第1話

文字数 3,701文字

 
 予期しない獲物のような唐突さで、その言葉は羽白(はしろ)の耳に飛び込んできた。
「麒麟」
 ここ半月ばかりの間、羽白の頭を占めていたのは麒麟のことばかりだったから、ゆっくりと声する方に首をめぐらしたのも無理はない。
 綾織(あやし)多治(たじ)の国境、大比呂(おおひろ)川の渡し船には、他にも数人の客が乗っていた。声は、その中でも一番年若な青年のものだった。
 青年というより少年に近い、まだ充分子供っぽさを残した彼は、頼る者でもいるのだろう。都に上る途中と言っていた。そしてなんのことはない、早々と家恋病にかかってしまったようなのだ。
 後にしてきた故郷のことを、彼はたてつづけに話していた。隣に座った因果で聞き役にされてしまった行商人を、羽白はさきほど、ひそかな同情をもって眺めたものだ。てんでにうんざりしている乗客には気づきもせず、青年は語りつづけた。
 家族のこと、故郷の美しさ、地霊(ちれい)の豊さ。
 なにしろ、自分の故郷には、まだ麒麟だっているのだから。
「麒麟?」
 ここにいたって、行商人ははじめて反論した。
「麒麟がいるって言うのかね、あんたは。龍が死に絶えたことを信じない頑固者も麒麟の死滅だけは認めている。麒麟は、龍以上に霊的な生きものさね。なのに、あんたの故郷には麒麟がいるってね?」
「だって、本当なんだ」
 青年はいくらか弱気になって首を振った。
「見た者がいる。金色の身体と、それよりも薄い色のたてがみと尾を持っているそうだ。犬ぐらいの大きさで・・」
「あんたは見たのかね」
「見た、足跡を見たよ。馬とよく似ているがあんなに小さな馬はどこを探してもいやしない。やっぱりあれは麒麟なんだ」
「ふふううん」
 行商人は馬鹿にしたように顔をそむけた。青年は傷つけられて口ごもり、それでももそもそとつぶやいた。
「麒麟なんだ。私の故郷ではみんな言ってる。ずっと昔から」
「それで」
 羽白は静かに声をかけた。
「故郷はどこだったかな」
 青年は驚いて羽白を見つめた。船端近く、胡座をかいて座っている若い男を。
 身体つきは華奢で、ほっそりとした美しい顔立ちをしている。粗末な衣と袴、まっすぐに背中に垂らした長い黒髪。
 髪を結わないのは放浪の民の証であり、大きな革袋に入れて大切そうに前に抱えているのは一面の琵琶だ。漂泊の琵琶弾きであることは一目で知れた。
長足(なたり)
 青年は、救われたように声を上げた。
「綾織の名足だ。小夜叉岳(こやしゃだけ)の近くだよ」
 渡し船が多治に着いても、羽白は降りなかった。舟に乗ったまま、再び綾織に引き返した。
「あんたもまったく、物好きだあね、琵琶弾きの兄さん」
 渡し船の親父があきれたように声をかけた。
「ほんとうに麒麟がいると思っているのかね」
「さあ」
 羽白は琵琶を抱え直し、小さく笑みを浮かべた。
「どうだろう」

 麒麟というのはめでたい獣だ。
 それは誰でも知っている。
 鹿によく似ているが尾とたてがみは馬にも似、そして額に突き出た一本の角。
 幼獣には角がなく、まだ雄雌の区別を持っている。麒麟と言われるのは、彼らがつれあいを見つけたその時からだ。二頭の幼いものたちは、一頭の成獣に化している。
 雄雌同体、かがやく角、すばらしい肢体の霊獣に。
 琵琶には麒麟の古謡が三つある。羽白はそれをみな弾きこなすことが出来る。耳を傾ける者も、まずは感心して聞きほれる。
 だが、どうも違うのだ。
 麒麟の曲を弾いても、羽白は麒麟を思い浮かべることが出来なかった。麒麟は伝説の向こうに、ぼうぼうとおぼろに霞んでいるだけだった。
 どうしてなのだろう。
 考え、やがて思い当たった。
 これらの曲をつくった琵琶弾きたちも、麒麟を見たことがないにちがいない。
 そうだ、だいたい琵琶弾きなどという商売が生まれるずっと以前に麒麟は死に絶えたはずなのだから。
 だとすれば、古謡に執着することもないわけだ。伝説でしか麒麟を知らないという条件は同じなのである。
 自分で曲をつくってみようと羽白は思った。そのためには、どんなささいなことでもいい、麒麟についての情報を拾い集める必要があった。
 舟の青年の言葉を、羽白はまるきり信じているわけではない。しかし、麒麟の噂がある以上、麒麟に関係することが片鱗なりとも残っているのではあるまいか。
 行ってみるのも悪くない。
 というわけで、数日前にたどった綾織の街道を、羽白はてくてくと引き返していた。
 高い山脈が紫色にけぶる雲さながら、前方に横たわっている。山脈の中ほどに形のよい円錐形の稜線を見せているのが小夜叉岳で、目指す名足はその麓だった。
 夕刻近く、羽白はびたりと足を止めた。道の端の木の根元、小さな影があったので。
 両膝を抱えてぼんやりとうずくまっているのは七、八歳の女の子だった。
 その可愛らしい顔に、羽白は見覚えがあった。
 何日か前、隣で野宿した旅芸人の一座の中にいたはずだ。一座の舞い手だった母親が、死んだばかりだと誰かが教えてくれた。身寄りは他に無いようだとも言っていたっけ。
 皆と離れた場所で、声も上げず、大きな目からとめどなく涙をあふれさせていた姿だけが、羽白の記憶に残っていた。
 他の者たちはどうしたのだろう。ちらと考えながら、羽白は少女の前を通り過ぎようとした。少女は顔を上げ、羽白を見つめた。
 あの時から泣き続けているような、赤く腫れぼったい目だ。
「なにをしている?」
 さすがに羽白は問いかけた。
「仲間はどうした」
 少女は何も答えなかった。頼りない小さな獣のような目で羽白を見返し、首を振った。
「おまえ、ひとり?」
 少女は深くうつむいた。
 すべてを察し、羽白は眉をひそめた。
 それではあの連中、この子を捨てたのだ。足手まといになるとはいえ、渡世の術も知らない小さな子供を。
 里から離れたこんな場所に置き去りにするとは、死ねと言っているのと同じではないか。
 怒りをかみ殺し、羽白は少女の前にかがみこんだ。
「名前は?」
 少女は悲しげに首を振るばかりだった。羽白は、はっとした。
「口がきけないのか」
 少女は、はじめてこくりとうなずいた。
 羽白は、小さく息をはきだした。
 この子を放っておいては、後々まで寝覚めの悪いことになるだろう。

 少女は、羽白が炊いてやった薄い粥の、ほんの一椀で満足した。あとは、羽白が食事の後始末をするのを、所在なげに眺めている。
 野宿には手頃な河原だったが、火を焚いているのは羽白一人だった。
 それもそのはず、秋も深まると同時に芸人やその他旅まわりの者たちは、こぞって南に足を向ける。冬の厳しさが折り紙付きのこの国で、まだぐずぐずしているのは自分くらいと言うわけだ。
 さて、この子をどうしよう。
 人里に降りれば、下働きにでも置いてくれる大きな館が見つかるかもしれない。しかしここは山の中。しばらくは一緒に連れて行くしかなさそうだ。
 火を大きくかき立てて、羽白は琵琶の稽古をはじめた。
 短い古謡を二曲ほど。
 弾き終えてふと傍らを見ると、少女は抱えた膝に顎をのせて、じっと炎を見つめていた。
 羽白は少女を拾ってから、言葉らしい言葉をかけてやっていないことに気がついた。長く一人旅を続けているので、相手がいることに慣れなかったし、もともと必要なこと以外は話さないたちなのだ。
 だが少女の姿は淋しげで、羽白は、いささか心が痛んだ。なにか話しかけてやろうかと思ったが、わざとらしくてやめにした。
 そこで、羽白はまた琵琶をかき鳴らした。こんどはがらり調子を変えて、高音の軽やかな旋律で。
 二人のまわりの空気がゆらめいた。
 ゆらめきながらしだいに青みを増し、いつの間にか水底になった。たなびく海藻の間を、群れなす魚が横切っていく。
 少女は小さな叫び声を上げて羽白にすがりついた。
「大丈夫だ」
 羽白は言った。
「見ていてごらん」
 黒い斑の(はぜ)が、母親のお古らしい少女のだぶだぶの衣を物見高そうにつっついた。
 少女はおそるおそる鯊に手を伸ばした。それは少女の手の中を通り抜け、なにくわぬ顔で泳ぎ去って行った。
 足元の石の間で蛸がぐにゃりとうごめいている。薄青い紗のような海月が傘を上下させながら幾百となく漂い、たちまち現れた鰯の群れが背鰭をきらめかせながら少女のまわりを輪舞した。
 少女は手をたたき、出会ってはじめて可愛らしい笑い声を上げた。
 羽白は琵琶をやめた。
 水底の幻はかき消えた。
「幻曲だ、これは」
 目を丸くしてあたりを見まわしている少女に羽白は言った。
「聴く者に幻を見せる。おもしろいか」
 少女は夢中でうなずいた。
「また弾いてやろう」
 羽白は微笑み、ちょっと肩をそびやかした。
「人前ではだめだが。世の中には、幻曲師を快く思わない者たちもいる」
 羽白の脇で、少女はぐっすり眠ってしまった。
 その安らかな寝息を聞きながら、羽白は少女の横顔をぼんやりと眺めた。
 はじめて覚える感情にとまどった。ふわふわとした、甘やかな感情だ。小さなものに頼られているという満足感か。
 それはけして悪いものではなかったが、羽白は心の隅に押しやることにした。
 長くは連れて行けないことはわかっている。どこかでいい引き取り手が見つかればいいのだが。




 
 


 
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