第3話

文字数 4,638文字

「ひわ!」
 羽白は叫んだ。
 井月は追いかけようとした羽白の腕をとった。
「この暗闇です。私が前を行きましょう」
「神官は、闇でも目が見えるのか」
「見えはしませんが勘はありますよ。私から離れないで下さい」^
 言葉通り、井月は確かな足取りで前を進んだ。ひわは、ずっと先まで行ったようだ。
 こんな危険な闇の中を、突然ひわは駆け出した。さっきから、様子はおかしかったのだ。いったい、何が起きたのか。
 井月に腕をとられたまま、自分で歩けないのがもどかしい。それに、井月に対する疑念が、またしても膨らんできた。いまの状況ならば、井月は羽白にどんなことでもできるはずだ。羽白が幻曲師であると知っているならば。
「神官」
 あれこれ思い煩いたくはなかった。羽白は、冷たく声をかけた。
「はい」
「私が何か、知っているのだろう」
「琵琶弾きです」
 井月は言った。
「琵琶弾きで、幻曲師です」
 羽白は小さく息をして頷いた。
「どうする? 私を」
「まだ、なんとも」
 井月は、淡々と答えた。
「ここを出られないとすれば、いずれ私たちは地霊に還るのですから、あなたに毒を使う必要はないわけですし」
「たしかに」
 羽白は言った。
「だが、私をこのまま置き去りにすることもできる。早く務めをはたしたいとは思わないのか」
「ひわがいます。そんなことはできませんよ。それに」
 井月は、ちょっと間をおいた。
「あなたは、神官が好んで呪力者を見つけているとお思いですか」
「違うのか?」
「もちろんです。たまたまあなたに出会ってしまって、私は動転しています」
「動転?」
 羽白は軽い笑い声をたてた。
「とてもそうには見えなかったが」
「あなたがこれから先、琵琶を弾かないと約束してくれるら、見過ごしてもいいのですが」
「できないな、それは」
「困りましたね」
 井月は、真実困ったように深いため息をついた。
 その時、前方にうっすらと光がさした。
 出口?
 羽白は井月を追い抜いて、光の中に足を踏み入れた。
 そこは、
 出口ならず、またしても広い鍾乳洞。
 光は、高い天井の切れ目から差し込むものだった。赤みがかった夜明けの光だ。
 石筍取り囲む岩床はつややかで、かつて水が流れていたらしい波状の跡があった。そしてその先に、まだ水をたたえた小さな池がひとつ。
 池のまわりには、白い木の枝めいたものが数多く転がっていた。よく見るとそれは、動物のものらしい大小の骨なのだ。
 ひわは、骨の中にぐったりと倒れ伏していた。
 羽白はひわに駆け寄って抱え起こした。
 ひわは、目を見開いている。しかし、その瞳は黒い虚。何も映してはいなかった。
 井月は、ひわと池を見比べ、身震いすると一歩退いた。
「羽白。ひわを抱いたままこちらに来て下さい。それ以上池に近づいてはなりません」
「どういうことだ」
「頼みますから、言うとおりに。その池は、〈(たま)喰い〉です」
「〈霊喰い〉?」
「ずっと昔に死に絶えたと言われる太古の生きものですよ。池自体が危険な生命体なのです。水面に影を映したものの霊を喰ってしまう。洞窟に迷い込んだ獣を餌食にしていたのでしょうが、こんなところにまだ生きていたとは」
 羽白は思わず池に目を向けた。
 澄んだ水面に何かの姿が映った。小さな獣。鹿でもなく、馬でもなく・・。
 まさか。
 羽白は獣の正体を見極めようと身を乗り出した。
「羽白!」
 井月が叫んだ。
 しかし、その時には羽白はしっかりと獣の姿をとらえていた。
 美しい金色のたてがみ、額にぽつんとのぞく肉色のこぶ。
 麒麟の幼獣だ。
 思い当たったとたん、羽白の霊は身体を離れ、〈霊喰い〉の中に呑み込まれていた。

 霊というのは奇妙なものだ。
 〈霊喰い〉の中をふわふわと漂いながら羽白は思った。
 水の中ではなかった。ぼっと青みがかった靄の中に浮かんでいるような感じ。
 視覚も聴覚もない。あるのは霊の意識だけ。
 しかし、その意識にはっきりとひわの存在が感じられた。そしてもうひとつの存在も。
 麒麟だ。三つの霊は、〈霊喰い〉の中で触れ合っているらしい。
(ひわ)
 羽白は呼びかけた。
(大丈夫か?)
(あたしは、大丈夫)
 ひわの霊が答えた。
(あたしは、もう一人のあたしを見つけたの。生まれた時から探していたような気がする。ううん、生まれる前から、ずっとずっと)
(その麒麟のことか)
 麒麟の霊が羽白の中に踏み込んで、言葉よりも鮮やかな心象を送り込んだ。
 草原を駆ける麒麟の群れ。
 めくるめく思いで羽白はそれを感じた。
 山中で木の芽をはむ麒麟たち。河辺で戯れあう麒麟の幼獣。世界が若く、地霊が豊かだったころの彼らの姿。
 ほっそりとした優美な肢体、風になびく金色のたてがみ。たしかな知性を秘めた青い瞳。そして、額から突き出た真珠色の角。
 羽白がこれまでに弾いてきた麒麟の曲のどれもが、彼らを現すには不十分だった。これほど美しい獣を主題にした曲などありはしない。
 だが、しだいに地霊は衰えた。麒麟の児は生まれず、成獣は老いて死ぬばかり。
 最後の幼獣は雄だった。最後の一匹ゆえに、ひとつになるべき雌を持たなかった。成獣たちが死に絶えた後も幼獣は幼獣のまま生き続けた。もう一方の自分を探し求めながら。
 麒麟の雌になるはずだった霊は、他の生きものに生まれ、死に、長い輪廻を繰り返していた。もう一つの自分に果てない憧れを抱きながら。
 (それが、ひわか)
 際限もない幼獣の孤独が羽白をおそった。ひわの存在を感じた時の狂おしい喜びも。
 肉体よりも霊の方が先走った。ひと思いにひわのところへ・・。
 しかし、無防備すぎる霊は、やすやすと〈霊喰い〉に呑み込まれてしまったのだ。
 ひわも、麒麟に感応した。洞窟の壁画を見たその時から。必死で探し、行きついた先が〈霊喰い〉の中。
 長すぎる歳月を経て、ようやく出会ったというのに、こんな状態では哀れすぎる。
 どうにかしてやりたいが。
 羽白は、自分の愚かさをあざ笑った。井月の忠告にもかかわらず、ともに〈霊喰い〉の餌食になってしまったのだ。水面にひわや麒麟の姿が映ったのは、〈霊喰い〉の罠だったのだろう。
 このままでは、じわじわと〈霊喰い〉に消化されるのを待つだけだ。麒麟の姿をはっきりと知ることはできたけれども、再び肉体に戻って琵琶を弾かないことには話にならない。
(羽白)
 ふいに落ち着きはらった思考が入り込んできた。
(神官)
 羽白は驚いた。
(神官まで)
(〈霊喰い〉に引き込まれたわけではありませんよ。自分で来たのです)
 自慢するからには、ここを抜け出す手だてがあるということか。
 羽白が思ったことは、いまや井月に筒抜けだった。なにしろ、霊がつながっているのだから。
(ためしてみます)
 羽白は、井月が発する呪力を感じた。羽白の霊をじかに揺さぶる強力なもの。
 つづいて、〈霊喰い〉の中の密度が急に濃くなってきたような感じがあって、
 羽白の霊は、四方から押しつぶされそうになった。雑多な、思考と呼ぶにはあまりにも単純なものがひしめきあってくる。
 獲物を教える風の匂いや日向の草の味。
 甘い雌の気配、天敵への恐怖・・。
 幾百もの獣の霊だ。それらはさらに数を増した。さまざまな種類の獣の霊が、ぶつかり、わめき、ぐるぐると逃げ惑う。
(自分をつなぎとめていて下さい、羽白)
 井月が言った。
(さもないと・・)
 狂ってしまうだろう。
 ひわや麒麟がどうなっているのか、考える余裕も羽白にはなかった。〈霊喰い〉の中は混乱の域に達していた。あらゆる種類の獣たちが詰め込まれている。
 すさまじい恐慌。
 悲鳴が上がった。それは、ひわのものだったのか、自分のものだったのか。
 悲鳴は〈霊喰い〉をつんざいて、 
 突然、羽白は自由になった。
「羽白」
 井月が肩に手を置いた。羽白は、我にかえって井月を見つめた。
「どうなっているんだ」
 井月は〈霊喰い〉を指差した。澄んだ池だったそれは、濁り、泡立ち、しゅうしゅうと音をたてて、しだいに蒸発していくところだった。
「何をした・・神官」
「この山の生きものを、引き込めるだけ引き込みました」
 井月は、こともなげに答えた。
「どんなものでも、食べすぎは腹を壊しますから。吸収しきれず、一気に吐き出したのです」
「なるほど・・」
 羽白はのろのろと額の汗を拭った。〈霊喰い〉は、いまやきれいに蒸発していた。はっと気づいてひわの姿を探す。
 ひわはまだ倒れたままだったが、その口から小さな呻きがもれた。
「ひわ」
 目を開いたひわは、一瞬身体を強ばらせ、長い悲痛な叫び声を上げた。
 羽白は、ひわを抱えた。しかしひわは身をよじり、両手で顔を覆って悲鳴を上げ続ける。
 井月がひわに近づき、軽く頭に手を乗せた。ひわは、がくりと首を垂れ、動かなくなった。
「何をした?」
「眠らせました。このままでは、喉がつぶれてしまう」
「ひどい経験だった。無理もない」
 羽白は、身を震わせた。
「神官のおかげで助かった」
「いえ」
 井月は目を伏せ、首を振った。
「ひわにとっては、そうでなかったかもしれません」
「どういうことだ」
「私たちは身体に戻りました。問題は麒麟です」
「この子と麒麟のことを知っているんだな」
「〈霊喰い〉の中にいた時に、だいたいのことはわかりました」
「麒麟も、自分の身体に戻ったはずだ」
「だといいのですが」
 井月は、悲しげにつぶやいた。
「胸騒ぎがするのですよ」
 羽白は、眉根をよせた。その時、腕の中のひわの髪がふわりとなびいた。天井の裂け目から吹いてきたものではなかった。別の方向から。
 羽白と井月は顔を見合わせた。井月は立ち上がった。
「向こうのようです」
 羽白は、ひわを抱き上げて井月の後ろに続いた。入って来たのとはちがうもう一つの横穴があり、しばらく行くと小さな光が射してきた。
 外への出口だ。
 だがそれは、出口というにはあまりに狭いものだった。いくら身体を縮めても、肩くらいしか入りそうにない。
「岩盤ではありません」
 穴のまわりを探った井月は言った。
「堀り広げることができそうです」
 二人は旅嚢の中から道具になりそうなものを取り出した。幸い穴の土は柔らかく、小半時後、羽白たちは念願の外界に這い出した。
 雑木にかこまれた、崖の下だった。秋枯の山々が、見下ろすように迫っていた。
 その上を、おびただしい数の鳥たちが、狂ったように旋回していた。大きな獣の咆哮が、あちらこちからきれぎれに聞こえてくる。
 動物たちは、〈霊喰い〉に呑み込まれた時の衝撃からまだ醒めきっていないらしい。
 井月は、前方の茂みに目を向けた。羽白も井月の視線の先を見た。
 枯れた灌木の下に、何かの死体が横たわっていた。
 狼にでも貪り喰われたのだろう。横腹は、骨がむき出しになっていた。
 血にまみれた身体から、金色のたてがみが見てとれた。鹿のような、小さな馬のような・・。
 その額に盛り上がっているのは、肉色の可憐なこぶ。
 
 
 
 
 


 
 

 
 
 

 
 

 



 
 
 
 
 




 
 
 
 



 
 
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