2. 「熊野の本地」は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?

文字数 2,561文字

 首なき母親が子育てをする『熊野の本地』や『厳島の縁起』は、極めてユニークな物語だ。
 しかし、熊野や厳島の縁起物語がキリスト教受容に役立ったと結論づけるのは、論理に飛躍があるのではないか。
 当時の熊野神社の信者人口がどれだけいて、どのような職業集団で、そのうち何パーセントがキリスト教徒になったのかを明らかにしなければ、因果関係を立証できないだろう。

 改宗前の信仰がキリスト教受容に対して影響を与えていたと論じるのであれば、長崎や熊本などの改宗者が多く、キリスト教信仰が盛んだった地域を取り上げるべきである。熊野や厳島が、キリスト教改宗者が特別多い地域だったとは考えにくい。
 なぜ和辻は、太宰府天満宮の祭神である菅原道真公を「苦しむ神、蘇りの神」として取り上げなかったのか。

 首を切られてなお、山中でたった一人で赤子を育てた母親の姿は、凄絶である。首なき母親の物語に、当時の人々は何を祈り、求めたのだろうか。
 死後も子供を守り続ける母性の象徴として、安産の祈願、子供の健康祈願などの女性たちの願いが託されたのかもしれない。
 熊野や厳島の縁起における、宮廷で一人だけ王の寵愛を受け、他の女御たちから嫉まれ、不幸な運命になるという物語は、『源氏物語』の桐壺更衣と重なる。
 女性同士の嫉妬や嫌がらせは、インドが舞台の『熊野の本地』も『源氏物語』と同様であり、時代や国を問わず普遍的なテーマとして、当時の民衆に親しまれたのだろう。

 この首なき母親が、御霊信仰の類型とは異なるのは「祟らない」ところだ。
 首なき母親は、物語中で完全な被害者であり、自分自身では加害者に復讐をしない。
 厳島の縁起では、息子が母親の復讐を果たすが、母親自身は自分を殺した人々を怨む「祟り神」ではない。
「蘇り」についても、母親自身が成し遂げたのではなく、息子の努力による。

「天神様」として祀られている菅原道真公は、苦しんで死んだ神であるのは間違いない。
 和辻が、「苦しむ神」として菅公を取り上げないのはなぜなのか。
 早良親王や菅原道真、崇徳院、平将門などの苦しんで死んだ神々(元・人間)は、「祟り神」となったからこそ、人々は霊鎮めの祭りをして畏怖し、信仰してきた。
 しかし、イエス・キリストは苦しんで死んだ神である点は同じだが、自分を殺した人々に呪いや疫病をふりまく「祟り神」ではないのだ。

 菅原道真と比べて、知る人の少ない首なき母親を和辻が取り上げたのは、この母親が「祟らない」点において、イエスと重なると考えたからではないか。
 日本人のキリスト教受容の背景に、キリスト教と類似した信仰が

と結論づけるために、誂え向きの熊野の縁起物語を例示したのかもしれない。

 キリスト教受容の背景として、貧困の問題について考えてみよう。貧困とキリスト教改宗は結びつくのだろうか。
 キリスト教は、五穀豊穣や商売繁盛などの現世利益をもたらす教えではなく、当時の人々が貧しさから脱出するために改宗したとは言い切れない。
 しかし、中世後期は凶作や飢饉、疫病、内戦がたびたび発生し、人々にとって「死」が身近な極限の状況であり、「死後の救済」を求めてキリスト教に改宗した、と考えられる。

 天正十九年(1591年)に長崎で刊行されたキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん』(加津佐版)の序文には、「一切人間に後生(ゴショウ)(タス)かる道の眞の掟」と書かれている。
 当時の宣教師たちは、「後生を扶かる」すなわち「死後の救済」を保証するものとして、キリスト教の教えを広めていたのだ。
 『どちりな・きりしたん』は、イエスの十字架上の死と復活の意義についてよりも、「死後の救済」を強調している。
 人々が、死後の魂の行方にとりわけ不安を感じていた現実が窺える。

 キリスト教が急激に普及した同じ時期に、北陸から東海、畿内では死後の安寧を約束する一向宗(浄土宗・浄土真宗)の勢力が強まった。
 『サントスの御作業のうち抜書』(1591年、加津佐刊)は、ステファノやペテロ、パウロなどの殉教者たちを教材とした聖人伝だが、仏教語や仏教教説がそのまま転用されている。
 『イミタティオ・クリスティ』のキリシタン版『コンテンツム・ムンヂ』には、「死するの観念の事」の章に「朝には夕に至らんと思ふこと勿れ、又夕には朝を見んと思ふこと勿れ」と書かれている。
 この一節は、浄土真宗本願寺八世の蓮如が撰述した『白骨の御文』の「されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」と重なる。浄土真宗の教えと『ムンヂ』で説かれた死生観は、類似しているのだ。※1

 『ムンヂ』の原文である「イミタティオ・クリスティ」は「キリストに倣いて」を意味するが、「コンテンツム・ムンヂ」は「この世のあらゆる空しいものを厭う」という意味である。
 神を愛し、神に仕えること以外は、「空の空、すべては空」であるという教えは、鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』が説いた「無常」にも通じる。※2
 日本人のキリスト教受容には、熊野や厳島の縁起物語よりも、浄土真宗の仏教的死生観が影響を与えているのではないだろうか。

 蓮如の無常観は、『方丈記』や『徒然草』の「世を儚み、世を捨てる」無常観とは異なる。
 『白骨の御文』には、「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」と説かれている。
 蓮如は、無常であるがゆえに世を儚むのではなく、

ことを説いたのだ。
 浄土真宗の教えが人々の心をつかんだのと同様に、キリシタン時代の信徒たちも、新来のキリスト教に心ひかれたのだろう。



※1 「罪人の導き」を意味する信心書『Guia do pecador』の日本語抄訳である『ぎやどぺかどる』(1599年、長崎刊)も蓮如の『白骨の御文』と類似が見られる。(真宗海外資料研究会
 『キリシタンが見た真宗』)
※2 トマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』講談社、2019年、第1章第3節
参考 狭間芳樹「キリシタン時代における殉教の理解と記憶」(『アジア・キリスト教・多元性』2019年、京都大学)
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