第3話:川砂、金「ゴールド」投資で儲ける

文字数 1,775文字

 まさに、砂利の中に金が、埋まっているという感じ「ゴールドラッシュ」の時代だった。そして、銀司も36歳で、精力的にいろんな、事業と赤門グループの関連会社と企画して、次々と成功させていった。東京オリンピックが決まってから、東京都内のビル建設工事のために川砂利と川砂の需要で、山根興業の作業所は、忙しさを極めた

 山根興業で雇った多くの地方労働者を雇い簡易宿舎に寝泊まりさせ、河津な採取の現場で働かせた。そして大型トラックに大量の川砂利と川砂を積んでは、東京へ向かった。1963年もフル回転で作業して山根興業には、大金が、転がり込んだ。この頃、山根一族の親戚でN証券に勤めていた山根富久が、山根グループに証券会社に口座を作らせ口座の担当者になった。

 そのため、高利回りのワリコーなどを大量に購入。それに加えてソニーの将来性を見込んでソニー株を安いときに買うよう奨め、1964年8月、1株40円で、10万株、400万円で購入させた。1964年も山根銀司が市長に当選し東京オリンピックが開かれ、同年、次男の山根勤二も1964年に翠嵐高校へ合格した。

 1964年のオリンピックの年、山根グループ企業の総資本金が1億円を越え売上も3億円を越えた。まず、オリンピック後を見据えてしっかり貯蓄を提案した。そして得た利益で多くの投資商品を購入した。投資商品というのは、株式、貴金属、宝石、割引金融債権、一時払い養老保険、郵便定額貯金等で、山根一族、親族、親戚の名義をかき集めて資産運用に励んだ。

 当時は、金融機関での投資熱も盛んで無茶なことができた時代だった。その結果、税引き後利益が10億円となった。税金を少なくするため、10年かけて山根一族の銀行口座に振り分けた。しかし、1965年「昭和40年」には、東京オリンピックの後、徐々に好景気に陰りが見え始めた。

 その原因には、オリンピックの経済刺激効果がなくなっただけではなく、金融引き締め政策に起因した設備投資の減少、企業業績の悪化が、顕在化してきた。一方、こうした高い経済成長率は、1970年代に入ると大きく低下し、1970年代前半の実質経済成長率は年率で4.5%、70年代の後半は4.4%となった。

 また、名目経済成長率は、1970年代、前半%に年率で15.1%、70年代後半に10.1%と次第に低下したものの実質経済成長率との乖離は大きく、特に1970年代前半において物価上昇が大きかった事がわかる。なお、こうした状況変化は、主要先進国の間である程度共通してみられ、1973年の変動相場制への移行や二度にわたる石油危機が背景にあった。

しかし、日本は、第2次石油危機において、賃金・物価上昇の抑制を進めることができたため、他の主要先進国に比べ、その影響は相対的に小さなものに止まった。この景気の落ち込みが、響き池山市でも今迄の好景気から一気に不景気になった。そのため1972年の市長選で、山根銀司が、対抗する、自民党から地元商工会出身の山辺一郎が立ち不景気の責任問題を追及されて落選した。

 その後、山根一族の川砂利、砂の利権、週刊誌が、昔のゴルフ場の買収し、その後、高値で売り抜けた問題を追及し始めた。しかし、ゴルフ場の売却問題は、ゴルフ場を購入し経営していた芸能人が、麻薬を使いすぎて急逝し、跡地を東京の大企業が、安値で購入した。そして大きな遊園地を作り繁盛して池山市のシンボル的存在になっていた。

 そのため、いつのまにか忘れ去られた。その結果、山根一族の身辺に警察、検察の手が及ぶことはなく済んだ。そして1973年があけた。一方、1964年に買ったソニーは、1973年4月まで株式分割して18万8千株になった。そして、ソニーの株価が、1400円で10万株を売却し税引き後利益が、2億6千万円となり山根興業として2億3千万円を得た。

 山根富久が、1973年、金価格が、1g700円と歴史的な低価格なのに目を付け、山根勤一に購入した方が、良いと助言した。それを聞き、山根勤一が、山根興業から、金を借りて、合計、金、25キロを1750万円で、銀座の有名な金業者業者から購入して保管してもらう事にした。もちろん、山根富久に口外しない様に、お願いした。そして、週に1,2回、山根勤一が、八王子の佐野家を訪ねる様になった。
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