第3話 ソーシャルディスタンス

文字数 2,231文字

 ヒロキはいつだって、気まぐれに姿を現す。

 でも出てくる場所はアパートのリビングだけと、いつも相場が決まっている。お風呂やトイレには出没しない。そして着替えている時も礼儀を重んじる。どうやらお互いのプライベートはきちんと守るタイプのようだ。

 なのに私が落ち込んだり話し相手が欲しい時は、タイミングよく現れて相手をしてくれる。つまり私にはとても都合のいい存在。見た目はすごくリアルだけど、やはり彼は私の妄想が生み出した架空のキャラクターなのかもしれない。

 それよりも私が気にしていた当面の問題は、殿居くんからの返信が来ないことだった。仕事で忙しいとしてもメールくらいは打てる気がする。でもめんどくさい女だと思われたくなくて、こちらから連絡する気にはなれなかった。

 メールを送ってから三日目の朝。待ちに待った着信がきた。

『すみません、テレビの企画で今朝まで携帯取り上げられてました』

 そういえば先日、大した用もなくたまに連絡をくれる香椎が言っていた気がする。今度狭い部屋に閉じ込められて、どれだけ寝ないで耐えられるか競う番組に参加する予定だと。私からの連絡をスルーされていなかったことにホッとしていると、また殿居くんからメールが届いた。

『明日なら少し時間つくれます』

 すぐに返信して会う時間を決めた。だけどその約束は当日になって、彼の仕事の都合で延期になった。その後も何度か約束を交わしたけど、それらすべてがことごとくキャンセルになった。売れっ子だから忙しいのは理解できる。だけど八回目の約束が果たされなかったその夜、それなら初めから約束しなければいいのにと思ってしまった。

「本当に会う気あるのかな?」

「なければ何度も約束しないと思うよ」とヒロキは私を慰めた。

 わざわざ自由が丘まで行って買ったメロンパン。そんな自分へのご褒美を食べようと冷蔵庫に立った時、放置していた携帯電話が鳴った。慌てて発信者を見ると、やっぱり殿居くんだった。

「もしもし?」

 昭和生まれの私は、電話に出ると今でもこう言ってしまう癖がある。

「姉さん、ドタキャンばっかですみません。だから今度、埋め合わせさせて下さい!」

 忙しい隙間を縫って食事を奢ってくれるという。電話の向こうで彼が頭を下げている姿が想像できた。「でも無理しなくていいよ?」「いいえ、次こそは必ず!」と短い会話で約束をすると電話が切れた。

 次こそ本当のホントだろうね?

 そんな風に思いながらも、ドレッサー代わりのぶら下がり健康器から数年前に通販で購入した勝負服を手に取った。だいぶ前から着る機会のないワンピだったので、サイズ的に大丈夫か心配だった。着てみるとやっぱりきつかったので、私は出したばかりのメロンパンを冷蔵庫にしまった。

 ダイエットを兼ねた半身浴中に事務所のマネージャーから電話があり、裸のまま出ると仕事の話だった。どうやらボディコンキャラのお披露目イベントが決まったらしい。話を聞いているうちにみるみる身体が冷えて、大きなくしゃみが出た。

「イベントは今週なので、体調管理お願いしますね」

「大丈夫です。バカは風邪を引きませんから」

 ところがイベントの開催日当日は、殿居くんに会う日と重なっていた。無論、仕事を断る選択肢はあり得ないので、私は仕方なく彼に電話して事情を説明した。

「気にしないで。101回目のデビュー頑張ってくださいね」

「ありがとう……でも31回目だし」

 殿居くんは優しかったけど、私達は別に付き合っているわけじゃない。だからこのままだと、今の関係が自然消滅するかもしれなかった。

「殿居くん、ちょっと待って」

「なんですか?」

「思ったんだけど、やっぱり食事はできるんじゃないかな?」

 だから私は覚悟を決めて、そんな強気な一言を彼にむかってぶちかました。




 決戦の日。例の仕事は午後8時に終わるので、殿居くんとは8時半に会う約束をしていた。なのにこんな日に限って、不運なトラブルはいたるところに潜んでいた。

 まず舞台装置の故障でイベントの開始時間が遅れた。さらに私のキャラが想像以上にウケて、まぁそれは良かったのだけれど、とにかくそんなこんなでイベントの終了時間がかなり延びてしまっていた。

 午後9時。私は幕が下りると同時に携帯に飛びついた。見ると殿居くんからの不在着信があった。『仕事おしてますか?』というメールも来ていたのですぐに電話したけど、電源が切れているか圏外で、いつまでたっても繋がらなかった。

 怒って電源切っちゃったのかな?

 考えていても仕方ないので約束の場所に向かった。タクシーに乗るも交通渋滞にはまったので地下鉄に乗り換えた。さらに遅れるのが目に見えた。

 午後10時。二時間の遅刻で待ち合わせの喫茶店に到着した。でもそこに殿居くんの姿はなかった。焦っていて気づかなかったけど、携帯電話を確認すると私が地下鉄にいた時もメールが来ていた。

『すみません、これからラジオなので今日はもう行きます』

 この日の殿居くんは深夜ラジオの仕事だった。そして彼の携帯電話が繋がらなかった理由はすぐに分かった。指定した喫茶店が地下なので電波が入らなかったのだ。

 圏外だったのは彼がここで待っていた証拠。来たこともない喫茶店を待ち合わせ場所にした私って本当にバカだ。こんなことなら意地なんて張るんじゃなかった。

 こうなった以上、今の私には家に帰ってテレビをつけるくらいしか、笑顔の殿居くんに会う方法は残されていなかった。
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