第4章 カントの義務論

文字数 1,109文字

第4章 カントの義務論
 卓越主義は、近代に入ると、主流の倫理学説から外れる。政治は徳の実践を目的にしていたが、1517年の宗教改革後、自らの道徳の正しさに基づいて殺し合いが繰り広げられる宗教戦争が欧州で勃発する。そこで、17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方もままならない。

 ホッブズは、そのため、政教分離を提唱する。政治は公的、信仰は私的領域に各々属し、相互に干渉してはならない。これは価値観の選択が個人に委ねられたことを意味する。それにより倫理的理想像も多様化する。

 前近代は共同体内で規範が共有されている。それは徳を実践すれば現実から理想に到達できると教える。しかし、近代は理想が共有されていない。現実を改善しようと徳を実践しても向かうべき理想は個々の価値観によって異なる。近代の倫理学は理想を示さないまま徳について語ることになる。

 近代倫理学には大きく二つの学説がある。一つはイマヌエル・カントの義務論、もう一つはジェレミー・ベンサム の功利主義である。前者は動機主義、後者は帰結主義だ。

 後に詳しく述べるが、三島が嫌う大正デモクラシーの教養主義に最も影響を与えたのがカント主義である。彼の義務論は定言命法として要約され、それは「汝の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して汝が同時に意欲できる、という信条に従ってのみ行為せよ」である。これは卓越主義と違い、行動自体よりもその動機を重視する。

 しかも、それは普遍的でなければならない。価値観の選択が個人の自由なのだから、共同体の規範に従う必要はない。けれども、個人の信ずるものの通り行動して良いわけではない。個人や共同体を超えて普遍的に広く人類が共有できる原理原則に則っていなければならない。それによりそうした動機に基づく行動は倫理的と人類から認知される。

 普遍性は共同体を超えているのだから、超越性とも言い換えられる。卓越性を超越性によって本格的に批判したのがキリスト教である。人間には原罪が有り、欲望に囚われる存在だ。アウグスティヌスはそうした罪深き人間の間になんとか秩序をもたらすのが政治で、それは「神の国」の二次的なものを目指すほかないと説く。カントの義務論はこのような卓越性批判の系譜に属する。

 こうした普遍性を認識するために「啓蒙」が必要である。 カントの『啓蒙とは何か』によれば、「啓蒙とは、人間が自らの未成年状態から抜け出ること」であり、そのためには「理性の公共的な使用」が求められる。

 これこそが大正教養主義の精神である。それは大正デモクラシーにおける思想的特徴を示している。
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