第5話
文字数 8,054文字
「南……なんで」
チャイムの音に午睡のまどろみを破られてドアを開けると、立っていたのは制服姿の南だった。
見ただけでわかるほど、僕の手は震えていた。握ったままのドアノブがカタカタと音を立てる。
日に灼けた顔とトランク、肩にもたせ掛けた弓と背負った矢筒で思い至る。
「合宿、終わったのか?」
動揺に詰まりそうになる声でやっとそれだけを南に問いかける。
遠山から誘われてはいた。ほかの元部員も集まるから、一緒に行こうと。
けれど僕はどうしてもうんと言えなかった。
一年前の合宿で僕は怪我をしてずいぶん迷惑をかけた。当事者である僕が顔を出せば、みんな否応なしにその記憶がよみがえるだろう。
それに南を見てしまったら、また泣いてしまいそうで。そうすることで遠山を傷つけてしまいそうで。
だから最初から断って、極力考えないようにしていた。遠山も、僕の選択を尊重してくれたのか、それ以上には食い下がらなかった。ここ数日の連絡もない。
半月ほど前、遠山に告白されて一夜を共にしてから、遠山は毎日のように連絡をくれていた。
それは他愛のない挨拶がほとんどで、遠山と付き合うことに後ろめたさを感じている僕に対する配慮のような気もした。
あの後一度だけ二人で映画を見に行ったけれどそれだけで、何となく拍子抜けしたような気持にもなっていたのだけれど、そんな風に距離を測ってくれる遠山に救われたのも事実だった。
僕たちの連絡先はみんなが知っているからと、SNSではなく直接電話番号にメッセージを送ってくれるのも嬉しかった。何かの拍子に会話が漏れるのを、僕が嫌ったから。
それなのに僕は、遠山に気を使われるほどには彼のことを気にしていなかったらしい。南を前にして初めて、遠山からの連絡が途絶えていたことに気づくくらいには。
「……入っていい?」
言葉もなく対峙したままなのにじれたように南にそう聞かれて、一瞬だけためらった。
けれど目の前にいるのは紛れもなく南で、僕が焦がれてやまない人で。
「ど、どうぞ」
南をリビングに通したのは僕なりのけじめだった。南と関係を持つようになってからは、私室以外に通したことなど一度もなかった。
僕自身の罪の意識がそうさせていたのかもしれない。南とのことはまさに『秘め事』で、誰にも知られるわけにはいかなかったから。
炎天下を歩いてきたらしい南の首筋を汗が伝う。
「昼間誰もいないからエアコン切ってて、暑いだろ?」
勧めたソファーに腰かけた南は、何度もハンカチで汗をぬぐう。
室外機が音を立て始め、乾いた冷風が吐き出されてくるのを焦りながら待った。室温と同調するように、僕の体温も急に上がったような気がしていた。
内海さん、と南が僕を呼ぶ。
他人行儀な呼びかけに身体がすくんだ。
一度だけぎゅっと目を閉じ、恐る恐る南に視線を向けると、南はまっすぐに僕を見ていた。
怖い、と思った。何もかも見透かされそうで、目をそらしてしまう。
「俺がなんで来たか、わかるか?」
南の口調は静かだった。けれどそこには隠し切れない怒りの色がある。
「遠山さんから聞いた。あんたと付き合うことになった、って。なんで俺に言うんだって聞き返したら、俺と内海さんのことも知ってるって。どういうことだよ」
座っているはずのソファーに、ずぶずぶと沈んでいくような気がした。揃えて膝に置いていた手の先が冷たくなっていく。
聞かされる話の内容を理解しようとしたけれど、考えを纏めようとするほどに混乱は増した。
「ふざけてんのか?俺が年下だから、後輩だから、別れんのも、誰かと付き合うのも、勝手に決めていいっていうのか⁉」
「そんなこと……思ってない」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
信じられなかった。遠山が何を考えて南にそんな話をしたのかがわからない。
「思ってなくても実際そうしてるだろ。最後の時も加納さんがどうこう言って『悪かった』って自分だけ納得して!」
それで、と言いかけて南が俯く。
「今度は遠山さんかよ」
南が大きく息を吐き出す。
普段あまり感情的になることのない南のあからさまな言葉に、殴られたような衝撃を受ける。
「遠山さんに心変わりしたから、俺とのことを終わらせたかったのかよ」
「違う!」
「じゃあなんなんだ!」
ほとんど叫ぶような南の反駁に、僕は怯む。
己の身勝手さは誰よりも僕自身が理解していた。それを南に聞かせたところで、納得してもらえるとも思えない。
でも、これが本当の終わりになるのなら、すべてを曝け出してしまいたいとも思った。
諦めきれなくて、それでも縋りたくて、誰かを傷つけてでも守りたかった気持ちさえ断罪されるのなら。
「ずっと、苦しかった」
こぼれた声が情けなく震える。冷静に告げなくてはと思うのに、きっかけを与えられた感情は南に向かって流れ出そうと胸の中で暴れていた。
「南の贖罪の気持ちを利用して、ほ……奉仕させたりして」
口に出すのも憚られるような罪だったけれど、言葉にしなくてはいけないと思った。
「拒めないのをわかってて、関係を続けさせてるのが辛かった」
目頭がじんと熱くなる。自分のしたことを自分の口から並べるのは、他人からそうされるよりずっと苦痛だった。
けれどこれも僕が受けるべき罰なら、甘んじて受けるしかない。
「もっと早く終わりにしなくちゃいけないって思ってた。でも……できなかった」
歯を食いしばって悲しみの奔流をやり過ごそうとしたがかなわなかった。僕の心は、まだこんなにも南に囚われている。
「なんであんたが泣くんだよ」
呆れたような南の声に、かすかな焦りが混じって聞こえる。
「悪かったと思う気持ちに、嘘はない。けど……そう思わなきゃならない、ことが苦しかった」
しゃくりあげる呼吸に邪魔されて、言いたいことの半分も伝えられないのがもどかしかった。
「こんなに、すき、なのに」
言葉にすればこんなにもささやかな一言なのに、伝えることはなぜ難しいのだろうと思う。
出逢った初めから惹かれていた。
気持ちを認めるのが怖くて、何度も否定した。
押し付けた理想を壊された気がして、自棄になって……利用しようとした。
胸の中にあふれる想いに溺れるようで、呼吸すら苦しい。夢の中にも似て、純度の高い感情に支配された心も身体も、自分の思い通りには動いてくれない。
だから仕方がないのだと、南に涙を見せてしまったことも諦めた。
「そ……んなの、知らねえし」
南が投げやりにつぶやく。
そのひと言にさえ胸をえぐられるようで、痛みは全身に満ちる。
「今まで一回だって、言ってくれたことないだろうが」
「……言えないよ。事故だったのに、償いなんて……最低だ」
自業自得と言ってしまえばまさしくそうなのだろう。僕には最初から、南に想いを告げる資格などありはしなかった。
「あんたホントに」
そう言いかけて、南は深くため息をつく。
心底呆れたと言わんばかりの態度に、うつむいたままの顔を上げることさえかなわない。
僕のことを南がどう思おうと今更だけれど、それでも焦がれてやまない想い人に、みっともない姿を見られたくなかった。
「本気で俺が、あんたと嫌々付き合ってると思ってたのか?」
思わぬ南の言葉に混乱する。
思ってたも何も、いつも僕が一方的に呼び出して行為をせがむばかりで、南に求められたことなど一度もない。
「だって……南から連絡くれないし、いつも遅れてきて」
「だから、いきなり呼ばれても無理だって」
それに、と言いかけて南は口をつぐんだ。
言葉を選ぼうとするように、足元に視線を落とす。
お互いに俯けた顔をあげられないまま、短くはない沈黙が流れる。
息苦しいほどの静寂に負けたのは南のほうだった。
「あんた、エッチぃことすんの、別に好きなわけじゃないだろ」
耳に聞こえてきた言葉の意味を何度も考えようとした。
けれど僕がそれを果たすよりも早く、南は先を続ける。
「最初からそうだよな。内海さんは本気で処理しろなんて言ったわけじゃなかった。そんなの、いつものあんたを見てたらわかる」
そう言われてますます混乱した。
では南は、どんな理由があって僕との関係を続けていたというのか。
「わかってて、なんで……」
「それ、訊くのかよ」
俯いたまま両手で顔を覆ってしまったから、南の表情をうかがうことはできない。けれど隠しきれていない耳が、はっきりと紅潮している。
「内海さんはどうか知らないけど、普通、好きでもないのに触ったりとか、ムリだろ?」
くぐもった南の声が、心なしか上ずって聞こえる。
幻聴かとも思える内容だけに、聞かされている僕もだんだんとふわふわした気分になってきたみたいだった。
反対言えばさ、と南は顔も上げずに先を続けた。
「好きだったら触りたい。きっかけさえあれば、だけど」
「……なんで言ってくれなかったんだ」
あのさ、と答えた声が南らしからぬ感情の高ぶりに彩られているような気がする。
「言えるわけないだろ? 一番大切にしたい人にケガさせて、危なく死なせるところだったんだぞ」
言葉の強さとはうらはらに、南はうなだれて顔を隠したままだ。それがまるで泣いているようで、僕のほうが苦しくなる。
それは僕が、望まずに南に与えたと思っていた加害の苦渋を知っているからに他ならないのだけれど。
南がそれを欲するかどうかはわからなかったけれど、その肩を支えたかった。
視線を避けるように座っていた席を立って、南の隣に腰をおろす。
僕がおずおずと背中に腕を回しても、南は身じろがなかった。
僕よりずっと広い背中が、かすかに震えているような気がするのは思い違いではないはずだ。
その証拠に、なだめるように背中を撫でると一度はこわばった背筋から力が抜けた。それにつれて、顔を覆っていた両手が外されて、南の頭が僕の胸元に落ちてくる。
甘えるような仕草はいままで見たこともないもので、鼓動は早さを増した。
南に聞かれてしまうと思ったけれど、このままにしておきたい気持ちのほうが強くて、もたれかかる心地良い重みを受け止め続けた。
「俺が言ったこと、覚えてる?」
まどろむような気分で南をあやしていた僕に、南がそう問いかける。
「ごめん、なに?」
「一方的に赦されても、ってやつ」
忘れられるはずもなかった。
去年、ちょうど今頃だった。短い入院を終えて帰宅した僕の部屋に来た南が、おそらくは怒りとともに放った言葉だ。
「俺、ずっと見てたよ。内海さんががんばってるとこ」
がんばる? 僕が?
自分では決してたどり着かない評価は、南の口からきいてもピンとこない。
「内海さんはさ、あんま他人に興味ない代わりに悪口とか陰口とか、そういうのもないよな。そんなとこがいいと思う」
くすぐったくなるほどの言葉だった。
自分も含めて、人間への関心が薄いというのは僕のコンプレックスの一つで、まさか長所として数えられるとは思ってもみなかった。それも南から。
「最初は加納さんがやたら懐いてる人がいるなって、それだけだった。俺たち一年は加納さんのあとをついて歩く。その加納さんは、あんたのあとを歩いてる、みたいな」
その構図には確かに覚えがあった。
加納がなんで僕を慕ってくれていたのかは今でもわからないけれど、教育係として新入生の世話をする加納のことは、僕もそれなりに気にして見ていた。
「でも、役員でもないのに何やかや苦労しょい込んでさ、はじめはどんくさいって思ってたはずなのに……目が離せなくなってた」
内海さん、と胸の上で南が呼ぶ。それは今までと同じ呼びかけでも、こみ上げるような感情を僕に呼び起こした。
僕が何よりも欲しかった南の言葉が、かたくなな心を解していく。僕の傷は一方的なもので、南に癒されるのは贅沢すぎる望みだと思っていたのに……。
「俺があんたに認めてもらえるの、弓だけだろ。だからそれだけは、負い目を感じたくなかったんだ」
違う、と南の言い分を否定した自分の声に驚く。甘々と南の告白に酔っていたはずなのに『弓だけ』という南の言いように現実に引き戻される。
「そう思わせてたのなら……ごめん」
僕が南を利用するような真似をしたせいで、南は自分を低く見積もりすぎている。
僕にとって南は最初から特別だった。同性の下級生に惹かれる自分を認めたくなくて、何度も気持ちに抗おうとして……果たせなかった。
どれほど言葉を重ねても足りないくらい南のことを想っていると、伝えたいのに……。
「南のこと、大事にしたいと思ってた。あんなことさせてて矛盾してるけど、ほかに会う理由がないのが……悲しかった」
「させてて、って……別に俺、嫌じゃなかったし」
「それでも、だよ。自分の好きな人に罪の……ほんとは罪でもなんでもないことなのに、代償をさせてることが辛かった」
打ち明けた思いに傷ついて、不意に涙が零れ落ちる。
南の髪に吸い込まれた雫の跡をたどるように、指先だけで頭をなでる。他愛ないこんな触れ合いも、これまではできなかった。償いという言葉一つで、南と自分自身を縛り付けていたから。
「だから別れようって?」
訊かれて答えようとしたけれど、できなかった。
長くはない、けれどたとえようもなく苦しい沈黙に、焦れたように南が口を開く。
「いきなり終わりにしようって言われて、ほんとは嫌だった。けど……仕方ないとも思ったよ。俺は内海さんの挑発に付け込んで、あんたが望む以上のことをしたと思ってたから。あんたが別れたいなら、そうするしかないと思ったし」
それまで子どもがするように僕にもたれかかっていた南が、身体を起こしてうなだれた顔を上げる。
「あの……さ、俺、あんたが初めてじゃない。あんまいい思い出じゃないけど、やっぱ部活の先輩と、中学の時にちょっと」
口調は淡々としていたけれど、それを告げることが南にとって容易いことではないのだろうことは、かすかに寄せられた眉根でうかがえた。
「好奇心、ていうか悪ふざけの延長みたいな感じでさ。でも周りにばらされて、部活も辞めて、あとはお決まりみたいに皆に無視されて。だから必要以上に他人と関わるのはやめようって思ってた」
聞いている僕のほうが辛くなる告白だった。
そんな南に自分がした仕打ちが、実際の行為以上だったことに気づかされて、僕がしてきた言い訳がいかに身勝手だったのか思い知らされる。
「去年、はじめて内海さんとしたときに『これもばらされて、また居づらくなんのかな』って思ったよ。けど反対にもうどうでもいい、って自棄にもなった。すごく尊敬してた先輩だったけど、自分の思い違いだったんだなって」
知らなかったとはいえ、残酷なことをしてしまった。今更後悔しても遅いけれど、僕こそが南に贖罪を求められるべきではないのか。
思考に沈みかける僕の意識を引き上げたのは、目の前の南の表情だった。
およそ似つかわしくない泣き出しそうに歪んだ顔が、南を年相応に見せていた。
「だけどあんた、誰にも言わなかったんだよな。ほんとに、一言も」
言わなかったのではなく、言えなかっただけだ。自分のしていることがいかに身勝手で卑怯なことか、他ならない僕自身が一番よくわかっていた。
「それだけで、ばかみたいにどんどん惹かれていった。なのに」
昂る感情を抑え込もうとするように、南が一度だけ深く息を吐く。そのあとに続く言葉をはかりかねて、呼吸を止めるほどに緊張した。今度こそ偽りでなく、別れを告げられるのかもしれないと思ったから。
「遠山さんから俺たちのこと知ってるって言われて、どれだけ絶望したかわかるか?」
投げかけられた問いに答えるすべを、僕は持たなかった。何を答えても、南には薄っぺらく聞こえてしまうはずだ。
それは一年前に僕が感じた隔たりとあまりにも似すぎていて、どんなに言葉を尽くしても真意を伝えることはできそうになかった。
「ごめんな」
ほかに言うべきことが見つからず、短い謝罪だけを口にする。気弱にさえ見える南に少しでも気持ちを伝えたくて、膝の上で固く握られた拳にそっと手を重ねた。
「僕が弱いせいで南に嫌な思いさせて、ほんとにごめん」
そんな言葉しか紡げないことが情けなかった。けれど手を振り払われなかったことに勇気を得て先を続ける。
「この前、部活見に行っただろ?」
返事を期待したわけではなかったけれど、僕の言葉に南は黙ってうなずいた。
「射場で南を見かけたとき、たまんなかった。ずっと会いたいって思ってて……でも、もう連絡しちゃいけないって決めててさ。顔だけでも見られてうれしいって気持ちと……南が目も合わせてくれなくて悲しいって気持ちと、ごちゃごちゃになって。途中で出てったの、知ってたか?」
それにも南はかすかにうなずいた。
「自分では納得してたつもりだったんだ。僕が無理強いした関係なんだから、南とのことは終わらせなきゃいけない。そうするのがいいことなんだって。でも、頭で理解してても感情はついてきてなかった。で、馬鹿みたいに校舎の中で泣いちゃってさ、それを遠山に見られて」
「理由を訊かれた?」
「うん」
南は視線を窓の外に向けたまま、伸びをするように両腕を上に上げた。そのまま背もたれにもたれかかると、今度はじっと僕を見据えてくる。
「俺さ、内海さんに『さよなら』って言われても、なんか信じられなかった。前の時みたいに、もっとぐちゃぐちゃするもんだと思ってたし。それなのに本気で連絡してこなくなってさ、何て言うのか……なかったことにされてるって思って。それが悔しかったんだ」
揺るぎなく注がれる南のまなざしは息苦しいほどだった。思えば、去年の夏からこうして話をしたことも数えるほどしかなかった。
後ろめたいばかりだと感じていたから、いつ南に終わりを告げられるのかとおびえていたから、目を見て話すことを避けていたのかもしれない。
「あんたはどうだか知らないけど、俺は一度も後悔してない。ずっとあんただけ見てた。覚えてないだろうけど、あんたにがんばれって言われたから、弓だってがんばってきた。ほかの誰でもない、あんたに言われたから。最初から、あんただけだ」
言い募る南の言葉は気恥ずかしくなるほど真摯だった。僕に向けられるにはあまりにもったいないとも思う。けれど飢えるほどに求めていた言葉を与えられて、一つも聞き漏らさないように、呼吸さえ止めている自分がいる。
みなみ、と吐息だけで呼びかける。
喉元までせりあがってきた嗚咽を何とかやり過ごそうと無理に、深く息を吸った。
けれど流れ込んできた空気に咽てにじんだ涙をきっかけに、まるで子どものように泣き出してしまう。
それは唐突な感情の爆発で、僕にはおよそ経験のないものだった。いつもの、薄暗く胸の奥に広がる悲しみではなく、痛いほどの悔悟とそれを糊塗して余りある感謝と、うれしさと、南を愛しく思う気持ち。
「利用してごめん、言えなくてごめん、自分のことばっかり、考えててごめん」
しゃくりあげながら、やっとそれだけを伝える。
「別れんのやめる?」
不安を隠すためだろうか、軽い調子で南が尋ねた。それに何度もうなずき顔を上げると、
困ったように苦笑いしている南と目があった。
「あんたのその顔」
伸ばされた指先が、ためらいがちに僕の目元をぬぐう。
「ブサイク……。うそ。すげえ可愛い」
こころなしか、そうつぶやいた南の声もかすれているような気がした。
チャイムの音に午睡のまどろみを破られてドアを開けると、立っていたのは制服姿の南だった。
見ただけでわかるほど、僕の手は震えていた。握ったままのドアノブがカタカタと音を立てる。
日に灼けた顔とトランク、肩にもたせ掛けた弓と背負った矢筒で思い至る。
「合宿、終わったのか?」
動揺に詰まりそうになる声でやっとそれだけを南に問いかける。
遠山から誘われてはいた。ほかの元部員も集まるから、一緒に行こうと。
けれど僕はどうしてもうんと言えなかった。
一年前の合宿で僕は怪我をしてずいぶん迷惑をかけた。当事者である僕が顔を出せば、みんな否応なしにその記憶がよみがえるだろう。
それに南を見てしまったら、また泣いてしまいそうで。そうすることで遠山を傷つけてしまいそうで。
だから最初から断って、極力考えないようにしていた。遠山も、僕の選択を尊重してくれたのか、それ以上には食い下がらなかった。ここ数日の連絡もない。
半月ほど前、遠山に告白されて一夜を共にしてから、遠山は毎日のように連絡をくれていた。
それは他愛のない挨拶がほとんどで、遠山と付き合うことに後ろめたさを感じている僕に対する配慮のような気もした。
あの後一度だけ二人で映画を見に行ったけれどそれだけで、何となく拍子抜けしたような気持にもなっていたのだけれど、そんな風に距離を測ってくれる遠山に救われたのも事実だった。
僕たちの連絡先はみんなが知っているからと、SNSではなく直接電話番号にメッセージを送ってくれるのも嬉しかった。何かの拍子に会話が漏れるのを、僕が嫌ったから。
それなのに僕は、遠山に気を使われるほどには彼のことを気にしていなかったらしい。南を前にして初めて、遠山からの連絡が途絶えていたことに気づくくらいには。
「……入っていい?」
言葉もなく対峙したままなのにじれたように南にそう聞かれて、一瞬だけためらった。
けれど目の前にいるのは紛れもなく南で、僕が焦がれてやまない人で。
「ど、どうぞ」
南をリビングに通したのは僕なりのけじめだった。南と関係を持つようになってからは、私室以外に通したことなど一度もなかった。
僕自身の罪の意識がそうさせていたのかもしれない。南とのことはまさに『秘め事』で、誰にも知られるわけにはいかなかったから。
炎天下を歩いてきたらしい南の首筋を汗が伝う。
「昼間誰もいないからエアコン切ってて、暑いだろ?」
勧めたソファーに腰かけた南は、何度もハンカチで汗をぬぐう。
室外機が音を立て始め、乾いた冷風が吐き出されてくるのを焦りながら待った。室温と同調するように、僕の体温も急に上がったような気がしていた。
内海さん、と南が僕を呼ぶ。
他人行儀な呼びかけに身体がすくんだ。
一度だけぎゅっと目を閉じ、恐る恐る南に視線を向けると、南はまっすぐに僕を見ていた。
怖い、と思った。何もかも見透かされそうで、目をそらしてしまう。
「俺がなんで来たか、わかるか?」
南の口調は静かだった。けれどそこには隠し切れない怒りの色がある。
「遠山さんから聞いた。あんたと付き合うことになった、って。なんで俺に言うんだって聞き返したら、俺と内海さんのことも知ってるって。どういうことだよ」
座っているはずのソファーに、ずぶずぶと沈んでいくような気がした。揃えて膝に置いていた手の先が冷たくなっていく。
聞かされる話の内容を理解しようとしたけれど、考えを纏めようとするほどに混乱は増した。
「ふざけてんのか?俺が年下だから、後輩だから、別れんのも、誰かと付き合うのも、勝手に決めていいっていうのか⁉」
「そんなこと……思ってない」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
信じられなかった。遠山が何を考えて南にそんな話をしたのかがわからない。
「思ってなくても実際そうしてるだろ。最後の時も加納さんがどうこう言って『悪かった』って自分だけ納得して!」
それで、と言いかけて南が俯く。
「今度は遠山さんかよ」
南が大きく息を吐き出す。
普段あまり感情的になることのない南のあからさまな言葉に、殴られたような衝撃を受ける。
「遠山さんに心変わりしたから、俺とのことを終わらせたかったのかよ」
「違う!」
「じゃあなんなんだ!」
ほとんど叫ぶような南の反駁に、僕は怯む。
己の身勝手さは誰よりも僕自身が理解していた。それを南に聞かせたところで、納得してもらえるとも思えない。
でも、これが本当の終わりになるのなら、すべてを曝け出してしまいたいとも思った。
諦めきれなくて、それでも縋りたくて、誰かを傷つけてでも守りたかった気持ちさえ断罪されるのなら。
「ずっと、苦しかった」
こぼれた声が情けなく震える。冷静に告げなくてはと思うのに、きっかけを与えられた感情は南に向かって流れ出そうと胸の中で暴れていた。
「南の贖罪の気持ちを利用して、ほ……奉仕させたりして」
口に出すのも憚られるような罪だったけれど、言葉にしなくてはいけないと思った。
「拒めないのをわかってて、関係を続けさせてるのが辛かった」
目頭がじんと熱くなる。自分のしたことを自分の口から並べるのは、他人からそうされるよりずっと苦痛だった。
けれどこれも僕が受けるべき罰なら、甘んじて受けるしかない。
「もっと早く終わりにしなくちゃいけないって思ってた。でも……できなかった」
歯を食いしばって悲しみの奔流をやり過ごそうとしたがかなわなかった。僕の心は、まだこんなにも南に囚われている。
「なんであんたが泣くんだよ」
呆れたような南の声に、かすかな焦りが混じって聞こえる。
「悪かったと思う気持ちに、嘘はない。けど……そう思わなきゃならない、ことが苦しかった」
しゃくりあげる呼吸に邪魔されて、言いたいことの半分も伝えられないのがもどかしかった。
「こんなに、すき、なのに」
言葉にすればこんなにもささやかな一言なのに、伝えることはなぜ難しいのだろうと思う。
出逢った初めから惹かれていた。
気持ちを認めるのが怖くて、何度も否定した。
押し付けた理想を壊された気がして、自棄になって……利用しようとした。
胸の中にあふれる想いに溺れるようで、呼吸すら苦しい。夢の中にも似て、純度の高い感情に支配された心も身体も、自分の思い通りには動いてくれない。
だから仕方がないのだと、南に涙を見せてしまったことも諦めた。
「そ……んなの、知らねえし」
南が投げやりにつぶやく。
そのひと言にさえ胸をえぐられるようで、痛みは全身に満ちる。
「今まで一回だって、言ってくれたことないだろうが」
「……言えないよ。事故だったのに、償いなんて……最低だ」
自業自得と言ってしまえばまさしくそうなのだろう。僕には最初から、南に想いを告げる資格などありはしなかった。
「あんたホントに」
そう言いかけて、南は深くため息をつく。
心底呆れたと言わんばかりの態度に、うつむいたままの顔を上げることさえかなわない。
僕のことを南がどう思おうと今更だけれど、それでも焦がれてやまない想い人に、みっともない姿を見られたくなかった。
「本気で俺が、あんたと嫌々付き合ってると思ってたのか?」
思わぬ南の言葉に混乱する。
思ってたも何も、いつも僕が一方的に呼び出して行為をせがむばかりで、南に求められたことなど一度もない。
「だって……南から連絡くれないし、いつも遅れてきて」
「だから、いきなり呼ばれても無理だって」
それに、と言いかけて南は口をつぐんだ。
言葉を選ぼうとするように、足元に視線を落とす。
お互いに俯けた顔をあげられないまま、短くはない沈黙が流れる。
息苦しいほどの静寂に負けたのは南のほうだった。
「あんた、エッチぃことすんの、別に好きなわけじゃないだろ」
耳に聞こえてきた言葉の意味を何度も考えようとした。
けれど僕がそれを果たすよりも早く、南は先を続ける。
「最初からそうだよな。内海さんは本気で処理しろなんて言ったわけじゃなかった。そんなの、いつものあんたを見てたらわかる」
そう言われてますます混乱した。
では南は、どんな理由があって僕との関係を続けていたというのか。
「わかってて、なんで……」
「それ、訊くのかよ」
俯いたまま両手で顔を覆ってしまったから、南の表情をうかがうことはできない。けれど隠しきれていない耳が、はっきりと紅潮している。
「内海さんはどうか知らないけど、普通、好きでもないのに触ったりとか、ムリだろ?」
くぐもった南の声が、心なしか上ずって聞こえる。
幻聴かとも思える内容だけに、聞かされている僕もだんだんとふわふわした気分になってきたみたいだった。
反対言えばさ、と南は顔も上げずに先を続けた。
「好きだったら触りたい。きっかけさえあれば、だけど」
「……なんで言ってくれなかったんだ」
あのさ、と答えた声が南らしからぬ感情の高ぶりに彩られているような気がする。
「言えるわけないだろ? 一番大切にしたい人にケガさせて、危なく死なせるところだったんだぞ」
言葉の強さとはうらはらに、南はうなだれて顔を隠したままだ。それがまるで泣いているようで、僕のほうが苦しくなる。
それは僕が、望まずに南に与えたと思っていた加害の苦渋を知っているからに他ならないのだけれど。
南がそれを欲するかどうかはわからなかったけれど、その肩を支えたかった。
視線を避けるように座っていた席を立って、南の隣に腰をおろす。
僕がおずおずと背中に腕を回しても、南は身じろがなかった。
僕よりずっと広い背中が、かすかに震えているような気がするのは思い違いではないはずだ。
その証拠に、なだめるように背中を撫でると一度はこわばった背筋から力が抜けた。それにつれて、顔を覆っていた両手が外されて、南の頭が僕の胸元に落ちてくる。
甘えるような仕草はいままで見たこともないもので、鼓動は早さを増した。
南に聞かれてしまうと思ったけれど、このままにしておきたい気持ちのほうが強くて、もたれかかる心地良い重みを受け止め続けた。
「俺が言ったこと、覚えてる?」
まどろむような気分で南をあやしていた僕に、南がそう問いかける。
「ごめん、なに?」
「一方的に赦されても、ってやつ」
忘れられるはずもなかった。
去年、ちょうど今頃だった。短い入院を終えて帰宅した僕の部屋に来た南が、おそらくは怒りとともに放った言葉だ。
「俺、ずっと見てたよ。内海さんががんばってるとこ」
がんばる? 僕が?
自分では決してたどり着かない評価は、南の口からきいてもピンとこない。
「内海さんはさ、あんま他人に興味ない代わりに悪口とか陰口とか、そういうのもないよな。そんなとこがいいと思う」
くすぐったくなるほどの言葉だった。
自分も含めて、人間への関心が薄いというのは僕のコンプレックスの一つで、まさか長所として数えられるとは思ってもみなかった。それも南から。
「最初は加納さんがやたら懐いてる人がいるなって、それだけだった。俺たち一年は加納さんのあとをついて歩く。その加納さんは、あんたのあとを歩いてる、みたいな」
その構図には確かに覚えがあった。
加納がなんで僕を慕ってくれていたのかは今でもわからないけれど、教育係として新入生の世話をする加納のことは、僕もそれなりに気にして見ていた。
「でも、役員でもないのに何やかや苦労しょい込んでさ、はじめはどんくさいって思ってたはずなのに……目が離せなくなってた」
内海さん、と胸の上で南が呼ぶ。それは今までと同じ呼びかけでも、こみ上げるような感情を僕に呼び起こした。
僕が何よりも欲しかった南の言葉が、かたくなな心を解していく。僕の傷は一方的なもので、南に癒されるのは贅沢すぎる望みだと思っていたのに……。
「俺があんたに認めてもらえるの、弓だけだろ。だからそれだけは、負い目を感じたくなかったんだ」
違う、と南の言い分を否定した自分の声に驚く。甘々と南の告白に酔っていたはずなのに『弓だけ』という南の言いように現実に引き戻される。
「そう思わせてたのなら……ごめん」
僕が南を利用するような真似をしたせいで、南は自分を低く見積もりすぎている。
僕にとって南は最初から特別だった。同性の下級生に惹かれる自分を認めたくなくて、何度も気持ちに抗おうとして……果たせなかった。
どれほど言葉を重ねても足りないくらい南のことを想っていると、伝えたいのに……。
「南のこと、大事にしたいと思ってた。あんなことさせてて矛盾してるけど、ほかに会う理由がないのが……悲しかった」
「させてて、って……別に俺、嫌じゃなかったし」
「それでも、だよ。自分の好きな人に罪の……ほんとは罪でもなんでもないことなのに、代償をさせてることが辛かった」
打ち明けた思いに傷ついて、不意に涙が零れ落ちる。
南の髪に吸い込まれた雫の跡をたどるように、指先だけで頭をなでる。他愛ないこんな触れ合いも、これまではできなかった。償いという言葉一つで、南と自分自身を縛り付けていたから。
「だから別れようって?」
訊かれて答えようとしたけれど、できなかった。
長くはない、けれどたとえようもなく苦しい沈黙に、焦れたように南が口を開く。
「いきなり終わりにしようって言われて、ほんとは嫌だった。けど……仕方ないとも思ったよ。俺は内海さんの挑発に付け込んで、あんたが望む以上のことをしたと思ってたから。あんたが別れたいなら、そうするしかないと思ったし」
それまで子どもがするように僕にもたれかかっていた南が、身体を起こしてうなだれた顔を上げる。
「あの……さ、俺、あんたが初めてじゃない。あんまいい思い出じゃないけど、やっぱ部活の先輩と、中学の時にちょっと」
口調は淡々としていたけれど、それを告げることが南にとって容易いことではないのだろうことは、かすかに寄せられた眉根でうかがえた。
「好奇心、ていうか悪ふざけの延長みたいな感じでさ。でも周りにばらされて、部活も辞めて、あとはお決まりみたいに皆に無視されて。だから必要以上に他人と関わるのはやめようって思ってた」
聞いている僕のほうが辛くなる告白だった。
そんな南に自分がした仕打ちが、実際の行為以上だったことに気づかされて、僕がしてきた言い訳がいかに身勝手だったのか思い知らされる。
「去年、はじめて内海さんとしたときに『これもばらされて、また居づらくなんのかな』って思ったよ。けど反対にもうどうでもいい、って自棄にもなった。すごく尊敬してた先輩だったけど、自分の思い違いだったんだなって」
知らなかったとはいえ、残酷なことをしてしまった。今更後悔しても遅いけれど、僕こそが南に贖罪を求められるべきではないのか。
思考に沈みかける僕の意識を引き上げたのは、目の前の南の表情だった。
およそ似つかわしくない泣き出しそうに歪んだ顔が、南を年相応に見せていた。
「だけどあんた、誰にも言わなかったんだよな。ほんとに、一言も」
言わなかったのではなく、言えなかっただけだ。自分のしていることがいかに身勝手で卑怯なことか、他ならない僕自身が一番よくわかっていた。
「それだけで、ばかみたいにどんどん惹かれていった。なのに」
昂る感情を抑え込もうとするように、南が一度だけ深く息を吐く。そのあとに続く言葉をはかりかねて、呼吸を止めるほどに緊張した。今度こそ偽りでなく、別れを告げられるのかもしれないと思ったから。
「遠山さんから俺たちのこと知ってるって言われて、どれだけ絶望したかわかるか?」
投げかけられた問いに答えるすべを、僕は持たなかった。何を答えても、南には薄っぺらく聞こえてしまうはずだ。
それは一年前に僕が感じた隔たりとあまりにも似すぎていて、どんなに言葉を尽くしても真意を伝えることはできそうになかった。
「ごめんな」
ほかに言うべきことが見つからず、短い謝罪だけを口にする。気弱にさえ見える南に少しでも気持ちを伝えたくて、膝の上で固く握られた拳にそっと手を重ねた。
「僕が弱いせいで南に嫌な思いさせて、ほんとにごめん」
そんな言葉しか紡げないことが情けなかった。けれど手を振り払われなかったことに勇気を得て先を続ける。
「この前、部活見に行っただろ?」
返事を期待したわけではなかったけれど、僕の言葉に南は黙ってうなずいた。
「射場で南を見かけたとき、たまんなかった。ずっと会いたいって思ってて……でも、もう連絡しちゃいけないって決めててさ。顔だけでも見られてうれしいって気持ちと……南が目も合わせてくれなくて悲しいって気持ちと、ごちゃごちゃになって。途中で出てったの、知ってたか?」
それにも南はかすかにうなずいた。
「自分では納得してたつもりだったんだ。僕が無理強いした関係なんだから、南とのことは終わらせなきゃいけない。そうするのがいいことなんだって。でも、頭で理解してても感情はついてきてなかった。で、馬鹿みたいに校舎の中で泣いちゃってさ、それを遠山に見られて」
「理由を訊かれた?」
「うん」
南は視線を窓の外に向けたまま、伸びをするように両腕を上に上げた。そのまま背もたれにもたれかかると、今度はじっと僕を見据えてくる。
「俺さ、内海さんに『さよなら』って言われても、なんか信じられなかった。前の時みたいに、もっとぐちゃぐちゃするもんだと思ってたし。それなのに本気で連絡してこなくなってさ、何て言うのか……なかったことにされてるって思って。それが悔しかったんだ」
揺るぎなく注がれる南のまなざしは息苦しいほどだった。思えば、去年の夏からこうして話をしたことも数えるほどしかなかった。
後ろめたいばかりだと感じていたから、いつ南に終わりを告げられるのかとおびえていたから、目を見て話すことを避けていたのかもしれない。
「あんたはどうだか知らないけど、俺は一度も後悔してない。ずっとあんただけ見てた。覚えてないだろうけど、あんたにがんばれって言われたから、弓だってがんばってきた。ほかの誰でもない、あんたに言われたから。最初から、あんただけだ」
言い募る南の言葉は気恥ずかしくなるほど真摯だった。僕に向けられるにはあまりにもったいないとも思う。けれど飢えるほどに求めていた言葉を与えられて、一つも聞き漏らさないように、呼吸さえ止めている自分がいる。
みなみ、と吐息だけで呼びかける。
喉元までせりあがってきた嗚咽を何とかやり過ごそうと無理に、深く息を吸った。
けれど流れ込んできた空気に咽てにじんだ涙をきっかけに、まるで子どものように泣き出してしまう。
それは唐突な感情の爆発で、僕にはおよそ経験のないものだった。いつもの、薄暗く胸の奥に広がる悲しみではなく、痛いほどの悔悟とそれを糊塗して余りある感謝と、うれしさと、南を愛しく思う気持ち。
「利用してごめん、言えなくてごめん、自分のことばっかり、考えててごめん」
しゃくりあげながら、やっとそれだけを伝える。
「別れんのやめる?」
不安を隠すためだろうか、軽い調子で南が尋ねた。それに何度もうなずき顔を上げると、
困ったように苦笑いしている南と目があった。
「あんたのその顔」
伸ばされた指先が、ためらいがちに僕の目元をぬぐう。
「ブサイク……。うそ。すげえ可愛い」
こころなしか、そうつぶやいた南の声もかすれているような気がした。