第1話

文字数 8,925文字


 手元の文庫本を閉じると、一瞬、目眩がするほどの静寂に包まれた。
 初夏の公園は、土曜日ということもあって、子どもたちの歓声が飛び交っている。
 それまで、古い物語の中の哀しみと静けさにひたっていた僕は、うんざりとした気分で視線をめぐらし、その拍子に転がり落ちた雫を、指先でゆっくりと拭った。
 待ち人はまだ来ない。
 手首の時計を確かめると、約束の時刻を一時間も過ぎているのがわかった。
 いつものことだと自分を慰めてみても、虚しさは消せない。
 幼い頃から何度となく読んで、文字など辿らなくとも暗唱できるほどに親しんだ童話に、今更ながらに同調して泣いてしまうのも、この待ち人のせいなのだ。
 裏切られ、傷つけられるたびに痛みを新たにするのに、自分から離れることもできない。気持ちを伝えるどころか、好意を露わにすることすら赦されない。
 そんな、呪いのような恋をしていた。


「内海先輩!」
 身長よりもなお長い弓を肩に担ぎ、器用に自転車を漕いで近づいてきたのは、一学年下の加納だった。
 今年卒業した高校の弓道部の後輩で、今は主将をつとめている。
 自分でも愛想のいいほうだとは思えない僕を、なぜか新入生の頃から慕ってくれて、今でもこうして声をかけてくれる、数少ない友人の一人だった。
 けれど屈託のない加納の笑顔を見ると、僕はやましさに逃げ出したくなる。
 加納には絶対に知られたくない秘密を、僕は心の奥底に沈めている。少しのさざ波も立たないように、光さえ届かない深い場所に……。
「おー、どこか行くのか?」
 微かな動揺を悟られないように、当たり障りのない言葉を返す僕にペコリと頭を下げ、加納は自転車を降りて一緒に歩き始めた。
「はい。新入部員が多くて射場が狭くなっちゃって。インターハイも近いし、県立体育館で練習しようかって、先生が。それで移動中なんです」
 加納の言葉で、今日の待ちぼうけの理由がわかった。
 僕が待っていたのは加納とは違う後輩で、予定では午前中の部活が終わったら会う約束だった。
 そもそもが僕の勝手な言いつけだったのだから、すっぽかされても文句は言えないと諦めていた。
 そんな理由があったことなど知らずに、僕は勝手に感傷にひたっていたのだけれど、聞かされた事実に思いがけず安堵した。
 並んで歩く加納は、また少し背が伸びたようだ。
 成長期もとっくに過ぎただろうに、一向に伸び止まない背中に斜交いにかけられた矢筒の中で、アルミシャフトの矢がガチャガチャと音を立てる。
 ハンドルと肩で器用にバランスを取ってはいるが、弓を担ぎつつ自転車を押すのはいかにも大変そうだ。
 僕は特に小柄で、こうした移動の時は苦労したなと、ほんの一年前のことなのに、懐かしいような気持で思い出す。
 まだ一年……もう一年。
 僕が誰にも言えない秘密を抱えてからの月日は、その重さに比例して長く、誤魔化しようのない甘さをはらんで短く感じる。
「あの……頑張ってますよ、南。県予選にも、二年だけど選ばれて出ます」
 ためらうように加納が口にする名前を、僕は複雑な思いで聞く。加納が本当に何も知らないのだという事実にほっとしながら、嘘を積み重ねる自分への嫌悪が深くなる。
「良かったら、練習見に来てください。皆待ってますから」
 加納の誘いが社交辞令なのは、僕には痛いほどわかっていた。
 弓を諦めた僕が、後輩たちに教えられることなど何もない。ましてやその原因が、合宿中の事故であれば、皆に余計な気を遣わせることになってしまう。
「まあ、気が向いたら」
 そんな気になることなどありえないと思いながら、それでも加納の言葉を振り切ることはできなかった。
 二年間、常に僕を慕ってくれた加納の健康的な明るさに、甘えてきたのは他ならない僕だったからだ。
 きっとですよ、と手を振って、加納は自転車にまたがった。その後ろ姿が交差点の角を曲がって見えなくなるまで、僕は動くこともできずに立ち尽くしていた。


「さっき、加納に会ったよ」
 カーテン越しに、夕映えが室内を照らしている。灯りを点けない部屋の中で、僕は見慣れた天井をただ眺めていた。
 時折吹き込む風が、どこからか雨の匂いを運んでくる。
 素肌にかけられたタオルケットの柔らかな感触と、その上の自分より高い体温にうっすらと眠気を誘われて、ぼんやりとそんなことを口にしていた。
 その途端、胸の尖りを愛撫していた南の指が、悪戯を咎められたように強張る。
 それは一瞬の断絶だったけれど、僕が南の動揺を感じるには十分な時間だった。
 実際の年齢よりもずっと大人びて見える外見にふさわしく、南はいつも落ち着いた態度で、めったに感情を表に出さない。
 僕とこの部屋で肌を重ねるときも、それは変わらなかった。
 けれどそれが南のすべてであるはずがない。僕は自分の都合と理想を、南に押し付けているに過ぎない。
「加納、褒めてた。お前がすごく……頑張ってるって」
 その先を続けようとした僕を遮るように、南の手が腹の上を滑って、期待に熱を持つ部分をやんわりと握りこむ。
「それで?」
 僕の言葉など綺麗事だと言わんばかりに、かすかな笑いを含んだ声で、南が囁いた。
 大きく、骨ばった指が先端を撫でる。割れ目を広げるように敏感な粘膜を擦られて、息が詰まった。
 奥歯を噛みしめて快感の波をやり過ごし、短く息を継いでいると、どうしようもない思いで頭の中がいっぱいになる。
 こんな行為に南を慣れさせてしまったのは僕だ。こんな……何も生み出さない、不毛な関係に引きずり込んでしまったのは。
 去年の夏、僕と南は海辺の合宿所にいた。
 弓道部の夏合宿。三年だった僕には最後の、新入生だった南には初めての共同生活だった。
 県予選で惨敗し、本大会に進むことのできなかった僕たちは、夏休み早々合宿に入った。
 合宿自体は毎年恒例のことで特に変わったこともない行事だったけれど、部活以外ではあまり深く他者と関わることもない僕にとっては、特別なイベントだった。
 普段は見ることのない友人たちや後輩の日常に触れることで、それぞれの距離は近くなる。
 いつもお世話になっている民宿の女将さんにはかまわれすぎることもなく、朝練と夕錬の合間には近くの浜に泳ぎに行ったりもする数日は、そんな僕にとってさえ心のはしゃぐものだったのだ。
 だからあんな事故が起こってしまったのかもしれない。
 最終日の練習中だった。いつもは後輩に任せている矢取りに、最後だからと僕が入り、合図に気付かなかった南の誤射を受けた。
 学生が使う軽い弓とはいえ、的を射るために作られた武具だ。
 当たり所が悪ければ死ぬこともある誤射事故で、右腕が傷ついただけだったのは幸運だったと言うべきなのだろう。
 僕の腕に刺さった矢は骨に当たって止まり、命に別状はなかった。けれど細かい神経に触ったらしく、後遺症として筋力や握力の低下が認められ、競技としての弓道を諦めることになった。
 矢が当たった瞬間、的場から見た光景が、今でも脳裏に再現されることがある。
 降り注ぐ真夏の陽光の先に、射場の南の姿がコマ送りのようにはっきりと見えた。
 蒼白な顔の中で固く引き結ばれた唇。何かを言いかけて、発することのできなかった声。握りしめられたままの弓を、駆け寄った加納がもぎ離すのも。
 それから喧噪。いつもは声を荒げることのない加納の怒鳴り声が、聞こえたような気がした。
 担ぎ込まれた病院で、連絡を受けた母が到着するのを待つ間傍についていてくれたのは、主将の遠山だった。
 緊急手術を終えて眠りから醒めた僕に、遠山は静かに尋ねた。
「気分どう?」
 そう訊かれて、今更のように自分の置かれた状況を思い出す。
「……腕が重い」
 挙げようとした右腕がずっしりと重い。
「そりゃそうだ。ギプスしてるし、動かないように重りも置いてあるし」
 遠山は苦笑まじりにそう言う。
「先生は……」
「内海のお母さんを駅まで迎えに行ってる。看護師さん呼ぼうな」
 遠山の声は落ち着いて低く、思いがけない怪我に動揺する僕の心に、心地良く沁みた。
 遠山が主将になってからは、こうして話をする機会もなくなりがちだったけれど、そばにいてくれたのが彼で良かったと思えるほどには、僕も遠山のことを信頼していたから。
 遠山のナースコールに応えて看護師が来室し、体温や血圧などを記録して部屋を出て行くと、僕は急に南のことが気になりだした。
 事故とはいえ、そして僕のほうにも非があったとはいえ、人を射てしまってどんなに気に病んでいるだろうかと。
「なあ……南、あれからどうした?」
「あぁ、宿舎に帰したよ。病院までついてくるって聞かなかったけど、いても役には立たないだろって先生に諭されてさ」
 気遣うような遠山の口調。僕の無関心さとはまるで違う静かな態度で、彼は続けた。
「内海は怒ってないのか? 南のこと」
「だって事故だろ……仕方ないよ。わざとなら話は別だけど」
 言葉にしてみて自分でも驚いたのは、南への怒りがないことだった。
 事故なのだとわかっていた。南が故意でこんなことをするはずがないと確信していた。        
 ほんの数ヶ月の付き合い。その上僕はなかなか他人を信じることができない。
 けれど南の無愛想な態度は、その公平さ故に僕の頑なな心をほどかせていた。
 先輩だから愛想良くしようなどという計算ずくの関係よりは、何倍も好もしかった。
「ただまぁ……」
 思いを巡らす僕の耳に、言い澱むように掠れた遠山の声が響く。
「俺は息が止まったけどな。事故だろうがわざとだろうが、内海が倒れてんの見つけて。加納が南に掴みかからなかったら、俺がぶん殴ってたかも」
 遠山の言葉の真意を量りかねたまま、僕の夏合宿は終わった。そしてそれは、様々な終焉へと続いた。望むと望まないとにかかわらず……。
「本当に……本当にすみません」
 私室のベッドの傍ら、床の上に正座した南は何度もそう繰り返した。力なくうなだれた首筋には、未だ引かない汗が浮いている。
 僕の家に来るのは、どんなに勇気がいっただろう。
 それでも保護者や教師といった大人の庇護のもとではなく、一人で僕と対峙しなければと彼を追い詰めたものが何だったのか、今となってはわからないけれど。
「もういいよ。僕もちゃんと見てなかったし」
 横になったままだとよけいな気を遣わせるだろうと半身を起こした僕の目線の少し下に、南の日に灼けた顔がある。
 自分では慰めているつもりだった。
 他人を傷つける経験はなかったけれど、それが南にとって辛いことなのだと想像するくらいは僕にもできる。
「南もあんまり気に病まないで、これからも頑張れな」
 ごく普通の慰撫だったと思う。
 もとより今回の事故で南を責めるつもりもない。弓に対する思い入れも、それほどあったわけでもない。
 特にやめる理由がなかったし、信頼できる友人や慕ってくれる後輩がいたから続けていたに過ぎなかった。
 もちろん、思いがけない出来事で競技を離れることになったのには寂しさもあるけれど、土下座せんばかりにうなだれる南に、かすかな違和感を覚えたのも事実だ。
「先生も言ってたろ、弓はいくつになってもできる数少ない競技だって」
「そうやって!」
 南は拳を膝に叩きつけると、叫ぶように言った。
「そんな風に丸く収めようとしないでくれ!」
 自分に向けられた言葉の乱暴さに、思わずひるむ。
 他人から声を荒らげられるのは得意じゃなかった。
 僕は男兄弟がいないし、小さい頃からおとなしいいい子だったから、家でも叱られることはあまりなかった。
 年の離れた姉とは喧嘩した覚えもないし、ここ数年、姉は家を出ているから滅多に会うこともない。
 転勤がちな父はずっと単身赴任を続けていて、たまに帰ってきてもなにを話せばいいのか戸惑うくらいだ。
 母との静かな暮らしにはなんの不満もなかったけれど、僕に求められる役割が何なのか時々わからなくなった。
 出来のいい姉と比較されるたびに、せめていい子でいようとする気持ちだけが強くなった。
 母を困らせればきっと嫌われる。いらない子だと思われたくなくて、顔色をうかがう癖がついた。
 南に言われてはっとする。
『丸く納める』
 それが僕の生き方なのだと。
「先輩はちゃんと合図してたって、加納先輩から聞きました。それを聞き逃したのも、先輩を見逃したのも、俺の責任です」
 握りしめた南の指に力が入るのがわかった。
 手のひらに爪が食い込んでしまいそうだと、ぼんやり思う。
「受験生にけがさせて……弓もやめさせてしまって、どうやって償ったらいいのか」
「夏休みで良かったよ。それに、弓で推薦とれるほどのセンスじゃない」
 姉にくらべれば大したことはないけれど、学業ではそれなりの成績を修めていた。地元の国立大を受験するのに必要な程度の学力は、十分なつもりだった。
「自分の足で動けるし、ギプスも傷がふさがったらとれる。そんなに不自由はないよ」
 だから心配するなと言ったつもりだった。
 事故の翌日、両親に付き添われた南から謝罪は受けている。
 改めて訪問したいという南の意向を受け入れたのは、ひとえに南の気がすむようにしたいという僕なりの気遣いだったのだけれど……。
「なんでもないような顔で言わないでください」
 そう南に決めつけられて頭に血が上った。
「じゃあ……じゃあどうすればいいんだよ! おまえになにができんの?」
 痛い思いをしたのは自分であって南じゃない。
 後遺症がどの程度でてくるのかもわからない。
 この先弓を引こうと思ったときに、あの時のことを思い出すかもしれない。
 それなのに、なぜ南は僕を責める?
「僕がごねて南を困らせたら気が済むのか⁉」
「平気なふりをされるよりは、ずっといいです」
 顔を上げずにつぶやいた南の声は、かろうじて耳に届いた。
 それを僕は、覚悟のない綺麗事だと思った。
 本当はこのままうやむやになればいいと思っているくせに、自己満足でこんなことを言っているのだと。
 それが、僕の南への評価とあまりにもかけ離れていてやりきれなかった。
 僕が見ていた南はこんな人間じゃない。
「……ふざけんな。僕のわがままをなんでも聞くって言うのかよ」
「できるだけのことはします」
 簡単に言うなと思った。そもそも償うなんて言葉を軽々しく使ってほしくない。
 悪いけど、と前置きして僕は続けた。
「南にそんなことができるとは思えないね」
「なんでですか」
「なんで? 僕がどんな要求をするかもわからないのに?」
 意地の張り合いもここまでくるとどうしようもない。
 よく言われる『死ねと言われたら死ぬのか』という水掛け論を繰り返すつもりはなかった。
「僕は赦すと言った。それで終わりでいいだろ?」
「それじゃ、俺はずっと同じ場所に立てない。一方的に赦されても……」
 答えの見えない会話に疲れていらいらしていた。
 これ以上、南は僕になにを求めているのかと考える。
 そして思いついたことは、浅はかな茶番だった。
「この腕見てみろよ」
 ギプスをまかれ首からつり下げられた右腕を、見せつけるように南のほうに差し出す。
「溜まってんだよね」
 心にもない、露悪的な物言いだったけれど、言葉は思いのほかなめらかに紡がれる。
 もともと僕は、自分でも驚くほど性的な欲求がなく、年頃の男なら誰でも直面するような不都合を感じたことがなかった。
 友人同士で自慰の手伝いをしただとか、聞くことはあっても現実的ではないような気がしていたし、想像すると怖いような気さえしたのだ。
 それでも、わざと居丈高に南を断罪する。
「南のせいだろ? どうしてくれんの?」
 それまでの『嫌われたくない』という感情が振り切れてしまったように、冷たく突き放した。
 目の前にいる南は、自分の知っている南じゃない。
 無愛想でも誠実な、僕が信じかけていた後輩ではないのだ。
 だから傷つけてもいいとまで思ったわけじゃなかった。
 けれど一度口にした言葉は取り消せない。こんなことを言わせた南を恨むような気持ちで、言い募った。
「とりあえず処理してくれる?」
 南と視線があったが気恥ずかしさも感じなかった。
 僕の暴言を本気にするなんて考えられなかったから。
 終わらせたい一心で放った言葉に南は一瞬目を見開いて、僕の左肩を掌で押した。
 不意をつかれて受け身もとれずにベッドに寝転がる。
 右腕は辛うじて胸の上に落ちてきたが、衝撃は殺せるはずもなく鋭い痛みに息が詰まる。
「いっ……た」
 醒めた目で南は僕を見つめていた。
 その目の色に熱情などなかった。
 けれど指先は性急とも言える強引さでパジャマをめくり、下着の中に進入してくる。
 やめろと言いかけて、やめた。
 本気ではなかったとはいえ、南に行為を促したのは僕だ。
 普段の南であれば犯すはずのない愚考を唆したのは、他でもない自分自身だ。その責任は全面的に僕にある。
 それに……もうどうでも良かった。
「……っ! な、なんなんだよおまえ!」
 それから先は言葉にならなかった。
 長身の南の大きな手、長い指が、熱を持ち始めた場所をくすぐるように愛撫する。
 それは思いのほか優しい接触で、置いてきぼりの気持ちや諸々の事情がなければ、まるで大事にされているような錯覚を起こしそうだ。
 乾いていた手のひらが、汗か、それとも僕の体液かで湿り気を帯びてくる。
 ぐっと握りこまれ、痛みを覚悟したあとで乱暴なほどに扱き上げられた。
 初めて他人の手で与えられる快感は、寒気がするほどでいっそ苦しい。
 水から引き上げられた魚のように、びくんと身体が跳ねる。
 腰の奥、背骨の一番下から押し上げるように甘い感覚が湧いてくる。
 暴かれることに恐怖して何かにすがりたいのに、目の前には南しかいない。
 固く閉じた瞼の上に、南の視線を感じていた。日はまだ高い。
 見られている。嬌態を南の眼前に晒している。そう自覚したとたん、どうしようもなくのぼりつめた。
 ぎこちなく追い立てられるだけの手淫なのに、こらえきれずに南の手を濡らした。
 脱力してあけた目の前が霞んでいる。
 それがにじんだ涙のせいなのだと、目の縁を南に吸われて気づいた。
 喘いでいた呼吸が整うにつれ、僕の中に満ちてきたのは紛れもなく絶望だった。
「帰れ……」
 逃れるように顔を背け、やっとそれだけを告げた。
 僕は南とのそれまでの関係をすべて亡くしたこと、囚われてしまったことを知った。
 それから僕は依存症患者のように南との行為に溺れた。
 怪我が治っても南に『償い』を求め続けた。
 性的には無欲だったはずなのに、今ではセックスのために南を呼び出すことに罪悪感もない。
 それどころか南が部活の都合で待ち合わせに遅れたことを、南の過失かのようにさえ感じているくらいだ。
 南をみっともなく責め立てずにすんでいるのは、僕にもまだ自尊心が残っているから、それだけだった。
 何度も離れようとした。
 受験の時も、卒業の時も、変わっていく自分が怖いから……それだけではなく南のためにも終わらせなければならないと思っていた。
 それなのに、いまだにこうして肌を重ねている。
 奉仕させるだけじゃなく、僕の身体に南を受け入れるようになっても、あの冷ややかな視線は変わらなかった。
 そして南の態度と相反するように僕の気持ちは彼へと傾いていった。
 子どもの頃からいろんなことを諦めてきた僕にとって、ただ一人諦めきれない相手が南だった。
 南と関係を持ったのは間違いだったと、もう解放してやるべきだと心の奥底ではわかっていた。
 その声に苛まれて息をするのも苦しいのに、砂漠で水を求めるように彼を求めている。
 なのに、ひととき乾きを癒されたあとはさらに苦しくてたまらない。
 思い描いていたイメージとは違いすぎて、これが恋だとは気づけなかった。
 甘い囁きも、ほっとするような触れあいもない。
 何の約束も、希望も、他愛ないじゃれあいさえ。
 それでもいいと思っていた。
 南から与えられるのが刹那の快感だけでも、なにもないよりは遙かにましだと。
 けれど……。
 加納に会って、当たり前の日常が南にもあるのだと気づいた。
 自分のことだけしか見えていなくて、そんなことにも思いいたらなかった。
 潮時だと思った。
 胸の上に、南の頭がある。少し癖のある髪が汗で束になっていた。
 それをほどくように指を絡ませてみる。
 ほとんどしたことのない僕からのいたずらに、南がいぶかしげに顔を上げた。
 みなみ、と呼んだ名前は掠れていた。
 つまりそうになる声をいったん飲み込んで、短く息を吐く。
 些細なことのように振る舞わなければならない。何の心残りもないように。
「もう、終わりにしよう」
 僕の上で半身を起こした南が、らしくなく視線を泳がせる。
「なんで……」
 反駁した南に先を続けさせずに言い募った。そうでもしなければ泣いてしまいそうだった。
「償いだなんて、無理言って、悪かった」
 名残惜しかった。この温もりを手放したくないと、心が叫んでいる。
 でも、このまま南を縛り付けておくことはできない。
 口にする言葉に切り裂かれるのならば、いっそ幸福だったかもしれない。
 別れは、心とは裏腹に現実に覆われて激情とは程遠く陳腐でさえあった。
 ためらわずに告げようとしてできず、沈黙した僕をいぶかしむように南が目を細める。
 なんの冗談だとでも言いたげな視線を受け止めながら、僕は声を絞り出した。
「……さよなら」
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