなくなり、私はますますミカさんに構っていられるようになる。
 そうしてあくせくミカさんを生かすべく邁進した。やがて福祉の権化、生命維持装置の化身へとなり果てるに至る。私はまるで失ったじぶんの生をミカさんに重ねていた。追体験するかのごとく、ミカさんにあって私にはない衰退と再生のイタチゴッコを、つねに再生が上回るように、滅びぬように、幽霊となってしまわぬようにと、抗った。
 私がそうして尽力すればするほどミカさんからは活力が失せ、ますます私の出る幕が増す。
 やがてミカさんはじぶんで食事を摂ることもできなくなり、私は乳児にそうするように、ミカさんの口元に食べ物を運び、飲み物を呑ませ、定期的にせっついてトイレに歩かせた。
 そろそろオムツの出番やも。
 真剣に思案しはじめているじぶんに気づき、ん?となってから、ぞっとした。
 私はいったい何をしているのだろう。
 ミカさんをどうするつもりなのだろう。
 生かそうとしていたつもりで、そのじつ私のしていたことは、果たして――。
 私は我に返った。返ったことで、我を失っていたのだと知った。
 部屋を見渡す。
 ゴミ袋の山のなかで、ミカさんが布団にくるまり、苦しんでいる。
 そう、彼女は苦しんでいた。そんなことにも私は気づかずに、せっせと世話なる毒を服(の)ませつづけていた。
 ミカさんの周囲にはもう悪霊はただの一つも寄りつかない。しかし、それはミカさんが弱ったからだけが理由ではなく、寄りつかずに済むほどの超特大の悪霊がとっくにとり憑いていたからかもしれなかった。
「ミカさん、ごめんね」
 ごめんなさい。
 気づくのが遅れて、傷つけていたことにも気づかずに。
 本当に。
 本当にごめんなさい。
 私は死んだ者で、幽霊だ。この世にいてよい存在ではない。
 よしんば存在を許されたとしても、干渉してはいけないのだった。
 現に幽霊は、生者に干渉できない。現世に影響を及ぼせない。影のごとくただ存在する存在として、そこに在るしかなかった私が、あろうことかミカさんのお陰で、死してなおこの世に触れ、動かし、乱すことができていた。
 本来それはあってはならぬことなのだ。
 私がミカさんから、生の余地を奪っていた。死の縛りを、押しつけていた。いっぽうてきに、存在の輪郭を、軌跡を、未来を、損なっていた。
 このままではいけない。
 私は私がいちばんしたくないことを、この手で、この身で、この存在をかけてなしてしまうところだった。
 気づけてよかった。
 私はこの日、ミカさんのもとを去った。
 ミカさんは半年をかけて、段階的に回復していった。ミカさんにだって友人はいる。私がそれらミカさんと外界との交流を阻んでいた。私さえいればいいでしょ、と言って、悪霊に襲われたらどうするの、と案じて、ミカさんに外界と接触せずに済む環境を与え、そこに閉じこめ、押しつけていた。
 孤独を。
 孤立を。
 繋がりを断ち切り、ミカさんを追いこんでいた。
 ミカさんは徐々に社会との繋がりを太くしていく。バイトをはじめ、保育士の資格をとり、大手企業の託児所で働きはじめる。
「あたしむかし、霊感があってさ」
 同僚と他愛もない話で盛りあがるミカさんはもう、幽霊を視ることも、苛まれることもない。
 霊感を失くしたと思っているミカさんであるけれど、もちろんそんな都合のよい体質改善は起こらない。
 私はミカさんの目のつく場所に姿を晒さぬように細心の注意を払いながら、彼女の周囲に現れる幽霊どもを、樹液に集まるカブトムシやクワガタムシのごとく手当たりしだいに捕まえて、ちぎって、抹消する。
 ちぎっても復活する悪霊の親玉みたいなのは、未だに寄ってきたりするけれど、捕獲したほかの幽霊を抹消せずに譲り渡すと、ひとまず立ち去ってくれるので、そこはなんだか新しい商売じみた側面が築かれはじめていると見ても楽観のしすぎとはならないのではないか、とじぶんに都合よく解釈している。
「そこにいるの」
 ほんのときどき、ミカさんは布団のなかで目をつむりながら、寝言のようにそうつぶやく。
 ここにいるよ。
 私は念じるだけで、声にはださない。
 それでもミカさんは満足したように、寝返りを打って、おやすみなさい、と誰にともなくささやくのだ。
 寝息が立ちはじめたら私は床下から浮きあがり、ようやくミカさんの顔をまじまじと見つめる。
 朝がきてミカさんが慌ただしく活動しだすまで私は、ほかの幽霊たちを警戒しながら、ミカさんの寝息のさざなみのような律動に、安寧を見出す。
 生きている。
 ただそれだけがだいじなのだと、私はいつも思いだす。
 死してなお、私は彼女に生かされている。
 私を生かす、彼女の生を、私はこれからもだいじに、だいじに、見守っていく。




【お盆は神さまに別れを】

 ミカさんが墓参りについてきてほしい、と殊勝にもモジモジしたので、いつもならかってに行けばいいじゃないですか、とにべもなく流していたところだけれど、今回ばかりはついていってあげることにした。
 誰の墓参りかは訊かなかった。ミカさんのご両親は健在のはずだから、祖父母ではないかと、当然そのように考えたが、電車を乗り継いで着いたさきは墓場ではなく、山のなかに聳える大きな松の木だった。太い幹に洞が開いており、中に祠のようなものが納まっている。
 山にいい思い出はない。幼いころに遭難して、死にかけたことがある。はっきりとは憶えていないけれど、やたら怖かった印象だけが残っている。
 ミカさんは来る途中で購入した献花をそこに添え、手を合わせる。お香を焚かないのは火事の心配をしているからかもしれなかった。
 私はミカさんに習って黙とうする。そのじつ、いったいこれは何の儀式だ、と訝しむ。
 訊いてもよいだろうか。よいだろう。私には事情を訊く権利がある。こうして災害級の日差しのなか、蝉すら暑さでまいっている森を抜けて、山奥くんだりまで足を運んだのだ。付き合ってあげたのだ。知る権利を行使してなんの咎があるだろう。あるわけがないのだ。
「ミカさん、そろそろこれが何なのか教えてくださいよ」
「墓参りだよ」
「私の知ってるお墓参りとはずいぶん違って見えますけど」
「ここにはむかし神さまが住んでいたんだ。あたしがちいさいころに神隠しに遭ったのは知っているよね」
「いいえまったく」寝耳に水もいいとこだ。
「そのときにここの神さまにお世話になったんだ」
「誘拐されたということでは?」ストックホルム症候群、と脳裡に文字が踊り狂う。
「そうなんだけど、そうじゃなくて。神さまはつぎの神さまを探していてね。でもけっきょくあたしは散々お世話になっておきながら、跡を継げなかった。あたしは元の世界に帰されて、神さまは消えてしまった」
「それがつまり、ここなの?」
 お話の真偽はおいておくとして、なぜ私が巻きこまれねばならぬのか。付き合わせたからにはそこには正当な理由があるんでしょうなあ、と私は内心、ふつふつと怒りを煮込んでいる。きょうの晩ご飯はビーフシチューに決まりだ。トーストを浸して食べてやる。
「あたしがどうして神さまにならなかったのか解かる?」
「ミカさんのお考えは、凡人の私にはさっぱりですね。蚊に刺されそうなので、早く帰りません?」
「神さまのもとで暮らしているあいだ、あたしはいくつかの試練を受けてね。そのうちの一つに、全国の山々を駆け巡るってのがあって」
「へぇそれはいいですね。タダで旅ができたわけですか。空とか飛べました?」
「そこで迷子になっている女の子を助けたことがあってね。そのときに、一向に泣き止まないその子を安心させたくて、また困ったことがあったらいつでも助けてあげるよ、と約束してしまった。でも、それが原因で、私は神さまを継ぐことができなくなって、で、いまこうしてただのふつう人としての暮らしを送ってる」
 何かを言おうとして、私は言葉に詰まった。山にいい思い出がなくて、それゆえにこんな場所に連れてきたミカさんに腹を立てていたじぶんを、ひどくさもしいものに感じた。なぜそのように感じるのかも分からずに私は、遠い記憶、幼いころに山で遭難し、誰かに助けられた感触だけを、背筋に掻く汗の気持ちわるさと共に思いだしている。
「この樹ももう寿命だから、来年にはなくなっていると思う。大雨か、台風か。なんにせよ、最後にお別れをしときたくてね。神さまにご挨拶がしたかったんだ。約束は守れていますよってね。あなたの跡は継げませんでしたが、それだけの価値のある宝物をあたしは守っていますよって」
 私は息を呑んだまま、足元にゆらぐ木々の影を見詰める。
 深呼吸をすべく、喉を伸ばすと、頭上からそそぐ木漏れ日がキラキラと静寂の歌を奏でていた。
 うつくしさに目を奪われる。
 胸に湧いていたモヤモヤのどんよりが、そよ風に根こそぎ洗い流されるようだ。私はふしぎなほど、ミカさんの手を握りたくてしょうがなくなった。暑いのでよしておくが、いまが秋なら、或いは冬なら問答無用で握っていただろうと予感できた。夏でよかった。
 めまいがする。
 熱中症で倒れてしまいそうだ。やっぱり夏はダメだ。はやく秋になってほしい。
「さ、帰ろうか。付き合わせてわるかったね」
 いつも眠たげなミカさんからは想像もできないくらいのさっぱりした顔つきに、私は思わずミカさんから顔を背け、神木と呼ぶに値する立派な大樹を振り返り、なんでかわからんけれども、ありがとうございます、と念じている。
 ミカさんを帰してくれて。
 私たちの縁を結んでくれて。
 巡り会わせてくれて。
 ありがとうございます。
 風がゴウと吹き、蝉がいっせいに合唱しだす。遠くで、雷がゴロゴロと鳴った。
「雨降りそう。いそご」
 手を引かれ、私は汗ばんだその手を離さぬように、逃さぬように、秋でもないのに、ちからいっぱいに握り返している。 




【夢のなかの猿】

 あたしも似たような夢見るよ、とミカさんが予想外の返答をしたので、私は目をぱちくりさせる。
「よくあるタイプの夢なんですかね」
「でも構図が逆なんだよね。あたし、追いかけるほうだから」
「あはは、じゃあもしかしたら私を追いかけてきてるのミカさんだったりして」
「でも怖い顔したお猿なんでしょ、それ」
「そう。怖い姿のお猿さんがものすごい形相で追いかけてくるの」
「こわいね」
「こわいよぉ」
 六日前から毎夜のごとく見るようになってしまった夢は、悪夢と呼んで差し障りのない内容で、長い長い階段を私は延々とのぼりつづけている。上のほうには出口らしき光がちいさく見えていて、そこを目指して私は必死になって一段一段駆けのぼる。というのも、下のほうから毛を逆立てた猿が私めがけて階段をあがってくるのだ。それはそれは全力も全力の疾走なので、私は追いつかれまいと必死になる。猿は、ギェェエ、とおぞましい声をあげてもおり、私の恐怖にさらなる磨きがかかってしょうがない。
 毎晩見るたびに、前日のつづきからはじまるようで、すこしずつ、すこしずつ、出口らしき光に近づいている。反面、後方の猿もまた私に追いつきつつあった。
 階段は暗がりに一本だけ伸びている。そのほかには何もない。階段を踏み外せば、どこまでも下へ、下へと落下するに違いなかった。
 六日目にして、あと一日あれば階段をのぼりきるかもしれないぞ、という距離にまで光に近づいたので、私は何の気なしに、その夢の話をミカさんにしたのだった。
 ミカさんは年中部室で、昼寝をしたり、漫画を読んだり、私をからかったりしてグー垂れている。
 マンガを読んでいるミカさんに声をかけてもふだんなら生返事をもらうだけで、会話にもならずにぶつ切りに終わるはずだった。
 だがミカさんはわざわざマンガから目を離して、
「その夢、あたしも見てるわ」と言ったのだった。
 まさかそんなことはないだろう、またミカさんが調子のいいこと言ってら、と思いながら、私のはこういう夢ですけどね、と無駄に偉ぶりながら述懐すると、ミカさんは、そうそう、とさらに食いつき、でも、と首を傾げるのだ。「構図が逆なんだよなぁ。あたしは逆に、追いかけてるほうでね。きみが長い階段を一心不乱に駆けのぼってくから、ちょっと待ちなよって追いかけてるの」
「なんで追うんですか」
 階段のぼるくらいいいじゃないですか、と意見すると、だって、とミカさんはソファに横たわらせていた上半身を起こして、
「階段の先に何もないんだよ。崖だよ。崖っぷちだよ」
「崖って」これはミカさんの夢の話だからここで反論するのもお門違いなのだが、私はしかし反駁している。「私の夢だと出口ですけどね」
「出口ってああた。日によっちゃ、首吊りの輪っかが垂れてたり、なんだか不気味な生き物がウヨウヨたむろってたり、あんなところにわざわざ行かんくとも、と思うでしょ、人として」
「でも私の夢だと階段の先は天国の入口みたいになってますし、追ってくるのは気持ちわるいお猿さんですし」
「キモワルイ言うな」
「べつにミカさんのことを言ったわけじゃないですってば」
「もう呼び止めてあげないんだからな」
「それはミカさんの夢の中の人に言ってあげてください」
「だから言ってるだろ」
「話が通じない!」
 ミカさんは両手をぶんと振った。見えないお盆を地面に叩きつけるのに似た動きで、それは彼女がじぶんの思いどおりにいかないときに起こす癇癪の仕草だった。物に当たらないのは殊勝な心掛けだが、ブン、と音すら聞こえるその所作には、見ている者を否応なく突き離す威圧があった。足元に深い溝を刻まれた気分になる。国境でも引いたつもりなのだろうか。
 険悪な空気になって、この日はミカさんを部室に置き去りにして、私はひと足先に帰宅の途に就いた。
 夜、おふとんに包まって、きょうこそはほかの夢を見るぞ、と思いながら目をつむる。うつらうつらと微睡んだな、と自覚したつぎの瞬間には、私は例の階段のうえに立っており、背後からはやはり物凄い形相で駆けのぼってくる一匹の不気味な猿がいるのだった。
 半ば条件反射的に駆けだす。
 出口らしき光はもはや、視界を埋め尽くほどの輝きだ。遠くからでは判らなかったが、ずいぶん大きな扉だったようだ。
 いいや、扉であるかすら判らない。
 闇に開いた光だ。
 無限につづくかと思った長く険しい階段に終わりが見える。あとはもう百段ほどを駆けあがるだけだ。息は荒く、全身の筋肉という筋肉が悲鳴をあげているが、その痛みすら今では名残惜しい。
 あとすこしですべてが終わる。この悪夢ともおさらばだ。
 振り返ると、先刻よりもいくぶん遠くに、猿の姿が見えた。どうあっても追いつかない現実を知り、勢いを落としている様子だ。それでも立ち止まることなく、猿語らしき声をあげている。私が立ち止ったからか、猿もまた歩を止め、肩で息をした。猿らしからぬ疲労具合が見てとれる。
 猿はそこで何を思ったか、ひときわ大きな叫び声をあげ、両手をぶんと足元に振り下ろした。
 はっとした。
 その所作には見覚えがあった。私と親しい間柄の誰かさんが癇癪を起こしたときに見せる仕草とそっくり同じだった。姿形こそ不気味な猿だが、そのときに限り、眼下でキィキィ喚き散らかしているおぞましい相貌の猿が、私のよく知る誰かさんの姿と重なった。
「ミカさん?」
 私は呼んだが、その声を打ち消すように、頭上、数十段さきからそそぐ光が増した。私は白濁した視界のなかで、階段の行き着く先、頂上を見遣る。
 そこには、この世のものとは思えぬほど美しい天使たちが私を手招きしていた。
 やったー、私もそこに仲間入りできるんですか、美しくなれるんですか、やっほーい。
 最後の力を振り絞って私は残りの段差を、一歩、二歩、と消していく。
 残るはあと十歩という段になって、ふと、猿はどうしたかな、と気になった。もう追ってはきていないようだ。声も聞こえない。
 振り返ると、そこには、全身からジウジウと煙を立ち昇らせている猿の姿があった。猿の全身は爛れていた。毛という毛がすでになく、赤茶色に焦げた肌に、プツプツと気泡が浮いていた。香ばしい臭いすら漂ってきそうだ。
 光だ。
 光が猿を焼いているのだと思った。
 歯茎の剥きだしになった顔面には、それでも意固地に歩を進めようとする強い意志の宿った瞳が、しかと私を見据えていた。
 私だけを、見詰めていた。
 私はもういちど頭上の、残り十歩もない階段のうえを見上げ、そこで美しい微笑を湛え、手招きする天使たちを眺め、それから眼下の地獄絵図さながらの焼け爛れた猿を見た。
 何か明確な考えがあったわけではない。見比べたというほどのことでもない。
 ただ私は、瀕死も瀕死の猿を放っておいてまで、じぶんだけでゴールテープを切る気にはなれなかった。
 端からゴールテープなんてどこにもありはしないのだけれど、私はいまのいままでのぼってきた階段を、一歩、一歩、飛び降りるように下りて、受け止めるように腕を伸ばす猿の懐に飛び込んだ。
 猿はよろけた。
 私を受け止めきるほどの余力が残っていなかったようで、私たちはそのまま階段の外、闇の奥底へと仲良くいっしょに落ちていく。猿はそれでも、私の手だけは離さなかった。
 そこまでして、と私は夢うつつに思った。
 私に追いつき、触れたかったの?
 頭上の光が急速に遠ざかり、やがていっさいが闇に閉ざされる。
 つぎにじぶんの身体を意識したとき、私は全身に汗をびっしょり掻いて、布団のうえで姿勢よく寝ていた。両手両足はぴんと伸び、そのまま棺桶にでも入れそうなほどで、目のまえの天井はぐるぐると回転して見え、そのじつ回っているのはじぶんの目なのだと冷静に状況を把握できた。
 この日の放課後、部室に顔をだすと、ミカさんが仏頂面で頬杖をつきながら窓のそとを眺めていた。その両腕には包帯がされており、どうしたんですかそれ、と私は水を向けた。二度目の思春期ですか、とからかったのは、ミカさんからはそれを痛がっている素振りが見受けられなかったからだ。
「ちょっと火傷した」
「お料理でもしたんですか」
「まさか。あたしの料理の腕を知らないのか。あたしの作ったカレーで戦争が起こるくらいだぞ」
「戦争が起こるくらいにおいちくないんですか?」
「起きてしまうくらいに美味しいの。食べたら死んじゃうから気をつけることだね」
「へーい」
「信じてないだろ」
「いまの話のどこを信じろと」
 ふんだ、とミカさんは声にだして言い、じっさいに顔を背けた。むつける仕草をさせたらミカさんはピカイチだ。ピカイチがいったい何を示す言葉なのかは微妙に知らないままではあるのだが、ピカピカの一等賞の略ではないか、と私個人としては見立てている。ひょっとしたらピカピカの一年生かもしれないけれども。
「悪夢、きょうで終わるといいですね」
「あたしはきのうで終わったよ」
「また見たんですか」
「階段踏みはずして終わった。最初からそうしてりゃよかったんだ。なんたって夢なんだもの。無駄骨、無駄骨」
 つぎからはきみもそうするといい、とミカさんは欠伸を噛みしめる。
「えぇこわいです」
「夢のなかだぞ」
「こわいのでミカさん、つぎもいっしょによろしくお願いしますね」
 通じるかは分からなかったが、私がそう茶化すと、ミカさんはまたプイと顔を背けて、やなこった、と耳たぶをいじった。
 その耳は真っ赤に染まっていて、
 ミカさんってばお猿さんみたい。
 尻の赤い猿の姿と重ね見てしまうのだった。 




【幽霊の仕事】

 襦袢の裾からつややかな足を投げだして、逆さが無難なのさ、とトヨさんは言った。トヨさんは三百年前に主君に罪を着せられた恨みでめでたく悪霊になった女性で、私たちのなかでは一番の古株だ。
「天井からぶらさがってるだけでたいがいの人の子らは驚くさね。こちとら頭に血が上ってさっさと逃げてくれと祈ってるってえのに、腰を抜かされちゃ引っこもうにもなかなか引っこめないだろ」
「引っこんじゃダメなんですか」私はとなりのエリーを見遣る。「構わず引っこんじゃっても別によくないですかね。ダメな理由あるんですかね」
「プライドじゃないかな」エリーさんはにべもなく、大先輩であるところのトヨさんの心理を喝破する。「脅かして、逃げられて、畏れられる存在でありつづけちゃったもんだから、是が非でもこっちから引っこむなんてできないんでしょ。そうだろトヨさん」
「口のきき方に気をつけな。でないと助けてやんないよ」
「助けるったってあたしはもう死んじゃってっからなぁ」
「恨みは果たしといたほうがいいですよ、せっかく幽霊になれたんですから」私はトヨさんの肩を持つ。
 エリーは数年前にこのマンションで自殺した女性で、地縛霊をやっている。金髪に腕にはタトゥーが入っている。彼女がここを離れられないので、私たちは定期的にここへ遊びに集まる。長いこと幽霊をやっていると、会話に飢えるのだ。
 ついでにエリーが消えて仕舞わずに済むように、幽霊でいつづけるコツを伝授する。
「要は成仏しちゃうってこったろ。べつにいいんじゃないの。だってもう死んじゃってるわけだし」
 成仏は幽霊の本分じゃん、とエリーはいちど床を抜けて、下の階からおつまみやら飲み物やらを持ってくる。正確には、それら飲食物のダブルを抜き取ってくるので、物体としてのそれらは下の階に残ったままだ。ダブルはいわゆる残留思念とか、世界の記録とか、そういうものだ。英語で二つを意味するダブルではなく、重なって見えるとかの「ダブる」からきている、とはトヨさんの談だ。
 私たちは柿の種やら発泡酒やらを飲み食いしながら、
「成仏って言ってもね、そのあとどこかに行けるわけじゃないからねぇ」
 トヨさんの御高説を拝聴する。
「天国とか地獄とかないらしいですよ」私はもう何度も聞いているので、エリーのために補足する。
「そんなの生きてたときから知ってたよ。天国なんかあるわきゃないっしょ」
「でも幽霊にはなっちゃうんですよ、びっくりですよね」
「言うてもこれだって要は、ダブルなんでしょ。幽霊ってか、コピーなわけか」
「まあそうなんですけどね」
「じゃあもういつ消えてもいいじゃん。なんでダメなん?」
 言われてみればそれもそうだ。なぜダメなのだろう。私はトヨさんを見遣る。トヨさんは後ろに手をついて、天井を見上げる。
「ダメってこたないさ。ただね、成仏してからじゃ遅い。死んだら生きかえれないのと同じさ。いつ消えてもいいなら、もうすこしいまの状態を楽しんだってバチは当たらないじゃないか」
「永遠の夏休みですよ」私は幽霊になってから最初に思った感動を口にする。
「夏休みねぇ」エリーは窓のそとを見遣る。猛吹雪だ。数十年ぶりの大寒波で、歴史的積雪量を誇っている。
「楽しむったって、とくにしたいこともないしな」エリーは私から飲み物をひったくり、飲み干した。じぶんの分はとっくにカラになっていたようだ。私が頬を膨らませてみせると、エリーは指先で突ついて、萎ませる。「生きたくないから死んだ。消えたかったから死んだ。なのに、これじゃあな。どうやったら成仏できるのかさっさと教えてくれないか。あんたらの娯楽に付き合ったのもそれを聞くためだ。あたしゃ早く消えたいのさ」
「寂しいことは言いっこなしですよ」
「幽霊なんざいくらでもいるだろ。代わりを探しな」
「エリーさんの代わりはでもいませんから」
「先輩面したいだけのくせしてよくもまあうれしいことを言ってくれるね」
 私は膨れるが、エリーの指先に潰される。
「成仏したいなら止めやしないがせっかくなんだし」トヨさんは言った。「恨みでも晴らしてから消えたらいいんじゃないか」
「恨み?」
「ないのかい。自殺ってからには相応の不幸というか、不満というか、絶望があったわけだろう。絶望ってのは希望があって初めて成り立つ概念だからねぇ。希望を奪ったやつがいるのなら、恨みを晴らしておくのは幽霊の特権だよ」
 使わない手はないね、と言ったトヨさんの意見に、私も、うんうん、と同調する。
「恨みねぇ」エリーは思案する。宙にさまよわせていた視線をこちらに当てて、「ないな」と口角をあげた。目だけは相も変わらずにけだる気だ。「誰も恨んじゃないし、誰かに不幸になってほしいとも思っちゃいないよ。もしそんな相手がいたら殺してから死んでる。本当にただ生きていたくなかったんだ」
「どうしてですか」
「さあね。それが分かったらやっぱり、どうにかしようともがいて、もがいて、もがききってから死んだだろうね。だからやっぱり、ただ本当に、生きていたくなかったんだ」
「そんなのって変」
「思うのはかってだが、それを決めるのはあなたじゃないでしょ」
 私のほうが先輩なのに、なんだか私のほうが諭されている。ちぇ。
「そもそも成仏ってどうやればできるんだ。知らないんだから放っといてもこのままってことになるんじゃないの。わざわざ世話を焼かずとも」
「そもままだと遠からず消えちまうから世話を焼いてんのさ」
 そうだよそうだよ。
 私はここぞとばかりに先輩面をする。「そのままだと消えちゃうんだよ」
「それはいま聞いた」
 睥睨されて私はたじたじだ。てことはだ、とエリーは続ける。「何かをすれば成仏せずにいられるわけだ。消えたければそれをせずにただじっとしてりゃいつの間にか成仏できるってことだわな」
「冴えてるじゃないか。呑みこみが早くて助かるよ」トヨさんは柿の種をバリバリ噛み砕く。「便宜上、我々のこの状態を霊体と呼ぶが、霊体を維持するのにも養分みたいなのが入り用でね」
「それを得ればいいってことだ。どうすればいいの」
 エリーの賢い相槌に、私は待ってましたとばかりに、怖がらせればいいんだよ、と嘴を挟む。エリーは私を一瞥しただけでまたトヨさんに顔を向け、
「ただ怖がらせるだけじゃダメなんでしょう、条件はなに?」とやはり賢い問いを投げかける。
「まずは相手に視認されること。そのうえで怖がらせる。本当は笑わせるでも、感動させる、でもいいらしいが、難易度からすれば脅かしたり、怖がらせるほうが楽だろ。我々霊体が視認されると、相手のダブルと同期というか、まあ繋がるらしい。そのときの相手の心を激しくかき乱せれば、その波が我々霊体にも伝わり、存在を維持する源となる」
「視認のされ方にも工夫がいるんじゃないのか」エリーは私を指差し、「たとえばいまコイツが街中を出歩いても、多くの者はコイツを視認しないはずだ。現にあたしはさっきこの部屋の真下に潜ったけど、住人たちは誰も私の姿を気にしなかった。視認されるようになる条件があるはず。違う?」
「最初の説明でそこまで頭が回ったやつは初めてだ。やっぱり消すには惜しいな」
「死角から入ることと、影であること」私は言った。「相手の死角から現れないと、視認されない。堂々と見えるように振る舞っても、生者たちは反応してくれないんだよね。あとは、影にいないとダメ。日向とか、明かりの下とか、そういうところに立ってても生きてる人たちには見えないらしいよ私たちが」
「脅かし方にもコツがあるのさ」トヨさんは襦袢の裾から足を投げだし、逆さが無難なのさ、と髪を振り乱して、オバケのときの顔をつくる。「手をだらんとまえに構えちゃいけないよ、ありゃウケがわるいからね」
 とぷん、と床に消えたかと思うと、私たちの頭上から逆さになって登場する。種明かしをされているし、私は何度も見ているので怖くはないが、びっくりはする。
「霊体同士じゃ意味ないのか」エリーが私を見る。金髪を掻きあげ、「霊体同士で脅かしあえれば楽でいいのに」
「そうだね」私には答えられない疑問だったので、トヨさんに、そこのところはどうなの、と視線で投げかける。トヨさんは天井から抜け出ると宙にふよふよ舞ってストンと床にあぐらを組む。「それができりゃ苦労はないさね。霊体は消耗品だ。つねに減りつづける。たとえ霊体同士で糧を得られても、それは共食いのようなものだ、いずれはどちらかが消えるか、どちらともが消えるかしかない。あるところからもらうしかないのさ」
「幽霊は幽霊らしくなさいってことだね」私は乱暴にまとめてエリーに、そういうことなので、と髪染めスプレーを持って迫る。スプレーはむろんダブルだ。彼女のド派手な金髪を黒く染めるべく、連日こうして交渉を重ねてきた。
「金髪のままでも脅かすくらいできるだろ」
「金髪のオバケなんか聞いたことない」
「でもいてもよかないか」
「金髪のオバケで、しかもエリーみたいなべっぴんさん、そんなの怖いどころか仲良くなりたいでしょ」
「死んでまで見た目をどうこう言われたくねぇな」
「ゲームだと思えばいいさ。どうせそのうち消えるんだ、暇つぶしだと持ってちょいと付き合ってくんな」トヨさんの言葉に、私も、うんうん、と乗っかる。思ったよりもおもしろいんだよ、と私の率直な感想を付け加えると、ガキじゃねぇんだから、とまるでじぶんはおとなだと言わんばかりにエリーは嘆息する。それから私の手から髪染めを奪い取ると、カツラでいいだろカツラで、とぼやいた。「いちいち染めんのは面倒だ。つぎウチくるときはカツラ持参な」
「それって付き合ってくれるってこと?」
「おもしろくなかったら絶交な」
 絶交も何も、と私は愉快になる。いったいいつから私たちの間に、絶えることの可能な交わりが生まれていたのか。
 いいや、とっくに友達になっていたのだ。エリーがそう見做してくれた時点で、それは自明だ。せっかく得た言質を無下にせぬように私は、エリーのためにゾンビマスクのダブルも雑貨店から持ってきてあげよう、と心にメモをする。
「でもいいのか、いまは夏じゃないけど」エリーの指摘は的を得ている。肝試しや怪談と言えば夏場が相場と決まっている。だがいまは吹雪も吹雪、大シケの真冬だ。
「構いやしないよ。夏場よりも冬場のほうが怖がらすのは楽なのさ。人は寒いとすぐにぞっとしてくれるからね。気温は低いほうが都合がいい」
 そういうものか、と私は感心する。エリーはエリーで、そりゃそうかと首肯を示し、「この寒さでノースリーブの女がいたらそれだけで怖いわな」と投げやりに話を結んだ。
「金髪だったらやっぱりあんまり怖くない気がするな」黒髪のほうが好みだったので私が食い下がると、トヨさんとエリーは二人して、「話を蒸し返すな」と声を揃えた。
 いまは冬なので、蒸してはいません。
 私の懸命な反論は、肩を抱いてブルブル震えるエリーの言葉にかき消された。「凍え死ぬかと思った」 




【夢のなかの声】

 夢のなかでよくよく声を聞く。じぶんの声だ。私はなぜか苦しんでおり、あの男はどうかしている、と訴えている。以前は、いったいどんな深層心理からの夢だろうとこそばゆかったが、さいきんではその声が無意識のじぶんからの忠告ではないか、との疑念を深めている。
 時間がないので端的に述べるけれど、アイツはちょっと頭がおかしい。
 たしかに一時期私たちは恋人同士だった。彼の知能の高さには未だに憧れの気持ちが湧く。
 彼は遺伝子工学を知悉している。彼の発見した細胞泡沫分化技術はノーベル賞をとってもいいくらいの発見だし、おそらく今後とると思う。
 それを含めても彼の人格には難があった。偉業を理由に看過していいとは思えない。許せないし、許しちゃいけない。
 第一に、私たちはとっくに別れていて、恋人同士でもなければ、家族でもない。恋人関係を解消してからの彼からのしつこい接触は嫌がらせの域に入っていた。ゆえに友人としても縁を切らせてもらった。私たちはもはや過去仲のよかった赤の他人だ。
 第二に、彼は私の与り知らぬところで私に付きまといつづけていた点だ。あまり使いたい言葉ではないけれど、誰から見てもストーカーだ。私を監視するだけに飽きたらず、私の捨てたゴミを漁るだけに留まらず、私の家に侵入して私の持ち物を盗んだりした。家宅侵入に盗人だ。
 最後に、彼はこれら罪を認めないどころか、正反対に私をストーカー扱いした。ノーベル賞級の研究成果をあげているからか、みな彼の言うことばかりを信じる。
 私の親ですらじぶんの娘ではなく、彼を庇って、擁護する始末だ。
 この世に私の味方が一人でもいるのだろうか。
 彼は私に無断で湯船の残り湯すら集めていた。そのころ私はもはや他人を信じられなくなっていたのでシロアリの駆除だってじぶんでした。そのときに床下で、排水溝に設置されていた装置を発見した。それは残り湯から私の垢を集めるためのものだった。
 取り外し、中を開けてみると、乾燥した私の垢が粉となって手で掴めるほど集まっていた。一日や二日で採れる量ではない。きっとこれまでにもこうして収集していたのだ。
 しかし、この装置を警察に届けでたとして、果たして私の言葉を信じる者がいるだろうか。あまつさえ、彼がこの装置に自らの痕跡を残すようなへまをするだろうか。
 最悪の結末しか思い浮かべられなかった。
 私はいよいよとなって、彼の自宅に侵入した。なりふり構ってなんていられない。彼は犯罪者だ。物的証拠を私が自ら探しだし、彼の罪を白日のもとにさらけ出すよりない。
 さまざまな道具を取り揃えて挑んだのに、拍子抜けだ。彼の家のセキュリティはざるも同然で、監視カメラ一つなく、また鍵も一般のもので、万能カッター一本あれば扉を破壊することなく侵入できた。
 家のなかはがらんとしている。屋敷と言っていいほど大きいのは研究所を兼ねているからだろう。とはいえ、一年の多くを彼は国立研究所で過ごしている。飽くまで家にいるあいだも研究できるようにとの予備のはずだ。
 私は家を見て回る。
 以前に彼と付き合っていたときに何度も入れてもらった。見取り図は頭に入っている。ひと通り見て回り、目ぼしいものが見当たらないことに落胆する。
 いや、まだだ。
 あの当時にも見せてもらっていない区画が一つだけある。
 地下室だ。
 秘密の研究をしていると珍しく彼が隠し事をしたので、記憶に残っている。当時は、よほどだいじな研究なのだと、ノーベル賞級の研究の邪魔をせぬようにと彼の言葉を素直に信じた。
 しかし思えば彼にとって、研究は研究だ。偉業だからするのではない。興味を持てば彼はトマトのヘタの研究だって喜んでするだろう。彼が私に研究の内容を内緒にする理由は、本来はないのだ。現に私は、ノーベル賞級の研究成果であるところの細胞泡沫分化技術を、研究発表前に教えてもらっている。
 つまるところ彼が私に研究内容を言えなかった理由は一つしかない。
 私に知られるとまずい内容だったからだ。
 地下室へとつづく階段を見つけ、私は下りていく。
 やがて行き当たった扉を開けると、中には無数の水槽が並んでいた。水槽は円柱を模しており、ひと一人がすっかり入る大きさだ。
 否、じっさいに中に人形が入っている。人形は膝を抱え、身体を丸めている。
 よもや人ではないだろう。
 そう思い、近づくとなかの人形が女性で、なおかつ顔を下から覗きこむと私に酷似していると判った。心拍数が上昇し、呼吸が乱れる。
 なんなのこれ。
 一体ではない。
 何体もの私にそっくりな人形が水槽のなかに浸かっている。
 全身に根っこのようなものが伸びており、それらが神経の接点に結合している。
 ときおり、人形は手足を動かした。
 胎児に見られる胎動に似ている。
 クローンではないのか。
 人殺しの現場を見たときのような衝撃に見舞われる。もちろん殺人現場を見たことはないが、きっとこういう心境に違いないと推し量れるほどに私は混乱していた。
 反面、冷静でもあった。
 ここでは重大な犯罪行為がなされている。世に知れれば国際問題として俎上に載ることは不可避だと思われた。
 人体の複製は禁忌だ。犯してはならない近代倫理の一つとして数えられる。
 私は私の複製たちを眺め、ふしぎとじぶんがじぶんではない感覚を深めた。離人感と言えば端的かもしれないそれは、私が私であるはずの実感を薄め、目のまえに陳列するそれら紛い物が私であるかのような錯覚を抱かせる。
 紛い物はもちろん紛い物ではない。双子がどちらか一方の紛い物でないのと同じように、複製物は複製物で、個を確立し得る。
 目覚めさえすれば。
 いまここで破棄してしまえば、可哀そうではあるものの、これらは個を育むことなく死滅する。
 殺人ではあるだろう。
 真実それが私の複製物であるならば。
 堕胎をこの手で行うようなものだ。
 私にはしかし、それをする権利があるように思えた。
 おそらく私は生涯、呵責の念に苛まれるだろう。だがこのまま彼女たちをこの世に生みだし、さらに似たような境遇の個体を増やす余地を世の中に与えるくらいならば、それくらいの罪過は背負おうと思った。
 私は部屋を見渡し、斧の代わりとなる道具がないかを探す。何かを分解しただろう機械の部品を見つけ、重く硬い鉄の塊を頭上まで持ちあげる。
 水槽に叩きつければヒビくらいは入るだろう。首尾よくいけば割れるかもしれない。
 腰にチカラを籠め、振り下ろそうとしたとき、何かに引っかかったように腕が動かなくなった。
 天井にでも引っかけてしまったのだろうか。
 そんなに低くはなかったはずだ。
 嫌な予感を覚えながら腕の力を抜く。
 鉄の塊は頭上に固定されたままで、振り返ると、そこには私のストーカー、元恋人、天才科学者の矢梅(やばい)ヒトヤが立っていた。
「ロンちゃん、ダメだよそんな危ないことしちゃ」
「やめて、こないで」
「培養液がかかったら、崩れちゃうよ細胞。きみだって知ってるだろ、細胞泡沫分化技術は、細胞を急激に増殖させちゃうって。この培養液は、その爆発的な細胞分裂を、遺伝子情報に沿って制御する役割がある。いくらきみの細胞から培養したからといっても、個体ごとに遺伝情報は極僅かに変化する。極僅かと言っても、細胞にとっては異物と見做すに充分な変異だ。もしきみの身体に触れたら、そこだけ爛れて、拒絶反応を起こし、崩壊してしまうよ」
「こんなことしてただで済むと思ってるわけ。こんな、私のクローンをつくるなんてそんな」
「精確にはクローンではないんだけどね。きみの垢をただ増殖させただけだから。培養だよ。もはやそれら彼女たちときみはべつの生き物だ。遺伝子レベルで違ってる。知ってるだろ、細胞それ自体のDNAはつねに破損と修復を行なっているって。細胞ごとに含まれるミトコンドリアDNAだって細胞ごとに異なる。別個のDNAを保持した細胞を培養して生まれた彼女たちはもはや、きみの姉妹や母親と同等のレベルで別人なのさ」
 だからきみにとやかく言う権利はないし、彼女たちを殺す権限もない。
「あなたにだってかってに生みだしていい権限なんてないでしょ。せめてじぶんの細胞で試してよ」
「それじゃ意味ないじゃないか。僕はきみが欲しいのに、きみは僕のモノになってくれないのだもの。こうするしかないじゃないか」
 水槽のなかの彼女たちと私は別人だと言いながら、舌の根の渇かぬうちに、私を手に入れるためにした、と言う。
「人をモノ扱いするような人間を誰が愛せるわけ。性根腐りすぎだよ」
 赤ちゃんからやりなおしなよ人生。
 私は逃げ道を模索しながら、時間稼ぎに悪態を吐く。
「それもいいかもしれないね。僕も僕の細胞を培養してみようかな。彼女たちを同時に愛することもできなくはないけれど、研究の時間が減ってしまいそうだし、そうだね、それぞれに僕の培養体を与えてあげてもいいかもしれない」
「そういう話じゃないよ。まだ間に合うよ、やめよ? もうこんなことやめにしよ」
 すべて破棄してなかったことにしよ。
 私はこの事実を死んでも公表してやる、と決意しながら、説得の言葉をつむぐ。
 彼は首をゆるゆると振り、話し合いは無意味だって諦めてるんだ僕、とこちらに背を向け、入口の扉を閉じに歩いた。鍵のかかる音が響く。首輪をされたような重苦しい音だ。
「きみに僕の言葉は届かないらしいからね。しょうがないよね。でもだいじょうぶだよ、それでも僕はきみのことを愛してるから」
 嫌いになんてならないよ、安心してね。
 彼は私の首を両手で締めると、また最初からやり直しか、と嘆息を吐いた。彼の甘ったるい息が顔にかかる。私は息を止めようとするが、元から呼吸はできなかった。
「記憶の定着だって簡単じゃないんだよ。いい加減、学習してほしいなあ」
 いったい何の話だ。
 私は、私によく似た複製物たちを視界に入れながら、背中を丸め水槽のなかに浮く彼女たちの行く末を案じる。
 騙されちゃダメ、この男はどうかしている。
 夢のなかでよくよく聞いた声を、私はいま叫ぼうとしたが、意識は白濁し、闇のなかへと融けて、消える。
 微かにこだまするその声は、細々と深く反響する。 




【チコちゃんとお盆】

 毎年お盆になると祖父母の家に親戚一同が集まる。なぜか正月や大晦日には集まらないのにお盆は決まって祖父母を筆頭とした三親等までの血筋が一堂に会した。
 私は孫のなかでちょうど真ん中の年齢層に位置し、歳がうえの孫たちは母や父の手伝いをし、かたや幼い孫たちは堅苦しい雰囲気の屋敷のなかで手持無沙汰に、あっちで泣いては、こっちで叱られたりした。
 そうした幼子たちの相手をする役目をここ数年のあいだ私は仰せつかっていた。
 だが今年世界的に大流行した新型ウイルスの影響で、お盆といえども帰省は遠慮したほうがよいのではないか、という話になり、代表で長男家であるうちの一家だけが祖父の家へといくこととなった。父と母と私の三名だ。
 親族のすくなからずは都内在住だ。元々都会ではない地方都市で暮らしていた私たち一家はその点、田舎に足を向けやすいと言えた。
 祖父母の家に着くと大橋さん家族が座敷にあがっていた。大橋さんは祖父母の家の隣に住む人たちで、祖父母とは家族ぐるみの付き合いがある。必然、私たちもまた大橋さんたちとは懇意であり、ほとんど親族同然の付き合いをしている。
「チコちゃんおっきくなったね」
 一年会わないと子どもは本当に目を瞠る成長を見せる。チコちゃんは大橋さん家の一人娘で、会うたびに私は人見知りな彼女と野良猫と仲良くなるような段階を経て、最終的に帰るころには彼女は私の裾を掴んで離さなくなる。
 懐いてくれるまで毎度のことながら苦労するが、ことしは物心がついたのか、会ったときからもじもじとではあるものの、私のそばに寄り、あれこれとじぶんの話をした。
「サキさんに会うの楽しみにしてたんですよこのコ」
 これもまた毎年のようにチコちゃんの母親から聞かされる社交辞令だが、聞く分にはわるい気はしない。
「ことしはサキちゃん独り占めしていいねぇ」
 祖母が言い、あんまりわがまま言わないのよ、とチコちゃんの母親が付け足すと、チコちゃんは、余計なことを言わないで、とむつけ、あっちいこ、と私の手をとり、大人たちの談笑する居間を抜け、客間に移った。
 私としてはおとなたちの見え透いた世辞の言いあいや、そこはかとなく毒気のこめられた近況報告の打ち合いなどを脇でじっとおとなしく聞いているのは疲れるので、チコちゃんと遊んでいたほうが何倍も気が楽だった。
 そうは言っても、十も歳が離れていると、チコちゃんの遊びに付き合うのもそれなりに気を使うのもたしかであり、一時間もすると、なあなあの返事をしながらメディア端末をいじる時間が増えた。
 チコちゃんはそれでも、お絵描きをしたり、独り芝居をしたり、独楽を回したり、クイズをだしたり、と楽しげにしている。斜視なのか、チコちゃんはときおり焦点が合わない顔をする。私にしゃべりかけているのに、私と目が合わないこともあった。ただ私自身、相手の目を見て話すのが苦手なので、チコちゃんのそれをわるい癖だとは思わなかった。あのね、あのね、とひとりでしゃべりつづけるチコちゃんの無邪気な様をかわいらしく思い、ほんのときどき疎ましく思った。
 夢中で遊び回るチコちゃんが汗ばんできたので、そろそろ水分補給させなきゃ、と台所に連れて行く。風通しがよい分、この家ではめったに冷房をかけない。私にとっては肌寒いくらいだが、熱中症にさせてしまったら申しわけない。台所ではチコちゃんのお母さんがトウモロコシを茹でていた。チコちゃんが足元へ駆けていく。
「とうもころし、チコもひとりちょうだい」
「とうもろこしは一本でしょ」
 まだ単位や数の概念が希薄なようで、ときおり幼子特有の言い間違いをチコちゃんはした。むかしからのそれは彼女の癖で、私を見てはお兄ちゃんと言い間違うこともしばしばだった。
 私以外にも若い者が大勢ひしめきあうのが祖父母の家では珍しくなかった。チコちゃんくらい幼くなくともいちいち相手に合わせて言い方を変えるのを面倒に思っても仕方がないのかもしれなかった。
 私だって年上の親戚に対しては律儀に名前で呼ばずに全員一律で、おじさんおばさんと呼んでしまいたい。年上の若者もいるが、そこも合わせておじさんおばさんと言いたくなるほどだ。ときおりそれを実践したりもする。
 そういういい加減なところがチコちゃんと気の合う理由の一つになっているのよね、と私の母などは私の腹蔵を見抜いて、怠惰だね、と嫌みの一つを漏らすのだが、ことしは過去にないほどの静かな盆となり、私がそうした手抜きを弄することはない。
 その点、チコちゃんは私よりも一枚も二枚も上手であるから、目のまえに一人しかいない年長者たる私相手にも、お兄ちゃんはどうして遊ばないの、と言ったりする。
 私がメディア端末にばかり夢中だからぼやきたくなるのだろう。その心理は理解できた。
 そうは言っても、チコちゃんは去年小学校にあがり、ことしは二年生だ。そろそろ言い間違いを指摘し、改めさせてもいい時期ではないだろうか。
「チコちゃん、学校でもそういうふうに女のひとにお兄ちゃんって言ったり、物を数えるときに、一人二人って数えたりするの?」
 人形遊びに夢中のチコちゃんの耳には、小言フィルターがついている。自身にとって不都合な言葉は聞こえない。声の響きで解るようだ。私の耳にも似たようなフィルターがついているので、もちろんそれは比喩であってじっさいにフィルターがついているわけではないのだが、チコちゃんが本当は私の声を聞いていて、聞こえなかった振りをしていることは知っている。
 ねえねえ、どうなの。
 私はチコちゃんの脇に手を挟みこみ、ゆびは動かさずに、こちょこちょー、と声にだす。言霊は幼子にこそ有効だ。チコちゃんはくすぐられたわけでもないのに、身体をくねらせ、黄色い声をあげた。
「やめて、やめて、降参」
「ダメー。チコちゃんさっき無視したから」
「してないしてない、キャー」
 指先で脇をツンと突くとチコちゃんは悶えた。
「お兄ちゃん助けて助けて」
「また私のことお兄ちゃんって言った」
「言ってない、言ってない」
「どうして嘘吐くのかなぁ。嘘吐きはこうだぞう」
「嘘じゃない嘘じゃない、お姉ちゃんには言ってない、やだやだ、あはは」
 チコちゃんは目に涙を浮かべ、笑い転げた。私をお姉ちゃんと呼んでくれたので解放すると、どうしていじわるするの、と息も絶え絶えに、ああくるしかった、と涙を拭う。
「いじわるじゃないよ。私は女の子なのにお兄ちゃん呼ばわりするから」
「してないよ」
「でもお兄ちゃんて呼んだでしょ」
 チコちゃんは小首をかしげる。口元はほころんでいるけれど、目がきょとんとしていて、言葉がうまく通じていないと判らせるだけの戸惑いが見てとれた。
「チコちゃんときどき私のことお兄ちゃんって言うよね」
 念を押すように確認すると、チコちゃんは、言ってない、と首を振る。そこには理不尽な叱責に対する抗議の響きが滲んでいた。
 言い間違いに気づいていないのか、と私は認識を改める。私にも覚えがある。頭のなかではちゃんと言葉を浮かべているのに、口から違う言葉が飛びだすのだ。リンゴと言ったつもりが、ブドウと言っていた、といった具合だ。
「そっか、ごめんね」
 私は謝り、チコちゃんを抱き寄せ、仲直りのハグをする。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ。お兄ちゃんにお兄ちゃんって言うよ」
 チコちゃんはわけのわからないことをつぶやく。
「お兄ちゃんはでもいないでしょ」
 ここには私とチコちゃん以外にひとはいないのだから言う必要はないんだよ、と指摘したかったけれど、幼子相手にムキになるのは年長者としての振る舞いとして適切ではないように思い、チコちゃんってばお茶目さん、と暗に、かわいいね、と言ってその場をなあなあのまま切り抜けようとしたが、チコちゃんは引き下がらなかった。
「お兄ちゃんいるよ。ずっといるよ。お姉ちゃんが遊んであげないから怖い顔してるもん」
 チコちゃんは視軸の定まらない眼差しを私にそそいだ。
 いや、そうではない。
 私は目を見開く。
 チコちゃんは私にそそいでなんかいなかった。
 斜視ではない。チコちゃんはずっと、私の背後を見詰めていたのだ。
 でも、なぜ。
 背筋に悪寒が走る。ぞくぞくと突き刺すようなそれは、肌寒さによく似ていた。
 思えば冷房いらずのこの家で私は暑さを感じたことがなかった。風通しがいいからだと思っていたが、この悪寒を私はつねに背負っていたのかもしれなかった。
「チコちゃん、こわいこと言うのやめよ」
 うしろを振り返ることもできずに私は、チコちゃんを抱っこし、みなのいる居間へと移動する。
 私の機嫌がわるくなったからか、チコちゃんはしばらく口を閉じたままだった。私を怒らせたと思ったのかもしれない。私が祖父母の家を離れるまで、お兄ちゃん、という言葉を彼女が口にすることはなかった。
 私はチコちゃんといるあいだは、ことさらひざのうえに載せていた。彼女が私の背を見ずに済むように、私が彼女の背中を見守っていられるように。
 それとなく祖父母や両親に、この家で亡くなった若者がいないかを聞いた。それらしい返答を得られず、内心ほっとしたが、祖父母の家を離れるまで、悪寒は背中に張りつきつづけた。祖父母の家の風呂は使わず、近所の温泉を利用した背景にはそうした理由があるが、思えば私は祖父母の家にくると決まって温泉に浸かっていたので、これは元からの習性だ。ともすれば私は知らず知らずのうちに、あの家で一人にならないように振る舞っていたのかもしれず、涼しく快適なはずのあの家を心地よく思ったためしも、いまにして思えばないのだった。
 来年、チコちゃんは小学三年生になる。
 人称や単位を言い間違える齢ではなくなっている。果たして彼女の癖は直っているだろうか。
 来年こそは親戚一同が集まれるとよいなと思う。或いは、新型ウイルスの猛威が深刻化し、お盆になっても我が一家が祖父母の家に集まらずに済むようになればよい。
 私はできるかぎり、祖父母の家にいきたくない。
 ただ、私に懐いてくれるチコちゃんと会えなくなるのはそう、未練がないと言えば嘘になる。
 彼女のほうで私の家に遊びにくればよいのにな、と思うものの、いざ家にきてまで私の背後をじっと見つめ、お兄ちゃん、なんて呼ばれたらいよいよ一人でトイレにも行けなくなるので、ぜひともチコちゃんには拙い言い間違いはことしかぎりにしてほしい、とせつに望むものである。 




【融けるほどに暑く】

 そとを出歩けば、暑さで身体が融ける。比喩ではなく、焦げる以前に、どろどろと液体となって地面に身体だったものがしたたるのだ。
 温暖化の影響だ、と目されるが、ここまで気温が上昇するのは異常としか思えない。
 私たち一家が暑がりであるのを考慮してもこれは非常事態と言えた。
 なにせ身体が融けるのだ。
 アスファルトで目玉焼きが焼ける、なんて話を耳にするが、目玉焼きが焼けるよりさきに身体のほうで消失する。もはや私たち家族はそとを出歩く真似もできやしない。
 気温の上昇を懸念して私たち一家は、北に北にと移動し、寒冷地帯を渡り歩いてきた。いまでは移動先を見繕うのも至難で、というのもここが北極点であり、最北も最北、もうこれ以上北にはいけないのだ。
「おはよう、母さん。父さんは?」
「水が欲しいって、そとに」
「だってそとは」
「もう戻ってはこないと思う」
 私は厳重に閉じられた扉を見る。その奥で融けてしまっただろう父を思い、どうして死に急いだりなんか、と遣る瀬無さに襲われる。
 解かっている。致し方ないのだ。
 死を覚悟してでも水を手にいれなければ、遠からず私たち一家は消滅する。
 水さえあれば、いましばらく存在の輪郭を保てるのに、いまではその水すら手に入らない。
 何かの本で読んだ怪談を思いだす。
 地球が太陽に接近しすぎて、人類が滅亡する話だった。そのじつ、それは太陽から遠ざかる地球で凍えて死にそうになっている人の見た白昼夢であり、灼熱にしろ極寒にしろ、艱難辛苦なのは変わらず、絶望とは何かを幼心に胸に刻んだ記憶がある。
 よもや似たような経験を自身がするとは思わなかった。
「母さん、どうしよう」
「もしものときはあんた、母さんの身体を」
「そんなことできるわけないだろ」
「母さんはもう充分生きた。あんたは融けるにはまだ早すぎる」
 仮に母の身体を糧にしたところで、付け焼刃にすぎない。どの道、外に出られずにここで死ぬしかないのなら、潔く母と共に滅びたい。
 孤独に蝕まれ、絶望に苦しむくらいならそのほうがマシだ。
 私は懸命にそのように訴えた。
「ああもう、喚いたりするから身体が」
 母は、崩れかけた私の胴体部に、自身の身体から千切りとった雪を押しつけ、補強する。
「せめて水さえあれば、氷がつくれるのに」
 母は巨大な冷凍庫のなかを見渡す。曇った窓のそとには雪の消えた北極点の草原が広がっている。
 気候変動の影響で、私たち雪だるまは一歩そとに出ればたちどころに溶けて消えてしまう儚い存在となった。
 ほかの生き物たちが活発に動き回る姿を巨大な冷凍庫のなかから眺めながら、この世にはもう私たち雪だるまの居場所はないのだと、融けて消えてしまっただろう父の最期の姿を思い浮かべる。



  
【ぬりかべは潜む】

 鍾乳石は石灰岩が地下水に溶けてできる。水に溶けた炭酸カルシウムが何十年と時間をかけて再結晶し、つららのように、或いはロウソクのシズクのように天上から垂れ、ときに地面に堆積したりする。
 それはなにも自然界の洞窟だけに限らず、似たような環境が整えば、人工物のなかにもできる。
 例年にないほどの冷夏で、まるで四季から夏が消えたようなその年の八月に、僕たちは肝試しをした。
 高校を卒業して、それぞれみな違う大学に入り、盆休みに帰省したのを機に、集まることになったのだが、その流れでナツミが怪談を語りだした。
 彼女がゆいいつここ地元に残った友人で、ほかはみな県外に引っ越している。ナツミが言うには、むかしから伝わっていた怪談の舞台と思しき廃墟がさいきんになって見つかったのだと言う。
「行ける距離だし、行ってみない?」「じゃあオレ車だすわ」「怖くない?」「中に入らんでもいいし、見てみるだけ」「どんなとこかは興味あるかも」「夜中のドライブだと思ってさ。帰りに海寄ってこ」「それいいね」
 反対していたメンバーも徐々に乗り気になっていき、車からは降りずに、廃墟を眺めて終わると決めて、七人乗りのセダンに満員で出発した。
 片道一時間の距離だ。そこからさらに二十分をかければ海まで行ける。車内では即席のカラオケ大会が開かれ、途中でコンビニに寄り、どっさりと夜食を購入した。
 キャンプの用意があればそのままキャンプでもはじめそうな勢いがあった。
 目当ての廃墟のまえにくると、みな車のそとにでた。隣の友人にひっつきながら、歩を進める。当初決めていた、車から降りない、の取り決めはさっそく反故にされた。
「動画撮ろうし」「ライトくれライト」「ちょっと尻掴まないでよ痴漢」「ごめんそれわたし」
 廃墟は思ったよりもずっと古かった。壁には蔓が巻きつき、明かりは一つもなく、闇に同化している。雲間から垂れる月明かりがなければ、そこに建物があるのかも分からない。車のライトは手前の木々に遮られて、屋敷まで届かない。
「なんか寒気がヤバいんだけど」「めっちゃ怖いんですけど」「脅かすのなしな、マジでなしな。わるふざけしたやつ罰金やからな」「みんな怖がりすぎだろ。くっつくな歩きにくいわ」「じゃあマキオが先頭ね」
 そうだそうだ、と言って、運転手たるマキオをまえに押しやる。残りの六人はみな手を繋ぎ、まえのひとの背中にくっつき、歩くおしくらまんじゅうと化している。
「そんな固まってたらいざというとき逃げらんねぇぞ」
「マキオが食われてるあいだに逃げるからいいし」
 笑い声があがるたびに、恐怖心がまぎれる。
 ここまでの道中、この屋敷にまつわる怪談を、ナツミから三回も聞いた。というのも、体験談として、話の筋にはいくつかのパターンがあった。同じ屋敷を舞台に語られる。
 大筋として共通するのは、廃墟を訪れた者たちは複数人で立ち入り、半数ほどが屋敷のなかで行方不明になる点だ。
「本当にこの屋敷なのかな」
「入って見ればわかるだろ」
「ぜんぜん違ったりして」
 軽口を叩き合えたのは、一階の応接間を抜けるまでのあいだだった。屋敷の部屋は一つ一つが広く、窓が塞がっている。家財道具を含め、そのままになっている。風化こそすれ、引き払った様子がない。この屋敷のどこかで家主がミイラと化していると言われれば、さもありなんだと頷いてしまうくらいだ。
「全員いるな。かってに消えんじゃねえぞ」
 笑いながら応接間の奥の扉を抜けると、ひやりとした空気が身体の表面を撫でた。体感温度が十度は下がって感じられた。
「なにこれ」
 女子の誰かがつぶやき、先頭を歩いていたマキオですら引き返して、羊の群れに合流した。羊の群れたる僕らはその場で押し合いへし合い、隙間を失くすようにぎゅうと固まる。
「何かの巣とかじゃないの」
「鍾乳洞みてぇ」
 言われて気づく。天井から、地面から、壁という壁を覆っているのは、洞窟の映像で見かける鍾乳石に酷似している。
「なんでこんなとこに?」「映画のセットじゃないの」「誰かのイタズラじゃね」「めっちゃぬるぬるしてんだけど」
 壁に触れたナツミが、うげぇ、と虫でも潰したみたいな声をあげたので、すこしだけ場が和んだ。
「どっからか水漏れてんな」「雨水かな」「水道管が破裂してるとか」「天井の材質が珪藻土とか、アスベストとか、そういうのなんじゃね」
 言われてみれば、アスベストの壁はどこか鍾乳石の表面に似ている。ざらついている、というだけの共通項かもしれなかったが、この場でいちおうの理屈をつけるのは、無駄に恐怖心を募らせるのを防ぐのに一役買う。
 不気味ではあるが、まったくの超常現象ではない。未知ではない。雪が降って景色が白く染まるのと同じような現象だと認めてしまえば、そういうアトラクションとしていっときの興奮をぞんぶんに楽しめる。
 いったいどれほど放置されれば、このような人工物のなかに鍾乳石じみた物体ができるだろう。一つきりではない。無数にあるのだ。部屋が広い分、一見して異様に感じられる。美術作品のようでもある。美術館の一室です、と言われたら信じてしまいそうな神秘さが漂っている。
 地面からそそり立つ鍾乳石じみた突起物にマキオが触れ、
「いやでもよ」と声を張る。「いくら素材が溶けだしたからって、こんなにあるかよ量。中身別なんじゃね」
「別って?」
「型みたいなのがあんじゃねぇのかなって。やっぱこれ人工物なんじゃ」
「誰かが造ったってこと? 誰が? なんで?」
「それはわかんねぇけどよ」
 マキオが振り返る。いまいちど部屋全体を見回したところで、彼の表情が曇った。メディア端末のライトが彼の顔に影をつくる。「どったの」
「ナツミのやつどこいった」
「えぇ、やだそういうのやめよって言ったじゃん」「はい罰金」
 きゃっきゃとはしゃぐほかのメンバーが、じゅんぐりと辺りを見渡し、そこにいるはずの人物の影がないことに気づく。
「ナツミ? ねぇ隠れるのやめなって、そういうのおもしろくないからさ」
 口々にナツミを揶揄するが、当の本人が姿を現す素振りはない。
「どこ行ったんだろ」「トイレとか?」「一人で?」
 地面から生える鍾乳石じみた突起物の裏にならばひと一人くらいならば身を隠せそうだ。
 そう思い、誰が言うともなく、一つずつ見て回る。
 最初に気づいたのは、誰より鍾乳石じみた突起物をまじまじと見ていたマキオだった。「なあこれ、手じゃね」
 鍾乳石じみた突起物の表面には手を押しつけた具合に、手形がついていた。くっきりと浮かんでいる。
「やっぱし誰かが造ったんしょ。コンクリートのうえに猫の足跡みたいなね」
「や、でもなんか変だこれ」
 マキオは何に引っかかっているのか、執拗にその表面を撫でた。「手形ならくぼんでるもんだろ。でもこれ、こっちに出っ張ってる。まるで向こう側から押したみたいに」
 そこまで口にしてから、マキオは鍾乳洞じみた突起物から離れた。その動きが激しく、火に触れて反射的に跳ねるような仕草だったので、眺めていたこちらも含めて、みなぎょっとした。
「ちょっと脅かさないでよ」
「おい、ほかのやつらは」マキオはこちらを見て言った。僕たちは顔を見合わせ、メンバーが減っている事実に遅まきながら気づく。ナツミだけではない。ほかに三名がいなくなっている。残りは、マキオと僕と女の子が一人だ。
「どうなってんだよ」「みんなで僕らを脅かそうとしているとか」「マジで怒るからな、そういうわるふざけはやめろ」「ね、ねぇ」女の子が言った。「あんなとこにさっきまでアレあった?」
 ゆびの向く先には、鍾乳石じみた突起物が生えている。目を瞠るのは、三つ連なるように並び、壁然と化していることだ。三角コーンを三つ並べて上からコンクリートでコーティングしたような具合だが、たしかに僕たちの進んできた道を思えば、それがそこにあるはずはない。あれば気づいただろう。迂回したはずだ。
「急に生えたとでも言う気かよ」
 マキオはじぶんで口にしておきながら、頬を引きつらせた。「んなわけあるか。暗くて見えなかっただけだ、それか中身は発泡スチロールかもな、誰かが運んできたんだ、俺たちを怖がらせるために」
 捲し立てながらマキオは三つ連なる鍾乳石じみた突起物の壁に近づき、どんと押した。
 びくともしない。
 ほらな、という顔で振り返り、こんな重くて頑丈な壁が生えるわけがないんだ、と言いたげに彼は口元をほころばせ、そしてなぜかそこで表情を消した。
 彼はまだ腕を伸ばしたままだ。鍾乳石じみた壁に手を付いている。こちらに向けていた顔をゆっくりと壁のほうへとひねり、それから重心を背中側にかけた。警察官に掴まった泥棒がそれでも逃れようとするかのように、マキオは腕を壁に付けたまま、一人綱引きをはじめる。
「どうしたの」
「腕が、腕が」
 じりじりとマキオの身体が壁に引き寄せられていく。マキオはじぶんの腕をじぶんで掴み、壁に足の裏をつけ、引っこ抜こうとする。
 この時点ですでにマキオの腕はひじのあたりまで壁に食いこんでいた。
 尋常ではない様子に、遅まきながら僕も助けに走る。背中側からマキオの胴体部に腕を回し、絵本の大きなカブさながらに、足を踏ん張り、体重をうしろにかけた。
「足が、足が」
 こんどはマキオの足が壁にめりこんでいく。壁が泥でできているかのようだ。ずるずるとマキオの身体はあっという間に呑みこまれ、いよいよとなって僕は彼の身体から手を離した。
 なんで、という顔をこちらに向け、最後まで目ですがりつくように、マキオは壁のなかに姿を消した。表面には、彼の髪の毛がわずかにはみ出ており、そこに杭を打てば壁に埋もれたマキオを掘りだすことは可能に思えた。
 が、それをしたところでマキオを生きたまま救いだす真似はできないだろうと、それを試そうとする意思を持つ以前に、そんなことはあり得ないのだと僕は僕自身に言い聞かせていた。
 端的に僕は、壁に近づきたくなかったのだ。
 僕まで取りこまれてしまいそうに思えたから。
「逃げよう」
 振り向きざまに女の子の手を取ろうと腕を伸ばすも、そこでは頭上からべちゃべちゃとふりそそぐ泥のようなものを被って、いままさに石化しつつある人型らしき物体があるばかりだった。
 僕はいよいよじぶんの頭がどうにかなってしまったのかと疑い、反面、この空間そのものがこの世のどこでもない場所なのではないか、という妄想に囚われつつあった。
 現実ではない。
 どちらにせよ、現実ではない。
 鍾乳石じみた物体になるべく触れないよう、近づかないよう、足元に注意を払い、頭上にも意識を配った。
 よくよく目を凝らせば、頭上の鍾乳石のほとんどすべてに、二本のツノのようなものが生えている。カタツムリの触角じみたそれは、大きさからすると、人間の靴くらいの面積がありそうに見えた。
 もうダメだ、もうダメだ。
 いったい何がダメなのかも定かではなく、僕はひたすらに闇のなかを駆けた。目前にぼんやりと浮かびあがる障害物を避けて、避けて、避けたあとにはむわっとした空気の流れが身体をつつみこみ、僕はいつの間にか廃墟のそとにいた。
 遠目から廃墟を眺めると、その表面はうごうごと蠕動して視えた。無数のどくろが壁の内側から薄膜を破って飛びだそうとしているかのような光景が目に飛びこんできたが、僕はそれの真偽をたしかめようとはせず、踵を返して、その場をあとにした。
 自動車は置いてきた。鍵がなく、免許も僕はもっていなかった。
 一時間ほど歩くと海辺の町についた。旅館に助け求めると、思いのほか淡々と話が進み、三日後には、廃墟から複数の遺体が発見されたと知らされた。後日、全国ニュースにもなった。
 しかし遺体が廃墟のどこに転がっており、どのようにして発見されたのかはついぞ教えてもらえず、ふしぎなほど容疑者扱いもされなかった。
 四日後には家にも戻れ、何不自由のない生活がまた戻ってきた。
 布団に潜りこみ、目をつむると僕は、あの夜のことを毎日のように思いだす。僕は友人たちと肝試しをしに廃墟に入った。そこであった出来事は、僕が捏造してしまった記憶、妄想なのか、それとも真実、僕はあのような、あり得ない、あってはならない現象を目の当たりにし、巻きこまれたのだろうか。
 僕がこうして生きていられるのは幸運以外のなにものでもなく、そしてそれは長くはつづかないのかもしれなかった。
 アパートの階段をのぼるとき、明かりのない夜道を歩くとき、ときおり何かやわらかいものを踏んだ感触が足の裏に走る。泥を踏みつけたような、それでいて弾力のある、こんにゃくじみた物体だ。
 冷や汗を掻きながら僕は、その正体を確かめようとせず、仮に確かめたところでそこには何の変哲もない地面があることを確信しながらも、もう二度とその時間帯にその道は通らないようにしようと肝に銘じる。
 夜、布団のなかで目をつむると圧迫感を覚える。目のまえの天井が、迫ってくるような不安だ。
 そんなことはあり得ないと知っているのに、僕はどうしても、目のまえのそれを、天井ではなく、巨大な壁に感じてしまう。
 落ちてきてもそれはきっと、僕を圧し潰したりはせずに、底なし沼のように呑みこんでしまうのだろう。物凄いちからで僕の友人を引きずりこんだ鍾乳石じみた物体を思い、僕は、あんなものは夢にすぎないのだ、ときょうも言い聞かせながら、眠れない夜を過ごす。
 天井からはきょうも粘着質な液体のしたたる音がする。
 もちろんこれも幻聴にすぎない。 




【ろくろ首の山】

 宝探しと私たちは呼んだ。むかしはもっと別の呼称があったようだが、時代ごとに、それを行なう者たちの組織ごとに呼び名はそれぞれ違ったようだ。
 組織とはいえど、徒党のようなものだ。その日、そのときによって組む相手は変わる。多くとも六人を超えることはない。私は好んで三人で行動した。
 本名を告げずにいるのはどの業界でも同じだろう。ここで言う業界とは、いわゆる犯罪に手を染めている者たちの生業という意味だ。偽名もしくはあだ名で私たちは呼びあう。
 ニクマンは年中角刈りの四十代の男性だ。むかしは暴力団を取り締まる側だったらしいが、癒着を密告され、公にされる前に辞職を勧められた経歴があるそうだ。どこまでが本当かは分からないが、以降、暴力団から仕事を請け負い、下請けに斡旋する仲介役をこなしている。
 なぜみなからニクマンと呼ばれているのかは諸説あり、本人に訊いても、俺に訊くなよ、と愛想のない返事があるばかりだ。噂によると、肉まんが好物だからとも、人間を肉まんのように処理してしまうからだとも聞くが、信憑性はどちらも薄く、しかし仮にそうであったとしてもふしぎではない。
「またデバのやつ遅刻か。つぎからアイツはなしだな」
「待ち合わせ場所間違ってるとか」
「アイツがかってに勘違いしてる可能性はあっけどな。遅刻魔だからなアイツは」
「そんなやつを引き入れないでよ」
「そこを抜きにすればアイツの腕は利用価値がある。マジシャンなんだよアイツ」
「知ってる。警察に身体まさぐられても、指輪だろうが財布だろうが、見つからずに誤魔化せるって」
「四次元ポケットみてぇなやつだよな。荷物持ちにはもってこいだ」
「デバって名前さ」
「ん?」
「キレると出刃包丁を振り回すからってあれ、本当?」
「おまえも気を付けろよ」ニクマンは煙草を車のフレームに押しつけて、外に投げ捨てる。「この業界、怖いのは武力のあるやつじゃねぇ。どこに地雷があるか分からねぇ、歩く火薬庫みてぇなやつだ」
「それ言ったらニクマンもそのタイプでしょ」
「オレの地雷は分かりやすいだろうがよ」
「約束守らないこと?」
「金を払わねぇやつだよ」
 約束を破ってもその分の金を払ってくれるなら何もしない、という意味だろう。その裏には、仕事に対して対価が少なければ、どんなことをしてでも、何を奪ってでも取りたてるという但し書きがうっすらと書き連ねてある。裏を読めない相手は、ニクマンをただの気のよいやつと舐めてかかって、たいがいはいつの間にかその姿を目にしなくなる。いったいどこに消えたのか、と問うてみても、オレが知るわけねぇだろ、とニクマンは肩を竦めるだけだ。
 ニクマンは身体の関係を迫ってこないから、仕事相手としては信用できる。ただやはり、縁を深めたいとは思わない。
 車窓に頬杖をつく。デバを待っていたら夜が明ける。明るくなってからでも仕事はできるが、陽のあるなかで仕事場に辿り着くのがむつかしくなる。管理者に見つかるとまずいのだ。なるべく夜のうちに山へと侵入しておきたい。可能であれば暗いうちに仕事を済ませ、山を出るところまでいければ御の字だが、通例であれば、山を離れるのはあすの夜ということになる。
 遅れるほうがわるいんだ置いてっちゃおうよ、としびれを切らして進言したところで、デバがバタバタと駆け足でやってくるのが見えた。無言で車内に乗りこんでくる。息はあがっておらず、車が見える距離になってから走ったのだと丸わかりだ。
 謝罪の一言でも飛びでるかと思い黙っていると、なんだよ行かないのかよ、と暗にはやく車をだせ、とせっつかれ、私とニクマンはフロントミラー越しに目を合わせ、つぎからはナシだな、の暗黙の合意を交わす。
 車は街からどんどん離れ、やがて闇のなかに流れる街灯がぽつりぽつりと見えるだけとなる。国道を南下し、二時間ほどで目的地周辺に辿り着く。車を降りたら、そこからは徒歩になる。荷物はなるべく持たない。リュックサックもなしだ。遭難したら困るが、遭難しないようにと道しるべはつけて歩く手はずになっている。蛍光テープを、木の一本、一本に貼りつけていくのだ。
 帰るときはそれを引っぺがして歩くため、毎回のように新しいのを貼るが、そうでないと以前に張った道しるべに惑わされて却って迷子になる確率を上げる。
 業者同士で縄張りが被らないようにする必要があり、その辺、詳しい話は知らないが、暴力団同士でのあいだで話が通っているらしい。だからこそ仲介役であるニクマンなしではこの仕事はつづけられない。
「前回二か月前に入った」ニクマンはハンドルを両手で持つことがない。「たしかおまえらは半年前に入ったきりだったよな」
「二か月前のも誘ってよ」
「手取りは充分だったろうがよ。この業界、新人育成もだいじだぞ」
「気に入らないやつをすぐ干すからいけないんじゃない」
「オレが気に入らないようならどこ行ったって無駄だ、いつ死ぬかの違いしかない」
「死んだんだ、そのひとら」
「譬えだよ譬え」
 私たちの会話をよそに、デバは欠伸をし、着いたらよろしく、と暗に起こせと指示して、イビキを立てはじめる。
 たしかに、と私は思う。デバですら見逃されているくらいだ、ニクマンの懐の深さは折紙つきだ。
 車の止まる場所は毎回変わる。取り決めがされているのか、ニクマンの気分かは分からないが、いまのところ通報されたりはしていない。ほかの車も近くを通らない。そういう道を選んでいるようだ。
 下車し、そこから三十分ほど森のなかを歩く。どこからどこまでが森で、山なのか、いつも境が分からない。気づくと山のなかにいる。ここは山だな、と景色で判断つくのだが、では森とどのように違っているのかは説明できない。
 道しるべのテープをニクマンに切って渡しながら私は言った。
「きょうは何体くらい見つけられそう?」
「そうだなあ。七はいけそうな気がするな」
「そんなに」
「この季節は多いからな。去年は四日で十五体いけた」
「そんなに」と同じセリフが口から零れる。
 デバは最後尾をついてくる。手ぶらだが、いまも身体のどこかに出刃包丁を携帯しているのだろうか。
 ここはいわゆる自殺の名所だ。富士の樹海は有名だが、あまりに自殺者が後を絶たないので、いまでは監視小屋が建てられており、見回りが強化されている。監視の目を掻い潜ってまで自殺をしようと躍起になるほど活気のある人間は、まず自殺なんかしないだろう。
 そこでこうした自殺の名所が、各地にできている。名所となるからには自殺にもってこいの場所だと吹聴する者たちがいなくてはならず、それはもちろん死者ではあり得ないので、つまりがそういうことなのだろう。
 私たちは宝探しと称して、死者たちの遺留品を漁る。死者はなぜか、全財産を持ったまま死んでいることが多く、大概の者は無一文であるが、なかには換金すれば一年は暮らせただろうに、と思うような金品を身に着けていることも珍しくなかった。それを換金するくらいなら死んだほうがマシだと思うのか、それとも換金するという手段を思いつけないくらいに思い悩んでいたのかは定かではない。世のなか、金で解決できること以上に、死んでしまうほうが楽な問題というのも多いのかもしれない。
 死者の指紋ですら売買の対象となる。死者に犯罪をなすりつけるんじゃねぇのか、とニクマンは言う。自殺者ならば、罪を犯したから死に急いだと解釈できるし、死に急ぐようなやつだからこそ犯罪に手を染めたと見做されてもふしぎではない。
「警察も暇じゃねぇからな。指紋が検出されて容疑者が死んでりゃ、それ以上の捜査はふつうはしねぇな。よっぽどの大事件じゃなけりゃな」
 世のなか、なんでもビジネスにできる。これも見ようによっちゃ人助けだ、とニクマンが嘯くが、もちろんそんなわけがなかった。
 一体目の自殺者を発見する。
「首吊りってそんな楽なんかな」首の縄を切るとデバが言った。「どいつもこいつも首吊って。窒息するだけならわざわざ木にぶらさがる必要もないだろって。回収するほうの身にもなれって思わん?」
 思わなかったが、デバから話しかけられたのは珍しく、次回からハズす予定の相手でもあるのですげなくするのも無駄に因縁を残しそうで、ここは同調しておこうと思い、そうだよねぇ、と首肯する。
「でもほら、けっこうの割合で、地面に落ちてるし、そこはまあ、ね」
「腐ってんのはもっと嫌だろ。触りたくないって」
「まあ、ね」
「なあ知ってっか」地面に下ろした遺体を漁りながら、ニクマンが言う。「ろくろ首っていんだろ、妖怪の」
「妖怪じゃないろくろ首っているの?」
「あれな、オレが思うに、首吊りで首が伸びた遺体を見たむかしのやつらが妖怪だなんてだって騒ぎ立てたのが最初だと思うんだよな」
「まあ、伸びてるよね。首」
「だろ。ろくろ首の正体は、首つり死体だよ。暗がりで発見した臆病者が、確かめもせずに逃げ出して、妖怪だなんだと騒いだんだな。これ学会に報告したら賞金もらねぇかな」
「何の賞金だよ」デバが揶揄し、ニクマンがおもしろくなさそうな顔をする。「ノーベル妖怪賞だよ」と反論ともつかぬ言葉を返し、「そういやほかのやつら、この辺りは出るとかほざいてやがったな」とついでのように言った。
「出るって、なに」
「これだよこれ」顔のまえに手をぶらんと垂らされ、いまどきそのジェスチャーはどうなの、と呆れつつも、その仕草だけで解ってしまうじぶんの感性にも辟易する。私たちよりも若いデバに伝わったかは不明だ。興味なさそうに、仕分けした遺留品から金目のものを掻き集めている。
 明け方まで作業をし、新たに二体を発見した。一体は首が腐り落ちており、すでに身体の半分が白骨化していた。獣に食い散らかされたのだろう、下半身がなくなっている。人型が崩れているほうが却って不気味ではない。漁った痕跡を消す作業をせずに済むので白骨化しているほうが楽だ。もう一つの死体は比較的新しく、首と身体がくっついており、縄に吊られたままだった。内臓はしかし腐敗しきっているようで、地面には大量の虫がうねっている。この季節、二日もあればこうなる。一週間もすると首が千切れるが、縄の細さにもよるので、そこは場合によりけりだ。
 臭いがつくので、腐敗した死体は後回しにし、ひとまず休憩する。朝陽が昇りきってから、山の奥へと踏み入っていく。
 道しるべはつけていくが、夜とは異なり、昼間は印が光らない。ゆえに、きた道を辿るのは夜になってからだ。
 死の覚悟を決めている者ほど、山の入口付近で首を吊る。踏ん切りのつかない者ほど奥へ、奥へと迷い込み、持ちこんだ食糧をあらかた食い尽くして、空腹に苛まれてから、言い換えれば山に入って数日経過してから、首を吊る。ときには死にきれずそのまま踵を返す者もすくなくないようだ、火を焚いた跡やゴミ、テントがそのままになっている。
 ニクマンが言うには、テントのなかに生きた人間がそのまま寝ていることもあるという。そういうときは、管理者を名乗って、撤退を命じる。威圧的に脅して、追い払うのだそうだ。
「あいつら、死体の残した食糧を掻き集めて生き永らえてんだ。ご丁寧に死体を埋葬したりしてな。オレらの仕事を奪ってんじゃねぇってそこはちゃんと厳しくしてやんねぇとな」
 とんだイチャモンだな、と思ったが、黙っていた。
 正午までに新たに二体を発見し、その後交替で仮眠をとりつつ休憩し、夜を迎える。
 最後に来た道を戻りつつ、放置しておいた腐敗済みの死体から金品を回収する。ほかに見落としがないかを探しながら歩く。進む向きが違うだけで景色はがらりと変わる。こと、木々が視界を遮り、勾配の激しい山の斜面となるとその差は顕著だ。
 懐中電灯は一人一本ずつ持っているが、なるべく足場以外を照らさないようにしている。光は上に向けず、地面にばかりそそぐ。周囲に気を配るのはニクマンの役割で、これは最初にこの仕事を紹介されたときに説明された。
 最初に気づいたのは、遠くに目をやっているニクマンだった。
 彼が歩を止めたので、振り返ると、彼は懐中電灯の光をまっすぐと前方に照らす。私とデバのあいだに光の筋が通る。羽虫が飛び交っており、想像よりもずっと光の筋が闇に浮きあがって伸びている。
 ん、とニクマンがあごをしゃくったので、光の先を見据えると、遠く、木と木のあいだにぶらさがる白い物体が目に映った。
 白骨化しているのか、それとも白い服を着ているのか。透明な雨合羽を羽織っているようにも、ボロボロに朽ちた裸体にも見える。暗がりに加え、距離があるために覚束ないが、十中八九、死体だと思った。
 首吊り死体だ。まだ新しいのだろう、首と胴体は繋がったまま、宙に浮いている。
 首が伸びている。それだけが遠目からでもはっきりと判った。
 ニクマンは無言で、進路を外れる。道しるべのある帰路を、直角に曲がったさきにそれはあった。
 私はニクマンの背を追ったが、なぜかデバがついてこなかった。
 なにしてんの、行くよ。
 疲れていたこともあり、声にださず、ねめつけることで促すも、デバはなぜか頑としてその場を動こうとせず、訝しげに眉をひそめ、ニクマンの背中を、否、その奥に浮かぶ死体を凝視していた。
 デバが言うことを聞かないのはいつものことだ。
 放っておこうと判断を逞しくし、ニクマンに追いつこうと気持ち駆け足で斜面を踏んだが、当のニクマンが数十歩さきで立ち止まっていた。宙にぶらさがる白い物体からはまだ距離がある。
「どったの」
 声をかけると、ニクマンは手のひらをこちらに向けた。それの意味するところを私は瞬時に、二つ思い浮かべた。黙っていろか、そこにいろ、だ。状況からすれば、両方の可能性がある。
 ほかに人がいるのかもしれない、と思い至る。宝探しをしているのが私たちだけとも限らない。縄張りがあるとはいえ、密猟者がいないとも言い切れない。ニクマンの与り知らない組織が私たちの縄張りを荒らしている。想像してみると、さもありなんで、私はおとなしくニクマンの無言の指示に従った。
 だが、そこで空気を読めないのが、デバだ。
「なあ、あれ」と声を静めながらも、険のある声を放った。「なんかヘンじゃね」
「ちょっと黙んなよ」
 いい加減、頭にきていたので、私は小声で怒鳴ったが、いやいやそうじゃなくて、と身振り手振りで何かを訴えるデバの、思いのほか必死な様子に、私はいまいちど前方、ニクマンの背中のさらにさきに浮かぶそれに目を留めた。
 木と木のあいだに浮かぶそれは、まるで蜘蛛の巣に引っかかった蛾のようで、よくよく目を凝らしても縄が見えなかった。
 私はさらに目を細める。
 気のせいだろうか、先刻よりも首が伸びて感じられた。
 スルスルと、それが動き、私は息を殺す。
 私の目のまえでそれは、ゆっくりと、ゆっくりと、落下する。
 暗がりのなかで巨大な蜘蛛が、極太の白い糸を垂らしている錯覚に陥る。遠近感が掴めない。
 白い帯のようなものが伸びている。それの身体は地面に近づいているのに、頭部らしき丸い物体だけが、同じ場所に、高い位置に、微動だにせず、浮かんでいる。
 丸と四角を線が結んでいる。
 焼きたての餅を引き延ばす光景を連想する。とろけるチーズ、と意味もなく思った。
 白い物体の胴体部が地面に着いたと直感した瞬間、そこから頭上に伸びる線がうねうねと波打つ。
 頭部らしき丸い物体が大きく、右に、左に、ときに視界から消えたりした。
 このときすでに私はデバのいる地点にまで戻っていた。
 あれはマズい。
 ひと目で判断ついた。
 逃げださなかったのは、まだニクマンを残したままだったからだ。
 彼にはあれの正体が見えているはずだ。
 もうほとんど、それと相対する距離にいるはずだ。懐中電灯の明かりが、闇のなかを右往左往する。
 ぴたりと明かりが失せる。ニクマンが光を上ではなく、地上に向けたからだろう。矢先に、獣を威嚇するようなニクマンの怒号が聞こえた。言葉ではない。単なる呻り声として闇に響いた。
 私はそのとき、たしかに目にした。
 ニクマンのいる方向、怒号のしたほうから、何か白く、丸く、風船のような物体が、高速で宙を蛇行しながら迫りくる様を、風切り音と共に、たしかに目にしたのだった。
 私の足は駆けていた。じぶんの意思でそうしたのではなく、デバに手を引かれていた。
 デバは私の腕を引き、懐中電灯を投げ捨てて、ただひらすらに木々の幹にある道しるべの光を辿って、ときに木々の根に足をとられながら、山の斜面を転がるように駆け抜けた。
 途中からはもう何かを考えることもなかった。光の点を結んで星座をつくるナニカシラになったような無我の境地で、喉がキンキンと乾きで痛むのすら望むように、そうしたいがために走っているのだ、の気持ちで、ただ駆けて、駆けて、駆け抜けた。
 やがて辿るべき光の点、道しるべが見えなくなる。私とデバは、山を抜け、森のなかに開かれた砂利道のうえにへたりこんでいた。
 互いに顔を見合わせ、うしろを振り返り、そこから何かが飛びだしてこまいか、と目を見開く。
 くるなよ、くるなよ、と祈りながら、ただ見守った。
 しばらく静寂のなかに響く虫の音と、風に揺れる葉の音を、闇のさざめきのように聞いた。
 車を停めた地点まで戻り、車内で朝になるまでニクマンを待った。探しに戻る案をデバに提案したが、口にした私自身、それを実行に移そうとは思わなかった。私の本懐を見抜いたのかどうかは定かではないが、デバは、やめといたほうがいい、と言った。私たちはニクマンを山に残し、景観のうつくしい峠の道をくだった。
 以降、私は宝探しには参加していない。ニクマンがその後どうなったのかも知らないままだ。
 デバは私を街に降ろすと、車を運転していずこへと去った。自殺者の遺留品は彼が身に着けていたはずだから、組織の収益をそのまま持ち逃げしたと言ってもよい。私は分け前を敢えてもらわずにいたし、デバのほうでも分け与えようとは考えなかったようだ。
 いつの間にか私のメディア端末が失せていた。山に落としてきたのか、それともデバにスられたのかは不明だ。どちらにせよ、取り戻そうとも思わない。
 山で見たあの白い物体を、私はいまでもまぶたの裏に思い描ける。幻覚でも見たのではないか、と考えるのが最も妥当な解釈だが、その解釈を私は私自身に押しつけられずにいる。
 デバがあのとき私と同じものを見ていたのかを確かめずに別れてしまったのは、悔いていることの一つだ。
 デバはいったいあのとき、何を怖れ、逃げだしたのか。
 私とは別の何かを見ていてもおかしくはない。その公算は高いだろう。それこそ、私が見たあれが真実だと考えるよりかは、まっとうな考えだ。
 あとでなんとなく気になったので調べてみて知ったことだが、自殺の名所と言われる場所は全国に点在しているが、そのほとんどが投身自殺で、首吊りばかりが多発する場所は、富士の樹海以外では、滅多にお目にかかれない。それこそ、私たちが宝探しに入っていたあの区域以外では聞かないのだった。
 ネット上でその地にまつわる怪談がないかを探したが、これは一件も見つからない。
 私の目撃した白い物体は何だったのか。
 私にはあれが幽霊やオバケの類には思えない。
 骨格の存在を如実に示す動きと、生々しい風切り音を、いまでも私はふいに肌を覆う粟立ちと共に、思いだす。
 断言する。
 首の伸びた死体は、ああはならない。 




【砂かけ婆は嗤う】

 変質者注意の貼り紙を眺め、この暑い中ご苦労様なヘンタイがいたものだ、としみじみ思う。
 貼り紙はきのうまでなかったから、さいきん出現しているのだろう。汗だくになって精をだす変質者には、何かしら生命力のつよさを感じ、その活力の一割でいいから分けてほしい、と無責任にもそんなことを考えた。
 仕事場の冷房が壊れて三日目だが、未だに修理予定の見通しがつかない。繁忙期であられるだろう業者さま方は、ことし発生した世界的災害で引きこもりが推奨された社会によって、繁忙にさらなる磨きをかけていると推測する。ヘンタイばかりが汗だくになっているわけではないのだ。
 私もまた汗だくで仕事をしているから、きょうなぞは化粧をせずに出社した。もはや誰も何も言わない。言葉に棘が交じるのは、同僚への怒りがあるからではなく、職場の管理者たちへの無言の非難だ。サウナだってもうすこし居心地という観点で工夫が見られる。その点、我が職場はもはや人の働く環境ではない。
 そういうわけで、くたくたのへとへとを通り越して、ダクダクのヘドロヘドロとなり果てた私は、電柱に貼りついた変質者注意を促す紙ぺらを目にして、ようやるわ、と呆れとも感心ともつかぬ妙な心地になったのだ。
 信号が青になる。
 貼り紙の文字に目を走らせながら、歩を進める。
 全文を読んだわけではないが、変質者はなにやら通りすがりに物を投げつけたりするらしい。怪我人はいないとの旨まで読み取り、横断歩道に足を乗っけると、視界から貼り紙が失せる。
 昨今、女性に体液を浴びせるヘンタイがすくなくない。そうした話題を目にする機会がすくなくない、と言い換えてもよい。ペットボトルに尿を詰めてかけたり、精液をこすりつけたり、稀に大のほうを投げつけたなんて嘘みたいな事案も目にする。インターネット内だけの話かとも思ったが、案外に身近に遭遇し得ると知って、もし出遭ったらどうしてやろうか、とこの灼熱の憂さ晴らしに緊急避難を免罪符にしてギッタンバッタンにしてやろうと妄想する。
 頭のなかで変質者をコテンパンにのしていると、急な夕立に襲われた。脇道に逸れる。雨宿りをしたくて軒下を探したが、どこもかしこも民家の壁がつづき、こんなんだったら濡れるのを覚悟で大通りのほうに舵を切ればよかった、とじぶんの判断を呪う。
 竹藪があり、致し方なく折衷案としてそこに身を寄せた。
 思いのほか竹の葉が密集しており、天然の屋根と化している。雨音がぱらぱらと涼しげに聞こえ、風鈴のようでもあり、思いがけない癒しの空間に、ほぅ、と息を漏らす。
 雨脚が強まり、
 こりゃしばらく籠城かな。
 天然の屋根のした、腰を下ろせる場所がないかと地面に目を走らせると、切り株めいた岩が土に埋もれており、ハンカチを取り出してそこに敷き、座った。
 足元をコオロギに似た虫が這っている。靴の先で土ごと蹴飛ばすと、引っくり返りながらも足をばたつかせて起きあがる。
 生命力、と思う。ヘンタイと虫は似ているな、とどこが似ているのかも分からずにそう思い、虫は嫌だな、とせっかくの澄んだ気分が滅入った。
 雨とかないわぁ。
 じぶんの運のなさを呪いつつ、びしょ濡れにならずに済んだだけよしとするか、と運のよさへと解釈を転じる。
 ふと、虫が鳴きやみ、辺りがシンと静まりかえる。雨音が浮きあがる。竹林がどこまでも広がり、世界はもうこの空間しかないのではないか、世界と切り離されてしまったのではないか、といった心細さを覚える。
 温度がぐっと下がった気がした。現に腕の毛穴が閉じる。
 ザクッ。
 と、霜柱を踏みくだくような音が聞こえ、身体が跳ねた。
 驚いて音のほうへ目を転じると、距離にして十五歩ほどの場所に老婆が立っていた。
 いまになって周囲がひどく薄暗いことに気づく。
 急にここが不気味な場所に思えた。
 老婆は、ボロボロの着物をまとっており、竹取物語の翁が着ていそうな服装だ。背中に籠を背負っており、手には鎌を握っている。
 山菜採りか、タケノコ狩りか。
 季節にしては時期が早い気もしたが、その道に明るいわけではない。ひょっとしたらこの竹林の管理者かもしれないと思い到り、かってに立ち入ったことへの釈明の言葉をつむごうと腰を浮かしかけたとき、老婆が低い声で短く笑った。
 ヒッヒ。
 まるで魔女の物真似でもしているかのような堂に入った笑声で、じぶんがいま現代にいるのか、知らぬ間に江戸時代にタイムスリップしてしまっているのではないか、との疑念に苛まれた。一瞬のそれは混乱だったが、その隙を突くかのように老婆は、サっサっ、と二度腕を振った。
 一度目は下から上へ。
 二度目は上から下へと。
 いびつな十字を切るような動きだ。
 風は吹いていないはずだった。
 老婆との距離は、横断歩道を挟んだほどある。
 何か物を投げても、老婆の力では、或いはそのゆるく無造作な所作では、なかなかここまでは届かない。しかし、老婆の腕からはまっすぐと、弾丸のように何かしら石のようなものが飛んできた。ぶつかる手前で弾け、細かな砂塵となって全身を包む。煙幕じみている。口のなかにそれが入り、ぺっぺと吐きだす。遅れて咳きこむ。
 煙幕は二度さく裂したようだが、一度目ですでに私は取り乱していた。
 危害を加えられたことへの怖れと、いったい何を投げつけられたのか、との不安、何にも増して、老婆の老婆ならざる身のこなしに一刻も早くこの場を去らねば、との本能を刺激されていた。
 風がないためか煙幕はいつまでも晴れず、私は咳きこんだまま、身を屈めて転がるようにその場を脱した。
 ヒッヒ、ヒッヒ。
 老婆は追い打ちをかけるように、また何かしらを投擲したようだった。背後から白いモヤが、ジャリジャリの感触を伴って、圧となって、もわんもわん、と襲った。
 息を止めて走った。吸いこみたくなかったからだが、すぐに息があがり、短く呼吸を繰りかえしながら、陸にいるのに海で溺れているみたいだ、とじぶんを俯瞰の視点で惨めに思った。
 横断歩道に差しかかり、赤信号で歩を止める。目の不自由なひとのためのカッコーの音が響いており、ようやくそこで私は背後を振り返る。老婆が追ってきていないことをたしかめてから膝に手をつき、肩で息をした。
 雨は止んでいた。
 深呼吸をする。胸いっぱいに空気を吸いこむ。
 肺に入ったかもしれない何かしらを洗い流すように、何度も息を吸い、吐いた。
 単なる砂だったのかもしれない。
 髪や服には、白い粉が付着しており、それは校庭に白い線を引くための石灰に似ていた。
 身体は汗だくで、腕に付着したそれは泥のようになっている。
 シャワー浴びなきゃ。
 風呂に入りたい、の欲求を原動力に、私は、とんだ目に遭った、の溜息を残して、帰宅の途に就いた。雨脚は弱まり、ビルの向こうに青空が見えた。
 家に着いてからさっそく服を脱ぎ散らかして、風呂場に飛びこんだ。
 シャワーの水が湯に変わるのを待っていると、肩から、コロンと足元に何かのカケラが落ちた。
 なんだろこれ。
 指でつまみあげる。
 シャワーから湯気がのぼり、頭から浴びながら私は、指でつまんだそれを見詰める。
 白く、硬く、それでいて軽い。
 備長炭みたいだな。
 黒ければ炭だと結論付けたそれは白く、ただ白く、スカスカだった。
 小指の骨みたいだな。
 思いながら何気なく指で頭を掻くと、カツン、カツン、カツン、とほかにも同様の白く、硬く、それでいて軽い物体が頭から落ちた。
 お湯が身体の皮膚を伝っていながらにして、私は全身を凍らせる。
 問題は、と飛躍した思考が、身体から熱を奪っていく。
 いったいこれが、何の生き物の、それか、だ。
 耳の奥に、竹林に降りそそぐ雨音の、敷き詰めたような静寂が蘇える。 




【海のもの】

 しゃべるのも、何かを伝えるのも苦手なので、うまく文章にする自信がないのだけれど、数年後とか、あとで読みかえしたときにじぶんの記憶との整合性を保てるように、いま現在のわたしの認識について記しておくことにする。
 いまは夜の零時ちょっと過ぎだ。きょうは、きょうというかきのうか、昼間に海に行ってきた。ことしはちょっと歴史に残るくらいの社会的変容があった年でもあって、海開きこそされたものの、他人の密集する浜辺で裸になろうとする者は思いのほかすくなく、言ってしまうとわたし以外にいなかったようで、ほとんど貸切りの状態だった。
 そう、わたしは一人きりで海に泳ぎに行った。一人ならいいだろうと思ったのと、一人くらいそういうアホがいてもいいだろう、との甘っちょろい考えがあったのと、いっしょに行くような相手がいない惨めな思いも、ことしなら味わわずに済むだろうとの打算があったのと、まあなんだ、けっきょく一人で海に行くならいましかないと思ったのだ。
 で、だだっぴろい浜辺に一人で水着姿で、腰に浮き輪をはめてぽつねんと立ってみると、なんだか海水浴という行為が途端にアホウな行いに思えて、だって考えてみてほしい、なんでわざわざ海に浸かるの?
 暑いから?
 や、浜辺にいるほうがよほど暑いよ。世のなかにはプールというものがあって、ちたなくて塩辛い海にわざわざ身体を浸けて、漬物の真似事をする理由なんてなくないか。
 思いながらも、だだっぴろい海に、わーっと駆けていって、波を蹴散らしながら全身を海水に沈めてみると、なんだかまるでこの海はわたしのもんだ、みたいな心地になって、それはそれはたいそう気持ちがよろしかった。
 浮き輪に尻を突っこんで、お尻だけ海水に浸けてぷかぷか浮いたりもして。
 空を見上げると、チャプチャプと波の音が降ってくるようで、クラゲの気分を満喫した。
 で、ここからが本題というか、わたしの体験したあり得ない話、じぶんの記憶を疑ってしまいたくなるくらいの、本当にあったことなのかな、の戸惑いの種を記しておく。
 波にたゆたっていると、気づくと浜辺からだいぶ流されてしまっていた。これ以上沖には近づいたら危ないよ、のロープに浮き輪が触れていた。
 気づいてよかった。
 浜まで戻ろう。
 浮き輪にハマリ直して、バタ足で前進しようとしたのに、なぜかロープを越えてしまって、あれよあれよ、という間にわたしは沖に流されたのだった。
 二時間後、陸地なんて見えない大海原にわたしは浮いていた。
 言ってしまうと遭難だ。遭難していた。
 宇宙で一人で投げだされた人間の気持ちがよく分かった。心細いなんてもんじゃない。圧倒的恐怖、焦燥感、まだどうにかなるとの楽観思考と、いやいやこれかなりマズイんじゃないの、の本能からの危険信号がごちゃまぜに襲う。
 日差しがあるあいだはまだよかった。 
 陽が暮れはじめると急激に身体が冷えはじめ、間もなく、ガチガチに凍えた。
 どちらが陸地なのかはとっくに見失っていて、風が冷たく、まだ海に浸かっているほうが寒くなかった。
 身体の感覚は麻痺していて、喉が渇き、お腹が空いた。
 体力は底を突き、もはやあとは死ぬのを待つだけ、救援を待つだけ、どっちなんだい、みたいな芸人じみた心境になっていた。
 そのとき、ふと、足の裏に冷たい水を感じた。
 海のなかで水が動いているのだと判った。
 冷たい水は、海の底から、ぶわりと大量に浮上してきているようだった。身体が、氷水みたいに冷たい水につつまれた。
 何かが浮上してきているのだと思った。
 海面がもわりと大きく波打ち、何かとてつもなく巨大な何かが、海の底から浮上しつつあるのだと直感した。
 ぶくぶくと海面が粟立つ。沸騰しているようで、水はもう極寒も極寒、ここが南極だと言われてもわたしは信じた。
 ほとんどパニックだったけれど、暴れることもできずにわたしは、このままクジラに食べられてしまうのだと、足元に迫りつつある何かが、クジラだと想像していた。
 わたしの鼻は長くはないのにな、ロゼットおじぃさん。
 ピノキオを育てたおじぃさんの名前を曖昧に、かってに、それっぽく補完しながら、クジラに食べられてもお腹のなかで生きていけるかな、とお腹の底をなぞるような恐怖に怯えた。
 夜空を見上げると、満月が眩く輝いていた。
 きれいだな、と思い、こんな最期なのか、と涙が滲み、ふしぎとわたしは笑っていた。
 海面は大きく弓なりに盛りあがり、いよいよ何かが海面に顔をだすのだと思った。
 わたしは浮き輪ごと、その真ん中で突きあげられていた。
 大きな音を立てて、足元ではなく、前方、数十メートルほど離れた場所に、クジラらしき巨大な陰が飛びだした。
 やっぱりクジラだったのだ、と思ったが、何かがおかしいと直感していた。
 クジラは闇夜に浮いたまま、苦しそうに潮を幾度か噴きあげた。まるで悲鳴をあげているみたいだった。
 クジラは、何か、そう、巨大な手のようなものに掴まれていた。
 わたしは未だ、盛りあがった海面の頂点に浮いていたけれど、目のまえにじぶんの足がちょこんと見え、何かやわらかい丘のようなもののうえに座っているのだと判った。
 乗り上げているのだ。
 しかし、何に?
 クジラを掴む巨大な手は、わたしの足元のもっと巨大な何かと海面下で繋がっているようだった。
 クジラはおとなしくなった。
 動かなくなったクジラがわたしのほうに近づいてきて、視界から消えた。それは位置的に見えないだけかもしれなかったが、それ以外の理由もあったのかもしれない。
 わたしは満月を眺めていた。
 波にたゆたっていたときみたいに、仰向けに寝転び、これは夢だな、とじぶんに言い聞かせながら、急激にやってきた眠気に意識を奪われた。体力が限界だった。思えば、ずっと起きていたのだ。休めなかった。気を張っていた。
 遭難したのだ。
 当然だ。
 こんなにやすらかに死ねるのなら。
 わたしはふしぎと、やわらかく、あたたかいものの上に寝転がっている。身体を夜風が撫でている。空を飛んでいるような浮遊感を覚えながら、こんなにやすらかに死ねるのなら、と繰り返し頭のなかで唱えていた。
 うだるような日差しを感じ、目を開けると、そこは浜辺のうえだった。
 全身は砂だらけで、腕には汗が浮いていた。
 周囲に人影はなく、遊泳禁止エリアなのだと、しばらく周囲を見渡して察した。
 波と、風と、鳥の鳴き声が聞こえた。
 浜辺にはなぜか巨大な溝ができており、それはなんだか、大きな大きなひとの足跡に見えなくもなかった。
 わたしは歩いて、浜辺を移動した。三十分も歩くと、見知った場所にでた。荷物はそのまま残っていた。水道水で身体を洗い流し、着替え、まるで何事もなかったかのようにけだるい身体を引きずって、海水浴場をあとにした。
 一人暮らしの大学生の身であるから、家に戻っても誰もおらず、心配してくれる者もいない。あのまま遭難してたとしても、死んだことにすらしばらく誰も気づかなかっただろう。そう思うと、本当になんて運がよかったのだと、ふつふつとよろこびが湧いた。
 しかし、あれはいったい何だったのだろう。
 極限状態で視た幻覚だと考えれば、それが最もそれらしい解釈に思える。そのじつ、浜辺で目覚めたわたしのそばに浮き輪はなく、仮に流れ着いたのだとしても、その前に溺れ死んでいたはずで、何かがわたしを浜まで運んだとしか思えなかったが、そんな奇跡を信じるよりも、偶然波に流されたのだろうと解釈するほうがしぜんではある。
 波に流され遭難したのだから、波に流され帰還してもそれはそれほど不自然なことではないのかもしれなかった。
 ただやはり、わたしはわたしの目にし、体験したあの光景を、幻覚や夢だったのだと見做せるほどには、わたしの記憶に残るこの質感は、現実味を帯びすぎている。
 いまはまだあれを夢だと決めつけることができない。
 いつの日にか、いまのわたしよりも聡明になった未来のわたしが、やっぱりあれは夢だったのだと考えを改めてくれる日がやってくるかもしれない。そうなることを半ば祈りながら、浜辺に残ったあの巨大な溝の写真を、いまからでも撮りに戻りたい衝動を、どう処理し、受け流すべきか、わたしはすこし悩んでいる。
 海には、クジラを捕食するほどの、大きな、大きな、何かが棲んでいる。
 仮にそうだとしても、いったい何か困ることがあるだろうか。すくなくとも、いまのわたしには思いつかない。
 わたしにとってあれは、それほど嫌なものではなかった。
 氷のように冷たい海水、きらびやかな満月、やわらかく、あたたかな足場の感触と、身体をなぞる風の毛布、幻想としては申し分のない記憶の断片に満ちている。
 わたしは記憶のなかにのみ存在するそれを、うつくしいものと呼ぶことにする。
 おそろしくも、うつくしい、海のものだ。 




【作家は死者に取材する】

 世に怪談を集める作家の物語は数えだしたら暇がない。ホラー小説ともなれば作品全体の三割は怪談を収集する作家が主人公なのではないか、とすら思えるが、藪に首を突っこみたがる者が蛇に遭遇しやすいのは何も虚構にかぎらぬ話であるから、これは生存バイアスの意味合いでは正しい統計と言って齟齬はないように思う反面、いささか誇張しすぎたきらいもないとは言えない。
 私は三十路をすぎた売れない作家だ。とはいえ昨今売れている作家を探すほうがむつかしく、私は作家ですと言えるくらいに売れている者のほうが小数であるから、作家と名乗るのもおこがましい肩身の狭い者たちが、ちんけな誠意と尊大な虚栄心の狭間で、売れないけど作家です、と口にしているのだろうと、これは十割自己分析でしかないが、そう解釈している。
 怪談の話である。
 私の飯の種であるので、それはもう、全国津々浦々、目新しい怪談があるようならばネットで収集し、取材費をなるべくかけずにいようと創意工夫している毎日だ。
 わざわざ現地に足を運んだりはしない。運んだりはしないが、しかし例外は何事にもつきもので、ときおりふらりと依頼を請け負い、或いは達成するために、方々を旅することもなくはない。
 大前提として、怪談とは、生きている者が語っている。死者は語れない。ゆえに悪霊や呪いに触れても死ななかった者、或いは単なる傍観者として超常現象の数々を目撃した者が怪談の語り部となる。
 また、真実に怪談なる不可思議で不気味で危うい事象が発生しているのならば、すくなくない規模で犠牲者がでているはずだ。
 そして現にでているのである。
 たとえば、この世に幽霊がいたとしよう。心霊現象に巻きこまれて、呪い殺されるにせよ、祟り殺されるにせよ、死ねば同じく幽霊となる。
 ではなにゆえ、幽霊となった犠牲者は、その後あの世で自身を死に追いやった相手に意趣返しをしないのか。
 これにはおおまかに三つの理由がある。
 一つは、対象がどんな悪霊なのかが、死後になっても判らない点。暗殺者が誰かを突きとめるのはなかなかに至難だ。似た理屈を伴っている。
 第二に、相手のチカラが強大で、同じ幽霊になれても手がだせない点。復讐しようにもそもそもの格が違うので、自力ではいかんともしがたい。強大な相手に太刀打ちできないのは、これは現世も死後も同様だ。
 最後に、死んだあとで幽霊になれたとしても、ほかの幽霊たちと同じ「層」に顕現するとは限らない点だ。
 幽霊には幽霊の世界がある。そしてそれは、いくつもの無数の層からなり、重複している部分もあれば、まったく相容れずに接点の皆無な場合もある。極端な話、物理的に同じ位置座標にいても、ほかの幽霊の存在を感知できないことのほうが多い。
 たとえば病院や墓地など、幽霊がたくさんいそうな場所で、どうして幽霊たちは混雑しないのだろう、とふしぎに思ったことはないだろうか。それはそもそも幽霊たちが、同じ層に存在していないからである。
 だがそうした死者の道理は、生者たる私には関係のないことだ。
 私には幽霊たちの姿が視える。
 視えるだけに飽きたらず、言葉を交わし、意思を疎通することができる。
「そういうわけで、まあ、なんだ。あんたを殺した悪霊さんを代わりに成敗してやれるって話なんだが」
 ひと通り話し終えると、今回の相手は、それなら、と言って報酬であるところのさいきんイチオシの心霊スポットと自身のとっておきの怪談を話して聞かせてくれた。
 当事者たる幽霊の視点から見聞きする怪談は、怖いというよりも、なるほどだからああした不条理な行動を彼ら彼女らはとるのだな、といった腹落ち感に満ちている。
 幽霊には幽霊の道理がある。
 なぜまどろっこしい真似をして、じりじりと追い詰めるたりなどするのかと言えば、そのほうが都合がよいのが一つ、それからそうしなければ生者に接触できないのが一つと、それぞれ理由があるようだ。
 幽霊とはいえど、無限に、延々と存在できるわけではない。糧がいる。それがいわゆる生者の感情というか、存在の起伏というか、ありていに、感情の揺らぎであるらしい。なかでも恐怖は収集しやすい形態であるようだ。
 また、幽霊はその個体ごとに存在する固有の層がある。その層の波長を、標的たる生者に合わせるのに段取りがいる。それがいわゆる幽霊たちのとる脅かしというか、ちまちまと追い詰めるような執着行為となって生者には観測される。
 幽霊側の視点から聞いていると、触れたいのに触れられないもどかしさが満載だ。ガラスケースに入ったバナナをまえにした猿の気持ちが解るようだ。
「ありがとう、なかなかの怖い話だったよ。もうすこし詳しい場所を聞いてもいいかな」
 今回の幽霊は、相手を精神的に追い詰めて自殺させた。確認を兼ねて場所を訊く。彼女は有名な心霊スポットの名を口にした。
「なるほど、ではあそこの地縛霊はひょっとしたらあなたが死に追いやった男の霊かもしれませんね」
 元気にやってるならよかった、と彼女は他人事のように言い、それから、自身を呪い殺しただろう悪霊のいる場所、すなわち自身が死んだ場所の地名を口にした。
「そこにまだいると思うから、ちょっと痛い目見せてやってよ」
「その依頼、承りました」
 手心とか加えないでね、と念を押す彼女の声を耳にしながら、私は手袋をはめる。手袋には呪符を貼りつけてある。彼女の波長に同調させるのに時間がかかったが、これでだいじょうぶだろう。私は彼女の顔を鷲掴みにし、「安心してください」と微笑む。「依頼は十全にこなしますので。このように」
 チカラを籠めると、手袋の甲に青白い筋が浮かぶ。呪符の「滅」の文字が浮き彫りになる。
 彼女が私の手首を掴み、なんでとか、ざけんなとか、そういった悪口雑言を放つが、私はさらに指に力を籠め、彼女の存在の核ごと握りつぶした。波長の同調が完璧に近いほど存在の核との距離感というのだろうか、うまく形容できないが、たしかな硬さを感じる。液体窒素に浸した薔薇のごとく存在の核は造作もなく粉々に砕くことができる。
 この作業を成仏とは呼べないし、成仏なる事象が存在するのかもよくは解からないが、おそらくは糧を得られなくなった幽霊、もしくは糧を放棄した幽霊の自然消滅を成仏と呼ぶべきなのだろうが、ともかくとして私はこうして、生者に仇をなした幽霊たちを、ほかの幽霊たちの依頼をもとに葬っている。
 幽霊は生者の感情の揺らぎを糧とするが、必ずしも殺す必要はない。多くの幽霊は生者を死に追いやったりはしない。悪霊が厄介なのはこの点にある。
 私の依頼人は同時に、私にとっての標的でもある。悪霊に殺され、自らも悪霊となり、新たな悪霊を量産する死者を、私はこの手で順々に葬っていく。
 いずれは大元となった悪霊にも行き着くのではないかと、これは希望的観測で想像している。とっくに自然消滅よろしく成仏している可能性もそう低くない確率であり得るが、どの道、私は怪談を集めねばならぬのだ。
 生者から糧を得る手法を学んだ幽霊は、それはそれは卒なく生者を死に追いやるので、怪談としてなかなか語り継がれない。それはすなわち、純度の高い悪霊で溢れれば溢れるほど、この世に怪談が生まれなくなることを示唆する。
 なるべく新人の幽霊の活躍する場を設けなくてはならない。
 簡単に生者を死に追いやるような悪霊たちにのさばってもらっていては、ホラー作家としての生命にかかわる。
 幽霊たちには是非とも、生者の波長と同調する術を模索してもらい、大いに無駄に生者を怖がらせてほしい。
「はてさて。つぎはあそこか。これはちょっと手を焼くかもなぁ。悪霊の密集地になってなけりゃいいけど」
 ぽんぽん人が死ぬ場所には、強大な悪霊がいると相場が決まっている。しかしほかにも、無数の幽霊が互いに存在を感知することなく集合している場合もある。
 強大な悪霊が相手ならば滅すればよい。だがそうでなければ考えものだ。数を減らすのは常套手段ではあるものの、ではどの幽霊を残し、どれを滅するのかは、私の一存で決めてしまうには荷が重い。
 幽霊は幽霊で、糧を得ねば消えてしまう。いわば彼ら彼女らも生きるためにそうしているにすぎないのだ。なかには、死後の世界に飽き飽きして、娯楽感覚で生者をいちびる幽霊もおり、これを私は悪霊と定義づけている。
 悪霊でないならば消してしまうのは気が滅入る。増えすぎた幽霊にはほかの地に散ってもらうのが最善だが、これもまた得策とは言えない。
 層の波長はその土地と密接に関わっている。
 土地にはその土地に見合った飽和限界がある。どのくらいの幽霊を内包していられるのかに限度があるようなのだ。はっきりしたことは判らないが、箪笥のようなものなのだろう。幽霊の存在できる層はさしずめ箪笥の引きだしだ。一つの引きだしに一つの幽霊と決まっているらしい。引きだしの数が多い土地でなければ、そもそも幽霊は存在できないようなのだ。
 ほかの土地に移動しようとして、途中で消えていなくなった幽霊を過去に幾度も目にしている。波長がずれて見えなくなっただけとも考えられるが、そもそもが層をずれてしまうと存在自体できなくなるのかもしれない、その公算が高そうだとさいきんは考えを改めている。
 さいきんの怪談で多いと感じているのが、語り部が違和感に気づかずに過ごしているが、他者から指摘されて、自身が異常な行動をとっていた、心霊現象に巻きこまれていたと悟る類の怪談だ。
 おそらく、幽霊たちのほうで高度に波長を同調させる術を磨いているせいだろう。幽霊たちの糧は生者の感情の揺らぎだ。それは何も、恐怖である必要はない。だいすきな相手と会話をしているつもりで、ただ雑草に話しかけていても、当人にとってそれが大好きな相手との会話に思えているのなら、幽霊にとってはそれで充分なのだ。
 感情さえ揺らいでくれればよい。
 より振幅を激しく、永続的に。
 だが、全国一斉にこの類の怪談が増加傾向なのには引っ掛かりを覚える。
 誰かが術を幽霊たちに伝え、共有させているのではないか。
 そうした懸念を覚える。
 このままいけば遠からず、幽霊たちは生者からより効率よく糧を得る手法を編みだすだろう。そしてそれが広く共有されれば、この世から怪談は消え失せ兼ねない。昔ながらの手垢のついた怪談ばかりが再生産されつづける。使い古されていく。そして飽きられ、創作怪談ですら需要がなくなっていくのではないか。
 ホラー作家としてはこれ以上ない危機だ。未然に防がねばなるまい。
 ひょっとしたら私と同じような体質の、けれど私とは相反した動機で行動している生者がいるのかもしれない。いや、どこかにはいるだろう。
 取材をつづけながら、そうした介入者がいないか目を光らせておこうと、締め切り間際の追い込みをかけながら、今回入手した新鮮な怪談をすこしばかり潤色して、原稿に、文字に、落としこんでいく。




【アジサイ。紫の顔。人影。】

 妻が急に陣痛を訴えたので、病院に連れて行った。初めての妊娠のうえ、授かったのは双子だ。医師から促された帝王切開を選択したものの不安は払しょくできない。我が子の命はもちろん妻の身体が出産に耐えられるのかと何を見ても気がそぞろだ。
 社会に蔓延した新型ウイルスの影響で、出産にも立ち会えない。
 緊急帝王切開手術となる。
 予定日を大幅に繰り下げての手術だった。
 病院の待合室で頭を抱える。
 我が子と妻の無事を祈るが、何もできずに、時間だけが刻々と過ぎていく。
 いても立ってもいられなくなり、外に空気を吸いにいく。妻と同じ苦しみを味わえたら、と思うが、妻を支えるには体力が必要だ。いま何もできないのならば、せめて出産後に労われるように、負担をかけないようにと、すこしでも体力を温存しておくほうがよいのではないか。
 そう思い、しばしの散歩にでた。
 病院の回りを歩いて戻るだけのつもりが道に迷い、ひとまず明るい方向に行こうと、闇の薄まったほうに向かって歩く。
 短い階段をのぼると、こじんまりとした空間にでた。
 公園かと思ったが、鬱蒼と茂った草は腰の高さまであり、暗がりに遊具らしき陰はない。真ん中にぽつんと佇む街灯は古く、支柱は木製だ。朽ちているのか、焦げているのかの区別も曖昧で、心なし明かりそのものがぼやけて見える。
 自動車の走り音が微かに、奥のほうから聞こえ、大通りがそちらにあると判断を逞しくする。
 向こう側に通り抜けられそうだ。
 草むらを掻き分け、進むと、左手奥のほうにアジサイが咲き乱れていた。紫色の円形の房が、闇にずらりと並んでいる。遠目にはよく見えなかったが、街灯に近づいたために視界がよくなったようだ。
 いまは秋だ。アジサイは季節外れにも思えたが、開花時期を仔細に知っているわけではない。種類によっては遅咲きのアジサイもあるのではないか。
 まあ、あるだろう。
 現に咲いている。
 誰に見守られなくとも人知れず咲きほこるアジサイの力強さ、その生命力には、なにかしら出産を見守るしかないじぶんとは対極にある神秘さを感じずにはいられない。
 神聖な場所に立っている心地だ。
 しぜんと街灯を離れ、アジサイの咲きほこる一画に吸い寄せられる。
 なぜそうしたのかは判らないが、神社の拝殿にそうするのと同じように、手を合わせ、拝んでいる。
 無事に産まれてきますように。
 妻の元気な姿をまた見られますように。
 念じてから、なんだかこれでは妻が病人みたいだな、と陽気が喉元まで込みあげる。不治の病にでも罹っているみたいだ。
 大仰だな、とちょっぴりの羞恥心と、罪悪感を胸に、早く病院に戻らねば、とじぶんのすべきことを思いだす。
 踵を返そうとしたそのときだ。
 視界の端に、不自然に揺れるひと房のアジサイが目についた。
 紫の塊が、一つだけ上下に動いている。ほかのアジサイの房が静止しているだけに、それだけが際立って映った。
 動物か何かが潜んでいるのだろうか。花の蜜を集めに鳥でも飛んでいるのかもしれない。
 なにともなしに目を細め、注視する。
 なんだあれ。
 疑問と同時に心臓がちいさく跳ねる。
 アジサイではない。
 顔だ。
 紫色の顔が、にんまりと微笑んだまま上下に弾んでいる。
 ぞっとするが、すぐに仮面だろう、と結論付ける。それ以外に考えられない。誰かのイタズラだ。
 確信しながらも、なぜか身体はその場から動こうとしない。確かめに近寄ればよいのに、どうしてもそうしようとは思えず、無理に足を動かそうとすると、悪寒が背筋を走り、腕にびっしりと粟が立った。
 紫の顔は破顔したまま弾みつづけるが、街灯が一瞬明滅して、辺りが暗がりに包まれたあとふたたび明かりが戻った際には、ぴたりと動きを止めていた。
 あれほどにこやかだった顔からは表情が消えている。
 目だけがこちらを見据え離さない。
 全身の細胞という細胞が、警告を放っている。ふしぎと身体は動かない。ガクガクと震える。
 ジジジ、と音を立て、街灯が明滅する。
 闇。
 光。
 闇。
 光。
 ふたたび明かりがほんわかと辺りを照らす。
 咲きほこるアジサイのなかから紫の顔が消えており、いっしゅんの安堵のなかで、なぜか本能の警告は最大音量を発していた。身体は臓腑ごと総毛立つ。
 すぐとなり、街灯の下に人影が佇んでいる。
 顔を向けられず、呼吸一つまともにできない。
 何か重いモノを引きずるような音をたて、それがゆっくりゆっくりと近づいてくる。
 口を開けているのか、鼻を突く何かの腐ったような臭気と共に、呻き声に似た呼吸音が静寂の合間を縫って響いている。それは息を吸うことなく、延々、呻き声を線香の煙がごとく細々とつむぎつづけた。
 耳元にくる。
 耳朶に、痛みにも似た冷たく、それとも熱い何かが触れる。
 呪詛にも似た言語解釈不能な音の羅列が鼓膜を揺さぶる。鮮烈に悪寒が身体の奥底を刺す。そこに至って、緊縛が解けたように身体は駆けだしている。
 元来た道をただひたすらに駆けた。
 民家のあるほうへ、あるほうへ。
 空の明るいほうへ、街明かりのあるほうへ。
 やがて線路に行き当たり、そこでようやく息を整えた。
 病院は線路沿いにあるからこのまま辿って行けば、遠からず辿り着くはずだ。
 まずは駅までいき、現在地を把握しなくては。
 やがて行き着いた駅で地図を見て、愕然とする。
 病院の元より駅まで十駅も離れていた。
 歩いていくには距離がありすぎる。いったいいつの間にそんなに移動したのか。タクシーを拾おうと思ったが、なかなか掴まらず、始発まで待つことにした。
 メディア端末を開く。病院から連絡が入っていないかを確かめる。着信もメッセージもなしだ。妻のメディア端末にメッセージを入れておこうと考えるが、いま送ったところで妻が見ることはない。
 どの道じぶんにできることはないのだ、と思い直し、いま陥っている状況をなんと説明したものか、と頭を抱える。どう見ても妻の出産から逃げだし、放置して遊び呆けた夫だ。
 やがてやってきた始発に乗りこみ、病院に到着したときには辺りはすっかり明るくなっていた。
 妻はまだ手術室に入ったままだった。
 前以っての説明では二時間もあれば終わると聞いていた。
 六時間もかかるとは異常だ。妻の容態が悪化したのではないか、手術に失敗したのではないか、と嫌な予感が胸に去来する。
 のど元過ぎればなのか、先刻体験した恐怖体験よりもこの胸に湧いた嫌な予感のほうがずっと精神を蝕む。
 看護師に声をかけると、どこにいらしたんですか探してたんですよ、と笑顔ながらも棘のある言葉をかけられた。出産中の妻を放置した夫だ、その怒りは正当なものに思え、反面、じぶんにも事情があったのだ、しかしそれを説明できないもどかしさへの苛立ちが募る。
 看護師の言うところには、手術は無事に済んだが、双子の容態が芳しくないそうで、母体からの輸血を行いながらの緊急治療処置を施しているという。
 手術はけっきょくその日の昼までつづき、無事成功だと、医師から直接の説明を受けるまで眉間に針を突きつけられているかのような緊張を強いられた。
 長い一日だった。
 妻はもっと生きた心地がしなかっただろう。
 労いの言葉をあれこれと考えながら、妻の病室を訪ねる。
「やっと来た」妻は頬を膨らませた。
「お疲れさま、よく頑張ったね、ゆっくり休んで。欲しいものはある? あとで買ってくるから」
「いまはだいじょうぶ。ありがとう。何かあったら言うね」
「子どもたちは?」口にしてから、そうだ、いまはもうこの世に誕生した我が子なのだ、と感動が胸のなかをいっぱいにする。
「まだ会ってないの? 看護師さんに言って案内してもらって」
 術後とあって、さすがにすぐには母親といっしょにはできないようだ。
 ひとしきりしゃべり、疲れ果てた妻の身体を案じて、早めに切りあげる。
 看護師に声をかけ、新生児集中治療室に案内してもらう。中には入れない。ガラス窓越しに、我が子の姿を眺める。双子だ。各々別個の保育器に入っており、顔はよく見えないが、ころんと転がり、手足を動かしている様が窺え、胸のなかいっぱいに至福のぬくもりが広がる。
「失礼ですが、ちょっとお時間よろしいですか」
 声を掛けられ、見遣ると手術を担当してくれた医師が立っていた。さきほど説明を受けるために顔を合わせたばかりだ。となりにはここまで案内してくれた看護師が立っており、彼女が医師を呼んだのだと判る。或いは、医師のほうでこちらを探していたのかもしれない。
「何かよくない話ですか」不安に耐え切れずそう零すと、いえそうではないので安心を、と柔和に微笑まれる。それにしてはどこか不穏な気配を漂わせている。
 場所を移し、待合室のテーブルに対面で座る。
「さきほどは説明せずにいたのですが、職業倫理上、ご説明したほうがよいと判断してお話しさせてもらいます。ただ、病気だとか命に差し障るような話ではないので、飽くまでご報告という扱いになるのですが」
「なんでしょう」
「双子のお子さんが未熟児だという話はさきほどさせてもらいましたよね。ですからいまはまだNICUでの経過見守りという体勢で治療をしています。ですが本来、エコー健診などで、未熟児かどうかは判断できたはずなんです」
「予定よりも早く産まれたからではないんですか」
「その影響もありますが、それにしてはいささか発育具合が、想定していたよりも低かったですね。こういう事例はときおり報告はされていたのですが、私も初めて拝見して、戸惑いました。子宮の内側からこれが」
 医師はフィルム型のメディア端末をテーブルのうえに置き、画像を一枚表示する。銀色の受け皿のうえに、血に染まった何かの塊が載っている。グロテスクではない。梅に漬けたシソの山然としている。
「花弁です。アジサイの花弁がびっしりと子宮の中から」
「どうしてそんなものが」
 目を見開きながらも、脳裏には夕べの体験が蘇える。
 暗がり。街灯。アジサイ。紫の顔。人影。
「似た症例が過去にも全国で報告されています。中にはそのせいで亡くなられる胎児もおります。ただ、原因は不明です。なぜこのようなものが子宮に混入するのか、あまつさえ胎児の発育を妨げるのかは解りません。真実にアジサイの花弁なのかも調べてみなければ判りませんが、過去の事例から言えば、アジサイの花弁で間違いないでしょう」
 言葉を失くす。こちらの心中を察したのか、いまのところ問題はないでしょう、と医師は言った。
「定期健診で経過を見ましょう。さいわいにも花弁は除去しましたし、過去の事例でふたたび子宮を詰まらせたといった話も聞きません。最初に申しあげましたように、飽くまで報告です。アジサイの花弁よりもどちらかと言えば細菌の繁殖のほうがよほど重大ですので、油断はもちろんできませんが、当分は経過を見守り、その間は特別な治療を必要としないように考えていますが、どうされますか」
「いえ、だいじょうぶならいいのですが」
 ではそういうことで、と医師はなすべきことをなした、といった調子で、場を辞した。看護師もまた頭を下げ、去っていく。
 まぶたに、アジサイの羊水漬けの画像が焼き尽いている。銀色の器に載ったそれはどこか、あの暗がりのなかで見掛けた紫の顔に似ていた。
 耳朶に空気の乱れる感触がし、咄嗟に振り払う。
 横を見遣るが、自動販売機がぼやけた闇のなかで煌々と明かりを灯している。
 耳の奥に、言葉ともつかない呪詛のような雑音が蘇える。
 病院に似つかわしくのない饐えた臭いが鼻腔を突き、逃げるようにその場をあとにする。タクシーで家まで帰る。
 こんどは迷わぬように。
 何者かに魅入られぬように。
 アジサイの花言葉が気になったが、知ったところでどうなるわけでもないと思い直し、取りだしかけたメディア端末を仕舞う。
 帰宅し、居間のソファに身体を埋めると、ふと本棚から垂れさがるブーケのようなものが目に入った。妻が飾ったものだろう。ドライフラワーは白く、元は紫だっただろう色素が抜けている。



  
【王道の怪談】

 百物語をご存じの方も、そうでない方も、今宵は百話目にふさわしい王道の怪談を一つ披露させてもらおうかと、少々のお時間を頂戴いたしますこと、ご容赦くださればなと、他人事のように前置きをしておきましょうかね、えぇ。
 怪談話で有名なのは皿屋敷なのではないかとわたくしは思うんでございますが、では皿を数えて一枚二枚とやっていって、一枚足りないと恨み言を零す幽霊の話を王道と言ってしまってよいものか、ここは一つ首をひねりたくもなりますでしょう、なりますでしょ、なりませんか。
 怪談の醍醐味と言えばなんといっても背筋が凍るほどにおそろしい、夏の暑さを忘れてしまうほどに怯えてしまう、そういった恐怖にあるとわたくしは断言致しますが、そこにきて、では皿屋敷が恐怖に慄けるかと言えば、はてさて、これはもちろんひとによりけりでございましょう。
 わたくしはと申しますと、やや物足りない所存でございます。皿屋敷よりかは手前、四谷怪談、お岩さんは、これはちと背筋がぞわぞわ落ち着かない気も致しますが、やはり恐怖に慄くほどのことではございませんね。はて、ビビリと思われたくないだけ? つよがっているだけ? なんてぇこと言うんでしょうかねこのひとは。
 斟酌せずに言ってしまえば、いったいどこが怖いのかと、野次の一つでも飛ばしたくなるところでごぜぇますが、礼儀正しい爽やか坊主で通っております手前、かような乱暴な所感は零さずにおきますが、えぇ、もう遅いなんてお声が聞こえてきましたが、何事も遅すぎるなんてことはないものでして、生きてさえいれば今していることが一番早いのでございます。
 百物語の百話目にしたところで、過去は過去、今は今、今宵この場で語らせていただく怪談は怪談で、これまでしてきたお話と同じとはいかぬわけでして、それは皿屋敷、四谷怪談にしてみたところで同様でございまして、新しい四谷怪談もあれば、古き良き四谷怪談もございまして、そこにきて王道の怪談は、と問われてみれば、それもまた今と昔とでは趣が異なっているのが道理というものでございましょう。
 たとえ違っていてもここは強引にそういうことにしてしまいますが、えぇ、そうでないと話が進まねぇ。枕で終わってしまえば、怪談はどこだってぇ話でございまして、百物語が白物語になっちまったりして、これはあれですね、百に一が足りなくて白、なんて洒落た言い方をしてみましたが、千里の道も一歩から、百足の足も一本からと申しますが、ええ、申しませんですか。さようですか。
 一本足りねぇ百足ならそりゃ白い足でしょうなんて、ちょいと色気のある話に脱線しちまいましたが、ここいらで軌道を修正致しまして、百物語の百話目にして王道の怪談でございます。
 王道と申しますと、王の通る道でございますが、そこにきてでは王道における王とは何ぞやと問うてみますれば、誰もが知る存在として見做して卒はないように思うわたくしでございますが、つまりは王道とは誰もが知る何かしらの通る道なわけでして、では怪談において誰もが知る物語とはなんぞや、と考えてみますれば、そこにはいくつかの都市伝説じみたお話が候補に挙がり、たとえばそれは口裂け女、たとえばトイレの花子さん、または赤いちゃんちゃんこや、最近の怪談ともなれば、くねくねなぞは馴染みのあるお方も多いのではないかと、これは願望交じりに述べるに留めておきますが。
 ええ、巷説は人口に膾炙すればするほどに、人の口の端に乗れば乗るほどに、意外性やら新鮮味やらが失せる宿命を背負っておりまして、そこにきてそれが怪談であれば、それはもう恐怖もまた薄れてしまう定めにありましょう。
 世には薄味のほうが好みだなんて謙虚なお方もおられまして、恐怖など不要とことさらオチの判りきった都市伝説を進んで嗜好する酔狂なお方もおられるようで、そこにきてでは今宵この場にお集まりのみなさま方はどうかと申せば、これはもう、そんなどこかで聴いたような話をしようものなら、即座にわたくしの首が飛びましょう。それこそ、ぽーん、と毬のように飛びましょう。屋根まで飛んで、壊れて消えてしまうようなら、それもまた怪談として似つかわしい不気味さと奇妙さ、不安と恐怖がございますが、今宵ここで披露いたすますのは、屋根に消える首ではなく、屋根からすら首が覗くほどの長身女の怪――怪談好きのみなさま方におかれては、この時点で、なんだあれか、と肩を落とされてしまいそうでございますが、そこは百話目の王道にふさわしい怪談でございますから、皆様の期待に応えつつも、予想を裏切りたいな、と腕をまくって語らせていただきましょう。
 尺八様、と世間ではそう呼ばれておりますね。インターネットが発祥だそうで、本当かどうかわたくしは知らないのでございますが、文献には載っておらんということでしょうか。仮に尺八様に似た伝説やら伝承やら巷説があるようならば、そちらが原型、オリジナルということになるのでございましょうか。
 だとすればわたくしがいまから語らせていただくお話は、実際に地方の里に伝わる昔話でございまして、まあ、河童や山姥に似たような、と言えばその通りで、しかし微妙に異なるのが、未だにそういった、なんてぇ申しましょうかね、あるらしいんですね、体験談が。
 生きた怪談なんでございますよ。
 語り継がれている怪談ではなく、現在進行形で、いまでも出るんだそうで。
 これはわたくしが実際にその方から聞いた話でございます。わたくしの体験談ではございませんで、そこはどうぞご安心して、信憑性の薄さに身を委ねて、納涼いただければなと存じますが。
 その方はわたくしの妻のご友人であられまして、嫁ぎ先がその怪談の舞台、地方の山村でございました。緑豊かな山々に囲われ、お歳暮には川魚や、秋には山菜や栗を妻は送ってもらっていたようで。
 ようで、というのはええ、わたくしはそれらを食べた記憶がないので、どうせ家で息子娘たちに食べさせ、わたくしには内緒にしていたんでしょう。これまた怖いお話ではありますが。
 いまさらですがみなみなさまは尺八様のあらすじはご存じでしょうか。ご存じでしょう、そりゃそうでしょう、そうでなけりゃわたくしが困る。
 ざっと申せば、祖父母の家に遊びにやってきた少年が昼間にそれはそれは背の高い女を目撃するんでございます。祖父母にその話をすると、どこで見た、それはこんな姿をしとったかと雪隠詰めに遭い、あれよあれよという間に物々しい雰囲気となり申して、夜、部屋に閉じこめられてしまうわけですな。霊媒師だか呪文だか結界だか、ともかく少年は厳重に守られて、部屋のそとに忍び寄る背の高い女の影に怯えながらも夜を無事に過ごす、というお話でございます。補足として、翌朝、早々に祖父母の家を離れることになった少年は、自動車に揺られながら、背の高い女の姿を、或いは独特の鳴き声である、ぽぽぽ、を窓のそとに聞くこととなる、そういう怪談でございます。
 わたくしの妻のご友人の体験したところによれば、背の高い人影を見たところまでは同じでございます。ただし、鳴き声は聞こえず、特別に霊媒師の真似事をすることもなかった。というのも、村の者たちには馴染みのある現象であるようで、実害がないことは広く知れているらしいんでございます。
 その点、妻のご友人は都会から嫁いだ身の上ゆえ、そういった村の風習には馴染みがないゆえ、そこでちょっとした違和感を覚えたようでして、誰かに相談したくなっていたところで、怪談を収集している物好きがいるとわたくしの妻が、わたくしをさも赤の他人のように紹介し、わたくしの耳にもそのご友人の体験談が舞いこんだという顛末でございますが、ええ、そこは本筋とは関係がないので、はしょらせてもらいましょう。
 妻のご友人の名前を、ヤエさんと申しまして、彼女は日中は家で内職をし、夕方は近所の食事処で給仕人をして、二十時に家に帰るという生活を送っていたそうです。いまもきっと同じ生活を送ってなさるはずで、まあ、村に一軒しかない食事処だってんで、繁盛しているようで。
 ヤエさんは外から村にやってきたというのもあって、村人との交流にはひと一番に気を張っていらしたようで。いちど受け入れられてしまえば、可愛がってもらえるが、そのいちどを得るのがこれがまた至難でして。そこにきてヤエさんの処世術はなかなかのもので、愛嬌と言えばそうなんでしょうが、ええ、すぐに村には溶けこんだそうです。
 ヤエさんにお子さんはおらず、帰宅すれば旦那が手元の板に夢中になっているでしょう、おかえりの言葉もない。いえね、これはわたくしも反省しなければならんなぁ、とお話を聞いているときに思いましてね。長年連れ添った相手であると、なかなかどうして、おかえりの挨拶を口にしなくなっていって、かといって妻のほうでは言ってくれているわけでしょう、そこの不公平さというものは、じぶんではなかなか気づけないものですよ。
 その点、うちの妻なんかは不機嫌になるんで、分かりやすいと言えば分かりやすいんですがね、機嫌を直されて無駄にしゃべりかけられたら堪ったもんじゃねぇんで、敢えておかえりも何も言わねぇようにしてるんでごぜぇますが。へっへ。ダメな夫でございましょう。みなさま方のよき反面教師を自負しております。
 驟雨の降りしきる日だったそうでございます。ヤエさんは夕方の仕事へと出掛ける前に、洗濯物を畳みながら、庭を眺めていたんですね。そこで、ふと、雨のスダレのなかに、ぽつんと、見慣れぬ木が生えているのに気づいて、おや、と目を凝らすと、それは細く、長く、屋根に遮られて見えなくなるほど高く、棒切れのようにすらりと、真上に伸びていたそうで。
 曇天ですからね。昼間とはいえ、薄暗い。
 雨の軌跡すら黒く見えまして。
 そんなことってあるだろうか、とヤエさんは目を細めたんですね。
 細く、長い木のようなものは二本ありまして、白樺の幹よりもずっと白く、純白に浮き上がって見えていたそうで、そこに黒い雨が、ぱらぱらと線となって重なっているわけで、何かが妙だと、考えるよりさきに身体が強張ったそうで。
 洗濯物を床に置き、まえのめりになったところで、ヤエさんの身体はぞぞぞと総毛だったそうで。
 黒い雨なんかじゃなかったんですね。
 髪の毛だったそうです。
 長い、長い、黒い髪の毛が、無数に、何本も、二本の細く長い木のようなものの真上から、サラサラと雨に混じって垂れていたそうで。
 息を呑んだヤエさんに気づいたのか何なのか、二本の細く長い木のようなものは、一本ずつ交互に傾き、地面に突き刺さって見えた先端を宙に浮かして、歩いたのだそうです。
 先端には、ちいさなちいさな、それはそれはかわいらしい足がくっついていたそうで。子どものような足に見えた、とヤエさんはおっしゃっておりましたが、細く長い脚の先端にくっついていたのなら、正確な大きさは目視では測れんでしょう、というのがわたくしの所感でございます。成人女性の足であっても、よしんば男性であろうと、ちいさく見えておかしくはありません。
 ヤエさんは怖くなって、その日は仕事を休んだそうです。仮病を使ったせいか、思いがけず早く夫が帰宅し、体調を気遣われ、そのあまりの献身的な姿にヤエさんは気を揉んだようで正直に白状したそうです。打ち明けたんでございますね。
 昼間に見た光景を。
 そのせいで仕事をズル休みしたことを。
 夫はまずは、体調がわるくないことに胸を撫でおろしたようで、その仕草に、ヤエさんは日ごろから胸に溜めこんでいた鬱憤がすっかり晴れたと、我ながら現金な女です、とおっしゃっておりましたが、その気持ちは解かる気が致します。誰だって本気で心配されたら、たいがいのことは許せるものではないでしょうか。うちの妻だけが例外なのかもしれませんが。へっへ。罪だけが嵩んでおります。
 ヤエさんの話を聞くと夫は顔色を変え、おまえも見たのか、と言ったそうです。そしてその村には、闊歩様なる神さまがおわすのだと、そう説明し、純粋な村の者以外で見たのはきみが初めてだ、と恐怖体験をした妻に向かって、そのように、喜ばしいことのように語ったそうなんでございますね。
 ヤエさんの心境は複雑だったとわたくしは推し測るものですが、わたくしにその話をしてくださったときのヤエさんは、ようやく村の一員になれた心地がしてほっとしました、と表情とは裏腹な言葉をつむいでいらっしゃった。村のなかにいなければ判らない機微があるのでしょう、それこそヤエさんの気持ちはヤエさんにしか分からない、ともすればヤエさん自身にすら分からない気持ちがあってもふしぎではないですから、ここでヤエさんの本懐を邪推する真似は避けておきましょう。
 闊歩様を初めて目にして以来、ヤエさんは村のなかでたびたび闊歩様を見掛けるようになったそうです。たいがいは屋内にいるときに、窓のそとの景色に溶けこむように二本の白く長い脚が見えるらしく、窓の縁や壁に遮られて闊歩様の全体像は見えずじまい。屋外で見かけることがあっても木々の合間に見えたり、霧のなかを移動していたりと、やはり全貌は目にできなかったようで。
 黒い髪の毛は風に舞うこともなく、滝壺の水蒸気のように、闊歩様の脚の周囲を浮遊しており、稀に青空の下で見かけることがあると、闊歩様の周囲にだけ夜が垂れているような神秘的な風景に見えるのだと、ヤエさんはおっしゃっておりました。
 夫から注意を受けるまでもなく、闊歩様に触れようと思ったり、近づいたりしたいとは思わなかったようです。それはそうでしょう、まがりなりにも神として村人たちから尊ばれているのです。触らぬ神にたたりなしを字で描きます。
 それでもヤエさんは夫から一つだけ忠告をされたそうです。
「この村にゃ、闊歩様以外にもいるらしい。そっちを見掛けたら、全力で逃げろ」
 逃げろ、と言われても、どんな外見をしているのかくらいは教えてほしい。ヤエさんはまずはそう思ったそうで、それはそうでしょう、だいたいにおいて闊歩様に関しては日常に存在するものとして語っていた夫が、それ以外の存在に関しては、まるで都市伝説のような聞きかじりの言い方をするのですから、まともに取り入る必要のない忠告だとヤエさんが見做したのも詮なきことと言えましょう。
「せめてどんな姿をしてるのかくらい教えてよ。変質者に注意しろ、って言ってるようなものでしょそれ。具体性皆無」
「見たやつがいないんだ」夫の表情に、ヤエさんを茶化すような陰はなかったそうです。「ただ、闊歩様じゃない。それだけは確かだ」
 闊歩様ではない何かがこの村にいる。それを見た者がいるが、どんな姿をしているのかをほかの者には伝えていない。
 それの示唆する背景に思いを巡らせるのはヤエさんにとってむつかしくはありませんでしたが、脳裡に結ばれた像の真相を確かめようと、ほかの村人に聞いて歩く真似をしようとまでは思わなかったのは、部外者としての引け目というよりかは、ヤエさんの、村への怯え、ともすればせっかく築きあげた村人としての地位をはく奪されるかもしれない未来への保険と言ってもよかったかもしれません。
 いまさら村の負の面を聞いて回ることなどヤエさんにはできなかったのでございます。
 その日、ヤエさんが仕事から帰宅すると夫はすでに就寝していました。ゴロゴロと遠くで雷鳴のとどろく音が聞こえ、今夜は大雨かな、と荒れそうな天候に、今夜は早く寝ようと、夫を見習うことにしたそうです。
 風呂からあがるとすでに外は土砂降りの様相で、世界を塗りつぶすような雨音がドドドと聞こえており、ヤエさんは恐怖心と不安を薄めよと、焼酎を一杯呑んでから寝ることにしました。台所でカップに焼酎をそそぎ、居間に移動し、ソファに腰を埋めてから口をつけます。喉の焼けるような旨味が、胃に広がり、全身がカッと熱くなる、ヤエさんはきょう一日の疲れをバネにして、至福のひとときを味わっておりました。
 ピカっと光ったと思うと、すぐに、ドーンと地響きにも似た音が家を揺るがせます。近くに雷が落ちたようです。明かりが消え、村が停電したのだとヤエさんは察しました。
 家の間取りは憶えておりますから、手さぐりで歩けば、寝室には辿り着きます。
 ヤエさんはソファから腰をあげ、壁に手をつくべく、闇のなかに一歩足を踏みだしたとき、また雷の閃光が走りしました。
 窓にくっきりと影が浮かびあがる。雷は律動よく、ピカリ、ピカリ、と光ります。そのたびに、雨の軌跡が、無数の線が、影となって窓に浮かぶのです。
 窓は広く、車庫と同じくらいの幅があるそうです。窓を三等分した真ん中のみに影が浮かぶのです。それはまるで闊歩様を写しとった影のようにヤエさんには見えました。しかしそれが闊歩様だとすると、あるべき影が一向に浮かばないことに違和感を覚えます。
 そうです。
 足がないのです。
 闊歩様に特有の、細く、長い、脚の影が見えません。
 しかし、長い髪の毛だけが、屋根の上のほうから、まっすぐと、風に揺れることなく、雨に濡れることもなく、どこまでもサラサラとふわふわとやわらかに垂れている――ヤエさんはしばらくその場を動けませんでした。雷の閃光が走るたびに影は窓に浮かびます。それら影を克明に捉えようと、息を殺してヤエさんは窓を凝視しました。
 そのうち、コマ撮りアニメのように、閃光の瞬くたびに、影が、わずかに変化を帯びていることに気づきます。
 窓枠の上部、屋根のほうから順々に、影が黒く塗りつぶされていくのです。まるで無地に毛筆で線を引くような、真っ黒な墨汁が垂れはじめたような、そういった変化でした。
 黒く濃い影が垂れさがっていくにつれて、髪の毛らしき影もまた、徐々に下がっていく。全体的に、落下しているのです。
 ゆっくりとゆっくりと。
 地面に。
 ヤエさんの顔の位置に。
 近づいているのです。
 何度目の閃光でしょうか。
 ヤエさんはこのときのことを、ひどく均一な静寂のなかにいた、とおっしゃっておりました。雷鳴は聞こえていなかったのです。それほど極度に緊張していたのか、それとも真実、雷など落ちていなかったのか。
 いずれにせよ、ヤエさんは窓一枚を隔てた向こう側にいるものが、いつもの闊歩様ではないのだと察したのです。
「つまり、闊歩様ではないナニカシラがそこにいたってことでしょうか」わたくしは分かりきったことを訊いたつもりでした。
「いいえ、いつもの闊歩様ではなかったということです」ヤエさんは言いました。「仮にそうですね、段ボールを抱えているときに、これって何の荷物だっけと気になったとしましょう」
「何の話ですか。急に」せっかく話が佳境だったのに、興醒めもよいところだ、と内心わたくしは不満でした。
「段ボールの側面に、たとえば中身が服だったら、服と書いておけば、こう、段ボールを抱えたままでも、側面を覗きこめば文字を見れますよね」
 ヤエさんは背中を丸め、お辞儀の体勢をつくります。ヤエさんのひっつめの結び目とうなじが顕わになります。
「段ボールが家だとしますね。文字の書いてある面を窓として、段ボールの中にいるひとから見たら、私って、どう見えますか」ヤエさんは結んでいた髪を解いた。髪の毛がだらんと宙に垂れる。「覗いていたんだと思うです。闊歩様が」
「ヤエさんを?」
「私をなのか、私たちの家をなのか」
 そこまでは分からないのですが。
 ヤエさんはそう言って、話の続きを口にしました。
 恐怖で身体は動かなかったそうです。ヤエさんの顔の高さで静止すると、影はもうそこから微動だにせず、ただじぃっとそこに浮いていたそうです。
 ぱっと部屋が明るくなったのは、雷のせいではありませんでした。
「だいじょうぶか、非常電源つけたぞ」
 夫が起きだしており、部屋の明かりを灯していました。窓から影は消え、ヤエさんの耳に音が戻ります。
 夫は雷鳴の音に驚いて目を覚ましておりました。田舎の村では、停電になると数日のあいだ復旧が見込めないため、どの家にも自家発電や非常電源が常備されています。ヤエさんの家では非常電源が備わっていたため、夫はまずそちらを起動しに、地下室に下りていたそうです。
 戻ってきたら、居間で妻が固まっていたので、きっとヒーロー気分で声をかけたに違いありませんと、これはヤエさんがおっしゃっていたことですが、おそらくその推量は当たっているでしょう。性差別だなんだと昨今みなさんお行儀がたいへんによろしいのであまり言いたくはありませんが、男とはそういう生き物です。見栄っ張りのアホウなのです。かわゆいでしょう?
 ヤエさんは悩んだ末に、夫にそのとき見たこと、そしてじぶんの仮説を話して聞かせるのはやめにしたそうです。話したところで夫を無駄に悩ませるだけでしょうし、ほかの村人の耳に入れば、あそこの家はなんだかんだと噂されそうで、被害妄想にすぎないかもしれないことは重々承知のうえで、ヤエさんはじぶんの胸に仕舞っておくことにしたそうです。
 ただときおり、村人のなかで突然の不幸に遭われた方がでると、どうしてもヤエさんはあの日見た光景、大雨の夜、窓のそとに忍び寄っていた影を思いだしてしまうそうです。
 誰かに相談するわけにもいかずに悶々としていたところで、わたくしの妻から、怪談を募集している暇人が身内にいるがどうか、と促され、ならばこの機会にと、わたくしに述懐してくださったのが、百物語百話目にして王道の怪談、闊歩様でございます。
 原型に尺八様があると枕で申しあげましたが、どちらかと言えば、原型に当たるのはこちらの闊歩様のほうに思えますが、しかし双方まったく関係はなく、互いに独立した怪談であるかも分かりません。その公算が高そうですが、いずれにせよ、神と崇められていようと、いつどのように悪果を振りまくか分からぬ存在は、怪異に限らず、世に認められる灰汁のようなものでございまして、王道と言いながらも、ではその王が果たして真実に王足り得るのかは、やはりこれもなかなかどうして断言できない曖昧さに蒙昧さがつきまとってございます。
 みなさま方におかれましては、百物語の百話目をご清聴いただき、感謝感激雨あられでございますが、今宵はどうやら大シケのご様子、すでに雷鳴が轟いてございます。お帰りの際にはどうぞお気をつけて、お帰りいただいたあとでも、どうぞ、何にとは申しあげませんが、お気をつけてお過ごしくださいと、余計なひと言に心配りを致しまして、今宵の百物語、百話目、怪談、闊歩様の談を締めさせていただきます。
 夜分遅くまでお付き合いいただき、幸甚の至り、まことにありがとうございます。
 ところでお客様のなかで、ほかの九十九話の怪談をお聴きになられた方はいらっしゃいますでしょうか、奥のほうで一瞬だけ手をお上げになられた方がいらっしゃいましたが、ええ、シャイな方なんでしょうかね、しかし妙でございますね、じつを申しあげれば今宵したのは、白物語でございまして、白い脚の闊歩様の話でございまして、ええええそのとおり、百話目にはまだ一話、足りないのでございます。
 いったいいま手をお上げになられた方は何をお聴きになられたのでしょう、人間なにごともハヤトチリに勘違い、白を百と見間違えることも往々にしてございますのでどうぞお手を挙げてくださった方も、その周りの方々もお気になされずお願い申しあげて、今宵の会をお開きとさせていただきたく存じます。
 またのお越し、みなさま方との再会を楽しみにしております。
 外の階段は滑りますのでどうぞ、押しあいへし合いせずに、王さまのようにゆったりと歩いてくださいね。誰もが知る道が王道というなれば、帰り道こそ王道の名にふさわしい。
 王道の階段、どうぞ噛みしめて、一段、一段、踏んで、数えて、確かめて下りてくださいね。一段足りねぇなんてことになれば、それこそ、四谷怪談さながらに、どこや階段、なんてぼやいて、語って、笑い草にでもしちまって、凍った背筋を溶かして、温かい気持ちで帰りましょう。
 怪談よりも解散です。
 ちょうど幕引きのお時間でございます。




千物語「怪」おわり。
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