第2話

文字数 4,493文字

 道脇の藪から、黄緑色の小さな鳥が飛び出して空高く舞い上がった。まわりの木の梢にも何羽かとまっていて、ぴいいぴいと鳴き交わしている。
 少女は、羽白の袴を引っ張って指さした。
「ひわだな」
 羽白は鳥の名を言った。少女は大きくうなずき、こんどは自分の胸に指を向けた。もう一度、鳥と自分。
 可愛らしい指の行く先をたどり見ながら、羽白はうなずいた。
「おまえの名は、ひわか」
 少女は、にっこり笑ってみせた。羽白は、思わず少女の頭をなでた。
「教えてくれたのか。いい子だな」
 ひわの歩調に合わせるようになるので、旅は一人の時よりもはるかにはかどらなかった。小夜叉岳が間近に迫るまで、羽白は三晩野営の火を焚いた。
 四日目に着いた村の者の話では、名足はさらに山の中ということで、羽白はここで丸一日興行して食料を手に入れた。
 ひわを託せる所も探したが、子供一人置いてくれる余裕のある家は見つからなかった。
 翌日名足をめざしたものの、昼頃から暗い雲が空をおおい、ついに雨が降り出した。雨はしだいに激しく、近くには村里もない。
 ひわを励ましながら、羽白はようやく雨宿りに手頃な洞を見つけた。入ってみると奥行きが深く、充分手足を伸ばせる広さだ。
 身体がすっかり冷え切っていた。手持ちの獣脂と湿った木でなんとか火をおこすと、羽白とひわは衣を脱いで乾かしながら暖をむさぼった。
 どうやら人心地ついたとき、洞の前に人影が立った。
 羽白は、顔を上げた。雨の音にかき消されて、近づく気配がわからなかったのだ。
「入ってもいいですか」
 影の主は言った。同じく雨にぶつかった不運な旅人か。
「ああ、どうぞ」
 答えてからの何分の一秒かで羽白は相手を観察し、心の中でため息をついた。
 肩のあたりで切りそろえた髪、白の浄衣。
 まだ年若だが、まぎれもない神官だ。そして神官は、羽白が最も関わりたくない種類の人間だった。
 神官は、洞に入って旅嚢を置いた。
 ひょろりとした長身に似合わず、丸みを帯びた顔は童顔で、少年のようでもあり、少女のようでもあった。一生不犯の神官は、どこか性を超越して見えるものなのだ。
 もっともこの神官は、女であるとすぐにわかった。雨に濡れて身体にぴったりと張り付いた衣の胸には、ささやかながら双のふくらみがあったので。
井月(いづき)と申します」
「羽白。こっちがひわだ」
 井月は羽白の琵琶に目をとめた。
「子連れの琵琶弾きとはめずらしい」
「女の神官と同じくらいには」
 井月は軽く笑って口をつぐんだ。
 この神官は、自分が幻曲師であると気づいているだろうか。
 羽白は考えた。
 ひわのために、何度か幻曲を弾いている。はじめから、幻曲の気配を察して、つけてきたのかもしれない。呪力者(じゅりょくしゃ)には敏感な者たちだ。
 神官は、常に二つのものを探して諸国をめぐっている。一つは見習い神官にするための呪力を持った子供たち。そしてもう一つは、大人になってしまった呪力者たち。
 神官の純潔は、とどのつまり呪力者の種を蒔かないためだった。大人の呪力者は、見つけしだい、すみやかに抹殺される。
 呪力が地霊を消費するからだ。
 地霊は、この世界を潤す生命の素だった。人も獣も植物もすべてから地霊より生まれ、死して後、地霊に還る。
 そして、昔ほどこの世界の地霊は多くない。
 龍も麒麟も、とうに生きていけなくなった。このままでは、人間ですら生きられない時代が来るかもしれない。神官たちが恐れているのはそれなのだ。
 地霊を保つことが最大の使命と心得ている神官たち。
 まして幻曲師は、生まれつきの呪力者ではなかった。昇華した芸が呪力となり、幻をつむぐ。なぜ役にも立たない幻を見せるために呪力を費やす必要があるのか。神官たちにとっては、最も許せぬ存在だろう。
 幻曲師としては、幻曲を隠しつづけるしか術はない。
 羽白は思った。
 幻曲師が人々の間で伝説と等しいものになってから、いったいどれだけたつだろう。

 日が沈むと、雨はいっそう激しくなった。
 井月も口数少ない人間のようだ。向こうから話しかけてはこなかった。ろくな言葉も交わさず、それぞれに夕食をすませた。
 食後の琵琶の稽古はやめにして、羽白は寝入ってしまったひわの脇に横になった。
 井月に背を向けていたが、彼女の気配に油断なく耳をすます。
 やがて井月は横たわり、静かな寝息が聞こえはじめた。
 井月は気づいているだろうか。
 羽白はさきほどからの同じ問いをくりかえした。 
 もしそうならば、どうやって逃げ出そう。一人ならばどうにでもなる。
 いっそのこと、ひわを置いて・・。
 羽白はちらと考え、すぐに苦々しい笑いをうかべた。
 できないな、それは。
 神官ならば、残されたひわをなんとかしてくれるだろう。だが、ひわは旅芸人の一座と羽白と、二度も捨てられたことになってしまう。どんなに悲しむことか。
 いずれ別れる時がくる。しかしそれは、きちんと別れの言葉を言い、ひわを納得させてからだ。 
 雨は木々をうち、葉叢をうち、羽白の耳をうった。羽白は、いつしかまどろんでいた。
 井月が飛び起きたのではっとした。
 身体を起こして身構えようとした瞬間、すさまじい地響きがおこった。
 羽白はとっさにひわをかばって身を伏せた。
 臓腑が突き上げるような振動。洞の岩壁がぎしぎしいいながら小石を降りこぼし、焚き火の炎が飛び跳ねる。頭を地べたに押しつけられるような轟音が続き、際限もなく続き、しかしようやく遠ざかって静かになった。
 羽白は頭を上げた。
 井月が、ぴんと背筋を伸ばして洞の入り口だった場所を眺めていた。土砂は井月の足元まで流れ込み、入り口をすっかり塞いでいる。
「地崩れです」
 井月は振り向き、しゃくにさわるほど静かな口調で言った。
「私たちは、ここに閉じ込められてしまったようですよ、羽白」

 ひわが羽白の腕の中で小刻みに震えている。
 井月は、焚き火の炎をかきたてた。互いの顔は明るく照らし出されたが、明かりの届かない闇はいっそう密度を増し、閉ざされた空間を嫌でも思い知らされた。
 羽白は、ふと耳をそばだてた。
 かすかな、せせらぎのような音が聞こえてくる。雨の音ではなかった。眠る前までは気づかなかったものだ。
「水」
「え?」
 井月は、静かにまわりを見回した。そしてつと立ち上がり、洞の奥に近づいた。燃えている焚き火の一本を手にし、羽白も彼女の後ろに続いた。
 大きな石が崩れ落ちている場所があり、その側を照らすと細長い穴が開いている。人ひとり、ようやく入り込めそうな穴だ。
 井月がためらいもせずに穴の中をのぞき込んだ。そして、
「向こうはかなり広い鍾乳洞です。奥に深くなっているようですよ、羽白」
「鍾乳洞」
 羽白はくり返した。わずかながら希望が生まれたのだ。
 小夜叉のあたりは鍾乳洞が少なくない。それらは迷路のように入り組み、ひとつにつながっているという。うまくいけば、他の出口を見つけ出せるかもしれなかった。
 井月は焚き火を束ねて手早く松明を作った。羽白は不安げなひわを励ましながら荷物をとりまとめ、琵琶を前に抱えた。
 穴を這うようにしてくぐると、すぐに広々とした空間に出た。
 松明の光に照らされて橙色に輝いているのは、頭上高く、なだれ打つ滝が石化したような鍾乳石や林立する石筍。岩床を浅く、清い水の流れが横切っている。
 自分たちが置かれた状況も忘れて、羽白はしばし鍾乳洞の美しさに見入ってしまった。
「羽白」
 突然井月が羽白の腕を取って、松明の明かりをかたえの岩壁に向けた。
「ごらんなさい」
 なめらかな岩肌に、何かの模様がついていた。
 目を凝らしてさらによく見ると、茶色の線がはっきりとしてきた。あきらかに人の手によるものらしい絵だ。線と丸を組み合わせた稚拙なものだったが、壁一面、たくさんの四つ足の獣が描かれている。
 その獣たちの頭からは、ことごとく一本の線が突き出していた。
 羽白は指先で線をなぞり、ささやいた。
「麒麟の絵だ」
「かなり昔のものです」
 昔どころか、大昔だ。
 人々が家も作らずこんな洞で暮らしていた時代。地霊があふれ、麒麟が大地に群れなしていた時代。
 食い入るように絵を見つめる。
 たしかに幼い描き方ではあったけれども、不思議な躍動感が絵にはあった。見ているうちに線の麒麟は血肉をつけ、蹄の音をとどろかすかに思われた。
 この絵に出くわしただけでも、閉じ込められたかいがあったというものだ。
 むろん、ここからうまく抜け出せればの話だが。
 と、羽白は眉を上げた。
 絵の中で、ひとつだけ四つ足でないものがいる。
 群の真ん中あたり。二本足の人間のようだ。だが、角の生えた人間などいるわけがない。
「なんでしょうね、これは」
 井月がつぶやいた。
「古代人の神?」
「神?」
 羽白は聞き返した。
「ええ」
 井月は考え深げに答えた。
「角は昔から神聖なものですから。彼らの神は角の生えた人間のかたちをしていたのかもしれません」
 羽白はうなずき、ちょっと皮肉っぽく言った。
「神官の神はどんなかたちだ?」
「かたちはありません。この世界そのものですから」
 生真面目に井月は答えた。
「世界の命は地霊です。地霊を保つことこそが絶対と教えられてきました」
 そう、地霊のためには、幻曲師など葬って当然と言うのが神官の考えなのだろう。
 羽白は、ふとひわに目を落とした。
 ひわもまた、岩の絵に見入っていた。身動きせず、憑かれたように目を見開いて。
 羽白は、思わずひわの肩を抱き寄せた。こんなところに閉じ込められて、どんなに恐ろしいことだろう。早くここを抜け出さなければ。
 壁画には未練があったが、羽白はひわの肩に手を乗せたまま先を進んだ。
 水の流れは、洞を横切るとまた地の中に潜っていた。
 その近くに、裂け目のような横穴が続いていた。一列になって歩けるはどの横穴は、やがて三人が肩を並べて歩ける幅になった。
 羽白は、たびたびひわに目をやった。ひわは目をいっぱいに見開いて、たえずあたりを見まわしている。
 洞の出口を探そうとしているのか。それにしてもその顔はもっと別の何かを追い求めているような一途さで、羽白が手を離せばひとりで先に進みかねない勢いだった。
 どうしたというのだろう。恐怖で気がおかしくなったとも思えないが。
 と、井月が松明を振り落とした。にわか作りの松明の火は、すでに井月の手にまで届いていたのだ。
 足下の炎はすぐに燃え尽き、真の闇が訪れた。
 その時、ひわがかん高い叫びを上げた。長く尾を引く、悲しげな声だった。
 声は洞に反響した。羽白は、ひわを落ちつかせようとした。
 しかしひわは、羽白の手をすり抜け、井月を押しのけて、闇の奥に駆け出した。


 
 
 







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