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「光岡さんは、磯島さんと同窓なんですってね、光岡さんの方は法学部で。スキーサークルでご一緒だったんでしょう。司法試験も若くして合格なさったって、磯島先生がおっしゃってましたわ。いいですわね、優秀なお方は。
 ええ、大庭暉子と申します。事件のことは警察に何度もお話したんですけどね、新しいこととおっしゃられても、もう、ひと月も前のことで、あまり憶えていませんし、お役にたてるかどうか。それに私、人前で話すのがとても苦手で、裁判の証人なんてできるかどうか、とても不安なんですけど。あ、まだ証人になるって決まったわけじゃございませんのね。よかった。どうか、私は外してくださいません?
 でも、あの岩井さんが逮捕されたのには驚きました。あの方、スタイルもよくて美人でいらっしゃいますけど、思いつめたら何をやるかわからないような、ちょっと危うい感じがしましたものね。でも、人を殺すなんて、そんな恐ろしいことをよくも、って思います。
 彼女、何で先生に毒を盛ったんですか。ああ、それは教えてはくださらないのね。ええ、まだ公判前で、詳しいことは言えない、それはそうですわよね。
 心当たりですか?いえ。私にはとても。岩井さんと実際にお会いして話をしたのも、あれが二度目で、そんなに付き合いもありませんでしたから。
 先生が岩井さんと結婚するために千鶴さんと別れようとしていたか、ですか?
 まあ。
 なんてことでしょう。でも、それはありえませんわ。
 何でですかって?
 それはちょっと、なんと申し上げたらいいのか……
 藍澤先生とは、お宅で何度もお話を伺うことがありました。もちろん、私、化学のことはまったく知りませんから、知っているのは、H2Oが水で、CO2が二酸化炭素だっていうことくらい。ですから、それ以外の話題、ということになりますけど。
 先生は気さくな方で、いつも学生さんに講義されているからか、お話も、とっても上手でいらっしゃいます。私、男性とお話するのは苦手なんですけど、先生とだと、すんなり自然に会話ができるんです。
 さっきも申しましたように、岩井さんは、美人だとは思いますけど、思い込みが激しいというか、ちょっと、ずれた方のような感じがするんです。やはり、大学院まで出て、三十過ぎまで、ずっと研究一筋にやっていると、そうなってしまうというのか、浮世離れしてしまうんでしょうかねえ。いえ、別に悪意で申し上げてるわけじゃありません。ただ、歳のわりにうぶというのか、男のひとから少し親切でやさしい言葉をかけられると、この人は自分に気があるんじゃないか、って思ってしまうようなところがあったんじゃないでしょうか。
 良く言えば、とても純粋で清らかな心をお持ちだっていうことだと思いますわ。
 え、先生が岩井さんをそんなに好きでなかったと断定する根拠ですか?失礼しました。私、余計なことばかりで、話が前に進みませんのよね。いつもそれで亡くなった主人に叱られておりましたわ。
 それは、私、先生にじかに聞きましたもの。
 これから申し上げることは、あくまで、先生が私におっしゃったことですからね。
 ……先生によると、岩井さんの方が、一方的に先生に片思いしてきたそうなんです。先生は、彼女のことは、嫌いではないけれど、恋愛の対象とは見ていない、ということでした。
 アラフォーとはいえ、見た目は若くて美人ですからね。でも、変な噂も立ち始めているみたいだし、正直迷惑だったようです。でも、彼女の会社は大メーカーで、毎年、学生の就職でお世話になっているし、委託の研究費も出してもらっているし、あまり邪険にはできず、先生としては正直困っていたんです。奥さんの千鶴さんとは別れるので、それまで待って欲しい、とか言って、何とかごまかしていたみたいですけど。
 誤解のないように言いますと、先生が千鶴さんと別れようとしていたのは本当です。
 もともと、先生の家は相当の資産家で、お家もあれだけ大きいですし、千鶴さんは玉の輿といいましょうか、半分、財産目当てで結婚したみたいなものですからね。いえ、これも私が言ったんじゃなくて、先生が実際にそうおっしゃったんですわ。
 千鶴さんも、根はそんなに悪いひとじゃないと思います。けど、相性というのか、もともと愛情がそれほどあるわけじゃなかったんでしょうね。先生としては、別れてしまいたい、と思うようになったんです。前々からそう考えていたんでしょうけど、特に最近になってそうしたい事情ができたんです。
 いえ、胃癌なんかじゃありませんよ。岩井さんに余命三ヶ月だと言ったっていうんでしょう。それは、嘘です。岩井さんを遠ざけるためです。そう言っておけば、相手もあきらめてもらうだろうと考えて。でも、それが仇になってしまったんですけどね。悔しいですわ。……ええ。もう嘘をつかなくてもよくなったんです。というのは、先生は今年の三月で大学を辞めて、その後、地方でひっそり暮らすつもりでしたから。
 癌ではないですけど、健康ではありませんでした。最近物忘れが激しくなったり、身体がだるかったり、意欲がわかなかったりするんだ、とおっしゃっていて、最初、うつ病かと思ったらしいんですけど、大学の付属病院で検査したところ、若年性の認知症だとわかったんです。
 このまま仕事をして迷惑をかけるよりは、ということで、お仕事を擲(なげう)つ決心をしたということですね。研究者としてのこれまでのキャリアを考えると、大層お辛かったと思いますけど、幸い、仕事をしないでも暮らしていけるだけのお金はありますから。
 治療に専念するため、沖縄の別荘に移住する計画だったんです。千鶴さんと離婚しようとしたのも、そのためなんです。千鶴さんが、沖縄で認知症の旦那様を大人しく介護するとは思えませんもの。
 もちろん、離婚を言い出すにはそれなりの理由が必要ですよね。表面的には別に仲が悪い、というほどじゃないわけですから。でも、たまたまそれがみつかったというか、千鶴さんの不倫の証拠を押さえたというわけです。探偵にでも頼んだんじゃないでしょうか。
 相手ですか?
 誰だと思います?
 磯島さんですわ。
 千鶴さんが、月経前症候群というんですか、毎月、定期的に気分がちょっと不安定になるというので、磯島さんの心療内科のクリニックに通ってらしたんです。実際は医者に通うほどのことじゃなかったみたいですけどね。で、そのうち、詳しいいきさつは知りませんけど、関係を持つようになったらしいです。確かにあの先生、男前ですものね。しかも独身ですし。磯島さんがちょくちょく千鶴さんのホームパーティに招かれたのも、そういうことがあったからです。
 ずいぶん、詳しいことまで知ってるですって?
 先生も千鶴さんも亡くなってしまった今だから言いますけど、私、先生が離婚したら、沖縄で先生のお世話をすることになってたんです。二人の関係はご想像に任せます。私も五年前に夫を亡くして子どももいませんしね。夫がかなりの額の生命保険に入ってくれてたおかげで、千鶴さんのような贅沢をしなければ、何とか働かずに済んでいるんです。
 でもそんなわけで、今回の事件で、すべてが無になってしまったわけです。
 犯人が許せないのはもちろんなんですけど、何と言ったらいいか、もう、気力とかそういったものがもう無くなってしまったような、虚無感で毎日を過ごしています。
 また話が脱線しました。千鶴さんのことですけど、磯島さんが千鶴さんのことを本当に愛していたかは別ですよ。あの人、結構プレイボーイみたいですからね。
 あの日、もう一人、先生の姪御さんが来てたんです。由布子さん。ころころした感じで、とても可愛いお嬢さんですけどね。素直でよく食べるし、おしゃべりも好きで、私とはウマが合うんです。今度、春休みになったら、一緒に海外旅行に行こうか、なんて話しているくらいで。
 私の見るところ、彼女と磯島さんはできているんじゃないかと思います。知らない様子だった?いえ、そんなことないと思いますよ。確かに先生の家では、よそよそしい感じでいましたけど、あれは絶対演技ですね。千鶴さんの手前、いちゃいちゃなんて、できませんでしょ。根拠ですか?私、以前、渋谷の公園通りで、偶然、二人が手を組んで歩いているのを見たことがあるんです。まるで恋人同士みたいでしたよ。私が見たってことは内緒にしてくださいね。
 さっきから、余計なことばかりで、事件当夜のことを全然話してませんよね。いいんですか?まあ、警察にも洗いざらい話しましたしね。
 岩井さんが一人きりになった時間は、そうですね、私がお手洗いを出て戻るときかしら。リビングに戻ろうとしたとき、廊下にいた磯島さんと由布子さんがいたんです。お皿を持っていた由布子さんが私を見て、慌てて食器をガシャン、と割ったのは憶えています。別に私に驚いたわけじゃなくて、私には磯島さんが由布子さんにぶつかって、それで落としたように見えましたけどね。『ごめんね』と磯島さんが謝っていましたから。
 岩井さんの姿はありませんでしたので、彼女だけがリビングに残っていたということになりますかしら。片付けはほんの一二分で終わりました。もちろん、私は岩井さんがその間、何をしていたかは、見ていません。
 お酒は確かに磯島さんがちょっとだけ飲みました。千鶴さんがすすめたんです。車を運転してきたというのに飲んでいいのかしらって、思ったんですけど、一口だけなら、大丈夫なんでしょうかね。私なんかは本当に、一口だけでも頭がくらくらしてしまいますから。
 藍澤先生は、お酒はお強いです。ウイスキーがお好きで、量も結構召し上がるんじゃないかしら。そういえば、あの日、キッチンに同じウイスキーの空き瓶が置いてありましたね。綺麗に洗って置いてありました。
 その時以外、私の記憶にある限り、みんなのいるときに瓶に触ったのは、千鶴さん以外にいないと思います。磯島さんが飲んだ時に注いだんです。
 でも、磯島さんが飲んだときはなんともなかったんですから、やっぱり、由布子さんがお皿を割ってみんなの目が離れた隙に、岩井さんが入れたんですよね。ほんと、恐ろしい。
 みんながリビングを離れたのは偶然じゃないかって?それもそうですけど、もし、あの日チャンスがなければ、また別の日にお呼ばれしたときにでも入れたんじゃないでしょうか。お酒は先生しかお飲みにならないわけですし。
 お酒の瓶はずっとテーブルの上に置いてありましたよ。テーブルの中央に大きなお花の花瓶があったので、私からはその陰になってはいましたけど、とはいえ、誰かがこっそり手にすれば、わかったはずです。暖炉に近い場所で、暖まっちゃうんじゃないかと、心配になったおぼえがあります。でも、ビールと違って、冷えてなくてもいいんでしょうね。それに氷で割れば、あまり関係ないですよね。
 千鶴さんは綺麗好きで、気がつくと、テーブルなんかをよく拭いてます。ちょっと神経質なくらい。あの晩も、ちょくちょくテーブルを拭いてました。それでついでに瓶も拭いたりしてましたかね。もちろん、キャップは開けてません。
 テーブルなんて、ほとんど汚れてませんけどね。ただ、そうだ、あのときは、テーブルが濡れてたんです。濡れてたっていっても、ごく一部ですけど。
 あら。でも、よく考えてみたら、変ですね。あの晩、確か、地震がありましたでしょ。震度四くらいのちょっと大きな地震。話していたところに突然揺れたので、びっくりしたんですけど、地震の揺れで、テーブルの上の花瓶の水がこぼれたのかな、って思った記憶があります。けれど、それも変なんです。だって、あの花瓶に挿してあったのは、千鶴さんが作った造花なんです。本物そっくりで、遠目にぼんやり見ていると、造花って気がつかないくらいのものなんですけど。造花の花瓶に水なんて入れませんわよね。でも、じゃあ、あの水は何だったのかしら……」
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