第5話

文字数 5,115文字

 窓を強烈に叩く蝉時雨に、奇妙な心地よさを感じながら。

「あっ」

 と、どこかで声が上がった。感嘆符のついた突然の発声に、教室中の視線がその方向へと集まった。碧と紗季もまた教科書から視線を上げ、声のした方へと目をやる。声がしたのは教室の前列付近、一人の男子クラスメートが無表情に窓の外へと視線を向けていた。 

 そこからは反射反応だった。思考の余地などない。碧と紗季も同じく、彼の視線を追うように窓の方へ視界を移す。

 荒れたグラウンドの向こう側に流れる仁位川、その奥には緑々しい山間が望める。周囲に高層の建物がないので、校舎三階でも悪くない眺望だった。
 なんだろう、と碧が『それ』を認識するまでしばらくの時間を要した。

 しかし、一瞬。
 刹那。

 碧は、この世にあり得てはならない光景を目にする。
 いや——この日常に、だ。
 夢ならば、いっそのこと醒めてしまいたいほどの。

「っ!?」

 がらがらがらと咄嗟に腰が浮いた碧の後ろで、椅子が転がり倒れた。その衝撃音に、教室中の視線はいつしか窓の外から碧へと移っていた。

「碧?」

 不思議そうに紗季が碧の顔を覗き込んだ。どうやら何が起きているのかまだ理解していないらしい。
 次第に教室中がざわつき始める。穏やかだった波が渦巻くように、轟々と音を立てて校舎中を飲み込んでいた。授業を行っていた先生もまた、騒ぎ出すクラスメートを制止することを忘れ呆けるように窓の外に注視していた。

「うそでしょ……」

 下っ腹がきゅっ、と痛むのを碧は感じ取っていた。何か良からぬことがあるとき、或いは、そんな予感がするときに決まって、じんわりと締めつられるような痛みに襲われるのだ。

 これはまずい——そう直感がそう告げていた。

 グラウンドの向こうにせせらぎの仁位川、そのさらに向こうに見える山間——そこには一体の黒い龍が、宙で暴れもがいていた。

 自然、碧の体は思考を置き去りにして動いていた。勢いよく教室の扉を開け、駆け抜けていく。階段を二段飛ばしに転がり落ち、校舎二階へ。二年生のクラスと職員室があるこの階層もまた辺り一帯が人の群れが織り成す喧噪で溢れていた。
 さらに階段を下り、一階正面玄関まで。碧は上履きを履き替え、艶やかなローファーの踵を踏み潰して校舎を出た。

「まってまってまって。なにあれ」

 最初は黒い線が奇妙に宙を漂っているだけなのかと思った。いや、そもそも黒い線が宙を漂っ
ていることこそが絵空事だ。奇妙な飛行物体が飛んでいたのでUFOかと思ったら実は飛来した隕石でした、といった風なニュアンスと同じだ。結局どっちでもいいし、どっちだとしても都合が悪い。だがその点、あれが単なる『黒い線』であったならどれだけ気持ちに余裕があったろう。
よりにもよって。

 あれは明らかに、『龍』の形を成していた。

「あぁ、もう!」

 碧は濁った声でローファーを履き直し、校門から飛び出る。車の往来などほとんどない田舎町なので、急な飛び出しも許容範囲内であった。

「なんで今日に限って自転車じゃないんだ、わたしは!」

 碧はついさっきのんびりと時間をかけて登校してきた通学路を、全速力で走り抜けていた。
 髪が鬱陶しい、と碧は走りながら後ろ手で髪を結う。キューブの中に星の砂が散りばめられた飾り付きの髪留めは、去年の誕生日に紗季から貰ったものであった。無造作に暴れていたセミロングの黒髪が艶やかにまとめられていく。

 肩で息を吐きながら川沿いから海岸沿いへ。急峻な坂道となっている地点でいつも下校時に苦労をさせられている。加えこの日は自転車などといった人類の発明品はない。その事実を心底悔やみながら、碧は変わらないペースで駆けた。
 少し近づくとわかる。いやそうでなくとも、なんとなく、碧は心の隅では察していた。

「あの方角は……」

 そう、ワタツミ神社のある方角だ。
 やっぱり嫌な予感がする——碧はさらに痛む下っ腹を抑えながら坂道を駆け上った。

 ワタツミ神社、海神、龍神。
 三つのワードを連ねるだけで、その関連性を結びつけるには容易だ。特に、それらと深く関わる碧のことならば尚更のことだった。

 急峻な坂道の頂点に差し掛かったところで、「おーい!」と両足の筋肉が悲鳴をあげた。両手を膝につき、ねっとりとした口腔内で乾いた唾を飲み込む。まさか筋肉が人語で訴えかけてくるなど、さすがに混乱しすぎた、と碧は汗ばんだ首で幻聴を振り払った。

「おーい、お前」

 碧は汗で沁みる目を指先で拭いふと振り返ると、心臓破りの坂道を漕ぐ青年の姿があった。熱したアスファルトの上を、左右にふらふらと揺れながら辛うじて前進している。

 青年は再度、「おーい、お前!」と声をかけた。
 碧はそこでようやく、自分への呼びかけなのだと理解した。行き着くところまで行き着くと、筋肉は心身を支配し情に訴えかけてくるそうだが、さすがに声が聞こえるというのは御伽噺だったようだ。

「お前……足速いな……」

 自転車という人類の文明機器を用いた男より、碧の方がなぜか涼しげな表情。最近の若い女性はカロリーが足りないと梅は冗談めいて話していたが、もしかすれば男性もそうなのかもしれない、と碧は薄っすらと考えた。

 碧は嗚咽を漏らしながら呼吸を整える彼が、同じ学校の生徒であることに気づく。この近辺にある高校と言えば他にはない。制服であること、身丈から高校生と判別できれば、あとは自然と解答は導き出された。ただし、夏服は全学年共通なので学年までは判別できない。男子は黒のスラックス、女子生徒は紺のスカート、そして共通で白の半袖シャツ。何のひねりもない、オーソドックスな制服である。

「お前、君波家のやつだよな」
 落ち着きを取り戻した青年は、夏には少々むさ苦しい長髪を掻き分けて言った。あらわになった彼の額からは大量の汗が滲んでいた。
「ええっと、あなた、誰?」
「んん、あぁ……」

 青年はボタンを外して全開になったシャツの裾で額の汗を拭う。黒のタンクトップの下着と、はだけた筋肉質の胸元が碧の視界をジャックしていた。 
 割と顔立ちがいい。スタイルもよし、と碧はあられもない姿に少しばかりの興奮を覚えつつ評価を下す。碧によると、彼の点数は八十五点だった。減点材料は、男のくせに髪が無駄に長いことと、そして男のくせに無駄に肌がきれいなこと。女性の面目が潰れるほどの要素は逆に減点対象となる。数学では説明のしようがない四則演算だった。

「俺は武宮昕陽、二年だ」
「タケミヤ……武宮と言えば……」

 碧にはその名に聞き覚えがあった。しかしそれをどこで聞いたのか、いつ耳にしたのかは明確に思い出すことはできない。

「んなことはどうだっていい。さっさと行くぞ」
「はっ、ちょっ、行くってどこに」
「お前も『アレ』気になるんだろ?」
 不愛想な表情で、昕陽は顎の先で指し示した。
「えっ、えっ? いやでも——」
「しつこい! んなことはどうだっていいから、早く乗れ!」
「え、えええっ?」
 碧は状況を飲み込めないまま、言われるがまま昕陽の自転車に乗る。二人乗りなんて小学生以来のことだった。
「急ぐぞ。間に合わなくなる」
 そう言って、昕陽は目一杯の力でペダルを踏み込んだ。

 海岸沿いの僅かな下り坂をとんでもない速度で駆け抜けていく。普段は心地いいはずの潮風が妙に肌にまとわりついていた。くんくんと鼻を利かせると、僅かに雨の香りを碧は感じた。同時に、昕陽のにおいが混ざる。爽やかな柑橘類のいい香りがした。

 黒龍は、手の届きそうで届かない先で必死にもがいている。
 そう。 
 もがいていた——碧にはそう見えたのだった。苦しみや痛みから逃れるようだった。もしくはそれらに抗うようでもあった。自然、助けたいという心情に碧は囚われる。なぜ助けたいのか、なぜ助けるのか、どのように助けるのか、助けてどうしたいのか、その先のことは考えが及んでいない。碧にとっては、苦しそうだった、というだけで助ける理由となりえた。

「怯えてる……」
 碧は呟いた。
「苦しそう……」
「そりゃ苦しいだろうさ」
 無意識な独り言に過ぎなかった言葉に、昕陽は端的に返した。言葉の端に、苦痛の理解者であることを滲ませたような言い回しだった。

「えっとその、タケミヤくん……は知ってるの?」
「昕陽でいい。お前の方が年上だろ」
 初対面の年上とわかっておきながらお前呼ばわりするとはいい根性だ、と碧は胸中で叫んだ。
「お前さ、君波碧だろ。ワタツミの神役の」
「なんでわかるの?」
「え? そりゃお前……」

 昕陽は不思議そうに振り返って、碧の顔に目をやる。前方不注意の危険運転だったが、しかし、本当に珍妙な生物を見るような目つきだった。ナマケモノに、「あなたはナマケモノですか?」と問うたら、「そうなんですか?」と聞き返されたような感覚を昕陽は覚えた。 
 そして、「いや、なんでもない」と昕陽ははぐらかして、前方へと体を戻した。何かを言いたげな表情だっただけに、碧のむかっ腹が立った。

「あれはお前らが言うところの、『リュージンサマ』だよ」
「龍神様……あれがワタツミノカミ? てか、なんで棒読み」
「別に。神様とかなんだとか、あんま気にしたことないし」
「……あなた、一体何者? なんであれがわかるの?」
「質問ばっかりだなお前は。神役のくせしてなんにも知らねぇのかよ」
「…………」

 ごめん、と碧の微かな声は風切り音に搔き消されていった。何も知らないし、誰も教えてくれない。碧は登校直前の梅との会話を想起していた。

 これでも真面目に、一筋に神道を歩んできた。思春期の女子高生だ、確かに時には目移りすることもあったろう。しかしそれでも、その責任の重さを身に沁みながら取り組んできた。けれど、先日から続く一連の怪奇は、碧の知識と経験の範疇を優に超えていた。桔梗が生きていればもしくは、とつい縋ってしまうのは心が脆くなっているせいであったかもしれない。

「悪い、言い過ぎた」
 昕陽は背後に滲む悲壮感に謝した。強い言葉をつい使ってしまうのは、彼の悪い癖だった。

「俺たちは、あれを『荒び』と呼んでいる」

 詫びるように、おもむろに口を開く昕陽の背後で、碧はぴくりと力んだ。少しばかり低くなった声のトーン、煙に巻くつもりはないようだった。
「荒びとは、『遊び』でもある。要は、神の気まぐれな悪戯ってことだ。或いは、神の慰みか。まぁ語源のルーツはどうだっていい。お前もさすがに荒御魂くらい知ってるだろ」
「荒御魂……」
「そう、厄介なことに神様ってやつは慰み事がなくなりゃ、そのうち荒ぶんだ。子供がおもちゃを失くしたときと一緒だよ。人間にとっては、ストレスみたいなもんかもしれないな。神様も国を見守るだけのお仕事なんて飽きるだけ。そりゃたまには発散したくもなるよな」

 多分な皮肉を含んだ物言いで、昕陽はくつくつと笑った。

「で、そのストレスが募り募ると、ああなっちゃうわけ。お前も知っての通り、あらゆる神は二面性を持つ。その絶大な力が、時には悪い方向に働くこともある。それが、荒御魂と呼ばれる」
「その『荒び』はどうすることもできないの?」

 昕陽は少しの間を置いて、いや、と首を振る。

「どうにかする方法ならある。一時的に落ち着かせることはできる。だが、あくまでその場しのぎだ。人間も神様も、生きてりゃそのうちストレスでつい物に当たったり壊してしまったりするだろ。それと一緒……だが、神とてそこまで傲慢じゃあない。ストレスを衝動に直接変換するほど利己的じゃあない。アレは今、『荒び』に抗っている」
 でも時間の問題だな、と昕陽は重たい口調で付け加えた。

「わたしのせいだ……」

 碧は独白する。誰に聞かせるでもない、自分自身の認識を改める言葉だった。

「ああ?」
「わたしが継承の儀を果たせなかったから……」
「それは違う、とは言い切れないが、まぁでも、そうだとも断言できない」
「……?」
「言っただろ、神様ってのは、お前が思っているよりよっぽど気まぐれなんだ」

 そう言って、昕陽は快活に笑った。急を要する事態であろうに、余裕な心持ちは碧に少々の安心感を与えた。
 次第に、ワタツミ神社が見えてくる。目的地付近まではもう目と鼻の先であった。海面に浮かぶ鳥居のその上空、黒い霧を背負った龍はいまだに宙をぐるぐると駆けていた。

 近くで見るとわかる、それは黒色の龍ではない。紺碧と白銀が混ざった鱗が黒い霧の中から垣間見えた。鱗の内側からあふれ出るそれが、まるで龍を攻撃しているかのようだった。

「えっ、と言うか、なんでわたしの家の事情を知っ——ああっ!」

 碧の絶叫が、白昼に響いた。
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