第1話

文字数 3,495文字

 避けようのない運命的な死が、或いは宿命的な死期が足音を立て訪れようとしている。

「……そんなに泣かれちゃあ、死んだ後が不安だよ。笑ってこのお婆を見送りなね……」

 桔梗(ききょう)の声は掠れ、ほとんど聞き取ることができなくなっていた。
 忍ぶことなく、革靴で大理石の床を鳴らすように、着実に、そして確実にその時が訪れようとしていた。迫りくる死期が、果たして背中を脅かされるべきものなのかどうかは当人にしか知る由がないだろう。だが少なくとも、桔梗の今際の際は一点の曇りなく晴れやかだった。

「あんたはさ、自分のしたいようにしたらええ。あんたはあんたらしく、生きるんよ」

 君波碧(きみなみみどり)は、耳元で微かに聞こえる最後の言葉を一言一句聞き逃すまいと、桔梗の手を力強く握りしめる。吐息混じりの虫の声に耳を傾けると、自然とぽろぽろと涙が溢れた。

「おばあちゃん……やだ、やだよ……」
「母親に似てまぁ泣き虫だこと……いくつになっても、変わらんねぇ……」

 一瞬、桔梗の呼吸が止まった。

「碧、碧……後のことは、頼んだよ……」

 桔梗の手を握っていた碧の手の中で、重みが伝わった。力を失い離れていく桔梗の手を摑まえなおすと、碧は、はっとして彼女の顏を見た。
 未練はない。後悔もない。果たされるべき心残りは全うした。そう表情で語る祖母桔梗の双眸がゆっくりと光を閉ざしていく。そこに底なしの沼へと沈んでいくような気配はない。むしろ深い闇の中で、一縷の光を手繰り寄せた先の景色に心が弾んでいるかのようにさえ見えた。彼女は最期の一時まで、柔らかに碧へと微笑んでいた。

「うう、うあああああああっ…………」

 君波碧、十八歳。
高校三年の夏の日のことであった。
祖母の呼吸は、蝉時雨の内へと深く沈んでいった。



 生まれたばかりの小鹿でももう少しマシな歩き方ができたろう。弛緩した全身の筋肉が脳の信号を完全に拒絶していた。しかし、不思議と心は前を向いていたのだった。祖母は亡くとも心はそばにある、そう自分に言い聞かせることで、辛うじて人の形を保っていられた。高校生離れしたその胆力は、碧の出自と家系に由来する。

「碧様、準備が整いました」

 居間の引き戸を開けると、脇から女の声が刺さった。

「大丈夫……じゃなさそうですね」

 ふっと力なく微笑む彼女の耳元で勾玉の耳飾り揺れる。深々とした真緑は夕日を反射し、その濃淡の明滅が碧の瞳を奪っていた。
 君波家の従者、藤宮梅(ふじみやうめ)は毅然とした態度であった。従者が彼女であるならば、主人とは桔梗のこと。主人の死を目の当たりにしてもなお、ぎりぎりの均衡で姿勢が保たれているのか、それとも実際には跡形もないが取り繕っているだけなのか、碧は梅がそのどちらであるかを瞬間的に理解していた。
 木を隠すなら森の中とは言うが、梅は瓦礫の山を堂々と海へ投げ捨てるタイプの人間であることは熟知していた。だからこそ、禄を食む身としての責務を果たさんとする立ち振る舞いに心が痛む。喫緊の状況は、梅に涙のいとまさえ与えやしない。主の死、思うことも山ほどあるだろうに、見事と称賛に値する気丈な振る舞いは他の誰でもない碧のために違いなかった。

 泣いてもいい時に泣けないのは辛いだろうな、と碧は言葉を心に仕舞い、洟を啜った。

「ううん、大丈夫……始めましょう。神役の継承を」

 場所は長崎県対馬市。幾度となく戦火の舞台となったこの土地を、代々数百年、いや、千年単位の永劫とも言える時をかけて守り通してきたのが君波家一族である。守護者として、そして神役として、表にならない秘め事を守ってきた。

 神役とは、神と対話する者。
 或いは、神の意思を授かる者。

 古くから対馬に根付く神道を秘かに守護してきた君波一族にとって、世代交代は重大な行事である。文面だけで役職に就任したり退任したりを繰り返す会社員とは打って変わり、神役の世代交代は、神そのものに報告をしなくてはならない。言葉を交わし、仰せ仕り、そして仰せ合わせるのだ。世話役でもある神役の交代は、その責務も合わさり並々ならぬことではなかった。

 君波家総代が亡くなった今、神との対話を許される者は碧の他にいない。形あるものとして残されたのは、神役補佐として桔梗の下、修行してきた碧とその従者のみ。碧の母父は、彼女を産んだ後しばらくして事故に遭いこの世にはいないと聞かされていた。もはや、君波家の跡取りはおろかその血を引く者でさえ、半人前の孫娘のみであった。

 だがしかし、天涯孤独の身かと言えばそうではない。君波家が代々背負ってきた神役の責任を除けば、碧は極々一般的な女子高生だった。周りと同じように勉強して、くだらないことで笑ったり喧嘩をする。親友と呼べる友達もいて、人並みに恋愛もしてきた。田舎の対馬にも流行りのものはある。スマートフォンを片手に化粧を嗜み、人の写真を肴にああでもないこうでもないと盛り上がるくらいのことは日常だった。休みの日には島を出、本島へ繰り出すこともしばしばある、どこにいても恥ずかしくない思春期真っ只中の平凡な女子高生。友達はいるし近所付き合いもある、何より血こそ繋がらないが姉のように慕う従者の存在が心の支えだった。

 祖母の死を悲観することはあれ、孤独に絶望することはない。寂しくはない、と言えば確かに嘘だ。だが、「大丈夫」というのは偽りなき本音だった。

「う、梅さん、ちょっとキツイかな」
 碧は手際よく着付けを行う梅に苦笑いを見せた。
「ふふっ、成長したということですね」
 まったく、と碧はかぶりを振る。
「太ったかな……うう、ダイエットしなきゃ……」
「健康的でちょうどいいと思いますよ。最近の若者は骨と皮しかありません。カロリーなくしては、神と対話も困難でしょう」
 梅は冗談を交えつつ、碧の腫れ上がった瞼と充血した目を見て、「端正な顔立ちが台無しだわ」と笑いながら化粧を施す。
「総代桔梗様は生前、碧様のことをよく『若い頃の私にそっくりだ』と仰っていました。そして、母も父も早くに亡くし、可哀想だとも」

 でも、と梅は化粧ポーチを探りながら続ける。視界の奥に、安らかに眠る桔梗の姿があった。

「そうは思いません。友人がいて、私がいる。私だって、幼くして君波家へ仕え、碧様が赤子の頃からずっと見守ってきました。まぁ、当時は私も子供でしたので遊び相手くらいのものでしたけれど……でも、これでも桔梗様と同じくらい私は碧様のことをわかっているつもりなのです。可哀想だなんてひとつも思ったことはありません。泣き虫なのは相も変わらず、ですがね」

 すっかり大きくなられましたね、と梅はたおやかに微笑んだ。

「梅さん、ひとつ聞いてもいい?」
 碧は化粧の邪魔にならぬよう、瞳を閉じたまま言う。
「お母さんとお父さんって、本当に事故で死んだの?」
「…………」

 化粧スポンジを扱う梅の手が一瞬止まった。そして、ばつが悪くなり瞼を伏せた。触れてはならない禁域へと近づこうとする碧になんと返していいかわからず、断腸の思いで沈黙を貫いた。

 真実は海の底。

 知る権利がたとえあったとしても、だから全て知らなくてはならないということはないだろう。だが遅かれ早かれ真相を知る時が来るのならば、包み隠さず明かすには絶好の機会ではないか、と梅の中で強烈な葛藤が巡っていた。

 迷いの現れた化粧スポンジの行方に、碧は「やっぱり教えてくれないんだね」とため息を吐いた。

「海上の事故で亡くなった……そう聞いています」
「……そればっかり」

 碧が物心ついた頃には既に父母を亡くしていた。彼女が幼い頃はよく父母の行方を問うたものである。しかし明確な回答を得られず煙に巻かれたまま大人になった碧は、頭の隅で何がなしに理解していた。何か言えない事情がある、そんな雰囲気を察することができる年齢になり、次第に口をつぐんでいったのだ。疑問は晴れず、わだかまりは積もるばかりだが、片時もそのしこりを忘れたことはなかった。

「海上事故なんて嘘ばっかり」
 
 ぽつり、と。
 誰に聞かせるでもない独白に、梅はぎょっと目を見開いた。
 
 碧は知っていた。こんな片田舎で人が死ぬような事故があれば地域のニュースや記事になっていても不思議ではない。些細な火事でも起きようものなら隣町まで響き渡るレベルでの大ニュースだ。それが人が死亡した事故ならばなおのこと。隅々まで調べた限り、少なくとも海上事故と安易に片づけられるような記事は見られなかった。

「言いたくないならもういい」

 表情が腐っていく碧に何も語ることができない己の不甲斐なさを悔やむばかり、しかしそれでも、梅は夜のしじまを保ち続けた
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