第2話
文字数 5,632文字
駅前の広場には打ち水用の噴水があって、この時期小さい子どもの遊び場になっている。
傍らには楠の大木が枝を広げ、木陰にはいくつものベビーカーが並んでいた。
幾人かの若い母親が肩を並べて談笑する視線の先には、服をびしょぬれにした子どもたちがはしゃいでいる。
遠山から誘われて待ち合わせ場所をここに指定されたとき、僕は何も考えずに返事をしたのだけれど、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
真夏の日射しの下の光景はあまりにも健全で生命の輝きに満ちている。
はしゃぐ子どもたちの前には何の障害も翳りもないように見えた。
楠を囲むように置かれたベンチに腰をおろしていると、降り注ぐ蝉の声にすべてを遮られて自分の存在がこの世界から切り取られてしまったようで心細くなる。
南に別れを告げてからひと月がたった。
もともと何の約束もないに等しい関係だった。
南から彼の気持ちを聞いたこともない。
今となっては南がどんなつもりで僕と会っていたのかさえ曖昧で、決して短くはなかったはずの日々も驚くほど現実味がない。
僕の南に対する執着を思えば、もっと落ち込んだり嘆き悲しんだりしそうなものだけれど、心は平穏といえるくらいに静かだった。
それでも……ふとしたはずみに南の体温や指先を思い出すことがある。
それは不思議なほどに肉欲とはかけ離れた場面でだ。
図書館の自習室、カフェでの注文待ち、飲み会の帰り、学食で一人昼食を摂っているとき……。どれも南とは過ごしたことのない日常のひとときだった。
いないのが当たり前のはずなのに、南の姿を探してしまう。
探して、もとより求めるべくもないことに気づく。
そして、何度目だかわからない絶望へと僕を突き落とすのだ。
南の『償い』を僕は綺麗事だと決めつけた。軽蔑さえしていたかもしれない。
けれど僕が勝手に南に与えたと思っていた解放も同じものだと気づく。
どうすれば良かったのか、考えても答えの出ない自問に沈みかける僕の思考を破ったのは、遠山の声だった。
「悪い、ちょっと遅れた」
らしくない早口が、遠山の焦りを感じさせる。
「大丈夫だよ。そんなに待ってない」
事実、手首の時計を確認しても待ち合わせの時刻を十分程度過ぎているにすぎない。
けれど遠山は走ってきたらしく、額には大粒の汗が浮かんでいた。
「バイト先の子がなかなか帰してくれなくてさ」
僕の隣に座った遠山は、大きくため息をつく。
「家庭教師だっけ? 夏休みなのに大変だな」
表情を笑顔に整えながら、僕は遠山をねぎらった。このところの心境では、遠山相手でも意識しないと笑えない。
「親御さんに宿題を早く終わらせてくれって言われてんだよな。なのにやる気なしだから注意したらむくれてさ」
「反抗期かよ。なに? 女の子?」
遠山の生徒が男か女かなんて、実際はどうでもいい。けれどこう返答するのが正解だと、僕の思考が囁くから。
「小学生男子。ご機嫌取りにゲーム付き合ってきた」
肩を回しながらそう言った遠山は、それでもまんざらじゃなさそうだった。
「しっかりやっつけてきたけどな」
「ご機嫌取りになってないじゃないか」
苦笑で返す。これも間違っていないはず。その証拠に遠山は僕に得意げな顔をして見せる。
「一応先生だからさ。負けるわけにいかないだろ?」
真面目なのかふざけているのか判断に困るような屈託のない遠山の笑顔に、一瞬見とれた。
いや、本当は目を塞いでしまいたかった。遠山の存在はいまの僕にはまぶしすぎる。
昏い秘密と身勝手な悲しみの海の中で、逆らえずに沈んでゆくだけの僕にとっては。
「ところで、そろそろ移動するか?」
立ち上がり、首にかけたタオルで汗を押さえながら、遠山がそう言う。
待ち合わせの用件は部活の陣中見舞いだ。
正直気が重かったけれど、先月加納に頼まれていたこともあって断り切れなかった。
遠山とは違って僕はアルバイトもしていないし『暇だろ?』と訊かれれば返す言葉もない。
南とのことも、もちろん遠山は知らない。僕がなぜ行きたくないのかを知られたくなくて、仕方なく了承したのだ。
「そうだな」
僕の返事が遠山にどう聞こえたのかはわからない。
言葉で答えただけで席を立とうとしない僕の態度を、遠山がどう思ったのかも。
「ほら、待たせて悪かったけど時間だぞ?」
「……そうだな」
これ以上はいけない。かろうじてそれだけを考え、僕は遠山の隣に並んだ。
遠山の手には、差し入れの塩飴とスポーツドリンクのパウダーが入った紙袋が下げられている。
学校の射場だけでは足りずに有料の体育館を使っていると言った加納の言葉に、遠山は少しでも部費を節約させたいと思ったらしかった。
遠山なら差し入れなどしなくてもみんなに歓迎されるだろうに、わずかでも足しになるのならと気遣う彼の気持ちは尊敬に値する。
高校の三年間、近くにいたときにはなかなか気づけなかったけれど、同い年とは思えないほどに遠山は大人だ。
それを買われて主将をつとめていたのだろうし、僕自身、遠山の近くにいることが心地良かった。
去年の夏、病室で目を覚ました時にそばにいてくれたのも彼だった。
まるでちょっとした貧血で倒れたかのように、いつもの調子で『気分どう?』と訊かれてほっとした。
だからそのあとで僕を誤射した南を殴るところだったと聞かされても、本気で言っているとも思えなかった。
遠山は長身で恵まれた体格だったけれど、力で誰かを言いなりにさせるような性格じゃなかった。
それに、いまそうしているように、みんなに分け隔てなく優しい。
「重いだろ? 半分持つよ」
五十人以上いるという後輩全員にいきわたるだけの品物は、それなりの量がある。紙袋も全部で四つ。
だから半分と言ったのに、遠山は袋を渡してくれない。
「内海はまだ本調子じゃないだろ?」
「うんまあ、まだっていうか……」
語尾を濁したのは、もう治らないと遠山に告げることがためらわれたからだ。
それをどう受け取ったのか、遠山は紙袋の中を確かめると一番軽いと思われる袋を僕に寄越す。
「内海も手ぶらじゃ、かっこつかないか」
遠山はそう言って笑った。
気を遣わせているのだと思った。そんなふうに何気なく向けられる思いやりが辛い。
僕は遠山が思うような人間じゃない。それどころか、爪の先までも嘘に染まってしまっている。
「無理はするなよ?」
「無理って……」
ほんの小さな荷物を受け取りながら、そう自嘲した。
去年、新学期が始まる前に遠山には弓を辞めると話した。もちろん引退の時期ではあったけれど、進学しても何らかの形で続けていこうと約束していたことを、果たせなくなったと告げたのだ。
まだその頃までは、僕の後遺症が不可逆なものなのかの判断はついていなかった。
遠山は諦めるなと言ってくれた。
リハビリでもなんでも、自分にできることがあるなら協力すると。
『それに、内海が辞めたら南は気にするんじゃないのか?』
遠山の口から出た南の名前に、心臓を掴まれたような気がした。
すでに僕は南と関係を持っていたし、遠山が言うのとは反対に、弓から離れることで南を縛り付けたいと思っていた時期だったから。
いまなら、それが間違いだったことがわかる。
けれどその頃の僕は南に溺れていて、遠山の好意を鬱陶しいとさえ感じたのだ。
いつもは物わかりのいい遠山がいつになく食い下がり、半ば喧嘩別れのようになったことも思い出す。
卒業までの半年余りを、遠山を避けるようにして過ごしたことも。
それなのに……。
久しぶりにかかってきた遠山からの電話は以前と同じ声で、僕に何のわだかまりも抱かせなかった。
『来週、部活見に行かないか?』
まるでいつも一緒にいる友人同士のように問いかけられて、戸惑いがなかったと言えば嘘になる。
進学してからは数えるほどしか連絡を取っていない。
お互い地元にいるとはいえ、通う大学が違えば接点は皆無に等しい。
僕以外の元弓道部員は競技を続けているものも多く、それぞれに関りを持っているらしかったけれど、僕にはそれもない。
南がいれば良かった。
南しか見えていなかった。
その南と別れてから間近の遠山からの連絡は、かたくなな僕の心をわずかに柔らかくする。
半面、僕の恐れは増した。
変わらずに接してくれる遠山に、僕の愚かさを知られたくない。
だから断ろうと思ったのに……。
そう思えば自然と僕の歩みは遅れがちになった。
もともとの身長差もあって、うつむいて歩いているだけで遠山の背中は離れていく。
あぁ、早く追いつかなくてはまた遠山が心配すると思うのに、足を速めることができない。
視線の先で遠山が振り向くのが見えた。そして、僕が走ろうとするよりも早く、遠山が慌てたように駆けてくる。
「内海!」
肩を掴まれて、その指の力の強さに驚いた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「いや、ごめん。ちょっとボーっとしてただけ」
「さっきも様子がおかしかったし、調子が悪いようだったら……」
遠山の顔は真剣そのものだった。
いつもこうだと申し訳ないような気持になりながら、心配されることの心地よさも感じていた。
自分から他人と関わらないようにしているのに、無条件で向けられるやさしさに飢えている。
遠山が僕のことを気にかけてくれるのは、彼なりの責任感のようなもので他意はないとわかっているのに、縋るような思いで差し出される手を取ってしまう。
「いや、ほんとなんでもないんだ」
いま僕はうまく笑えているだろうかと、頭の片隅で考えた。
ありがとうとほんの小声でつぶやいて、痛いほどにさらされている遠山の視線を避ける。
肩を支えていた遠山の手が離れて、僕の手から荷物を取り上げた。
え?と思う間もない、遠山にしてはやや強引な行動に思わず顔を上げる。
「ほんと、大丈夫だって」
「学校に着いたらちゃんと渡すから」
甘えとけば? と苦笑まじりにうながされてうなずくことしかできない。
歩き出した僕から、遠山は目を離さなかった。
「なんかさ、こうして並んで歩くの久しぶりだからかもしれないけど」
一旦はそう話し始めた遠山は、何かを逡巡するように視線をさまよわせる。
言いにくいことでもあるのだろうかと首を傾げて遠山を見ると、一瞬苦し気に眉を寄せた。
「内海、痩せたな」
ああ、それでかと自嘲する。
ほとんど過剰とも思える遠山の気遣いは、僕の外見上の変化を受けてのものだったのか。
確かにここひと月あまりはろくに食事もしていない。
けれどそれは、さして重要なことでもなかった。
僕は他人と同じかそれ以上に自分のことに関心がなかったし、遠山以外には『痩せた』などと指摘してくれる人もいなかった。
母は作り置きの食事に手を付けていないと「また残して」と小言を言ったけれど、それ以上に言及することはなかった。
仕事と家事に忙しく、成人も間近となった息子のことをかまってもいられないようだった。
その無関心は、僕にはむしろありがたかったくらいだ。
もしも母にいろいろと世話をやかれていたら、僕と南の関係や破局が知られてしまったのかもしれないと気を回したことだろう。
けれど、遠山の言葉は胸に沁みた。
何よりも、僕のことを見ていてくれる事実に泣きそうだった。
南とは、どんなに近くにいても、身体を重ねていてさえ手が届かないと感じていた。
それは僕の犯した過ちのせいでだれを責めることもできない。
はじめから間違っていたのだと何度も思い知らされるのに、そのたびに僕の執着は募った。
二人でこのまま堕ちて行けたらいいのにと思う気持ちと、南に道を踏み外させたままでいいのかと叱る声がせめぎあい、安寧を得ることなどできなかった。
けれど僕の傍らに立つ遠山は、僕に安らぎを与えてくれる。
南ではないのに……。
「ほんと言うとな、この前電話したとき元気ないなって思ったんだ」
陽射しを遮るように遠山が移動する。
太陽を背にして遠山の表情はよく見えない。それでも声音がかすかな決意を感じさせた。
「ちょっと心配はしてた。さっき久々に会って驚いたよ。病人みたいな顔してるんだもんな」
そう言われて無意識に自分の頬を指先でたどる。
自分では気付かなかった。そんなにひどい顔をしていたのか。
「内海に何が起こってる?」
遠山から投げかけられた質問の意味を図りかね、僕は無言で遠山を見つめた。
何もないと言うべきなのだろうか、でも遠山は僕の変化に気づいている。僕が否定しても納得はしないだろう。
考えあぐねて、僕は質問で返答した。
「遠山は、なんでそんなふうに思うの?」
以前の彼なら『質問に質問で答えるなよ』と苦笑しただろう。けれど目の前の遠山は違った。
僕の見間違いかもしれないけれど、遠山は寂しげに微笑んで、ため息のように言葉を繋いだ。
「俺には言えないんだな」
いつもの遠山らしくなく、語尾はかすかに震えていた。それは、僕に向けられているのではなく、遠山自身に言い聞かすような声だった。
その言葉に胸を塞がれるようで、僕は言い訳をしようとして……やめた。
遠山の言うとおりだ。
言いかけた声の形に開いた唇を、一瞬だけ遠山の指がなぞった。
『良いんだ』
触れた指先から遠山の想いが伝わったような気がしたのは、あまりに都合のいい解釈だっただろうか。
けれど遠山はそれ以上の追及をせず、僕の背中をポンと叩くといつものように笑ってくれた。
「遅くなったな。少し急ごう」
傍らには楠の大木が枝を広げ、木陰にはいくつものベビーカーが並んでいた。
幾人かの若い母親が肩を並べて談笑する視線の先には、服をびしょぬれにした子どもたちがはしゃいでいる。
遠山から誘われて待ち合わせ場所をここに指定されたとき、僕は何も考えずに返事をしたのだけれど、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
真夏の日射しの下の光景はあまりにも健全で生命の輝きに満ちている。
はしゃぐ子どもたちの前には何の障害も翳りもないように見えた。
楠を囲むように置かれたベンチに腰をおろしていると、降り注ぐ蝉の声にすべてを遮られて自分の存在がこの世界から切り取られてしまったようで心細くなる。
南に別れを告げてからひと月がたった。
もともと何の約束もないに等しい関係だった。
南から彼の気持ちを聞いたこともない。
今となっては南がどんなつもりで僕と会っていたのかさえ曖昧で、決して短くはなかったはずの日々も驚くほど現実味がない。
僕の南に対する執着を思えば、もっと落ち込んだり嘆き悲しんだりしそうなものだけれど、心は平穏といえるくらいに静かだった。
それでも……ふとしたはずみに南の体温や指先を思い出すことがある。
それは不思議なほどに肉欲とはかけ離れた場面でだ。
図書館の自習室、カフェでの注文待ち、飲み会の帰り、学食で一人昼食を摂っているとき……。どれも南とは過ごしたことのない日常のひとときだった。
いないのが当たり前のはずなのに、南の姿を探してしまう。
探して、もとより求めるべくもないことに気づく。
そして、何度目だかわからない絶望へと僕を突き落とすのだ。
南の『償い』を僕は綺麗事だと決めつけた。軽蔑さえしていたかもしれない。
けれど僕が勝手に南に与えたと思っていた解放も同じものだと気づく。
どうすれば良かったのか、考えても答えの出ない自問に沈みかける僕の思考を破ったのは、遠山の声だった。
「悪い、ちょっと遅れた」
らしくない早口が、遠山の焦りを感じさせる。
「大丈夫だよ。そんなに待ってない」
事実、手首の時計を確認しても待ち合わせの時刻を十分程度過ぎているにすぎない。
けれど遠山は走ってきたらしく、額には大粒の汗が浮かんでいた。
「バイト先の子がなかなか帰してくれなくてさ」
僕の隣に座った遠山は、大きくため息をつく。
「家庭教師だっけ? 夏休みなのに大変だな」
表情を笑顔に整えながら、僕は遠山をねぎらった。このところの心境では、遠山相手でも意識しないと笑えない。
「親御さんに宿題を早く終わらせてくれって言われてんだよな。なのにやる気なしだから注意したらむくれてさ」
「反抗期かよ。なに? 女の子?」
遠山の生徒が男か女かなんて、実際はどうでもいい。けれどこう返答するのが正解だと、僕の思考が囁くから。
「小学生男子。ご機嫌取りにゲーム付き合ってきた」
肩を回しながらそう言った遠山は、それでもまんざらじゃなさそうだった。
「しっかりやっつけてきたけどな」
「ご機嫌取りになってないじゃないか」
苦笑で返す。これも間違っていないはず。その証拠に遠山は僕に得意げな顔をして見せる。
「一応先生だからさ。負けるわけにいかないだろ?」
真面目なのかふざけているのか判断に困るような屈託のない遠山の笑顔に、一瞬見とれた。
いや、本当は目を塞いでしまいたかった。遠山の存在はいまの僕にはまぶしすぎる。
昏い秘密と身勝手な悲しみの海の中で、逆らえずに沈んでゆくだけの僕にとっては。
「ところで、そろそろ移動するか?」
立ち上がり、首にかけたタオルで汗を押さえながら、遠山がそう言う。
待ち合わせの用件は部活の陣中見舞いだ。
正直気が重かったけれど、先月加納に頼まれていたこともあって断り切れなかった。
遠山とは違って僕はアルバイトもしていないし『暇だろ?』と訊かれれば返す言葉もない。
南とのことも、もちろん遠山は知らない。僕がなぜ行きたくないのかを知られたくなくて、仕方なく了承したのだ。
「そうだな」
僕の返事が遠山にどう聞こえたのかはわからない。
言葉で答えただけで席を立とうとしない僕の態度を、遠山がどう思ったのかも。
「ほら、待たせて悪かったけど時間だぞ?」
「……そうだな」
これ以上はいけない。かろうじてそれだけを考え、僕は遠山の隣に並んだ。
遠山の手には、差し入れの塩飴とスポーツドリンクのパウダーが入った紙袋が下げられている。
学校の射場だけでは足りずに有料の体育館を使っていると言った加納の言葉に、遠山は少しでも部費を節約させたいと思ったらしかった。
遠山なら差し入れなどしなくてもみんなに歓迎されるだろうに、わずかでも足しになるのならと気遣う彼の気持ちは尊敬に値する。
高校の三年間、近くにいたときにはなかなか気づけなかったけれど、同い年とは思えないほどに遠山は大人だ。
それを買われて主将をつとめていたのだろうし、僕自身、遠山の近くにいることが心地良かった。
去年の夏、病室で目を覚ました時にそばにいてくれたのも彼だった。
まるでちょっとした貧血で倒れたかのように、いつもの調子で『気分どう?』と訊かれてほっとした。
だからそのあとで僕を誤射した南を殴るところだったと聞かされても、本気で言っているとも思えなかった。
遠山は長身で恵まれた体格だったけれど、力で誰かを言いなりにさせるような性格じゃなかった。
それに、いまそうしているように、みんなに分け隔てなく優しい。
「重いだろ? 半分持つよ」
五十人以上いるという後輩全員にいきわたるだけの品物は、それなりの量がある。紙袋も全部で四つ。
だから半分と言ったのに、遠山は袋を渡してくれない。
「内海はまだ本調子じゃないだろ?」
「うんまあ、まだっていうか……」
語尾を濁したのは、もう治らないと遠山に告げることがためらわれたからだ。
それをどう受け取ったのか、遠山は紙袋の中を確かめると一番軽いと思われる袋を僕に寄越す。
「内海も手ぶらじゃ、かっこつかないか」
遠山はそう言って笑った。
気を遣わせているのだと思った。そんなふうに何気なく向けられる思いやりが辛い。
僕は遠山が思うような人間じゃない。それどころか、爪の先までも嘘に染まってしまっている。
「無理はするなよ?」
「無理って……」
ほんの小さな荷物を受け取りながら、そう自嘲した。
去年、新学期が始まる前に遠山には弓を辞めると話した。もちろん引退の時期ではあったけれど、進学しても何らかの形で続けていこうと約束していたことを、果たせなくなったと告げたのだ。
まだその頃までは、僕の後遺症が不可逆なものなのかの判断はついていなかった。
遠山は諦めるなと言ってくれた。
リハビリでもなんでも、自分にできることがあるなら協力すると。
『それに、内海が辞めたら南は気にするんじゃないのか?』
遠山の口から出た南の名前に、心臓を掴まれたような気がした。
すでに僕は南と関係を持っていたし、遠山が言うのとは反対に、弓から離れることで南を縛り付けたいと思っていた時期だったから。
いまなら、それが間違いだったことがわかる。
けれどその頃の僕は南に溺れていて、遠山の好意を鬱陶しいとさえ感じたのだ。
いつもは物わかりのいい遠山がいつになく食い下がり、半ば喧嘩別れのようになったことも思い出す。
卒業までの半年余りを、遠山を避けるようにして過ごしたことも。
それなのに……。
久しぶりにかかってきた遠山からの電話は以前と同じ声で、僕に何のわだかまりも抱かせなかった。
『来週、部活見に行かないか?』
まるでいつも一緒にいる友人同士のように問いかけられて、戸惑いがなかったと言えば嘘になる。
進学してからは数えるほどしか連絡を取っていない。
お互い地元にいるとはいえ、通う大学が違えば接点は皆無に等しい。
僕以外の元弓道部員は競技を続けているものも多く、それぞれに関りを持っているらしかったけれど、僕にはそれもない。
南がいれば良かった。
南しか見えていなかった。
その南と別れてから間近の遠山からの連絡は、かたくなな僕の心をわずかに柔らかくする。
半面、僕の恐れは増した。
変わらずに接してくれる遠山に、僕の愚かさを知られたくない。
だから断ろうと思ったのに……。
そう思えば自然と僕の歩みは遅れがちになった。
もともとの身長差もあって、うつむいて歩いているだけで遠山の背中は離れていく。
あぁ、早く追いつかなくてはまた遠山が心配すると思うのに、足を速めることができない。
視線の先で遠山が振り向くのが見えた。そして、僕が走ろうとするよりも早く、遠山が慌てたように駆けてくる。
「内海!」
肩を掴まれて、その指の力の強さに驚いた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「いや、ごめん。ちょっとボーっとしてただけ」
「さっきも様子がおかしかったし、調子が悪いようだったら……」
遠山の顔は真剣そのものだった。
いつもこうだと申し訳ないような気持になりながら、心配されることの心地よさも感じていた。
自分から他人と関わらないようにしているのに、無条件で向けられるやさしさに飢えている。
遠山が僕のことを気にかけてくれるのは、彼なりの責任感のようなもので他意はないとわかっているのに、縋るような思いで差し出される手を取ってしまう。
「いや、ほんとなんでもないんだ」
いま僕はうまく笑えているだろうかと、頭の片隅で考えた。
ありがとうとほんの小声でつぶやいて、痛いほどにさらされている遠山の視線を避ける。
肩を支えていた遠山の手が離れて、僕の手から荷物を取り上げた。
え?と思う間もない、遠山にしてはやや強引な行動に思わず顔を上げる。
「ほんと、大丈夫だって」
「学校に着いたらちゃんと渡すから」
甘えとけば? と苦笑まじりにうながされてうなずくことしかできない。
歩き出した僕から、遠山は目を離さなかった。
「なんかさ、こうして並んで歩くの久しぶりだからかもしれないけど」
一旦はそう話し始めた遠山は、何かを逡巡するように視線をさまよわせる。
言いにくいことでもあるのだろうかと首を傾げて遠山を見ると、一瞬苦し気に眉を寄せた。
「内海、痩せたな」
ああ、それでかと自嘲する。
ほとんど過剰とも思える遠山の気遣いは、僕の外見上の変化を受けてのものだったのか。
確かにここひと月あまりはろくに食事もしていない。
けれどそれは、さして重要なことでもなかった。
僕は他人と同じかそれ以上に自分のことに関心がなかったし、遠山以外には『痩せた』などと指摘してくれる人もいなかった。
母は作り置きの食事に手を付けていないと「また残して」と小言を言ったけれど、それ以上に言及することはなかった。
仕事と家事に忙しく、成人も間近となった息子のことをかまってもいられないようだった。
その無関心は、僕にはむしろありがたかったくらいだ。
もしも母にいろいろと世話をやかれていたら、僕と南の関係や破局が知られてしまったのかもしれないと気を回したことだろう。
けれど、遠山の言葉は胸に沁みた。
何よりも、僕のことを見ていてくれる事実に泣きそうだった。
南とは、どんなに近くにいても、身体を重ねていてさえ手が届かないと感じていた。
それは僕の犯した過ちのせいでだれを責めることもできない。
はじめから間違っていたのだと何度も思い知らされるのに、そのたびに僕の執着は募った。
二人でこのまま堕ちて行けたらいいのにと思う気持ちと、南に道を踏み外させたままでいいのかと叱る声がせめぎあい、安寧を得ることなどできなかった。
けれど僕の傍らに立つ遠山は、僕に安らぎを与えてくれる。
南ではないのに……。
「ほんと言うとな、この前電話したとき元気ないなって思ったんだ」
陽射しを遮るように遠山が移動する。
太陽を背にして遠山の表情はよく見えない。それでも声音がかすかな決意を感じさせた。
「ちょっと心配はしてた。さっき久々に会って驚いたよ。病人みたいな顔してるんだもんな」
そう言われて無意識に自分の頬を指先でたどる。
自分では気付かなかった。そんなにひどい顔をしていたのか。
「内海に何が起こってる?」
遠山から投げかけられた質問の意味を図りかね、僕は無言で遠山を見つめた。
何もないと言うべきなのだろうか、でも遠山は僕の変化に気づいている。僕が否定しても納得はしないだろう。
考えあぐねて、僕は質問で返答した。
「遠山は、なんでそんなふうに思うの?」
以前の彼なら『質問に質問で答えるなよ』と苦笑しただろう。けれど目の前の遠山は違った。
僕の見間違いかもしれないけれど、遠山は寂しげに微笑んで、ため息のように言葉を繋いだ。
「俺には言えないんだな」
いつもの遠山らしくなく、語尾はかすかに震えていた。それは、僕に向けられているのではなく、遠山自身に言い聞かすような声だった。
その言葉に胸を塞がれるようで、僕は言い訳をしようとして……やめた。
遠山の言うとおりだ。
言いかけた声の形に開いた唇を、一瞬だけ遠山の指がなぞった。
『良いんだ』
触れた指先から遠山の想いが伝わったような気がしたのは、あまりに都合のいい解釈だっただろうか。
けれど遠山はそれ以上の追及をせず、僕の背中をポンと叩くといつものように笑ってくれた。
「遅くなったな。少し急ごう」