第3章 卓越主義者三島由紀夫

文字数 1,594文字

第3章 卓越主義者三島由紀夫
 三島は、討論会において、昭和天皇を支持する理由に言及している。それは理論ではなく、体験に基づいている。

 学生の一人から「擁立された天皇、政治的に利用される天皇の存在とは醜いものではないか」と問われた三島は次のように述べている。

 「しかし、そういう革命的なことをできる天皇だってあり得るんですよ、今の天皇はそうではないけれども。天皇というものはそういうものを中にもっているものだということを、僕は度々書いているんだなあ。その点はあくまでも見解の相違だ。
 こんな事を言うと、あげ足をとられるから言いたくないのだけれども、ひとつは個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生まれた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、3時間全然微動だにしない姿を見ている。
とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。
 こんなこと言いたくないよ、おれは(笑)。言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれが、どうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。
 それが今は敗戦で呼び出されてからなかなかそういうところに戻られないけどもね。僕の中でそういう原イメージがあることはある」。

 この発言は極めて重要である。それは三島由紀夫が卓越主義者だと告げているからだ。

 「卓越主義(Perfectionism)はアリストテレスに代表される倫理思想である。これを論じるためには、前近代における政治と道徳の関係を理解しておく必要がある。

 前近代の政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。共同体の認める規範に従った生き方がよしとされ、幸福もそこに生じる。この道徳はグレコ・ローマンにおいては共同体に内属しているので、超越的な外部はない。また、その徳は人間の本性と見なされる。共同体の規範に沿う生き方が幸福であり、人間の本性に敵っている。現実の人間が共同体の認める徳を実践することで、それが説く理想の人間に到達できる。政治はこれを目的とし、そうした美徳を卓越的に実践する人格の有徳者が担うべきである。

 卓越主義は、共同体の規範に即したよい生き方を目的に、徳の実践を通じて、理想の自己を完成させる倫理的立場である。前近代では行使が分離されていないので、認知行動は一体と見なされている。だから、道徳的卓越性はその行動に具現される。

 三島由紀夫は天皇の行動に卓越性を認めている。「こういうところに陛下が坐っておられて、3時間全然微動だにしない姿を見ている。とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で」。「それはとてもご立派だった、そのときの天皇は」。その上で、「人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれが、どうしても俺の中で否定できないのだ」と告げる。

 昭和天皇は徳の実践において卓越性を示している。それを認めるがゆえに、三島は昭和天皇を支持する。そうした有徳者であるからこそ天皇が政治と文化を合一し、統治を担うべきだ。天皇の申神聖政治を目指した皇道派の青年将校に三島が共感するのもここに理由があるだろう。

 なお、卓越主義は対人論証を正当化する立場ではない。近年、国内外問わず、人身攻撃が政治において頻繁に見受けられる。「対人論証(Argumentum ad hominem)」は論拠のある主張に対して、それ自身への反論ではなく、発言者の人格を攻撃する手法である。論理的・実証的な意見や質問をする相手の個性や信念、経歴などを貶めて主張の信頼性を低下させる。論点をすり替えるのみならず、議論自体を無効にして自らを強弁する論法だ。卓越主義から見れば、むしろ、対人論証を用いる方が悪徳である。
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