第5章 大正デモクラシー

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第5章 大正デモクラシー
 「大正デモクラシー」は1910〜20年にかけて起こった政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展や自由主義的な運動の展開、教養主義的思想の浸透、前衛的な芸術の開花、開放的な風潮の総称である。期間をめぐっては諸説あるが、ここでは1912年の第一次護憲運動から1932年の五・一五事件までとする。前年の1931年に満州事変が勃発、外交面での国際協調路線は事実上修正されたが、政党政治にとどめをさした五・一五事件を終わりとすべきである。「話せばわかる」と言う犬養毅首相に対して、「問答無用」と海軍の青年将校が引き金を引いて答えたことが象徴的である。非暴力的な大衆運動による藩閥政府の打倒から始まったデモクラシーが暴力によって終わる。

 なお、「大正デモクラシー」は戦後に生まれた概念である。当時からそう呼ばれていたわけではなく、信夫清三郎の『大正デモクラシー史』(1954)が初出である。

 大正デモクラシーにおいて最も重要な理論が吉野作造の「民本主義」である。これは”Democracy”の訳語であるが、大日本帝国憲法には「主権」の所在の記述がなく、国民主権が規定されていないため、現在一般的な「民主主義」に代わって使われている。

 「民本主義」は、主権の所在を問うことなく、人民多数による政治の意味で、茅原崋山が考案したとされる。彼は『萬朝報』記者で、1912年に「貴族主義・官僚主義・軍人政治」の対立概念として同紙上で使用し、さらに翌13年から自ら創刊した雑誌『第三帝国』で喪展開している。また、井上哲次郎東京帝国大学教授は帝王は臣民の福利を重んずべきと民本主義を唱えている。このように、当初、「民本主義」は進歩的にも保守的にも使われている。

 吉野作造は用法に揺れのある「民本主義」を再定義する。吉野は民衆的示威運動を論ず』(1914)や『牽制の本義を説いて其有終の美を済ますの途を論ず』(1916)などの論文を著わす。特に重要なのが『中央公論』に発表した後者である。彼によれば、国家の主権は法理上民衆にある。そのため、国家の主権の活動の基本的目標は政治上民衆にあるべきだとなる。主権者は民衆の利福・意思を尊重しなければならないのだから、その所在を問う必要はない。統治は民衆の利福のために行われなければならず、それには民意に基づく政策決定が不可欠である。

 吉野は、影響力のある『中央公論』を拠点に、民本主義に基づく論考を引き続き発表していく。民本主義もおいて民衆が衆議院議員を選び、それが内閣を拘束し、さらに天皇に影響を与える。これが民本主義の立憲君主制である。彼は、そのため、言論・集会・結社の自由、普通選挙制・政党内閣制の採用、枢密院・貴族院・軍部など絶対主義的機構の弱化を主張している。また、民本主義を社会問題の考察にも拡張、労働者の団結権や・ストライキ権を認める。民本主義は多元主義的であり、吉野は対外政策において武断的大陸侵略否定、朝鮮同化政策反対、国際協調維持といったリベラリズムを主張している。彼の民本主義は天皇主権や帝国主義との直接対決を回避しているけれども、実質的にそれらを批判している。

 こうした政治的・経済的背景の下、文学を含む芸術においてモダニズムが席巻、思想では教養主義的な哲学が広く詠まれ、開放的な大衆文化がブームとなる。それら二は欧米との同時代性が認められる。「大正デモクラシー」は、明治維新以降、日本における近代性の到達点であり、規範である。

 1930年代以降の思想は大正デモクラシーを標的にしているが、それを超えるものではない。「近代の超克」は「白人の重荷」(ラドヤード・キプリング)のパターナリズムを西洋近代であるとして批判、日本の帝国主義政策を正当化している。しかし、それは大正デモクラシーの代表的思想家の一人である石橋湛山の『大日本主義の幻想』をはじめとする論考に遠く及ばない。戦後民主主義は大正デモクラシーの復活強化であり、その批判は概して15年戦争期の思想のヴァリエーションにとどまる。

 吉野の民本主義は包括的な政治哲学で、大日本帝国憲法下での政党政治を基礎づけた法学理論が天皇機関説である。ゲオルク・イエリネックの国家法人説を援用して、美濃部達吉が1912年に『憲法講話』の中で提唱している。それは、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関であり、内閣を始めとする他の機関からの輔弼を得ながら統治する説である。従来は天皇主権説に基づき、議会・政党の影響を排除して藩閥・官僚で統治する趙前内閣が正当化されている。、これは天皇に主権があるとする説であるが、憲法は「万世一系」と規定しているので、その祖先にもそれがあることになってしまう。近代的立憲君主制の統治としてあまりにまがまがしい親政である。

 社会契約説が示す通り、近代はその根拠を経験科学に見出す。近代社会は人為的であり、前近代と切断されている。社会契約は個人が集まって社会を形成するという仮定であって、、実際に遭ったかなど問題ではない。当然、契約の発想は西洋のものであるから日本は違うという主張はたんなる無知だ。神話や叙事詩による創世伝説を社会や国家の存立根拠にすることは反近代的である。大日本帝国憲法はその1条で天皇を「万世一系」と規定する。これは近代の存立根拠を理解していない。昔から天皇がいたのだから従えと言うのは、前近代的な認識である。そうした体制はグロテスクなものでしかなく、部分的に近代制度を入れたところで、為政者が自分に都合よく統治をする方便で、破綻する。近代は体系的理論に基づいており、包括的に取り入れない限り、あちこちから矛盾が噴出するだけである。近代的立憲君主制の原理に沿っていない天皇制の議論は恣意にすぎない。

 1935年、天皇機関説が不敬であるとして攻撃される天皇機関説事件が起きる。これには、反大正デモクラシーの膨張主義的行動を正当化しようとする軍部のみならず、岡田啓介内閣の打倒を画策する政党も関与している。政党政治の法的根拠である学説をその政党自身が目先の利益に囚われて否定したと言うわけだ。政党政治の自殺であるから、当然のこととして、彼らはそれによって戦後まで統治から排除されることになる。

 1945年8月15日、玉音放送がラジオから流れ、国民は大日本帝国がポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏したと知る。1947年5月3日、象徴天皇制・国民主権・平和主義を柱とする日本国憲法が施行される。大正デモクラシーの復活強化として戦後民主主義が発展していく。
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