第4話

文字数 6,106文字

 一週間、碧と梅は祖母桔梗の死に付随するあれやこれやに奔走した。桔梗の葬儀は慎ましく執り行われ、碧と梅の親族、それからワタツミ神社関係者のみの列席となった。
 神式の葬儀は仏式とは異なり、主に自宅で行われる。死の穢れは『気枯れ』となり、神聖なる神社に持ち込むのはご法度だった。霊璽を依り代とし、神職が故人の御霊を遷し留めることで、その家の守り神として扱うこととなる。仏となり極楽浄土へ送り出すという仏式とは全く異なるのが神式の葬儀だった。

「碧様、これを」 

 葬場祭、火葬祭、帰家祭を終え、慌ただしい一週間がようやく息をついた頃、梅は遺骨を前に佇む碧へ小さな桐箱を差し出した。
「これは?」
 桐箱の結びを解いて開くと、そこには見知った勾玉のピアスがある。
「これは梅さんがいつもつけている……」
 碧はピアスを手に疑問符を浮かべた。
「碧様に代わり、私がその役を」
「えっと、どういうこと?」
「桔梗様から、生前にお預かりしていたものです。この時が来たら、渡すように申し付けられていました」
「おばあちゃんから……」

 葬儀を一通り終えた碧は、その忙しさのあまり忘れていた焦燥感を取り戻していた。大切な家族が亡くなったというのに、意外にも最後はあっさりとしている。世界は特別なことなど何も起きていないかのように一変もしない。蝉は鳴き、日は当然ながら東から昇ってうだる暑さを撒いている。

「綺麗……」

 その勾玉は向こう側が透けるほどに淡い。しかし同時に、光の反射を許さない濃さもあった。

「桔梗様はこのことをずっと予知していました。」
「予知? 自分が死ぬってことを?」
「碧様がつい先日に経験した『あれ』のことです。実は、桔梗様はそのことについて知っておりました。真相こそ伏せておりましたが、その意図もなんとなくわかるのです」

 梅は心配そうな瞳で碧を見つめる。その目線を辿った碧は、彼女が自分を見ているようでそうではないと気付いた。

「きっと桔梗様はこのことを案じておられたのだと。だから、このピアスは肌身離さず、常につけておいてください」
「梅さん……?」
「勾玉とは依り代。必ず、碧様をお守りするでしょう」
「梅さん待って、わたし全然わかってない。守るって何から? 梅さんは何を知ってるの?」
「……約束」
「約束?」

「約束してください。それは眠るときも、どこへ行くときも、決して外さないと」 

 梅はそう言い残し、直会の儀で散らかった部屋を後にした。去り際の背中がやけに小さく見えたのは、よからぬ不安からくるものだったのか、碧には判別つかなかった。
 桔梗は何か知り隠していた。
 碧は考えを改める。そして、梅もまた何かを理解してしまったような口ぶりであった。しかし、唯一の家族ですら話せないことがあるだろうか。いや、だからこそ、嘘もつくし話したくないこともあるかもしれない。それについて、碧はああだこうだと反発したいわけではなかった。ただ自分だけがのけ者扱いされていることが不服だった。
 碧は判然としないまま、勾玉のピアスを慣れた手でつけた。現役の女子高生がつけるにはなかなかに奇抜なデザインだった。

「学校……行こっかな……」

 碧は二階の自室に戻り、空っぽの通学鞄を背負った。祖母桔梗の容態が急変したことを授業中に聞かされたこともあり、教材は全て学校に置いてきたままだった。
 スマートフォンと折りたたみ財布をポケットに入れ、階段を下りる。玄関先では、梅が殊勝にも見送りのため待機していた。黒の和装と美しい所作、隅々まで躾の行き届いた非の打ち所がない品格が漂っていた。

「じゃあ、学校行ってくるね……」
「お気をつけて」
「…………」

 いつものやり取り。梅は毎朝そうして碧を見送る。だが、今日に限ってはそんな日常もどこかおかしく、歯痒く感じられてしまう。

「どうかされましたか?」

 揃えられた靴に足を通したまま、その場から微動だにしない碧を見て、梅は怪訝に問うた。

「梅さん……梅さんって、ほんとに何も教えてくれないんだね」
「…………」
「何を知ってるの? 『あれ』のことも何か知っているんでしょう? あんな怖い思いをしても、わたしには何も話さないんだね」
「碧様……」
「話せない理由でもあるの?」
「……私は君波家の従者です。桔梗様の命もあり話せることが——」

「おばあちゃんは死んだんだよ!」
 碧は梅の言葉を遮り叫んだ。これまで聞いたこともない悲鳴に、梅の肩にぴくりと力がこもった。

「桔梗様桔梗様桔梗様って、そればっかり。もうおばあちゃんはいないじゃない! そんなに主従関係が大切なの!?」
「いえ、そうではなくて……」
「おばあちゃんは死んじゃうし、わたしもよくわかんない目に遭うし。なのに、梅さんはそれでも何も話そうとしない」

 わたしたちは家族でしょう、と碧の切ない言葉が夏の暑さに溶けていく。

 唯一の家族。 
 その実態が主従関係であったとしても、物心ついた時から一緒だった碧も、そしてそんな彼女を妹のように可愛がってきた梅にとっても、それは同じ気持ちであった。

「ええ、家族です。元より、私は親元がありません。桔梗様を母のように、碧様を妹のように思っています。たとえそれが従者という身分であっても。許されるなら、家族でありたい……」
「だったら——」
「だからこそ、なのです」

 強い信念がそこはあった。悲しくも貫かなくてはならない従者としての役目があった。背負うべきは、君波家を守ること。

「人は死ぬべき時に死ぬ……桔梗様はいつもそう言って、来るかもわからない明日を待っていました」
「死ぬべき時に死ぬ……」
「役目を果たした誇りとともに海に帰すことが桔梗様の願いでした。役目とはすなわち、碧様をここまで育てることです。自分の力で立てなくなり、食事もままならない状態でしたが、よくお話をさせていただきました」

 ふふっ、と梅は優しく碧に微笑みかけた。

「私もそう思うのです。そしてそれは、もう随分と昔に固めた決意です。私の役目が何かと考えたとき、そこにあるのはいつも碧様の笑顔。ああ、私も桔梗様も同じ……碧様のために生き、碧様のために死ぬ。それが私の死ぬべき時なのだと、そう思うのです」
「梅さん……?」
「ふふっ、わからなくていいのです。いえ、この場合、わかっていただく方が不都合でしょうね。碧様のことはよく理解していますから」
「…………」
「まぁ、はぐらかすつもりはないのですが、だからあえて言わせていただきます」

 梅は迷える妹の手を優しく取り、寵愛の加護をもってして包み込んだ。

「碧様には、碧様らしく、生きてほしいのです」

 だから話せません、と梅は口角をそっと上げた。

 まるで神様がヒトに向けるかのような神聖な微笑みに、碧はしばらくの間、呆気に取られた。
 美しく、可憐で。
 愛おしくも、切なく。
 僅かな力で吹き飛んでしまいそうなほどの儚さがそこにはあった。
 その笑みは、そう——桔梗が今際の際に見せたそれと似たものであった。

 ふと我に返った碧は、梅の手を強引に振り解き、玄関の引き戸に手をかける。何を言われようと結局は誤魔化しばかり、晴れようのない猜疑心の残滓が奥底に沈んでいた。

「……もういい」

 わかっている。
 わかってはいるのだ、碧もまた梅のことをよく理解している。言いたくないから言えない、そんな子供染みた二元論で煙に巻いているわけではない。本心は霧に、建前で察して欲しいという梅の願いを汲んでやれるほど、しかし碧には余裕がなかった。

 後ろ手で扉を閉めると、後悔の念が波のように押し寄せてきた。
 碧は炎天下を浴びるように空を見上げる。雲一つない晴天が彼女の心に暗い影を伸ばすには十分であった。

「いってらっしゃい」

 扉の向こうから発せられた声を背に、しかし素直になれない碧は、自らのちっぽけさに目をつむり、家を後にした。

 時刻は昼過ぎ、学校に到着する頃には五限に間に合うかどうかと言ったところだった。
 普段は自転車通学の碧であるが、今日この日に限っては自転車に乗る気分にはどうしてもなれなかった。徒歩ではおよそ三十分の距離。しばらく歩くと、炎天下に頭皮をじりじりと焦がされ後悔の念がよぎった。
 林を抜けて海岸沿いへ。そうすると酷暑はいくらかマシになる。穏やかな波と気持ちのいい潮風が、風呂上りのコーヒー牛乳のように体の深いところまで染みていく。

 碧は海をこよなく愛する。きっとその特殊な家系でなくとも、変わらず愛していたに違いない。
 だからこそ、先日の出来事がいまだ醒めない悪夢のようであった。理由は不明瞭だが、海の反逆とも表現していい現象は碧にとってショッキングな出来事だった。好きなものや好きな人に嫌われることほど辛いものはそうないだろう。
 碧は海岸沿いの通学路から後方に広がるワタツミ神社を見つめる。やはり特別何かが変わった様子はなかった。

「結局、継承の儀も途中のままだ……」

 ぽつりと呟き、碧は再び学校へと足を向けた。

 海岸沿いから川沿いへ。ここ対馬の中央を流れる仁位川に逆らいながらしばらく歩くと、碧が通う県立高校が姿を現す。田舎の高校だ、生徒数はそう多くない。横に長い昔ながらの校舎で所々廃れてはあるが、古き良きを感じるにはこれ以上ないとも言える。小中高と地元の学校に通ってきた彼女にとっては、いくら校舎が朽ちようと特に気になることはなかった。

 校門をくぐり、静謐が漂う校舎に入ると、遠くの方から先生の声が聞こえて来る。どうやらもう既に五限目の授業は始まっているようだった。
 いそいそと上履きに履き替え、校舎三階へ。
 確か水曜日の五限は日本史だったか、と碧は薄い記憶を頼りに、ゆっくりと教室の後ろ扉を引いた。授業中の突然の来訪者、当然、教室中の視線が集中する。饒舌だった先生の手も自然と止まり、一瞬の逡巡が碧を襲った。

「ええっと、遅れてすみません……」

 表現し難い気まずい空気感に両肩が圧迫された碧は、息を殺しながら窓際の最後尾にある自分の座席へと着いた。

「君波、久しぶりだな。日本史の教科書九十八ページからだぞ」
 先生が名を呼ぶ。そうすると、また集中線が碧へと向けられた。自分の教室であるのに場違いとも思える謎の空気感だった。

 クラスメート達が碧を見つめながら、こそこそと何やら話している。居心地が悪くなった碧は見て見ぬ振りをして、引き出しから教科書を取り出して開いた。静かに沸き立つ教室内の喧噪は、授業の続きが再開されたことによって、沈黙を取り戻していった。

 碧は一息吐いて安堵する。

「碧、おはよっ。もう大丈夫なの?」

 隣からひそひそと声が飛んできた。声の主は、高校生活の中で一番の親友と言っても過言ではない近森紗季である。
「うん、大丈夫。心配かけてごめんね」
「それはいいんだけど、色々大変だったんじゃないの? 五限からなら休めばよかったのに」
「まぁ、あぁ、うん……」
 歯切れの悪い碧を見た紗季は何かを察し、唐突に「先生」と手を挙げて授業を制した。

「しばらく休んでいた君波さん、授業が全く理解できないそうなので、ノートを見せながら授業を受けてもいいですか?」

 突然のことに、碧は慌てて紗季を止めようとしたが、制止の言葉など彼女に通じるはずがなかった。行動力、そしてそれに伴う胆力。女子らしからぬその剛腕と膂力を碧は心底評価していた。

「なんだ、全く理解できないのか」
 先生が答える。難しい授業など何一つしていないのに、と言いたげな表情だった。
「ええ、全く、だそうです」
 教室中に微かな笑いが巻き起こった。紗季の企みについてどれほどが気づいているかはわからないが、どうやら嘘八百によって碧が失った代償もひとしおなようだ。
「えへへ、ごめんね」
先生から許可を得た紗季は満面の笑みで机を碧の方へと寄せ、両者の間にノートを広げる。

 『イマドキの女子高生』といったレッテルが十二分に似合う紗季のノート。授業は真面目に受けているようだが、隙間を埋めるように描かれた流行のキャラクターの落書きが彼女の怠慢さを表していた。

「まったくもう」

 いつも紗季に振り回されがちな碧は呆れながら、休んでいた分のノートを書き写す作業に取り掛かった。
「で、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫……まぁ、ちょっと疲れたのはあるかもだけど」
「そうだよね……残念だったね……」
 親友である紗季には、祖母が亡くなったこと、弔事でしばらく学校を休むことを既に伝えていた。

 この一週間、毎日連絡を寄越す紗季の殊勝さには、碧も随分救われていた。責任感の強い碧のこと、たとえ励ましの声がなくとも自ら立ち上がっていたに違いない。だが、たとえ一時の気休めだったとしても、日常を思い出させる支えと確かになっていた。

「うーん、なんて言うのかな。今は少しでも日常に戻って気を紛らわしたいというか、まぁそんなとこ。別に逃げたいってわけじゃないんだけどね」

 実際のところ、これは碧の本音であった。
 家族の死を乗り越えるためには相応の時間が必要だろう。死を受け入れること自体は容易かもしれない、頭で理解するだけならそう難しくはない。だが、碧には時の流れに取り残されたという感覚があった。まるで自分だけが過去を生きているようで、周りは足早に過ぎ去っていく。貴賤問わず平等にあるはずの一秒が、彼女にだけは遥か遠くに感じられていた。
 
 現実と心の間隙が、碧を苦しめていた。いくら開き直っても、どれだけ前を向こうとしても、桔梗の死はふとした時に碧の袖をそっと掴む。悲しみがなくなることはなく、寂しさに代替が利くわけでもない。誰かが誰かの代わりになれないことは、桔梗を失ってから随分と思い知らされた。

 時の牢はいまだに碧を離さない。

 壇上で教師が、熱心に明治維新の説明をしている。
 江戸時代で止まった碧のノートが、祖母の死を物語っていた。

「紗季、ありがとうね」
「ん、なにが?」
「心配してくれて」
「……そりゃあ、うちら友達だし!」

 長い睫毛と茶色がかったショーヘアー、屈託のない爽やかな笑顔が、碧の網膜に突き刺さった。少し低まったあどけない鼻がとても魅力的だった。
 本当にありがとう、と碧は心中で繰り返し、微笑みを返す。自然と笑えたのは、一週間ぶりだったかもしれない。

「他の授業のノートも後で見せてよね」
「うん、もちろん」

 時の狭間で、碧は日常に帰したことを実感する。身内に悲劇があろうと、世界は何一つ変わらない。しかし、何一つ代わり映えないからこそ、立ち直れるのだろう。これで世界が丸々変わってしまうのなら、人は一生死生観に囚われてしまう。一週間という時間が果たして人にどれほどの影響を与えるかは定かでない。どれほどの猶予であるかも様々であろう。だが、少なくとも碧にとってこの一週間とは、人の言葉に耳を傾け心を通わせられる程度に再起できる時間であった。

 だから、まるで夢のようだった。

 この日常が、いつしか本当の意味での日常となるのはもう少し先のことかもしれない。今はまだ、夢うつつに日常を懐古することも許されるだろう。

 夢のような時間が続く。


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