第3話

文字数 5,425文字

「えっ、うそ……」

 神門を介して、向こう側はすっかり見えなくなってしまっていた。黒と言うにはまだ足りない、光さえも通さない闇をその一点にぶち込んだかのような異質さがそこにはあった。門を閉ざすというより、光を閉ざすとした方が正確だった。

 碧はわけもわからず辺りを見回す。しかし当然、周囲に変わったことはない。神門さえ介さなければ、向こう側には霧に隠れた山間が微かに見えてくる。何もおかしなことはないのだ、ただその一点だけを除いては。

「…………」

 妙齢な女子高生とは言っても、碧は君波家神役の正当なる後継者、幼い頃から神事に携わり、古神の道を探求してきた。祖母桔梗の熱心な教育もあってこそであったが、彼女自身もまたそれを受け入れ、度重なる修行も乗り越えてきた。いつかは来る継承の日のため、神役補佐として桔梗から耳にたこができるほど継承の習いを教え込まれてもいる。普段は一般的な女子高生ではあるが、その道のプロでありその意識もまた彼女は有していた。それでも目の前で何が起こっているのかさっぱり理解が及ばない。

「もしかしておばあちゃんが亡くなったことと関係あったり……」

 碧は恐る恐る口にして、神門の暗闇を覗き込んだ。目と鼻の先まで近づこうとも一寸先は真っ暗といった状況だった。

 しかし、と碧は思考する。手をこまねているだけでは意味がない。状況は依然として飲み込めないが、彼女にとって、この暗闇の領域へ踏み入ること以外の選択肢はなかった。
 君波家総代の桔梗は亡くなり、母父もいない。残されたのは妙齢の跡取りとその従者だけ。仮にこの原因を解決する手段があったとしても、それを知り得そうな者は誰一人としていないのである。

「このままだと継承の儀が……」

 碧は意を決し、一段と深く一礼する。何か良くないことが起こりませんように、という願いの表れでもあった。

「……お言葉を、ください」

 暗闇へと一歩踏み出した瞬間、碧は向こう側から見えない誰かに腕を掴まれ引きずり込まれた。それはただただ力強く、強引な『手』だった。

 肝が潰れることに声が出ない。視界は完全なる闇。目を開けているのか、或いは閉じているのかさえ判然としない。まるで底へと落ちていくかのように、もしくは宙に浮かぶように、碧の身体からあらゆる方向感覚が奪われていく。

 息ができない。

 碧は必死にもがく。暗闇の視界の先に望みは決してない。手繰り寄せるはずの蜘蛛の糸に身体中を雁字搦めに縛られていた。心臓が酸素を欲して顔を出そうとしている。強く訴えかけるも、耳が遠のき次第に全身の力が抜けていった。手先が痺れ、耳の後ろから頭頂部にかけてぞわぞわと嫌な予感が走っていく。

 暗く、冷たい。
 凍てつき、凍っていく。
 ここはどこだろう。
 わたしは一体——

「——っ!」

 碧は瞬間的に息を吹き返した。今まで死んでいて、生き返ったような感覚がそこにあった。
 しかし、生きている。
 辛うじて生きていた。

 一筋の光さえ通さない分厚い遮光カーテンを開けた先で見たものは、紛れもない、自分の血相を欠いた顔だった。碧は四つん這いの姿勢で、海面に反射する自分を見つめていた。息も絶え絶え、大きく口を開き、必死に肩で酸素を取り込もうとしていた。

 ぽつり、と顎の先から冷や汗が滴る。全身の毛穴という毛穴から嫌な汗が滲んでいた。
 はっ、と我に返ったのは、落ちた雫が波紋となり反射する自らの顔が揺らいだ時だった。

「…………」

 碧はその姿勢のまま後ろを振り返る。腰の抜ける現象に、今彼女が取れる唯一最大の動作だった。

「な、に……」

 三連の鳥居。その奥には境内。そして社殿。美しくも荘厳な、シャッターを切りたくなるほどの価値を含んだ絶景はいつものそれだった。何かが起こった様子は特にない。神門の入り口を隠していた暗闇もいつしか消え去り、すっかり向こう側を視認できるようになっていた。まるで最初から何事もなかったと言わんばかりに鎮座し、穏やかなさざれ波が碧をさらう。 

 しかし、確かに誰かに掴まれた、という感覚だけは明確に左腕に残っていた。碧は掴まれたであろう左肘あたりを抑えながら、ゆらり立ち上がる。

「おばあちゃん……?」

 あの感触は——碧はずぶ濡れの袖を捲り、ほんのり赤みを帯びた一点を見つめた。確証はない。しかしなぜだろう、碧はその手の正体が祖母桔梗のものだと心づいたのだった。

 碧は周囲をよく見渡し、自身が参の神門の先にいることを再確認する。何が起きたのかという疑問よりもまず神前にて神意に耳を傾ける方が先決であった。

「…………」

 両の手を合わせ、呼吸を落ち着かせる。水分を含んだ白装束が、碧の両肩にずっしりと重くのしかかっていた。まるで何かを背負っているような、そう、例えば背負ったリュックサックの上からさらに誰かから体重をかけられているような、そんな感覚を光閉ざす世界で感じた。

「……うそ、どうして」

 碧は、きゅっと痛く縮む下腹部を抑えながら目を開く。血の気が引いた顔に、さぞ神様も心配を及ばせたことだろう。だが、その神とやらが気を揉む声は一切何も聞こえて来なかった。波の音に微かに混じるのは羽虫の歌声だけであった。

「——!!」

 おもむろにもう一度手を合わせようとした瞬間、碧の態勢がぐらりと揺らいだ。ぐつぐつと煮えたぎるような感覚が足元から伝わってきた。

 地震だ、と碧は刹那で感じ取る。いや、地震というには少し奇妙だ。対馬が揺れているのではない、まるでここ一帯だけが振動しているかのような、より正確に表現するなら、海底から巨大な何かが噴き出すような、そんな前兆であった。
 咄嗟に足元を見ると、ぶくぶくときめ細かな気泡がそこらかしこから溢れ出している。それらは次第に大きく、水紋を伴って拡散していく。その中心点にいるのは、まさに碧だった。

 瞬く間に、爆発的な轟音が碧を襲う。溜めに溜めた鬱憤を晴らす人の怒鳴り声だと思った。或いは猛りに猛った咆哮。効果音という印象はなく、確実な質量を伴った轟音が彼女の内臓を振動させていた。

「ええええええっ!?」

 天地鳴動。
 天変地異。
 顔面を壁に打ちつけられたような衝撃とともに、碧の眼前は海面から噴き出した巨大な高波で覆いつくされた。

「うそっ!? えっ、ちょっとまっ——」

 屹立する壁のような大波は推定三十メートル、いや、五十はあるか——と目算する余裕などどこにもない。むしろ、一体全体なにがどうなってこんな目に遭っているのか一考する余地さえない。
 碧は振り返り、駆け出していた。
 生存本能と言えばそうかもしれない。しかし生命の危機をあからさまに突きつける大波を前にして、足が自在に動くのは不幸中の幸いでもあった。ナイフを隠し持った人間はたいした恐怖ではない。かもしれない、という憶測は不安であっても恐怖にはなりえないだろう。けれど、今にも人を殺めそうな人相の人間が、今かと今かと刃物を突き出しているならば話は違ってくる。切っ先を背中に当てられたような、そんな恐怖感を碧は全身で感じ取っていた。

 全速力で参の神門を走り抜けながら後方を確認すると、その大波の異様さが目に飛び込んできた。山のように聳え立つ大波、しかしその一帯のみを除いて、他に海模様が荒れているわけではない。わかってはいたが自然な津波ではない。明らかに、明確に、絶対的な何かの力によって、遥か天へと背を伸ばしている。

 弐の神門まで辿り着いた碧は塩辛い口腔を拭いつつ足取りを緩めた。幾分かの距離を離したことで心に少しばかりの余裕ができていた。

「あれは何なの……」

 度重なる奇怪の連続に思い至る原因があるとするなら、祖母桔梗の死。しかしながら、神役が死に後継者がその役目を継承することは古来より続く伝統、このようなことが起きうるならば、神道に通ずる彼女は必ず聞かされていたことに違いない。ところが彼女でさえも聞き及ばないのだ、ならばこれは間違いなく良からぬことが起きてしまっている、と碧は考えを馳せた。

 脳のピントを思考から視界に移す。大波の影は変わらず辺り一面を覆っていた。

「……そ、でしょ」

 しかし、いつまでも不動なる山のごとし聳え立つ波はない。
 波とは打ち寄せ、そして引き寄せるものだろう。

「ちょ……う、うっそでしょう!?」

 碧は踵を返し再び走った。駆け抜けた。
 得体の知れない怪物の咆哮が高波とともに背後から迫っていた。徐々に伸びる黒い影。次第にワタツミ神社全体を飲み込んでいく。基礎を失ったビルが上空から倒壊してくるような圧迫感。急死を感知した碧の心臓は、『生きろ』と激しく拍動していた。

 壱の神門まであと少し。しかし、まだ逃げ切るには足りない。社殿を通り過ぎ山中に逃げ入らなくては引き波に攫われてしまう。

 誰か、誰か助けて——碧の心は声にならない悲鳴を上げた。
 誰にも、聞こえない。
 神託さえ届かない碧の声が、果たして誰かに届くことがあるだろうか。

「——っ」

 壱の神門を過ぎ振り返った直後、碧は大波に飲み込まれた。巨大な怪物の口の中に入ったように、一瞬にして四肢の感覚を、五感という五感全てが失われていく。

 全てが一瞬。
 全てが瞬きをする間のことだった。
 碧は暗闇を漂う。
 生きているという実感はそこにはない。
 生きていないという実感さえもない。

 心は、はっきりと停止していた。脳機能は停滞し、思考を放棄している。そのような感覚でさえ、碧にはなかった。それは眠りに近い。活動を終えた身体は呼吸の仕方を忘れ、理性の一切を捨て去る。だが、今はまだ本能は『生きている』と叫んでいた。
 
 だから、生きている。
 理性はなくとも、本能が呼吸している。
 
 或いは、何者かによって生かされているのかもしれない。本人にその自覚がなくとも、本能がその機能を放棄していたとしても、生かされているのならばそれはきっと『生きている』と言っていいだろう。

 生きるとは、『生きている』ということなのだから。

 ——どくん、と止まっていた時間が動き出した。
 どくんどくん、と波のように血流が碧の全身を巡った。

「……り……ま」

 碧の心臓が絶叫する。ぎゅっ、と誰かに心臓を掴まれていた。破裂しそうなほどに、爆発しそうなほどに、力強く握られている。

「ど……ま……!」

 叫ぶ声だった。
 碧はその声を聞いたことがある。

 彼女がまだ小学生にも満たない幼い頃、家族の目を盗んで家出したことがあった。当然、碧自身にその自覚はなく、綺麗な小鳥を追いかけていたら広大な山中でいつしか迷子になっていたに過ぎなかった。お腹も空き、帰路がすっかりわからなくなってしまった幼い彼女は、しかし不思議と不安ではなかった。潮のにおいがまるで帰り道を案内しているかのようだったのだ。

 碧が木の棒を片手に鼻歌を歌いながら散策していると、背後から何者かに襲われた。いや、襲われたのではない、守られていた。
 慈しみ嘆くように、あらゆる災いから身を挺するかのように、決して大きくはないその背中によって碧は守られていた。

「あれ? どうしてここにいるの?」
 幼き碧は不思議に問うた。
 ただちょっと一人遊びをしていた感覚に過ぎない碧は、その幼さから状況がよく飲み込めていなかった。

「苦しいよ……」
 か細く白い腕の中で、碧はもがいた。勇者の探検の邪魔をする腕は、その意図とは反して碧の癪に触れていたのだった。しかし、絡みつく腕は離れない。もう二度と手放さんとする力強さだった。
 
 碧は観念して、木の棒を手放した。
 嗚咽を漏らし、泣きじゃくる声が聞こえてきたからだった。
 あぁ、と幼き碧はそこで理解する。

「うん、えっと、ごめんね……」

 碧は背後から伸びる手に優しく触れた。土泥で汚れてしまった手がどれだけ触れようとも、白んだ細腕はなお強く、碧をただただ抱きしめるのだった。

「みどりさま……みどりさまっ……!」

 微かな光に縋りつく啼泣を、碧は辛うじて開いた瞳の奥に映す。体の中心から聞こえてきた悲鳴は梅のものだった。
 そうすると次第にピントが世界に合う。幼き頃を知らずの内に思い返していたような気がした。

「へへっ、梅さんって……本当は泣き虫だったんだね……」

 碧の濡れた手は安らかに、柔らかに、醤油に漬けたような梅の髪を撫でた。

「誰かさんに似たせいです」
 まったく、と梅は口に紐を結んだ。しかしその陰からは、隠れようもない安堵が姿を現していた。

「でも、どうして梅さんがここに……」
 碧は梅の腕の中で問うた。
「碧様が家を後にしてからもう三時間以上、さすがに遅いと心配になって様子を見に来たのですよ。そうしたらこんなことに……」
 三時間、と碧は微かに残った思考力で反復する。自分がどれだけ気を失っていたのか、ようやく理解が及んだ。
「ひとまず帰りましょう」

 梅は碧の腕を細い肩に回し立ち上がった。すっかりと大きく成長した碧の体は、年相応の質量をしっかりと伴っていた。その重さがどこか懐かしく、何より新鮮でもあった。
 二人は帰路に就く。海岸沿いから山道へ。振り返ると、辺りは大波に攫われたというのに、存外、被害はないようだった。不思議そうに朧気な視界で眺める碧だったが、それ以上のことを勘案する力はなかった。どうやら体も頭も言うことは聞いてくれそうにないらしい。

 行方知らずのスニーカーが、境内の隅で見つかったのはその後のことだった

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