さよなら

文字数 11,618文字

一章:

目が覚めた。
気づけば、さっきまでいたビルの屋上とは違う場所にいた。
ここは何処だ? ベッドの上?
確か自分は、高層ビルの屋上から飛び降りて死んだはずだ。
夢?それとも、助かったのか?
俺は、生きているのか?
ベッドから起き上がり、辺りをぐるりと見渡す。
化粧台やクローゼット、
丸い小テーブルやクッション、ぬいぐるみなど、
女性らしい家具が所々に置いてある。
部屋の中で微かに甘い香りがする。
やっぱりこの部屋には女性が住んでいるらしい。
俺は ふと、 部屋の隅に置いてある鏡を見る。
そして、鏡に写った自分の姿を見て言葉を失った。
誰だこいつ? 何だこれ?いったい どうなっているんだ?
そこに写っていたのは、小学生くらいの少女だった。
黒髪ロングで 、ジト目でおとなしい顔つきで、
薄桃色の寝間着を着ている。
歳は十歳くらいだろうか?
自分で言うのもなんだが、普通に可愛い。
というか、見覚えのある顔だ。
けど、記憶が曖昧でハッキリとは思い出せない。
床には 少女の物と思われるノートが散らばっていて、そこに 青葉恵美と書いてある。
生まれ変わりではない事は確かだが、
この体の主と入れ替わったのかどうかは分からない。
そうだとしたら、きっと困っているだろうし、
元に戻る方法を見つけて、
早くこの子に 体を返してあげないと駄目だな。
多分違うと思うけど。
「めぐちゃん、朝ご飯よ。」
リビングの方から、 お母さんらしき人の声がする。
まだ頭の整理が出来ていないが、このままじっとしてても意味が無いので
とりあえず 声がした リビングへと向かった。
ドアを開けると、コーヒーの甘い香りがリビング中に漂っていて、
明らかに、前の自分より年齢が若そうな女性が
テーブルに朝食を準備している所だった。
「おはよう、めぐちゃん。
朝ご飯出来たから、一緒に食べよう。」
優しい大人な雰囲気と 、おっとりした声に戸惑いながらも、言われた通り 席につく。
テーブルには、トーストとオレンジ ジュースが並んでいる。
それと、コーヒーの匂い。
いただきますの合図でトーストを食べ始める。
久しぶりの朝食。
学生時代から両親の仕事が忙しいため、
朝食を食べる習慣がなかった俺にとっては、
有難い事だが、なんだか胃がもたない。
「めぐちゃん、今日は何して遊ぶ?」
と、お母さんに聞かれたが、
さっきスマホの日付を確認したら平日だった。
いや、今日は学校じゃないのか?と、
トーストをちまちま食べながら話を聞きつつ、
何を尋ねようか考える。
が、声が出ない。
どうしてなのか、皆目見当もつかない。
もしかして、少女はそういう病気なのか?
「どうしたの? 」
と、お母さんが尋ねる。
手話もできない俺には、
今の気持ちを伝える術がない。
そうこうしていると、あっという間にこのお母さんが仕事へ行く時間が来て、
自分も急いで学校へ行く支度をしてから家を出た。
少女の学校へ行くのは初めてだが、体が覚えているようで、 迷わずにたどり着いた。
「おはよう」
教室へ入ると、少女の友達らしき子達が 俺の傍に駆け寄る。
「めぐみちゃん、おはよう〜」
「ねえねえ、昨日のニャイキュア見た?」
女の子らしい会話。
「すごく面白かったよね! 特にキュアピーチがさ...」
そうか、ニャイ キュアか。
俺も昔はリアタイで日曜の朝によく見ていた。
まさかこの時代もやっているとは、今度 テレビで見てみよう。
そんなこんなで 色々話をしていると 、チャイムがなり 慌てて自分の席につく。
しばらくして、担任の先生が入ってくる。
「起立、礼、着席 」
日直の号令で朝の会が始まる。
昔と変わらない風景。
朝の会を終え、一時間目が始まる。
四時間目には体育の授業で 昔から好きだったバスケをした。
放課後、
図書室で 本を借り終えた後、荷物を取りに教室へ向かっていると
クラス 委員長の男子に声をかけられた。
丸メガネをかけた彼の姿は、いかにも優等生という感じだ。
そんな彼が、この俺にいったいなんの用だ?
少し間を置いて、
余程 重要な事なのか、
「これ、落としたよ」
彼のその一言に一瞬 驚いた。
慌てて、彼に渡された本をランドセルにしまう。
彼は クラス一の真面目君らしいが、
まさか よりにもよってこいつに声をかけられるとは、
中身がおっさんだと知った時の彼の心情を思うと 怖くて言葉に出来ないが、
後々、元に戻った時の事を考えると
やはり、関わるべきではないのか?
「じゃ、また明日ね」
「...」
色々と頭で考え事をしているうちに、彼は 去って行ってしまった。
なんなんだこいつ。
まぁいいや、今日はとりあえず帰るとしようか。
俺は、下駄箱で靴に履き替えて校門を出た。
家に帰ると、母はいなかった。
俺は、そのまま自分の部屋に向かうと、
紅色のランドセルを下ろし ベッドに腰掛け、ほっと一息ついた。
一日目でこんなに疲れるなんて、死ぬ前日のバイト以来だ。
今日は、四時間目の体育で 汗をかいたから 着替えることにした。
タンスの引き出しを開け 着替えを取り出そうとした途端、
服と服の間から少女の物と思われる 桃色の日記帳を見つけた。
ああ、なるほど、そういう事か。
中身を開くと、そこには 少女の過去や家族との関係などが 詳細に書かれていた。
どうやら母親と思っていた彼女は、少女の本当の母親じゃないらしい。
実の母親の姉に当たる つまりは叔母という訳だ。
俺にとっては、義母という事か。
少女の両親は 、少女が五歳の時に他界し、
孤児になった少女を 叔母である青葉 春が引き取った。
しかし、この少女の過去と、前の自分が書いた小説の内容が妙に似ている。
偶然と言っていいのかは分からないが、
叔母がこの事を話さないのは、
子供である少女に、
なるべく過去を思い出させたくないからなのか、
最初から自覚していると思っているからだろう。
だとすると、彼女が今まで話せなかった理由も分かる。
そして、この少女の正体は、
俺が生前出会った人懐っこい少女だという事が分かった。
勿論、自分が持つ病気の事や少女の義母が、
生前に付き合っていた元カノである事も理解した。
日記は、五月十三日の水曜日で止まっている。
つまり、俺が自殺をした日まで書かれている。
「ただいまー」
義母が帰ってきた。
まだ日も暮れていない。
恐らく、自分の事が心配でいつも早めに帰宅するのだろう。
アニメの仕事をしていると聞いた。
俺も下請けの制作会社で働いた経験がある。
残業続きで、定時で帰れる日なんて稀だった。
昔の俺はというと、
小さい頃から両親が共働きで 、
いつも家にいない事がほとんどだった。
冷蔵庫には、調味料くらいしかなく、
食べられるものといったら、虫入りの白米だけ。
白米すらない時は、カップラーメンを買って食べる。
貧乏暮らしは、生まれた時から変わってないが、
そんな食生活だから、当然、身体は悲鳴をあげる。
学校で何度も吐いて、期末テストの時に倒れたりもした。
「夕食何食べたい?」
「...」
「じゃ、今日は チーズハンバーグにしよっか!」
俺は頷く。
義母はさっそく 、チーズハンバーグを作る準備に取り掛かる。
その間俺は、絵を描いて時間を潰すことにした。
色鉛筆で薄く描いた、灰色の風景と黒い一人の少年の絵。
絵のタイトルは、“後悔”。
真ん中の少年は、後ろ姿で空を見上げるようにポツリと立っている。
前世の自分がこれまで歩んできた人生を描いた。
この絵の背景には 幼い頃に描いた夢と、それが叶わずに諦めてしまった後悔の思いが込められている。
そして今晩、過去の夢を見た。
忘れたくても忘れられない嫌な過去。
産まれて三ヵ月後に心臓病で手術をし、医師の懸命な治療で生きながらえたものの、
それから両親が 金銭関係でトラブルを起こしては友達等から借金をし、その事でいつも喧嘩をしていた。
アスペルガー予備軍の父は、
よく お酒を飲み、酔っ払っては 母に暴力を振るっていた。
俺は、父に馬乗りで髪を引っ張られながら殴られている母を、 ただドアの隙間から黙って見ている事しかできなかった。
生活費は、殆ど父が勝手に使って無くなる。
俺の家は普通と比べて貧しかった。
母は、いつも友達や祖母に借金をしていた。
それは、高校に入ってからも変わらなかった。
才能、お金、流行の物、夢や希望、恵まれた環境、
そして未来。
自分にはないものを持っている周りが羨ましかった。
喧嘩の際に 父と母は決まって、
「貴方がやりなさいよ!」
「お前がやれ!」
と、口癖のようにお互い怒鳴りあっていた。
それでも母は、貴方は恵まれていると言った。
甘えているだけだと、自己責任論で俺を黙らせた。
あの日々は、今でも思い出すだけで 吐き気と頭痛がして、たまに精神が不安定になる。
もう二度と、野ネズミや害虫のいる環境で暮らしたくないものだ。
過去の夢を見た後、朝起きると、
何故かいつも枕元が濡れていた。
後になって 義母に聞いてから 分かった事だが、
睡眠中ずっと、震えながら涙を流していたそうだ。
今日の放課後も、 帰宅後に絵を描いた。
今回は普通の絵。
何の変哲もない、ただの夏の風景イラスト。
黄色い太陽と青空と 白い雲と 水色の海、それと砂浜。
やはり今回も、満足のいくものは描けなかった。
「何描いたの?」
義母が 横から覗いてくる。
「...」
「すごく上手ね、今度お義母さんにも描いて欲しいなー」
いいよと頷く。
人に評価されたり、提供するほど上手いわけでもない。
そんな事はどうだっていい。
今は、描きたいものを描くだけだ。
「そういえば、いつも同じ服ばかり着ているけど、
本当にそれだけでいいの?
めぐちゃんには、もっと似合う 可愛らしい服がいっぱいあると思うのだけど。」
「...」
確かに言われて見ればそうかもしれない。
中身が完全におっさんなせいか、同じような服を着ても全く違和感がなかった。
男はよく、ファッションとかに関心がないと言うが、これは事実だと思う。
というか、俺自身がそうだから。
「そうだ、今からめぐちゃんのお洋服を買いに行きましょう!
めぐちゃんは女の子なんだから、
たまにはお洒落をしないとね」
車で三十分くらい走り、
都内のショッピングモールに着いた。
平日の夕方でも 、中は 人混みで溢れかえっていた。
歩く度に、学校帰りの学生達をあちこちで見かけた。
ファッションコーナーで一通り買い物を済ませたが、思っていたよりも早く終わったので 近くの本屋に行く事にした。
「どれか一つ選んでいいよ」
そう言われ、
嬉しいあまり、つい興奮してしまいながら
懸命に本棚から色々あさり始める。
悩みに悩んで選んだ本を義母の元へと持っていく。
「本当にこれでいいの?めぐちゃんにはまだ早いんじゃない?」
選んだのは昔愛読していた作品の一つだった。
俺は、こくりと頷く。
「分かったわ、じゃ 会計済ませてくるから、
ここで待ってて。」
この作品、まだあったんだ。
嬉しさでつい頬が緩む。
俺が選んだのは、“いじめ” という 短編小説で、
タイトルの通り、学校のいじめについて 坦々と書かれている。
特に、主人公の想いに共感できて 感情移入がしやすい。
今から十年も前に書かれたものだが、
今でもお気に入りだ。
また、あの頃の事を思い出した。
学校へ行けば、クラスの女子から 避けられ、
気持ち悪がられ、
なんで学校来んの?とか、
汚れるから触らないでとか言われて、
思い出すだけで、心が抉られたかのように痛くなる。
家に帰ると、よく姉に殴られた。
なんでお前ばっかり、どうせなら妹がよかった、
お前が産まれて来た時後悔した、
なんでお前なんだよ、お前なんか死ねばいいのに…
そう言われ続けた。
それが俺にとって、大きなきっかけになるなんて、
この頃の俺は知らなかった。



二章:

病院へ赴いたのは、治療中の祖母に会うためだ。
理由はもちろん、最後の別れを告げるためだ。
病院の看板には、“終末医療施設 ホスピス荒川”
と書かれている。
終末医療とは、余生を豊かに過ごす為の介護施設のような場所、または医療形態の事を云う。
終末医療施設は、
文字通り、そういったものを専門に扱っている施設だ。
施設の五階、五〇二号室に祖母はいた。
百歳を超える祖母は、
歩くこともできないほど衰弱していた。
担当の看護師によると、
かろうじて意思疎通はできるとの事だった。
「麗美かい?」
祖母は、姉の名前を口にした。
やはり、俺には一切目もくれず、
姉のことばかり考えているようだ。
「残念だったな、そいつの弟だ」
俺は、祖母を睨みつけた。
そして今、初めて声が出た。
「咲月なんて名前、覚えてすらいないだろうな」
「さつき?」
「俺の名前は、僕ちゃんじゃないんだよ」
「…」
「やっぱり、男の子よりも女の子の方が良かったか?」
祖母は聞いてすらいないが、俺は構わず話を続ける。
「無愛想で悪かったな。
アンタにとっては、我儘で厄介な糞ガキか?」
「…」
「あんたの娘があんたから金をせびる様を長い事見てきた。母親の口癖は、お金が足りないだった…」
俺は、祖母に対しての思いを伝えた。
口から出るのは、不満や憎しみばかりだった。
祖母は、俺を嫌っていた。
直接、言葉にしなくても分かっていた。
祖母は、姉を溺愛していた。
俺とは違って、祖母には懐いていたからだ。
姉はよく、祖母からお小遣いを貰ったのだと自慢していた。
名前すら覚えて貰えない俺は…
「最後に言いたい事があるなら聞いてやる」
「言い残す事は何も無い。
目を閉じれば夢の中…」
「本当は分かっているんだろ?
今更、理解してもらおうとは思わない。
あんたと会うのはこれで最後だ。
じゃあな、婆さん」
俺は、言いたいことを言い終えて、
そそくさと祖母の病室を出た。
家に帰ると、義母がリビングのテーブルに座って待っていた。
「今日はいつもより遅かったね、もしかして何かあった?」
俺は 首を横に振り、何でもないよと伝える。
「そっか」
それ以上は、特に何も問われなかった。
「今日の夕飯はビーフカレーよ」
義母に良いことがあった日は 、決まって カレーだ。
選択。
俺は、これでよかったのだろうか?
「今度は何描いたの?」
食事が終わり、リビングで絵を描いていると、
義母がやって来て、描いた絵をまじまじと見る。
今日の絵は、夕日が良く見えるビルの屋上の鉄格子に登り、飛び降りたあの日の自分。
夕日と下の街並み背景はベージュ色で、真ん中の自分と鉄格子と影は黒いシルエットになっている。
この絵からは、どこからか悲しい雰囲気が伝わってくる。
「めぐ …ちゃん?」
流石に、この絵はまずかったか。
「めぐちゃん、一体どうしたの? 学校で何かあった?」
慌てて、首を横に振る。
「どうしてめぐちゃんが こんな暗い物語を読むのか 正直まだ分からないけど、
何か悩みがあるなら、いつでも私に言ってね 」
たまに義母の取る行動は 昔の母親にどこか似ている。
そう言えば、昨日言われた事も 昔よく 母親に言われていたっけ。
小さい頃から 悲観的な本を読んでいても 止められて、
その度に、学校で何かあったの? とよく聞かれた。
創作中でも、俺の書く暗い物語を 嫌って 、辞めなさいとか、
もっと明るいものを書きなさいって言われていたのを思い出した。
母親は昔、妹を虐めていたり、
自殺願望があったと聞く。
もちろん、信仰も関係しているだろうが、
多分、そのせいなのだろう。
親が子供の事を心配するのはわかるけれど、
俺は、そんな余計なお世話が嫌で仕方がなかった。
好きにしてくれって思っていた。
実際義母は、絵を描いたりしている時も、
特に何も言わなかったし、褒めてくれていたから、
てっきり、理解してくれているのだと勘違いしていた。
今思えば、それが母親というものなのかもしれない。
「よかった 」
義母は安心したのか、ほっと安堵のため息をついた。
……………………………………
放課後、学校からの帰り道 、
俺は、真っ直ぐ帰宅せず、寄り道をする事にした。
目的地は決まっている。
昔住んでいた一人暮らしのアパート。
そこに 俺の探しているもの 、その答えがある。
午後三時、今日は五時間目で終わり いつもより早く帰れる。
三十分かけてようやく着いた。
アパートの場所が今通っている小学校の近くだったので、 迷わずにたどり着く事が出来た。
鍵はないが、ドアノブを引いてみると 開いていた。
誰か住んでいるのだろうか?
恐る恐る、奥へと進む。
どうやら誰も住んでいないらしい。
古びた家具も床に散らばっている新聞も原稿用紙も 前と変わらず そのままだ。
だとすると、貴重品はこっちの方にあるはず。
押し入れを開け、敷き詰められたダンボール箱の中から小金庫を取り出す。
うろ覚えで金庫のダイヤルを回してみる。
期待通り、開いた。
中に入っていた 免許証と財布と愛読していた本を取り出す。
それらをランドセルの中に入れると、長居せずにアパートを出る。
確か アパートの庭の方に クッキーの缶を埋めていたはず。
記憶を頼りに 部屋にあったスコップで地面を掘っていく。
見つけた。
中を開けると、おもむろに敷き詰められた 小説の原稿用紙が入っていた。
短編と長編を合わせて三作品。
全部で十作品は書いたのだが、他のはどこにあるのか分からない。
今日は とりあえず 原稿をランドセルに詰めて、
アパートを出ることにした。
「 めぐちゃんは 将来の夢は何?」
夕食の時、義母にそんなことを聞かれた。
夢...俺が自ら捨てたもの。
諦めてしまったもの。
俺は、作家になりたい。
いや、なりたかったんだ。
けれど、結局叶えられずに、何も出来ずに終わった。
「私は めぐちゃんだったら、素敵な絵師さんになれると思う
だって、とても上手だから 」
絵か。
また始めるのか、前みたいに。
今度こそ出来るのだろうか。
自分でも 満足する絵が描けるだろうか。
次の日の放課後。
いつも通り 六時間目が終わってお義母さんより早めに帰宅した俺は、
空白の用紙と色鉛筆を取り出し、一枚の絵を描いた。
テーマは、幸せについて。
真ん中に大きなハートを一つ描き、
それを色鉛筆の赤とピンクを混ぜて塗る。
ハートの形は、真ん中辺りが少しだけ 二つに切れて、そこから一滴の水滴が垂れている。
どんな幸せも、いつかは壊れるという意味。
幸せは、失ってはじめて気づくもの。
そして、周りの背景はオレンジ色。
“幸せ”か。
俺は これまで 本当の意味で幸せだったのだろうか?
心からそう思える時期があったのだろうか?
俺は、私は、ちゃんと 、
理想の自分になれただろうか…。
絵を描き終えふと窓の外を見る。
窓ガラスに前世の幼い自分が写っていて、
これでよかったのか?
と 俺に問いかけてくる。
俺は窓の方に近寄る。
分からない。
俺は左手を窓の方にかざす。
同時に過去の自分も 俺の左手に重ねる。
もう一度試してみる?
また、過去の自分が問いかてくる。
もし今の人生が嫌なら、
今の自分に不満があるなら、
もう一度自殺すればいい。
そしたらまた 人生を一からやり直せる。
だからさ 死ねよ。
また あの日みたいに…
気がつくと俺は、あの日に飛び降りたビルの屋上の鉄格子に立っていた。
また俺は、死ぬのか。
あの日のように自分を殺すのか。
大人が嫌いだった、不条理な社会に楯突いて、
自由と平和を求めた。
けど結局どこにも居場所がなかった。
理不尽なこの世界と、自分の無力さに絶望していた。
昔の俺には叶えたい夢があった、希望があった。
俺は、優しい人になりたかった。
困っている人を助けたかった。
立派な大人になって、自分を助けたかった。
王様になりたかった、世界を救いたかった。
幼い頃の自分に誇れる大人になりたかった。
だけど、俺には無理だった。
路上で凍えながらうずくまっているホームレスを無視した。
暗い音楽を好むようになった。
嫌われたくないから自分を偽った。
嫌いなものが、嫌いな人が増えた。
住宅街を歩くと、いつも近所の犬に吠えられた。
いじめが嫌だから学校をサボった。
残酷な現実から目を背けた。
他人の良心を拒み、大切な人を傷つけた。
誰もが自分の前からいなくなった。
何もかも失った。
そして気がつけば、
周りと同じ、醜い色に染まっていた。
いじめで苦しむ者、虐待に苦しむ者、
DVに苦しむ者、借金に苦しむ者、
沢山見てきた、ただ見ることしかできなかった。
テレビを付けると、
いじめで自殺をした子供のニュースが流れていた。
貧しい国のお腹を空かせて死んでいく子供、
社会で苦しむ少年少女をテーマにしたドキュメンタリー番組の数々…
政治家達の無責任な言動、今日も自分らの利益のどうでもいい事で争っている。
俺は、何も分からなくなった。
そして、考えるのをやめた。
自分の人生に嫌気が差したと言えば嘘になる。
三十代のどこにでもいるおっさんでも、売れない作家で、語彙力無くて、メンタルが弱くて、馬鹿でノロマで、無愛想で、嫌われ者で、最低で最悪な常人以下の人間だった俺でも、 最低限の夢は叶ったはずだ。
幸せだったはずだ。
けれど、もう限界だった。
みんなみんな苦しい思いをした。
沢山、辛い思いをした。
痛い思いをした、怖い思いをした。
ならもう、十分じゃないか。
そして俺は、あの日ここで飛び降りて死んだ。
他人にとっては大した事ないはずなのに、誰もが通る道なのに 、ごく普通のどこにでもある当たり前な事なのに、
自分にとってそれは 死と同じくらい 辛く大変な事だった。
もう一度ここから飛び降りたら、
今度こそ死ねるのだろうか?
また、一からやり直せるのだろうか?
今度こそ、自分が望む結果になるだろうか?
…………
義母が帰ってくると 家には自分の姿はない。
おかしいと違和感を感じた義母は、
自分を探しに カバンをテーブルの上に置いて また外へ出た。
公園やショッピングセンターなど、
俺と行ったあらゆる場所を探すが、見つからない。
すると、義母の頭に自分のいる場所が走馬灯のように 流れる。
死にたい。
夕日が見えるビルの屋上の鉄格子。
そこに登る自分の姿。
まさかと思った義母は 咄嗟に街中を走り出す。
そう、義母の頭で映った光景は、
間違いなく 今義母が働いている会社のビルの屋上だった。
そして今 自分はそこから飛び降りようとしている。
「めぐちゃん!めぐちゃん!」
義母は会社のビルへの道を走りながら必死に自分の名前を呼びかける。
「めぐちゃん!!
十分くらい走り続け 、ようやくビルの屋上にたどり着いた。
義母の呼びかけの声に気づいた俺は
唐突に開いたドアの方を振り返る。
その瞬間、足を滑らせ 鉄格子から地面に向かって真っ逆さまに落ちた。
「ダメ!」
義母は咄嗟に自分の元へと駆け寄る。
そして俺は、慌てて駆け寄ったお義母さんに 腕を捕まれて間一髪で助けられる。
そして、怒られるのかと震えていると
義母は自分をやさしく抱きしめた。
「もう、どこに行っていたの? 心配したんだから!
めぐちゃんがいなくなったら、私、私... 」
どう…どうして?
俺はわけも分からず 泣いている義母に抱きしめられながら、
しばらくの間 その場で立ち尽くしていた。








三章:


五月十三日 水曜日
俺は今日、死ぬ事にした。
ようやく夢が叶ったのだ。
もうこれ以上、この世界に居座る理由はないと思った。
ようやく完成した物語をもう一度見返す。
やはり、とても他人には見せられない程の酷い出来栄えだ。
読み進める度に 笑いが込み上げてくる。
その笑いが涙に変わった時、俺は今まで忘れていた事を思い出した。
本当にこれで良かったのだろうか?
自殺を決意する半年前、遂に書きたかった物語が完成した。
出版出来る程のものでは無いが、それでも自分としては、
満足のいく物が出来たと思っている。
さてと、これからどうしようか。
いっその事、このまま人生を終わらせるか。
せっかくだから その前に、やりたい事をやってからにしよう。
何をしようか。
スマホで時刻を確認する。
もう午後三時を回っていた。
そうだ、今のうちに振られておこう。
“俺、浮気した。”
ニャイムで返信。
もちろん、嘘。
そもそも他に相手なんかいないし。
“最低!信じらんない!”
“ごめん”
“別れよ”
想像通りの返事。
まあ、いいけど。
あ、そうだ。
近くにあった一枚の用紙に、
お気に入りの万年筆でメモをする。
なんやかんで この世界に居座る理由が無いとか言っておきながら、
やりたい事がありすぎるなんて、なんか矛盾していると思う。
そんなことを思いながら 、
やりたい事を用紙に黙々と書き続けた。
まず一つ目は、美術館に行こう。
決して有名とまではいかないが、
業界ではそこそこ知られていて、
プロ絵師達の絵画が所狭しと飾られているという、
都内では有名な所がある。
水彩画、油彩画、アクリル画、
デッサンとコーナー事に別れていて、
小さい頃にたまに行っていたが、何度行っても、
そのどれもが 俺の心を魅了した。
俺には 何年かけても描けないものだと思った。
二つ目は、昔から好きなバンドのライブを見に行こう。
昔程ではないが、今では すっかり馴染みがあり、
ライブでも 会場内は 満席状態になるほど人気らしい。
それからも、海に行ったり、好きなものを食べたり、一人で温泉旅行に行ったり、
お気に入りの曲を聴いたり、弾いたり、
本を読んだり、アニメを見返したりしよう。
どうせ死ぬなら…
辞めだ辞めだ、どうせ死ぬんだし、
何したって同じだよ。
だいたい、遠出を出来るほどのお金なんて俺には持ち合わせてない。
それから俺は、外に出かけること無く、
部屋でゆっくり遺書を書くことにした。
遺書の内容は、小学生の作文みたいに、
自分の人生の事、なりたかったもの、
小説のネタバレ、未来の自分に伝えたいこと、
最後に別れの一言といったように 順番に書いていった。
死ぬ前に自分へ伝えたい事。
やりたいことを全部やれ。
何をしても後戻りは出来ない。
後悔のない人生を。
悪に堕ちても構わない。
最後に心から笑えるように。
今まで出来なかった事をする。
この物語は君だけのものだから。
俺は、遺書を書きながら何度も過去を思い出し、
そして、何度も泣いた。
後悔した事は幾つもあった。
幼い頃に 自分にやさしくしてくれた女の子を傷つけたり、学生の頃から付き合っていた彼女と些細ないざこざが原因で別れたり、色々と趣味を持つも どれも中途半端で続かずに諦めたり、 作家になろうと親元を離れて 一人暮らしをするも
失敗続きで夢を諦めてしまったりなど 、
例を挙げれば数え切れない。
けれどもう戻れない。戻ろうとも思わない。
今日俺は、死ぬ。自分を殺して人生に決着を付ける。
書き終わるとすでに午後四時を回っていた。
そろそろ行くか。
俺は、直ぐに支度をして外へ出た。
勿論 愛用の手提げバックの中には、
小説の原稿と古びた筆記用具、
遺書などが詰められている。
俺は、一人暮らしのアパートに別れを言い、
ゆっくりと鍵をかけた。
向かった先は、十三階建てのビルの屋上だった。
着いた時には午後五時半を回っていて、丁度夕日が落ちる頃だった。
臆病な俺が選んだのは 投身自殺だった。
勿論 もっと綺麗な終わり方があることくらい分かっている。
けど、俺にはこれしかないんだ。
許してくれ。
屋上の端の方まで向かい、手提げバッグを下ろし鉄格子に登る。
自分が書いた小説の主人公と同じように。
嗚呼、何やってんだ俺は。
一体 何がしたかったのだろうか?何を見つけたかったのだろうか?
どうしたかったのだろうか?
俺の生きる意味って、なんだったんだ。
本当にこれでよかったのか。
そっと深呼吸をする。
そして 次の瞬間、夕日の見える十三階建てのビルの屋上から真っ逆さまに飛び降りた。
それは、一瞬の事だった。
真っ逆さまに落下した後、
通行人が俺を見つけて救急車を呼び、
すぐさま病院に運ばれたが、翌日死亡が確認された。
そして 誰の目にも触れること無く、
俺の生涯は幕を閉じた。
…………………………………

執筆を終え、キーボードから手を離す。
気づけば、深夜二時を過ぎている。
ここは現実である。
涙が溢れる。
手が震える。
呼吸が乱れる。
書き終える直前までは何ともなかった。
知らない方が生きやすい事もある。
気づいてしまった。
また過去を思い返す。
楽しかった記憶よりも、苦しかった記憶の方が、
より鮮明に想像できる。
ただただ、悔しい。
何に対して悔しいのか分からない。
期待ではない。
‘’自業自得だ”
“いつまで逃げる気だ?”
頭の中の彼奴が責めてくる。
文字が、彼奴の言葉が羅列する。
彼は…笑っている。
“ざまぁみろ”
聞きたくないのに聞こえる。
「アッ…アッ…」
喉がつっかえて、上手く言葉を出せない。
自分自身が分からなくなる。
もう、生きたくないな…
人生なんて、こんなもんか…
部屋を飛び出そうと玄関まで駆ける。
そこで意識が途絶える。
心電図のような音が、頭の中で鳴り響く。
………………………………………………
楽しかった?

多分...

これでよかった?

解らない...

生まれ変わったら、何になりたい?

今度は、女の子...がいい…日本人の…女の子。

そっか...

うん...

なれるといいね。

うん。

またね。

バイバイ。

END
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