第2話

文字数 4,011文字

 もうすぐ日が暮れる。蝉時雨の輪郭が徐々に曖昧になってきた頃だった。
 日は長くとも、田舎の夜は早い。山林を少し登った先に居を構える君波家周辺は、日没になると原生林の伸びた影によってすっかり暗くなってしまう。夕と夜の境界は、僅かにまだ均衡を保っていた。

 それから梅は施しを終え、すっかり泣き痕が隠れた碧の仕上がりを確認した。父に似た端正な顔立ち、母そっくりの二重瞼の目は化粧がとてもよく映える。蒼白に仕上がった肌だが奥に隠れる血色がいい。病弱で細いという印象はなく、健康的なしなやかさがあった。

 梅は遥か昔の記憶の断片を拾い上げる。今は亡き碧の父母が重なって見えていた。
 まだ碧が産声をあげて間もない頃、梅は桔梗に手を取られ君波家へとやってきた。当時は七才だか八才だかの少女に過ぎなかったが、その時には既に自分に課せられた役目が炎のように胸中で宿っていた。そして自分がどう生き、何のために死ぬべきであるかを考えた。誰のために生きて誰のために死ぬべきか、そう自問した後すぐに自答を得た。なぜなら、背筋に一本の太い柱の通った彼らの背中が、幼き梅の網膜を強烈に焦がしたからだった。松明で松明を灯すように、或いは聖火ランナーが火を継ぐように、梅の心がぼっと火が付いた瞬間だった。

 そうして梅は碧の手を優しく取り、両手で災いから守るように包み込んだ。体温と体温が触れ合うと、縄で心臓を縛られたかのような感覚になった。

「碧様、私は君波家の従者。今は亡き総代の命にて一族をお守りする立場にあります」
 ですが、と梅は唸った。せき止めていたあらゆる感情が大海の波のように押し寄せてくる。理性では防ぎようのない津波が言葉となっていた。

 こんなこと、言うべきではない。
 でも——と、にかわで固められた梅の表情が剥がれ落ちていく。

「今この瞬間だけは、それを忘れてもいいでしょうか……」

 従者としての振る舞いはない。君波家を支える重圧や己が負う責務の一切をかなぐり捨て、梅はたった一言、これまでのおよそ二十年を走馬灯のように振り返った。

「あなたは死なないで……」

 碧にとって、それは初めて聞いた梅の本音だった。
 同時に、梅にとってそれは初めて口にする家族へ向けた愛情であった。

 主と従者。両者を分け隔てた分厚い壁を壊すことはきっとそう難しくはなかったに違いない。なぜなら、家族であるから。幼少期から姉妹のように暮らしてきた二人にとって、主従関係などあくまで建前でしかなかった。互いの言葉遣いや態度は煮汁の表面を掬うことにしか過ぎず、底で交わるものがあればあらゆる建前が些事となった。だが、梅は常に本音を建前で隠してきた。己の責務の下に、その存在価値は下る。役目を果たすためには、鬼でも悪魔でも演じられるのが彼女だ。理を律する者として、心で泣き、顏で笑うことを強いられることが多かった。

 それが辛いと感じたことはない。
 泣いてもいい時に泣けないことが、泣いてもいい時にそれを許されないことが梅を苦しめていたわけではない。

 一番苦しいのは、隠しきれていないものを隠し通せていると碧に強いていることだった。自分の役目と責任をどれだけ呪ったかわからない。だが内に宿る炎を、一時の涙で消し去ることはどうしても梅にはできなかった。だからきっと、もし彼女が心の底から涙を流すことがあるのならば、それはいつの日かその役目と責任が軽くなった時なのだろう。

「うん、大丈夫」
 碧は言う。

 家族の見栄や虚勢を見透かすに容易かった。

「わたしは死なない」

 そう言って、碧は玄関の扉を開いた。
 碧の瞳に憂いはない。潤みもない。さっきまでの覚束ない足取りさえもない。力強く、
屹立した姿勢で一歩、また一歩と闊歩していく。これから神様に会うというのに、どこか神頼みな梅の姿が少しおかしく見えるくらいには余裕も同時に存在していた。

 絶望の淵に立つ顔で見送る梅を背に、碧は家の前から続く獣道へと入った。草木を分けしばらく進んで気づく。あれだけうざったらしかった蝉の訴えは、いつしか鈴虫の心地よい合唱となっていた。
 今晩は宵の色が濃い。いつもは無数に輝く星空も、今日に限っては雨のにおいに姿を隠していた。朧月の明かりを頼りに原生林を抜けると、次第に潮のにおいが漂ってくる。目的地は眼前にあった。

 海岸沿いに出た碧は、零れ落ちる汗を袖で拭い一息つく。十五分ほどの道のりだったが、高温多湿な山道に体力が奪われていった。

「まったく、毎度のことながら思うけど、辺鄙なとこにあるもんだ……」

 碧は神前で悪態をついた。
 神に仕える者としてあるまじき言動かもしれないが、良くも悪くも真っ直ぐな性分の彼女は神様にだって文句の一つや二つ言われるくらいの筋合いがあるだろうと心底思っていた。現世まで語り継がれてきたその神話全てにおいて美しいことばかりではない。意味不明な動機で殺し殺される神々、神道に深くなればなるほど常識から逸脱していることをよく理解していた。

 海岸沿いから渚へと下ると荘厳な鳥居が見える。所々ひび割れ朽ちてもなお聳え立つ様はいささか強暴にも思えた。それは神社境内から続き、およそ人が地に足をつけていられる波打ち際、さらには海の真ん中へと続く。

 五連の鳥居。
 境内から『大神門』『虎口神門』、それから海に出て『壱の神門』『弐の神門』『参の神門』——君波家では、その鳥居を『神門』と称していた。

 神門は海に浮かぶ。
 絶対的な何かの力によって。

「……うわぁ」

 碧は壱の神門を前にして感嘆の声をあげた。まるで空から絹の布が落ちてくるかのような濃霧がとても幻想的だった。波風立たない穏やかな海。僅かな細波と潮風が湿った額を気持ちよく乾かしていた。

 ふぅ、と碧は一息吐く。

 火照った体と心を落ち着かせる。瞳を閉じ、自らの鼓動をその手のひらで感じ取る。心の臓は、はっきりと確かに『生きている』と訴えかけていた。

 ここに祀られるは、ワタツミノカミ——海神である。

 日本全国津々浦々、あらゆるところで祀られていると言っても過言ではない絶対神。日本神話を語ると必ずその名が出ると言ってもいい国生みに並ぶ絶大な存在。その姿形は様々、人の形で描かれていれば、ある土地では龍神として語られていたりもする。そんな神話から、海に浮かぶ鳥居を有するここワタツミ神社は龍宮の入り口であるとも語られていた。満潮時には海水が境内にまで到達することもその所以だった。そんな幻想的な神社を前に、人々は口を揃えて『龍宮伝説』を語るのだ。

 所詮は伝説ではある。

 神の御身を実際に目にしたものはいないだろう、碧もまた神役補佐ではあるものの、実の眼で拝めたことは一度もなかった。その点は割り切っている。神の御言葉を耳にし、その意思を授かることさえできれば神役としての役目は十二分に果たせているのだから。神役にとって、いや、神道に仕える者たちにとって、その姿形の有無などは些末である。

「よし」

 満潮もあり、境内では海水が社殿あたりにまで到達していた。
 碧は靴を脱ぎ棄て、生温い感覚を足裏で味わいながら、一柱を前にした。これから神を前にするのだ、神門をくぐるためには相応の気概が必要だった。

 壱の神門。

 碧は足元に広がる海水を手ですくい、口に含む。口腔内を吐き出したくなるような塩気が襲うが、彼女にとっては慣れ親しんだ感覚である。ゆっくりと口を漱ぎ、今際の際が如く、視界を閉ざした。網膜には、いまだに祖母の死に際が焦げ付いていた。

「ワタツミノカミよ、お言葉をください」

 瞬間、奇妙な感覚がつま先からやってくる。それは次第に頭の先までへと到達し、やがて全身に染み渡るように溶けていく。

 碧はその感覚を拳に握りしめ、壱の神門をくぐった。その先にはもう地がない。単なる海面。海である。泳ぐ以外に弐の神門へと進む手段はないだろう。しかし、彼女にはその先にありもしないはずの海路がはっきりと見えていた。

 足元を確認して、海面に足を置くイメージを頼りにゆっくりと踏み出す。足が着いた瞬間、その中心から凪の海へと大きな波紋が広がった。

「うん、大丈夫」

 碧は海面を歩いてゆく。
 一歩。
 また一歩、と。
 踏み出す度に、波紋は大きく波の集合体となり散っていき、霧中に反射した朧月が揺れていた。

 弐の神門へと辿り着き、深い一礼を経て隅をくぐる。誰がいつどのように考えたルールなのかは知らないが、神様とやらは果たしてそこまで礼儀作法に敏感なやつなのだろうかと碧はふと思った。あくまで人間側がやるべきと考え勝手にやっていること、参拝の作法が間違っていたからと言って、「無礼なやつめ」と神様に叱られる人がこの世にいたなら是非教えていただきたいものである。きっと各地の神主もそこまで細かく参拝方法を強いることはないだろう。つまり、形式が大事なのではない、行為や想いそのものが本当の神への作法だろう、形は後から付随してきたものに過ぎない。

 祈りは姿勢に。
 想いは仕草に。
 願いは言葉に。

 そうやって人は神に触れようとする。実態の掴めない煙だとしても、懸命に手を伸ばしその姿を心に描いている。神道に携わる碧もまた同じだった。予感めいたことはなく、必死に姿を追いかけている。そこに神がいると信じて祈り、願い、耳を傾けるのだ。

 そうすればおのずと見えてくる。
 姿なき、黒い影が——

 参の神門。
 最後の神門を前にして、碧は唖然とした。絵に描いたように口が開いた。泡を食うとはまさにこのことだったろう。

 碧の目に映るのは門扉を閉ざした参の神門。いや、実際にそれが閉ざしているという表現は正鵠を射ない。まるで閉ざしているようなだけであって、実のところはわからない。だが、どう表現したとしても、何らかを拒絶している印象が強烈だった。

 その鳥居は。
 『神門』は、その入り口が暗闇で覆われていた。
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