1.  苦しむ神、蘇りの神としての「熊野の本地」と「厳島の縁起」

文字数 2,506文字

 和辻哲郎の『埋もれた日本 ―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況』は、GHQによる占領統治下の昭和二十六年(1951年)に発表された。
 『古寺巡礼』(1919年)や『風土』(1935年)で知られる和辻哲郎が、第二次世界大戦中は『尊皇思想とその伝統』(1943年)や『日本の臣道、アメリカの国民性』(1944年)などの極右思想を書いていたことは、あまり知られていない。
 本作品は、昭和二十五年(1950年)に発表された『鎖国 日本の悲劇』と同様に、戦後の和辻の歴史観が示された日本思想史上でも重要な作品の一つだろう。

このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も反映したものとして取り扱ってよいであろう。
さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。※1

 和辻は、応仁の乱以後(室町時代末期)の民衆が親しんでいた物語から、「キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」を明らかにしようと試みる。
「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする物語に着目し、『熊野の本地』と『厳島の縁起』を取り上げる。
 『熊野の本地』、すなわち熊野権現の縁起物語は、熊野神社に今祀られている神々が、どういう経歴を経てインドから日本へ渡来したかという神話・伝説だ。
 インドのマガタ国王の宮廷で起こった出来事が、『源氏物語』風に物語られている。

女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。※2

 この物語では、首なくしてなお嬰児を養った女主人公が熊野の権現となったわけではなく、首なき母親に育てられた太子と、その父と伯父のみが熊野権現となる。
 『熊野の本地』の異本の中には、苦難の女主人公自身を権現とする物語もあり、その物語では憐れな新王は、慈悲深い母后の蘇りに成功し、母后を伴って日本へ飛来して、熊野の権現となる。

 厳島神社の『厳島の縁起』も同じような筋書きの物語で、『熊野の本地』の類話と言える。
 インドの宮廷には父王とその千人の妃がいたが、若き新王はさまざまな冒険の後に、遠い異国から理想の王女を連れてきて、自分の妃とする。
 新王の美しい妃に、父王の千人の妃たちの憎悪と迫害が集まり、新王の妃は山中に拉致され首を切られてしまう。
 ここで、『熊野の本地』と同じく、首なき母親の哺育が物語られるのだ。
 新王は、遠い地方への旅から帰ってきて、山中で妃の白骨と十二歳になった王子を見出す。
 憐れな王子のその後の物語は、『熊野の本地』とは違っている。
 『厳島の縁起』では、王子は宮廷に行き、祖父王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討った後、母妃の首の骨を見つけ出して、母妃の蘇えりに成功する。この蘇った妃と、その王子と父王が厳島神社の神々である。

ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。※3

このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。※4

 和辻は、「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする縁起物語(神話・伝説)を根拠として、「キリシタン渡来」直前に

が室町時代末期の民衆にあったと論じる。
 加えて、新興武士階級の家訓書として『早雲寺殿二十一条』、『朝倉敏景十七箇条』、『多胡辰敬家訓』を引き合いに出し、「近代を受け容れるだけの準備」がすでに出来ていたと考察する。

 民衆の思想と新興武士階級の思想とを見て、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかで、「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想状況」が十分に成立していた、と和辻は主張している。
「室町時代の文化」を貶めるのは「江戸幕府の政策に起因した一種の偏見」であると断じ、「室町時代の文化」を

したのだ。


※1 和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」、『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年、99-100頁
※2 同上書、101頁
※3 同上書、102頁
※4 同上書、107頁
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