第2話:山根銀司に市長交代し砂利で建設業へ

文字数 1,784文字

 しかし、1日、4時間の睡眠で、バリバリ仕事をこなしていたが、遂に倒れて2週間の入院を余儀なくされて、弟の総務局長が、市長のハンコと陳情の話を聞く役となった。選挙参謀だった泉谷重安も心臓の病気で、入退院を繰り返していた。その後、1952年を迎えた。そして、市長の任期4年、1952年8月が選挙となった。

 病床の泉谷重安は、高齢で病床の身ながら、無理を承知で選挙参謀を引き受けたが、現市長の山根泰造の市長再選は、ドクターストップが、かかった。そこで、急遽、弟の東京都立大学経済学部卒業で、山根興業、専務の山根銀司が選挙に出馬することになった。幸いな事に役所の許認可を担当していて、地元の有志との面識もあり愛想がよい性格なので敵を作ることもなかった。

 また以前ライバルだった吉村秀一が、東京のマンションに引っ越していて、強敵がいなかった。さらに前市長の山根泰造に世話になった人が、地元に多かった。そのため、すんなりと山根泰造の弟、山根銀司22歳が、1952年8月の選挙で新市長に当選した。その後、この選挙の結果を見届けるかの様にして兄の山根泰造が心不全で、他界した。

 山根銀司は、1930年で生まれ1950年20歳で、伊東好美さんと結婚し1951年に長男、山根勤一、1953年に次男、山根勤二、1955年に山根勤三と3人の男の子をもうけた。すっかり、金回りが、良くなり、奥さんの好美さんは、子供達の教育に力を入れ始めた。好美さんが、近くの短大の英文科を卒業していた。

 そして英語の絵本や地球儀、地図、算数、国語、英語ドリルと多くの絵本を買って、読み聞かせていた。亭主が市長になってから、忙しく、自宅で電話を受けていて、用件を全て、市長の耳に入れていた。専属秘書として秘書費用も支払いをしていた。その後一族の会社でも顧問になり実態のない有限会社をつくり税金対策をしていた。

 その後、山根の一族は、山を越した東京都下でも会社を作り、一族で川から川砂の会社を作り、このころからビル建設の時に砂利や川砂の需要が多く、大繁盛し始めた。と関東では、千葉で砂利と川砂が取れていたが、ここまで運搬してくるの3時間かかりガソリン代を考えると難しかった。この事業で、毎月、多額の金が、山根一族の親族会社に入った。

 もちろん山根銀司の実家の名義の会社、山根興業にも利益が入った。1956年の選挙でも池山氏の財政と市内の業者の景気も良かったので、すんなり、山根銀司が再選された。1956年10月に、池山市の山間部につくられたゴルフ場が不景気で倒産した。

 そして買い取り手がなく困っている時に、そのゴルフ場のオーナーの有名な芸能人が、買って欲しいと山根銀司に相談が持ちかけられた。そして奥さんの会社で現状渡し1億円で購入した。そして奥さんの好美さんが関東一円の大手観光会社に関東で最大規模の遊園地の構想と共に5億円で話を持ちかけると、1社で購入すると電話が入り5億円で転売した。

 その後、有名な行楽施設として混雑するようになり繁盛した。1957年頃から池山市の都市化と共に市街地に建設ラッシュが始まり山根一族の川砂利、川砂がビル建設のためのコンクリートづくりに欠かせないもので、多くの地方労働者を川の近くのプレハブの宿舎をつくって24時間体制で取り出して、運ぶ作業をした。

 川沿いに砂が少なくなると作業所を毎年移動した。しかし、その忙しさに比例して山根家では、裕福になって奥さんの実家の庭に息子達のための家を建てた。その後、息子たち3人が横浜北部の家で生活するようにして毎月10万ずつ、食費、雑費として送金した。その後、池山市の景気は更に良くなり1960年の選挙でも山根銀司が再選された。

 1960年以降、建設ラッシュで、山根興業の純利益が年間20億円を越えた。そこで地元の超大手の建設会社と提携して、ここ八王子、町田地区のマンション、大きなビル建設請け負う会社を買収しマンション、木造アパート、学校などを建設。その他、八王子、神奈川県北部、町田市の不動産の売買を手広く売買し宅地造成も手がけた。

  1964年東京オリンピックが決まり建設ラッシュにつながった。そのため、川砂利、川砂の需要が、さらに増えて山根興業と山根不動産、山根建設、山根運輸がグループ企業として、素晴らしい勢いで成長、発展した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み