爛熟

文字数 1,398文字

 果たして、ユキ子の頭はそこにありました。空気を読んだのか、賑やかな応援団の声はパッタリ聞こえなくなっていました。
「ユキ子……」
 ユキ子の目が僕を捉えるのに、永遠を要した気がしました。彼女の睫毛が震えるのが、ゆっくり見えました。黒い瞳が現れた時には、涙が零れそうになりました。
「ケンちゃん……」
「ユキ子……ごめん、ごめんな……」
 僕は、懺悔(ざんげ)をしようと思い立ちました。ユキ子の死の責任の一部は、僕にあります。周囲は僕を許しましたが、僕は僕を許せません。本人を目の前にすると、謝らずにはいられないのでした。
 神仏の前に(ひざまず)くが如く、僕はユキ子の頭の前に膝を突きました。指を固く組み合わせて、祈りの形を作りました。
「僕が死なせたんだ……ごめん……ごめん……幸せにしたかったのに……」
「ケンちゃん……(あたま)を上げて……」
 ユキ子は、微笑を浮かべていました。聖母マリアの、宥免(ゆうめん)の笑顔でした。
「私、ケンちゃんのせいで死んだなんて思ってない。ケンちゃんが罪悪感を感じる必要なんて……」
「ユキ子……」
「私の事は、忘れて生きて……。新しい女性(ひと)と、幸福の庭を築くの……」
「駄目だ。僕は、ユキ子の事だけを愛しているんだから……」
 すうっ(・・・)と、ユキ子が息を呑む音がしました。一拍置いてから、彼女は涙を流し始めました。手の無い彼女に代わり、僕が涙を拭ってやりました。
「何故泣くんだ……」
 ユキ子は、僕の手に頬を擦り寄せて泣いていましたが、やがて呼吸が整ったと見え、
「嬉しいのよ……ケンちゃんにそう言ってもらえて……」
 と、涙声で言うのです。
 僕は、ユキ子への愛が燃えて燃えて、身の内側を焦がされそうになりました。気が高ぶった僕は、思い切って指輪を渡そうと思いました。プロポーズの為の指輪は、僕の手の中にありました。骨壺に入れてもらう事をせず、自分で持っていたのです。ユキ子が亡くなった直後の僕は、彼女の生を信じて、いつかまたプロポーズの機会がやってくると思っていたのでした。
「ユキ子」
「ナアニ……」
「これを受け取って欲しいんだ……」
「マア……」
 彼女の顔に喜びが灯ったのを、僕は見逃しませんでした。けれども、それはすぐに悲しみへ変わってしまいました。
「私には、左手の薬指なんてものはもう無いのよ……」
「ナアンダ、そんな事か……アハアハ……」
「笑い事じゃないわ……」
「君が指輪を受け取ってくれたという事実が大切なんだ。サア、口を開けて……」
 僕に従って、ユキ子は口を開けました。真珠の粒みたいな歯が、ずらっと並んでいます。上の歯と下の歯の間を通って、舌の上に、指輪を乗せました。金属の感触が伝わったのでしょう、指輪を落とさないよう口を閉じてから、ユキ子は口の端を上げました。彼女は機嫌良く、指輪を転がしています。幼い子供が、買ってもらった飴玉を口の中で遊ばせている様子を彷彿とさせ、とても微笑ましかったものです……。
「ユキ子……愛してる……」
 僕は彼女に、そっと口付けました。唇を離すと、彼女は優しく口角を上げました。
「私も……ズット、ケンちゃんを愛してるから……」
 べちゃり。
 ぐらりと、彼女は傾いて、腐った林檎のような音をして、地面に落ちました。僕は、彼女を拾い上げようとして――

 気付いた時には、ユキ子も、他の皆も、いなくなっておりました。しかし、あの指輪は、僕の懐から無くなっていたし、墓地の何処にも落ちていなかったのです。
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