文字数 8,087文字

 アルクィン伯爵領は、ウェルテの東から南東へ位置する、深い森に恵まれた土地である。森からの恵みは勿論、農地整備で整えた果樹の数も多く、領内を支える産業の屋台骨となっていた。
 中でも名産として他国へも知れ渡っているのは、赤い宝石と讃えられるサクランボ。それを用いたキルシュも有名である。
 領都であるギルモアは黒い森を背に拡がる都市で、その森の最中、切り立った崖の上に領城は聳え建っていた。東方守護を賜る、文字通りの城塞である。この砦の主であり、領主はアルノルト・シュテファン・エッカート卿。吟遊詩人に唄われるほどの麗人であり、領民たちには大層愛された引き籠りだ。
「アルント様、そろそろ立ち直ってくれませんかね」
 主人お気に入りの暗がりを覗き込み、呆れを隠しもしない青年は、遠慮なんぞ彼方に放り出して鎧戸を開け放つ。明るい陽射しに透けて輝く髪は白茶ながら、温かみのある色が人柄を現わしているようだ。
 何とも世話の焼ける主人を支えて、そろそろ二百年。見た目三十代前半程度の家令(スチュワード)は、じめじめと膝を抱えて座り込んでいる主人を前に、大仰にため息をついた。
「だから、さっさと手紙書いて機嫌とっておけって言ったんでしょうに。対応が遅れたからですよ、自業自得です」
 返事くれただけでもいいじゃないですか、と魅力的な緑の目を半眼にして、もう一つため息をつく。
 彼らの大切なお姫さま、オードリー・アンネ・エッカート嬢が、了承の旨を報せてきたのは先日のこと。しかしそれは、大層事務的で必要最低限の代物だったのである。それを目にした途端、アルノルトはぴしりと固まって、泣きそうな顔で縋るように頼りになる己の右腕を見遣ったのであった。
 まぁ、実のところ。別に家令殿宛に『お願い』を綴った手紙がもう一通来ていたのだが、それは秘密である。更に更に、彼女が家出してから数十年、彼らはずっと文通しているのだが、それも秘密だったりする。当初は隠す気なんぞ毛頭なかったのだが、全く気付きもしない節穴っぷりと、その後の展開が明確に読めた為に、危険を回避することにしたのだ。絶対に面倒臭いことになるから。
 大体、最初から手紙を書けと助言していたし、その有用性は説いていた。実行しないアルノルトが悪い。
 一応、正真正銘人間として生まれ、人間として過ごした時期もあるはずの彼なのに、どうしてこうも機微というモノを知ろうとしないのか。それも全て、他者との交流を極力避けた引き蘢り生活の所為だと思うのだが、当人に改善する気がないため、これからもこのままなのだろう。
 差し込む陽射しにしょぼしょぼと瞬きを繰り返した主人は、秀麗な面に絶望を塗り込めたような、無駄に麗しい憂い顔のまま、繊細そうに柔らかい声を紡ぐ。
「……ナッシュ」
「はいはい、何ですか? アルント様」
 どうしよう、と再び深く深く思考の沼の中へ沈み込んでしまった主人を前に、ああもう、と髪を掻き回した。これで大変優秀なはずなのに、何故、対人関連となると途端にポンコツになるのか。懐に入れた者に対して、それは顕著だ。
 ナッシュ・バレルがアルノルトと出会ったのは、丁度宗教戦争の頃。善良な人間だった母を看取った頃であり、血混(ダンピール)らしく猟人(ヴァッフェ)として活動していた頃だ。
 血混とは、吸血鬼(ヴァンピーア)と人間の間に生まれた半端者にして、有用な駒のことである。
 成った者の中で唯一、吸血鬼のみが人間との間に子供を作ることができ、生まれた子には特異な力が宿るのだ。大体が、人間よりも長命であることと、魔素生物へ対抗できるだけの強靱さ。大昔なら、優れた魔術士となることもあったらしい。
 故にヒトを守る刃として、魔獣や逸れ者の対処などを任されるのだ。そのことを誇りに思いこそすれ、不満だったことなぞないけれど。
 出会ってしまったのだ。我が剣を捧げるべきひとに。
 その繊細そうな見た目に大丈夫かと心配になり、けれど頑固とも取れる信念と、采配の巧さに舌を巻いた。素直に彼の軍門に下り、その手足となり戦ったのも、無理はないだろう。懸命に働き、功績が認められて副官まがいの事を任された。そこまではいい、問題はその後のこと。
 戦後、領地(シノン)へ封じられ爵位を戴いた主人に従って、任地へ赴いた。そうして何故か任じられたのは、家令なのである。猟人に対し、これは何の冗談か。
 実際、聡明なひとには違いないのだ。しかし、己に自信はないし、慎ましいにも程があるほど自己主張もしないし、どことなく頼りない。その補佐についてやってくれと子爵位を与えられそうになって、慌てて辞退した結果がこれである。実質、領地運営を行うのは家令なのだから、一応間違ってはいないのだろう。多分。
 同じような立ち場の癖に、しれっと平民暮しをしているシャフツベリ氏族長(チーフテン)を顧みて、裏切り者め、と毒を吐いたことは秘密である。
「……シャフツベリ卿の従者(ヴァレット)殿から聞いた話しですが、どうやらお嬢は茶会用にドレスを新調するつもりらしいですよ」
 楽しみですね? と水を向けると、わかりやすくこちらへ意識を向けた主人は、今にも倒れそうだった悲痛な表情を一変し、明らかな喜色を浮かべた。
 なんてわかりやすい。そんなに可愛くて大切なお姫さまに、どうして素直に手紙くらい書かないのだ。
 内心の呆れを噫にも出さないナッシュに気付かぬまま、アルノルトは明るい声をあげる。
「あの子は美しいからね、何を着ても似合うだろうな」
「奇麗に歳を重ねてるでしょうねぇ。何でも、流行を仕掛けるおつもりだとか」
 まるで母君のようだと懐かしく思い返すと、主人も嬉しそうに笑う。
 アンナ嬢は不思議な女性だった。
 出会ったのは、確か城下町の視察の折だ。蓮っ葉な物言いと不遜な態度。けれどそれが鼻につくこともなく、彼女の個性として強烈に印象に残る。それはきっと、その言動の端々に煌めくような知性と、深い教養が窺えた所為だろう。
 あるいは、高度な教育を受けた女性。
 当時のナッシュは、初対面の彼女にそんな印象を抱いたものだった。正体は知れないが、身分のある人物だったのだろう、と。
 それからは、城下へ下りる度に何処かしらで彼女を見かけた。いつだって周りにヒトが集まり、明るく温かい空気を振りまいている。流行の発信源は、いつだって彼女だ。
 無遠慮に放つ言葉は時に辛辣だったが、何故か憎まれることもなかった。それこそが、彼女の個性だったのだろう。
 今まで身近にいたことがない性質の女性だった所為か、アルノルトが彼女へ惹かれていったのは少しだけ意外で、面白いことだった。城塞の者たちは、微笑ましく見守っていたようである。
 何せ様子を見に来たナッシュの父曰く、アルノルトが恋をしたところなんて、見たことがなかったらしい。アンナ嬢をなかなかいい女だと評し、アルントも見る目があるなと笑った父は、好きにさせてやれとナッシュの背を軽く叩いて帰っていったのだ。
 そんなある晩、主人が彼女を城塞へ連れ帰ったのだ。
 部屋を用意するように言い付け、薄汚れた彼女をダンティエンヌへ託した主人は、そのまま外出し、帰ってこなかった。
 後日、主人が何処で何をしてきたか知ることとなったが、ナッシュにそれを咎める気はなかった。後始末まできっちりこなしていたのだから、文句も言い様がない。中途半端なことをしでかしていたら後始末に出るつもりだったから、余計な仕事が発生しなくて万々歳である。
 ……こういう時に、自分が家令を押し付けられたのはこの為なんだろうなぁ、と遠い目をしたくなるが、それは兎も角。
 その日以来、アンナ嬢は城塞の住人となった。胎の子のために今は飲めとアルノルトに諭されて、深く頭を下げたらしい。
 こうして暮らし始めた彼女は、気高い貴婦人としての一面を垣間見せた。
 それは、元々持っていた資質だったのだろう。城塞の主人としてアルノルトが至らないところを指摘し、効率的に改善させる。その姿は優れた女主人(ミストレス)のようで、使用人たちも自然と指示を請うようになっていったのだ。
 あたしも居心地良く過ごしていたいからね、と。悪戯っぽく笑いながら、率先して働く。その姿に、感銘を受けないはずがないのだ。だから、我らが愛すべき女主人が身罷った後、その忘れ形見は当然のように彼らが育てることになったのである。
 愛らしいお姫さまは、幸いなことに母君にそっくりの容姿を受け継いでいた。そればかりか、性質も似ていたように思う。その片鱗を愛し子が見せる度、城塞に住まう者たちは素直に喜んだものである。まさか彼らも、愛し子が母君の性情そのままに、とっとと出奔するとは思わなかったが。
 それでも彼らが何も言わずに見守っているのは、前出のようにナッシュと手紙のやり取りをきちんとしているからだ。日々の暮しぶりから、様々な出来事の報告、相談等。事細かにやり取りをしているのだから、責める道理もない。
 何より、一人で生きていけるようにと仕込んだ結果がこれなのだ。喜ばしい限りである。
「さぁ、アルント様。気が済んだら仕事に戻ってください。マルガレーテ様も、そろそろグレシャムから移動されるそうですよ」
 それまでにやるべきことは片付けてしまわなければ、ゆっくり休むことも出来ない。まさか、遠路遥々やって来た血母(ムッター)を放置するわけにもいくまい。何となく、書斎へ案内しておけば、嬉々として籠っているような気もするけれど。
 促されたアルノルトは、ふと表情を改めた。
血母上(ははうえ)が? 次は、シャーウッドへ行くのだったかな」
「えぇ。雪が降るまでは、父の所へ滞在なさるそうです。そろそろ向かうとの報せがあったと、今朝伝令を受け取りました」
 そうか、と頷いて、漸く主人は立ち上がる。そうして、ぐっと伸びをした。
「色々片付けなければならないし、心置きなく茶会を楽しむために頑張ろうかな」
 開け放たれた鎧戸の外へと視線を向けて、ゆるりと目許を緩める。明るい陽射しがその髪を、長い睫の上を跳ねるさまは、光を散らすようだ。少年期の繊細さを完全に失わないうちに時を止めてしまった主人は、その美貌も相まって、酷く現実感をなくしたような雰囲気をしている。
 だから、誰も疑いもしないのだろう。その腹の内に、猟人ですら気圧される剣呑さを抱えているだなんて、知る必要もないのだ。

  ◇◆◇

 アルノルトが執務室へ戻ると、全ての書類が奇麗に分類して積まれていた。その仕事の几帳面さを目にする度に、自分には勿体無い家令を得たものだと有難く思う。
 猟人は本来、強靱な肉体と索敵能力を武器に、暗躍する者である。
 しかし狡猾なまでの知恵者でなければ猟人足り得ず、こうして領地運営の補佐を任せられるのも道理と言えた。当人は、どう思っているか知らないけれど。
 出会った当初、ナッシュはもう少しだけ若かった。
 血混の寿命は五百年程と言われ、肉体的な成熟期を迎えた途端、老化が極端に遅くなる。ナッシュの場合は二十代後半が尤も強靱な頃だったようで、そこからほぼ老化が止まったと言っていた。
 とはいえ、彼が畏れをもってその名を囁かれ始めたのは、まだ十代の頃である。
 過去最高の猟人と言われた手練は、それまでの同胞とは違い、両親に愛されて育ったようだった。それはそうだろう、父はあの愛妻家のテーオドリヒだ。最愛を亡くした今でさえ、一番美しいのは彼女だと言って憚らない。妻の色と面差しを継いだ息子を心から愛し、鍛え上げたのは彼だ。化物じみた猟人が育つのも当然だろう。
 それがアルノルトに預けられている意味を、知らないわけではない。
 ゆったりとした椅子へ腰掛け、アルノルトは早速書類の山へ取りかかった。血母が到着すれば、暫く気を抜くことが出来ない。今の内に出来ること、隠さねばならないこと、処理しなければならないことを片付けねばならないのだ。今頃ナッシュも駆けずり回っていることだろう。
 裁可すべき書類の処理を黙々と続け、時折、思案げに手を止める。報告の殆どは、この冬支度に関するものだ。比較的寒冷な地にあるウェルテではあるが、南東に位置するアルクィンに雪が積もることは稀で、北にあるグレシャムやウィシャート、領土の多くが山間部であるサックウィルに比べれば安楽と言える。その代わり、年間を通して降雨量は多いのだ。冬は暗く立ち篭める雲に遮られ、日照時間は極端に減る。
 冬へ向けての補修は順調のようだが、新たに判明した修繕箇所が幾つかと、領民からも陳情が上がって来ているらしい。陳情書にナッシュの手による走り書きが添えられているところを見ると、彼から上がってくる報告を待った方がよさそうだ。
 一昨年から順次進めている、新たな街道も順調に工程を消化中。部分的な開通であるが、既に流通に良い影響が出始めているらしい。
 それに伴い作られた開拓村も、この冬を無事に越せるだけの収穫を見込めそうとのこと。着実に農地も開墾できているようだし、人も増えている。ここは念の為に、来年まで減税を維持させるとして。
 去年、規模を広げたいと言っていた養蜂は、順調に利益を伸ばしているようだ。こちらはこのまま様子を見るとして、増産できているのなら、以前議題に上がった蜂蜜酒(ミード)についても再考してもいいかも知れない。こちらもナッシュに確認を。
 しかし、どうして蜂蜜酒にこだわるのだろうか? 確かに献上された物は美味だったし、特産品となってくれれれば、領民の生活は更に安定してくれるだろうけど。
 そういえば、他にも果実酒を試作するという話しは、その後どうなったのだろうか。そちらについても一度確認をしなければならないだろう。
 築かれた山を着実に崩していると、扉が音高く叩かれて使用人(メイド)が紅茶を運んでくる。そろそろ一休みしろとの進言と受け止めて作業を一段落させると、有難くカップを受け取った。ほっと吐息して、ゆっくりと香りを楽しむ。そうして落ちついてしまうと、思考は自然と冬籠りへと流れた。
 血母との面会は、百五十年ぶりくらいじゃないだろうか。一人立ちしたのは千五百年前のこと。その間に会ったのは、数える程しかない。それは、他の血子(ゲフォルゲ)も変わらないのだろう。彼女の手許にいる司書たち以外は、基本的に世界各地へ散っているのだ。
 それにしても、血母のオルグレンへの長逗留は予想外だった。フィデルの蔵書を思えば無理もないけれど、まさか仙術について手解きすることになるだなんて、誰が思うだろう。血母が他者へ積極的に何かを享受するだなんて、かの魔術士以来のことではないだろうか。
 あの当時も変わらず引き籠っていたアルノルトとしては、弟子を取った詳しい経緯は知らないが、血兄姉たちの言い様を見るに、珍しいことには違いない。余程フィデルを気に入った、ということだろうか。
 それ自体はそれほど悪いことではないけれど、呼び寄せねば動かないことが容易に想像できたため、末子の特権を行使することにしたのだ。あまり友人に負担はかけたくない。
 古い血(ゲシュペンスト)が失われたのも想定外の出来事だったが、あれはあれで良かったのだろう。血母の求めに従っていたが、積極的に彼女を差し出す気はなかったのだ。曾ては妹を可愛がっていたと血母は言うが、それを鵜呑みにするつもりはない。
 出来ることなら、彼女には逃げ延びて欲しかったけれど。
 どちらかと言えば、アルノルトには彼女の方が共感できるのだ。置かれた境遇は良く似ていたし、棄てられた経緯も良く似てる。案外彼が拾われたのは、その所為かも知れない。力を欲した理由も、そう違わないのだろう。
 アルノルトは、吸血鬼の末血子(まっし)である。
 末血弟(まってい)血兄姉(きょうだい)は可愛がってくれているし、人間だった頃から慈しんでもらっていた。自ら受血を望んだが、そうせねば生きていかれなかったのは確かだ。血母の慈しむ気持ちを疑いはしないが、それだけではないと知っている。そのように誘導されていったことは百も承知だ。
 ただ、彼は生きていたかった。誰にもいらぬと蔑まれた命だったから、自分だけはしぶとくしがみついていたかった。それだけのことだ。
 そろそろ休憩を終わろうか、と時計を見遣った時、再び扉が叩かれた。促せばきびきびとナッシュが入って来て、軽く眉を持ち上げる。
「申し訳ありません、休憩中でしたか」
「いや、そろそろ仕事に戻るから平気だよ。何か報告かな」
「陳情書についての詳細をお持ちしました」
 有難う、と差し出された書類の束を受け取って、序でに裁可済みの山を指し示す。
「こちらは各所に回して。それから、各種酒造についてはどうなってるだろう?」
「あぁ、蜂蜜酒ですか」
 即座に応じて、ナッシュは思案げに視線を彷徨わせた。
「えぇと、少量でしたら、変わらず醸造されているはずです。養蜂も安定してますし、許可を出せば喜んで増産体制に入ると思いますよ」
「来年からの許可を出してみようか。しかし、どうして蜂蜜酒にこだわるんだろう? キルシュも安定してるのに」
 そりゃぁねぇ、と苦笑を浮かべたナッシュは、ちょいとアルノルトを指差す。正確には、その頭髪を。
「アルント様の色だからですよ。うちの領民、領主様を溺愛してますからね」
 おや、と目を瞬いて、アルノルトはそうっと自分の頭髪を摘まみ上げる。
 アルクィン産の蜂蜜は、ずっしりと重みのある、深い金色をしている。それから作られた蜂蜜酒も、きらきらと輝くような金色をしていた。丁度、こんな具合に。
「これだったのか……」
「それだったんですよ。うちの蜂蜜は、味も色も良いと評判ですしね」
「蜂蜜色と言うと、もう少しオレンジがかった金色なんだけどな」
「えぇ、そうですね。だから、うちの蜂蜜

アルント様の色だって言ってるんですよ。どれだけ大好きなんだって話しです」
 臆面もなく言い切りますからね、あの人ら。
 少々呆れ顔でぼやいたナッシュは、何やら切り替えた風情で僅かに姿勢を正す。
「各種、ということは他の果実酒もですか。今のところ、まだ研究の域を脱してません。ベリー類はいけそうだと報告はあがってますが。ちょっと芳しくありませんね」
「ベリーなら、美味しそうだけど」
「えぇ、奇麗な赤いのが出来てますよ。……ですがねぇ、あの人らですよ?」
 真顔で声をひそめて、ずいと身を乗り出す。
「青い酒が作りたいんだそうで」
 青ということは、あれか。瞳の色か。
 即座に察したアルノルトは、我知らず苦笑を浮かべた。微妙に引き攣っているのは御愛嬌だろう。
「……それは、諦めた方が良いのじゃないかな?」
 確か、自然界には青い色素は少ないのだと、フィデルから聞いた覚えがある。だから化学染料ではその辺りを重点的に網羅したらしい。目の醒めるような美しい青というのは、誰でも心惹かれるものだから。
「それに、ベリーからでは青は取れないだろう。私としては、そのベリーの酒を飲んでみたいけど」
「それはきっちり伝えておきますけど、諦めさせるのはきっと無理ですよ。対抗心燃やしてますから」
 近頃プリジェンが新しい酒を売り出したそうですよ、と軽く眉根を寄せるナッシュに、アルノルトは淡く笑った。
「熱意は買うけどね。それを取り寄せてみようか。何かの参考になるかも知れないから」
「そうですね、そのように」
 裁可済みの書類を引き取って、ナッシュは恭しく一礼すると踵を返す。カップを片付けた使用人も退出した後、さて、とアルノルトは書類へ手を伸ばした。
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