第1話 売れっ子と低空飛行芸人

文字数 2,082文字

 私は久遠(くおん)亜紀(あき)。今年で十年目のお笑い芸人だ。

 一九八〇年代に火がついた漫才ブームに憧れて上京したけど、今はすでに二十一世紀。気がつけば、鳴かず飛ばずのベテラン若手になってしまった。

 だからって諦めるのはまだ早いと思っている。年齢的にもまだまだ……うん、ギリギリセーフだ。でも時間と現実は想像しているより無慈悲だから、私が覚醒する日など待っていてくれないこともよく知っていた。

 これまでの私は小さな芸能プロダクションに所属しながら、三十種類以上のネタキャラを作って演じてきた。でも一度だってまともにウケた経験はない。テレビの仕事なんかもらえるはずもなく、今でも場末感漂う小劇場やストリップ小屋の前座をやっている。

 つい先日も舞台で「脱がねーなら引っ込め!」とお客さんにトイレ紙を投げつけられたっけ。でもそれをヒントに新キャラを生み出した私ってポジティブだ。トイレ紙を全身に巻きつけた「(かみ)イラ女」。まあ自然に優しくないし、全然ウケなかったんだけどね。



「いい加減、諦めて田舎に帰ったら?」

 故郷から遊びに来てくれた仲のいい友達が言った。彼女は六年前に結婚して出産もしていた。売れないのに今みたいな仕事をずっと続けている私は、一般的に考えても結婚願望が強い方じゃないと思う。だけどアイスを頬張りながらお母さんに甘える娘さんの姿を見ていると、何故か心の奥の方がぎゅっと締めつけられる想いがした。

 このまま下積み生活から抜けだせずに、誰にも知られることがないまま、一人寂しく野たれ死んでいくのではないか。

 そんな私の追い詰められた気持ちを察したのか、事務所のマネージャーが次のイベントで着る衣装の候補を提案してきた。それはバブル経済時代に流行ったイケイケのボディコンスーツ。身長が足りない私に似合うとは思えない、ズレまくりのお色気キャラだった。

「今までこういう路線ってなかったでしょ? 逆にこのズレた感じがウケるかもしれないかなって。もちろんジュラが気に入ればって話だけど」

 相方でもない人間が芸人のネタに口を出してくるなんて。普通ならそう思って相手にしないところだけど、私と彼女はあまりにも付き合いが長かった。だから私は十年以上お世話になっている彼女への恩返しのつもりで、その提案を受け入れることにした。

 今日は夜から「輪来(わらい)の会」があったので、劇場がほど近い新宿の飲み屋に足を運んだ。月に一度のペースで若手の芸人が飲んで騒ぐだけの集いだけど、私にとっては数少ない憩いの場だ。今日は同じ目標に向かって猛進している同志に会って癒されるんだ。

 一丁目の裏路地にある居酒屋が近づくと、店内から仲間たちの笑い声が聞こえた。

「おう、アッキー。やっと来たか」

 店に着くと顔を真っ赤にした香椎(かしい)が手招きして私を呼んだ。アッキーは私のあだ名。ちなみに芸名は白亜紀(はくあき)ジュラだ。

 香椎のテーブルには空いたジョッキが並んでいて、すでにできあがっているように見えた。そして彼の隣には殿居(とのい)くんの姿もあった。

 二人とも、忙しいのに今月も参加しているんだ。

 殿居くんは香椎とトノ&カシンというコンビを組んでいる。輪来の会の中でも一番の出世頭だ。トノこと殿居くんがボケで、カシンである香椎はツッコミ担当。今やテレビでも舞台でもひっぱりだこの二人組だった。

 私と同期の香椎も元々はピン芸人だったのに、運命って本当に分からない。

「こんな所で飲んでる暇あるんだね」

 新キャラの件でやさぐれていた私は、シラフのうちからみっともない皮肉を飛ばした。

「絡むのはやっ。そんなのは飲んでからでしょ!」

 香椎が笑いに変えてくれて場が盛り上がった。さすがは長い付き合いなだけはある。どうして私は誘ってもらったときに彼と組まず、ピンでいることにこだわってきたんだろう。

「まぁ姉さん、駆けつけ一杯!」

 香椎の隣に座ると、殿居くんが私にジョッキを渡して言った。彼の笑顔はいつ見ても可愛かった。

「姉さんが新キャラデビューって聞いたので、お祝いに来ました」

 後輩である殿居くんは私を姉さんと呼ぶ。私よりずっと若い彼は事務所に入ってすぐに香椎と組み、あっという間にスターダムに駆け上がった。いわばサラブレッド。同じ事務所なのに、雑種の私とは住んでいる世界が違って見えた。

「デビューって言っても、もう31回目なんですけど」

「じゃあ101回目のデビューを祝って姉さんにかんぱーい!」

「プロポーズじゃねぇし! 31回目だっていってるだろ!」

 昔のテレビドラマをベースにボケる殿居くんに入れたツッコミをきっかけに、みんながジョッキを掲げ、私は溜まった不満やストレスと一緒にビールを喉の奥へと流し込んだ。

 楽しい時間はあっと言う間に過ぎて、カラオケが終わった頃にはとっくの昔に終電が終わっていた。タクシー代がもったいないので歩いて帰ろうとしていると、ほろ酔いの殿居くんに声をかけられた。

「うち新丸子なんですけど、帰る方向一緒ですか?」

 目黒方面だったので答えはイエス。そして泥酔していた私は不覚にも、後先を考えることなく彼と同じタクシーに乗りこんでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み